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「2016年11月9日」の雑感

時代とジャンルを築いたミュージシャンが次々と亡くなった。

日本一の名城とも呼ばれた城が災害によって倒壊した。
ある映画の大ヒットによって、愛したジャンルはいよいよ空虚なものだったと突き付けられた。
そして今日、とんでもない人物が合衆国大統領に選出された。
 
「彼」について、実のところ僕は多くを知らない。
成り上がりの富豪で、70歳を超えようかという老人で、差別的で攻撃的。周囲を顧みない暴言を撒き散らしていたという、報道されていた以上のイメージはない。
 
ただこれから書くことにおいてはそれで十分なのだ。
僕が今日の出来事を経て思うのはたったひとつ、「品格や礼節を欠いた人間が我が物顔に暴れ回っているのは、きわめて不快である」ということだからだ。
 
やれ反知性主義だ、ファシズムの再来だ、為替市場が混乱だ、安全保障がどうだといった大文字の議論は(とりあえずは)どうでもよい。
なぜ、「こういう人とは隣人付き合いをしたくないなあ」といった、素朴な感想というのが出てこないのかが不思議なのだ。
 
エリートは先に挙げたような「大文字の議論」をしているだけだったから、彼を待望する層の厚みが見えなかったのだ、という意見がある。
それはそうだったにしても、彼を支持していた人たちは人たちで、本能的・感覚的に“暴言”に熱狂していたのではないだろうか。
 
本能的な熱狂に対抗しうるのは、抑圧的な知性ではなく、直観的な理性なのだと思い知る。
直観を信じるということ。言葉による理屈を経由しないという意味では「本能的」と似ているかもしれないが、そこでは経験の蓄積による、きわめて冷静な判断が行われている。
 
そしてこの「直観的な理性」を働かせる際に重要になってくるのが、品格礼節というものだと思うのだ。
これは学歴だとかエリートだとかそういったものには拠らない。言うなれば他者との交流の中で育てられる習慣の束であり、「相手の立場になって考える」とか「優先順位をつけて丁寧に仕事を行う」とか、そういう当たり前の行為を積み重ねることで培われるものだ。
 
自分が6年間やっていた剣道では、試合の前と後に必ず相手に対して黙礼をする。
これは剣道の目的が勝ち負けを競うことにではなく(もちろん結果的に勝敗はつくが)、「剣を交えることで、お互いに精神を高め合う」ことに主眼が置かれているからだ。その場を提供してくれた相手に対して、感謝と敬意を示すために礼をするのである。
 
何も武道をやれという話ではない。ひとつひとつの行為にきちんと理由があることを理解し、それを身体化することでしか行えない判断というのが存在するということが言いたいのである。
「彼」の暴言に熱狂してしまった人々は、こうした身体化がうまくできていなかったのではないか。
 
やはりインターネットの存在は大きいだろう。それも脊髄反射的に電子上の「アクション」を起こすことのできるスマートフォンSNSの存在だ。
「身体的な情報操作」と「習慣(情報)の身体化」は、似ているようでまったく異なる。外部の情報に対して身体を反応させるだけなら、幾多の野生動物もやっていることだ(むしろ彼らのほうがその点では優れている)。「人間」という個性的な動物であることを望むなら、積極的に情報を解釈し(物事の理由に思いをめぐらせ)、自らの身体イメージを作り替え続けていかなければならないだろう。
 
こうしてスマートフォンを触っている間にも、僕らは日々何気なく「直観的な理性」を摩耗させているのかもしれない。
そういう危機感は持ったほうがいい。

team:Rhetorica発行『Rhetorica#03』を読んで

team:Rhetoricaの発行するZINE『Rhetorica#03』を一読した。「つくる」というプロセスの秘密を解き明かす……「つくることをつくる」という芯の部分は健在で、コアメンバーであるseshiapple氏のステートメントにも非常に共感を覚える。 

自分が大好きなものをきちんと理解し、かつ、友人に伝えるように自分のプライベートな欲望を描き出し、かつ、(結果的に)それを関係ないひとにも伝わるように書く。こうした三重構造をもたせることで、いままで文章をつくったことがないひとであっても、つらい改稿作業に耐えながら、本に載せる意味がある個人的な文章──一見矛盾するようだが、をつくれるはずだと考えたのである。

つくることの憂鬱について──Rhetorica#01からRhetorica#03へ - おどりのようなもの より

一方で、そこで扱われている実例についてはよく理解できなかったというのが正直なところだ。グライムというイギリス発の音楽ムーブメントやネットレーベルMaltine Recordsの世界展開に取材した文章が誌面の重要な位置を占めているのだが、クラブカルチャーというのは自分にとってはアンダーグラウンドな匂いがして近寄りがたいものだし……というのは個人的な先入観にしても、松本友也氏も論稿の中で述べているように、ハイコンテクストなワード(「機運」「バイブス」「やっていく」などが挙げられるという)や現場主義的な価値観が幅を利かせている――つまりは「内輪ノリ」的な匂いを感じるのも事実なのだ。

