『Rewrite』の思い出を語らせていただきたい。

アニメ『Rewrite』が始まりますね。5年ごしのアニメ化。『リトバス』もびっくりですよ! やはりKey、根強いコンテンツ力というものを感じます。

「麻枝准トリビュート」という本も作った私ですが、『Rewrite』も好きです。麻枝さんはクオリティコントロール(監修)という立場にとどまり、音楽にしてもBGM1曲とED曲2曲を提供するにとどまっている作品なのですけれども。

というか、実際「好き」という一言で言い表せない思いがあります、『Rewrite』には。この作品、2011年の6月に発売されたのですが、当初はもっと前に発売される予定だったのですね。理由は直接関係していたかはちょっと記憶が曖昧なのですが、結果として東日本大震災をまたいでの発売となったわけです。

で、僕の心に『Rerwrite』という作品が深く刻まれているのも、この東日本大震災が深く関係しています。一年目の就職活動が上手くいかなかった僕は、浪人を決め、2年目の準備に追われている最中。あの震災は起こったのです。

正直、就職とかどころじゃなくなりました。もう心が折れました。いや、すでに就活によって折れかけていた心が追い打ちをかけられたというか。当時、新聞社でバイトしていたのですけども、連日原子力発電所のニュースに触れるようになって。本社勤務の記者さんって、意外とのんびりしてたりもするんですけど、もう一変したんですよね。ぴりぴりして。

言論を送り出す場ですから、当然社内でもいろんなオピニオンが飛び交います。直接大激論を目にしたとかそういうわけではないんですが、やっぱりこの未曾有の事態をどう伝えるか、ということに、神経を尖らせている様が伝わってくるわけです。で、そもそも新聞社でバイトしていたのも自分がマスコミ志望だったからですから、自分でもいろいろ考えるわけです。

人間、滅びればいいんじゃないかと思いました。切に。

いわゆる「お祈り」をされ続け、「自分なんて…」という思考になっていたことも否定しませんが、原子力なんていう、自然界に元々ない力を使って、それが地球からお返しを食らったんだ、人間なんて地球にとっては異物でしかないんじゃないか? って。本気で思い詰めてました。

そんなもやもやした思いを抱えながら数ヶ月が経って、就職活動も上手い結果が出ず…そういや、やってなかったなと思い出し、『Rewrite』をプレイすることに相成ったわけです。

もうね、とてつもなく響きました。テーマが。

若干ネタバレになることを承知で書きますが、ド直球なんですよ。環境問題です。地球と人間の共生(そもそもそんなことは可能なのか?)です。基本軸となるのは急進的な環境主義者と開発主義者の争いなんですね。各攻略ヒロインはどちらかの陣営に属していて(中立的な立場のキャラも一人いますが)、主人公はどちらの味方につくか、というところでシナリオが分岐します。

しかし、どちらの陣営につくにしても主人公の動機の根幹となっているのは「誰か(ヒロイン)のために」というところなわけで、人間を捨てきることはできないんですよね。これは『Rewrite』でメインシナリオを手がける田中ロミオさんの作品、とりわけSF色の強い『CROSS†CHANNEL』や『最果てのイマ』、ライトノベルの『人類は衰退しました』などにも通底する筆致だと思うのですが、人類(史)という巨大なスパンから人間の生を見渡し、それを肯定する…というのがあると思います。

結局、数多の並行世界を旅し(ノベルゲームですからね)、神にも等しい視点を得たからといって、人間の身に生まれ落ちた以上は人類史の中に組み込まれる他はなく。地球や、それこそ神からすれば異物かもしれないけれど、人間として生きるしかないのだと。その「生きよう」とするエネルギーそのものは、否定してはならないと…就職活動も何もかもが上手くいかず、「地球にとっては不要な、人間という生物」であることを言い訳に「もう生きていたくない…」と嘯き始めていた僕に、「生きようとすること自体は否定してはならない。そのエネルギーを、正しい方向に使うことだけを考えるべきだ」ということを身をもって教えてくれたのが、『Rewrite』という作品だったのです。

こんなに真っ当に作品のテーマというものを受け取ることは後にも先にもこれ以上なく、自分の中では改めて語るまでもないくらい人生の一部になっているような作品だったので、まさか5年ごしにアニメ化されるなんて今回のようなことがなければ、こうして語る機会もなかった気がします。

今回のアニメ化ではキービジュアルにも大きく描かれている通り、「篝」という神秘的な存在を軸に話が展開するようです。ほぼアニメオリジナルの展開となるようですね。「篝」というのは原作では隠しキャラのようなもので、まあ言ってしまえばいわゆる神…すべての個別ルートを踏破して、プレイヤーと近い次元まで上昇した主人公と対になるような存在ですので、それをいきなりアニメで描くというのはどんなものなのか、正直不安が七割というところです…が、田中ロミオさんも全面的に脚本にかかわっているということなので、そこは信じていきたいと思います。

他にも「田中ロミオ高橋龍也麻枝准が同時にクレジットされるアツさ」「麻枝准の新曲“End of the World”」「原作アニメムービーを手がけた天衝氏が『きんモザ』『グリザイア』2作の経験を携え満を持して本編を監督」などなど、見どころは尽きない今回のアニメ化。昨年の『Charlotte』『Angel Beats!』につづき、2年連続Key作品で盛り上がれることを喜びつつ…今回は筆を置きたいと思います。

『劇場版 響け!ユーフォニアム』を観たら、『サクラノ詩』にしか見えなかった話

 

以下の文章は『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』のネタバレ要素を含んでいます。

また、『響け!ユーフォニアム』の一部のキャラクターの性格付けに対してばっさり切っているところがあるので、そういうのがちょっと…な方も回れ右推奨です。

 

なお、「ギャルゲー」「ノベルゲー」と言ってもよさそうなところを、インパクトと語感重視で「エロゲ」と言っていることを先にお断りしておきます(要は複数の「攻略ヒロイン」とそれに対応する「個別ルート」がある、という形式さえ押さえておけば良いです)

 


 

『劇場版 響け!ユーフォニアム』を観て、まず漏らした感想が

 

サクラノ詩』じゃんこれ!!

 

だった。

 

ユーフォニアム』だが、もともと放送時には視聴していなかった。日ごろ懇意にさせていただいている相互フォロワーの方にも愛好者が多いことから、放送終了後だいぶ経ってから第一話を観てみたのだが、冒頭のシーンから「おいおい、悔し泣きだと普通わかるだろ!! てか『ダメ金』だと自分でもわかってるんだったら、少なくとも悔し泣きである可能性を考慮しろよ!!」……となり、「こいつ(黄前)が主人公というのはキツい…」と即座に挫折。しかし自分でもよく覚えていないのだが、合わないからと目を背けるのではなく、向き合おうという気持ちになり、「映画館ならチケットを買って席に座ったら、逃げ出すわけにもいかないし…」と劇場に足を運んでみたのだった。

 

 

今にして思えば金色のホールが大写しになったこのキービジュアルに、『サクラノ詩』をすでに感じていたのかもしれない……そう、この両作品は同じく高校の芸術系クラブを舞台とし、そのクライマックスは金色の大ホールでの作品披露という構造を持つ。そして『ユーフォニアム』=『サクラノ詩』と考えると必然的にひとりの人物が浮かび上がってくる。

 

滝先生だ。

 

ここまで読んできてくれた皆さんはもう『サクラノ詩』をプレイ済かネタバレ上等という方だろうから遠慮なく続けると、正確には『ユーフォニアム』=『サクラノ詩』の六章、およびその続編である『サクラノ刻』である。つまり滝先生とは高校時代編の物語(『サクラノ詩』五章までに相当)をすでに通過した草薙直哉なのであり、直哉と同様母校(という設定があったか定かではないが)の教師の職に就いたのである。例の「上手くなりたい!」の後に黄前が夜の学校で滝と会話するシーンで、滝の父親もまた北宇治高校の吹奏楽部顧問をしていたという言質でこのシンクロは決定的になる。草薙直哉の父、草薙健一郎もまた弓張学園の美術教師をしていたからだ。