今回の本がMaltine Recordsの主宰するイベントの会場で先行販売されたという事実ひとつをとってみてもそうだろう。今回の3号から(2号の発行から2年間が経っているわけだが)イベントオーガナイザーのtexiyama氏という方がコアメンバーに加わったらしい。Maltine Recordsとの密な関係もそこから進展したとのこと。自分はRhetoricaに「批評誌」としての性格を期待していたので特定集団へのインサイダー化というのは少々残念にも映った。

イベントを行うこと自体は悪いことではない。昨今のメディアにとって「ファンを獲得する」ということは最優先事項であり、動員が直接収益に結び付くことのメリットも理解している。しかしジャーナリズムや批評は対象に対して「よそ者」であることによって成立するものでもある。囲い込みを進め「内輪ノリ」を強めていくことは批評性の弱体化にもつながりかねないだろう。「批評誌」としてのRhetoricaへの期待が捨てきれないこそ言うのだが、今後は自前でイベントを立ち上げるなどして、より立体的な展開を望みたいところだ。『#04』の発行を今から楽しみにしている(あと、やはり本というプロダクトがあるのはいいことだと思いますよ)。

 


 

それはさておき松本友也氏の論稿「機運と被劇」は興味深かった。クラブカルチャーに対する文化人類学的な目線での考察なのだが、なぜRhetoricaがクラブカルチャーに接近しなければならなかったのか、その必然性が理解できた気がした。

その必然性とは「インターネットっぽい」協同性について指し示すことにあるのだと思う。「最初から何かの目的で集められたのではなく、個々人がそれぞれ自由に選択・行動してしまった結果集まってしまった集団」(「機運と被劇」より)。個が個のままでありながら緩やかに全体としての群を形成する、そのミニチュアがクラブという空間には現れているのだという。

ここで「インターネットっぽい」というのは「Twitterっぽい」とパラフレーズすることが可能だ。Twitterにおいては個々人の来歴や社会的な立場に関わりなく、興味・関心ベースで人がつながったり離れたりすることが容易に起こりうる(実名を明かし社会的な立場と密接に結び付く形で運用している人もいるだろうが、そうした場合でもなおRTやFavなどの機能によって、断片的なツイートが偶然に見知らぬ人のもとへ届けられる可能性は残されている)。Twitterにおける「興味・関心」が、松本氏が論稿の冒頭に引いているミシェル・セールの術語でいえば「準‐客体」に相当するだろう。

この「Twitterっぽい」協同性のモデルというのは、元々僕自身が理論化を欲していたものでもあった。「私‐あなた」という二者関係を基軸とした関係性のモデルにどうしても馴染めない――Twitterでもよく口にする「恋愛否認」とでもいうべき立場を鮮明にするために、いわば実存的にオルタナティブなモデルを求めていたのだ(なぜそうなったのか、ということについては素人精神分析の域を出ないので割愛する)。理論化の契機としてまず出会ったのが「デザイン・シンキング」の考え方*1で、ざっくりいえばこれは「最初から設計図を決めて物事に取り組むのではなく、手を動かしながら考える」というものだ。その過程でできた模型=プロトタイプをもとにチームの皆が意見を出し合い、完成に近付けていく。ここでは誰かひとりのリーダーではなくプロトタイプこそが中心になっているのであり、こうしたモノ=オブジェクトの振る舞いに着目する考え方は昨今の現代思想シーンを賑わせている「オブジェクト指向の哲学」にもつながってくる。そして前述のミシェル・セールはこの思想動向の祖と位置付けられていることから興味を持ち、日本におけるセール研究の第一人者である清水高志さん*2のトークイベントに足を運んだのが、僕とRhetoricaとの出会いだった(Rhetorica主催のイベントだったのだ)。同イベントでは松本氏による「デザイン・フィクション」*3についてのプレゼンテーションもあり、それまでビジネス書の体裁でしか触れてこなかった概念がリアルタイムで人文知と結び付いていくのには大いに昂奮させられたものだ(なのでレトリカには「批評誌」――海外の思想を最新の文化現象を事例にジャーナル的に紹介する集団というイメージがある)。

 

しかしここまではっきりしているのに、なぜ自分はクラブカルチャーに馴染めないのだろうか。その答えは簡単で、僕はクラブカルチャーに触れる遥か以前から、バンドカルチャーにどっぷり浸かってきたということに尽きる。

先にクラブカルチャーに対する僕なりの考察を加えておこう。クラブカルチャー――というよりクラブミュージックとは、何よりも「踊る」ことと結び付いている。それは身体性の発露であり、音楽と身体の中を流れるリズムを同期させることにその本質があるだろう。seshiapple氏や松本氏も「ダンス」についての言及は数多い(seshiapple氏のブログ名など「おどりのようなもの」だ)。最近ではダンスの授業が小中学校で必修化されたというが、これはストリーミングでの聴取が普及しつつある今、音楽がパッケージという軛を解かれアンビエントなものとして存在するようになったのとも軌を一にしているだろう。音楽を聴く、ということは机の前に座ってヘッドフォンをつけ、「さあ聴くぞ!」と思って再生ボタンを押すようなものではますますなくなっているのである。