そうなると滝先生というのがもうエロゲの主人公……すでに自らの語るべき物語を語り終えてしまった主人公にしか見えなくなってくる。彼もまた吹奏楽部部員として全国を目指した過去があったのだろう、しかし(それが在学中だったか、卒業後プロの演奏家を目指す過程でかはわからないが)挫折を経験し、一介の教師として再びオーケストラに向き合う決意をしたのだろう……そのようにしか思えなくなってくる(そうすると、滝の側に控える彼より年長の女性の副顧問は鳥谷校長に見えてきて仕方ない。口調といい滝との距離感といい、全く彼女を彷彿とさせるのである)。今度放送されるという2期では、ぜひとも滝の高校時代を掘り下げてほしいものである。

 

ユーフォニアム』=『サクラノ刻』と考えると、『サクラノ刻』では『サクラノ詩』六章にも登場した直哉の教え子たちがいわゆる「攻略ヒロイン」になるようなので、つまりユーフォニアム』の物語を演じている少女たちは「エロゲヒロイン」ということになる。もちろんこれはあくまで構造的にという話であって、彼女たちがみな滝の食い物にされるとかそういう話ではない(しかし滝の実力を認め全幅の信頼を寄せるようになっていく様は、男子も含め滝に「攻略されている」と表現して差し支えないのではないか?)

構造的な意味での「エロゲヒロイン」というのはつまり「個別ルート」……多くは幼少期に負った心の傷に起因する固有の物語を持っているということで、実際の「エロゲ」においては主人公がそれに寄り添うことで傷と向き合えるようになる。しかしエロゲをアニメ化する場合、当然主人公は特定の一人と添い遂げるわけにはいかないから、ヒロインは主人公なしでも自分で傷と向き合い(あるいは主人公や他のヒロイン含むより多くの人の支えによって)克服していく、という形になることが多い。傷を克服した=自らの語るべき物語を語り終えたヒロインは後景に退き、他のヒロインの後押しに回るか、そもそも舞台から退場する。

 

舞台から退場する……この表現から思い出すのはやはりなつき先輩をはじめとする落選組だ。劇場版では初見の自分にも明らかなほどなつき先輩周りのエピソードがカットされていたのだが、そうでなくても最後の舞台に向かう黄前と拳を合わせるシーンは未練を吹っ切って成仏する寸前の幽霊のようにしか見えない。語るべき物語を語り終えたら退場=成仏していくという構図は『Angel Beats!』や『リトルバスターズ!』を思い出させる。金色の輝きに包まれたホールはそんな想像も手伝って、生と死の境、『ユーフォニアム』というひとつの世界が消え去るか消え去らないかのギリギリの縁にあるように見えてくる。

だからそんな「世界が終わるかもしれない」場所であすか先輩が漏らす「この夏がずっと続けばいいのにね」という言葉は切実である。そもそもあすか先輩とは第一話のアバンで「北宇治高校へようこそ!」という作品のサブタイトルを発しているように、作品の外側に片足をかけている存在、視聴者と視点を共有する半-メタ的な存在である。だからこそ高坂と部長がソロ争いをする展開になったときも「どうでもいいよそんなこと…」となるのだし(部長が高坂の実力を認め自ら譲る展開になるのは「物語のセオリー的に」見え見えであるから)、徹頭徹尾本音を見せない人物として描かれてきたわけだが、さすがに『ユーフォニアム』という世界=物語が消滅するとなったら話は別である。ここまで追走してきた視聴者は当然「この演奏が終わったら映画は終わってしまう」と思っているわけだし(テレビ版ならもちろん最終回だ)、「視聴者としての」本音も漏れるというものである。あの言葉が作中において発された瞬間、それまで漫然と画面を見つめていた視聴者も自らの「本音」に気付かされるのであり、もはや「観客」の位置に甘んじていることはできなくなってしまうのである。

 

以上、『ユーフォニアム』を『サクラノ詩』を補助線にすることで「エロゲアニメ」として見ることが可能になること、また「エロゲアニメ」として見たときの注目ポイントについて解説してきた。言うまでもなく京都アニメーションとは2000年代にKeyのノベルゲーム『AIR』『Kanon』『CLANNAD』をアニメ化したスタジオであり、私見では「走馬灯めいた」回想シーンの使い方などに、その時期に培ったメソッドが生きていると強く感じる(詳しくは『ハイ☆スピード!』の記事を参照)。また劇場版で追加された新規カットに思わせぶりに登場した(おそらく第2期のキーキャラクターになるであろう)新キャラが「銀髪赤眼」のまるでエロゲの隠しキャラのような(『最果てのイマ』のイマや『グリザイア』シリーズの風見一姫を思い出してみれば良い!)見た目をしていたことも見逃せない。一般文芸原作の『ユーフォニアム』にも、このような読解を許してしまう物語の構造・キャラクターの配置が見られるのは、京アニがエロゲ的価値観……「語るべき物語」を持たないキャラクターなんていないという価値観を、今でも大切にしていることの証左だと受け取りたい(単にどうしようもなく私が「エロゲ脳」である可能性も高いが……)

 

とにもかくにも、2期の展開を見守りたい。

 

個人的に面白かった「ライトノベル」を振り返ってみる

第22回電撃小説大賞「大賞」を受賞した作品『ただ、それだけでよかったんです』がとても読み応えのある作品で、同時にこれは「ライトノベル」なのかどうなのか? ということでも話題になっているようなので(なんというか、そういう自問自答をしたくなる作風なのだ)、あまりライトノベルというジャンルを読まない自分が、「これは『ライトノベル』だろう」と思って読んでみて面白かった作品というのを振り返ってみたくなった。以下順不同に紹介してみる。

 

ただ、それだけでよかったんです

説明のしづらい作品なのだが、徐々に浮かび上がってくる真相、その出し方が上手いのと、語り手が相互に入れ替わる構成、テーマ性の結実の仕方など非常に練りこまれた作品であることがわかる。著者はメディアワークス文庫からの出版を望んでいた(?)らしいが、電撃文庫で出したのは(つまりイラスト付きという形態で出したのは)正解だったかもしれない。イラストが作品の雰囲気にすごく合っている。「表紙買い」も大いに推奨したい作品。

 

・愚者のジャンクション

アクの強いキャラがある事件の真相を紐解いていく物語……のように見えてキャラ同士の騙し合いであり、明確な解答というものも用意されていない、ビターエンドな物語が好きな人にはおすすめな作品。上下巻で事件への光の当て方が全く異なる(語り手も違う)ということ、閉鎖的な学校という空間で起きた人死にの事件に対して異なる視点から切り込んでいくところなどノベルゲーム『素晴らしき日々』が好きな人にはおすすめできるかもしれない。

 

・葵くんとシュレーディンガーの彼女たち

葵くんとシュレーディンガーの彼女たち (電撃文庫)

葵くんとシュレーディンガーの彼女たち (電撃文庫)

 

眠りから覚めるたびに二つの並行世界を移動するという特異体質の持ち主である主人公が、それぞれの世界で異なる幼馴染の間で揺れつつ、同じような設定の劇中劇を完成させようとするという……二重三重に入り組んだ作品で、設定を見ればわかる通りギャルゲー読者には特におすすめしたい一作。劇中劇を作り上げていく過程は学生時代に演劇をやっていた作者の実体験が反映されているとのことで、その意味でも読み応えがある。

 

・明日、今日の君に会えなくても

多重人格もの。最初にひとつの謎が提示され、それを引き起こしたのは果たして(その人格の内の)誰だったのか? という謎解きの軸を一本持ちつつも、消えゆく運命にある交代人格の、それぞれの最後の日々を描くオムニバスストーリーになっている。『俺たちに翼はない』と『Angel Beats!』の設定上の核たる要素を抜き出して組み合わせ、せつなさ溢れる筆致で仕立て上げたもの……と言えば伝わるだろうか。淡い筆致のイラストも内容に合っている。

 

・全死大戦2 少女覚醒

全死大戦(2)  少女覚醒 (角川文庫)

全死大戦(2) 少女覚醒 (角川文庫)

 

ノベルゲームシナリオライター元長柾木の手による小説『荻浦嬢瑠璃は敗北しない』の文庫版。独自の「セカイ系」論を唱える氏の思考回路が最も強く具現化された作品になっていると思う。学校というものを打倒すべきひとつのシステムと見立てるところまではありがちだが、氏の作品の魅力はそれを具体的な支配者(校長なり生徒会長なり)との対決ではなく、思弁的な領域での闘争に持っていく手つきにある。空気を「読まない」ことの重要性を説く(あるいは「空気」なんてものは最初からないと断じる)その姿勢にも、とても勇気づけられた。

 

・つめたいオゾン

つめたいオゾン (富士見L文庫)

つめたいオゾン (富士見L文庫)

 

ノベルゲームシナリオライター瀬戸口廉也の変名による小説作品。彼の書いた作品はどれも良いのだが、現時点での最新作であるこちらを紹介する。シナリオライター時代から一人称による独特の暗さを持った饒舌体を真骨頂とする作者だが、本作品においては三人称による透徹とした視線が印象的。架空の病気を題材に幻想と現実の境目があやふやになっていく手つきはボリス・ヴィアン『日々の泡』をも思わせる。「暗いもの」を執拗に描くことで「光あるもの」を浮かび上がらせようとする著者の特徴もよく出ている。

 

・絶望系

絶望系 (新潮文庫nex)

絶望系 (新潮文庫nex)

 

ライトノベル界の「奇書」とも呼ばれる本作だが、『涼宮ハルヒの憂鬱』の作者らしい、メタ・キャラクター文学とも呼べる内容の小説になっており、批評的な完成度が非常に高い。物語やキャラクターを「装置」として捉え、「それらしい役割さえそこに当てがっておけば、後付けで物語は生成される」とメタ的に突き放す視線は、起こる事件や描写こそより凄惨なものの、骨格としては『魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語』と非常に近いものを有しているように思える。それを一冊の小説で、しかも2005年の時点でやってのけていたというのだから恐れ入る。

 

・果てなき天のファタルシス

果てなき天のファタルシス (星海社FICTIONS)

果てなき天のファタルシス (星海社FICTIONS)

 

東浩紀門下の批評家/小説家、坂上秋成の主催する同人誌『BLACK PAST』に掲載されたのが初出の作品。内容を概略するなら超能力バトルに置き換えた『マブラヴ オルタネイティヴ』(ただし主人公は『オルタ』とは逆に記憶喪失状態)。十文字作品特有の「他者とのコミュニケーション可能性について諦念を抱えつつも、それでもコミニュケーションを希求してやまない」語り口というのがこの作品においても見られる。坂上氏の解説含め、個人的に「ライトノベル」入門としておすすめな一冊。

 

以上8タイトル。こうして見るとノベルゲーム的な時空間のインフレーションやどんでん返し、多視点による群像劇的構成というのに惹かれる傾向があるみたいだなと。それに加えて小説というものに僕は「殺伐とした展開」を求めてしまうみたいで(たぶん結末に向かって一方向に流れていくという小説という表現の形式そのものが、登場人物に過酷を強いるものだと理解しているからなのだと思う)、そういうものは配点が高くなっている印象。

 

以上の並びを見て、ぜひおすすめの小説があれば(「ライトノベル」に限らず!)教えていただけるとうれしいです。