一方のバンドミュージックというのは、まさしくヘッドフォンで聴くことを推奨されているような音楽であり、その本質は「踊る」ことではなく「浴びる」ことにある。多くのバンドミュージック好きというのは、轟音でかき鳴らされるギターや各セクションの複雑なアンサンブルの向こうに「彼岸」を見ることを――「ここではないどこか」に連れていってくれる経験を求めているのではないだろうか。それはライブにおいても同様で、バンドの奏でる音はアンプによって増幅され、オーディエンスに向かって正面から叩き付けられる。オーディエンスはそのときバンドの演奏を見ているだろうが、同時にその向こうに広がる「ここではないどこか」の景色も見ていると言えるだろう。

 

以上のように整理してみたが、音楽においてはバンドミュージックを志向し、生き方の指針としては「インターネット的=Twitter的」なものを志向するというのは、矛盾した態度だろうか? 自分はそうは思わない。クラブミュージックとバンドミュージックの違いとは、その「音楽性」ではなく「どのような環境で」その音楽に触れるかというところにあるからだ。そして現代においては「どのような環境で」その音楽に触れるかということが「音楽」に何を求めるかという態度決定と密接に結び付いている。

クラブミュージックとは前述の通り「身体性」と強く結び付いた音楽である。しかし「身体性」などというが、日常生活において身体の介在しない行為など実際には存在しない(アニメを観ているとき、ネットに文字を打ち込んでいるとき一時的に「忘れたふり」をすることはできるかもしれないが)。つまりクラブミュージックとは本質的に「生活」の音楽なのである。ストリーミング環境の整備による「音楽」そのもののアンビエント化がダンス(ミュージック)の普及に拍車をかけた、というのはそういうことだ。一方でバンドミュージックというのは「ここではないどこか」を求める音楽である。つまり身体どころか、それが紐付く日常というものも忘却させるように――というより、そうした願望を持つリスナーを惹き付けるように――できている。「じゃあフェスで人気の四つ打ちロックはどうなんだ」という意見があるかもしれない。しかしこれも簡単な話で、フェス体験というのはステージからステージへの身体移動を含む以上、その場に引き付けるためのより身体性に訴えかけるリズムが必要とされたというだけだ。そこで鳴っている「音楽性」は同じロックでも、フェスとライブハウスとではオーディエンスが「音楽」に求めているものが違う。

クラブ=フェスは日常と地続きの祝祭であり、その意味で松本氏が論稿中で「都市」の比喩に触れたのはきわめて的確といえるだろう*4。彼らにとってはインターネットというものも「日常」の中に間断なく組み込まれているからこそ、その両方を賞揚することができるのかもしれない。そしてライブハウスの暗がりは「ここではないどこか」につながっている。バンドミュージックとは現実否認、日常逃避の音楽なのである(そしてポジティブな逃避というのも人生には絶対に必要だ、ということを僕は高らかに宣言したい)。僕にとってはインターネットというのは依然「彼岸」を感じさせてくれる装置だ。「北出栞」というこのペルソナも「僕であって、僕でない」ものとして存在している。2000年代初頭、インターネット黎明期においては「インターネット」といえばすべてがそういうものだったのだろうと推測する。僕にとっては時代性にかかわらず、そうした「ここではないどこか」を感じさせてくれる表現だけがリアルである。

 

しかし「音楽性」は問題ではないと先に書いたが、あえてそこに目を向ければ面白い現象も観察される。それがPorter Robinson + Madeonのミュージックビデオ「SHELTER」だ。

 

 

今作はPorter Robinsonたっての希望で日本のアニメーション制作会社A-1 Picturesによって制作された、少女を主人公に彼の繊細なインナーワールドを描き出す作品である(世界観やストーリーもPorter自身によって生み出されたという)*5。そこで鳴らされているのは彼らのアイデンティティであるクラブミュージックだ。しかしその音像はリスナーを温かく包み込むような質感に満ちていて、ビートを身体に刻み付けることで「踊らせる」ことを目的としているのでなく……世界観に没入させるためのフックとしてビートが用いられているように感じられる。

「SHELTER」というタイトルの意味が明かされる最後のカットを見て、2000年代を代表する映像作品と言ってもいいだろうあの『ほしのこえ』を想起した視聴者は多いはずだ。国境も言葉もジャンルも超えて、そこには確かに「ここではないどこか」への志向性が息づいている。もし頭でっかちに「クラブミュージックとはこういうものだ」という先入観に囚われていたら、この素晴らしい作品に出会うことはなかったかもしれない。すぐれた表現というのは受け手の先入観というのをいつだって超えてくるものだ。だからこそ誰かの作り出した表現に触れるのは止められない。

*1:初めにこの本を読んだ。 

*2:多数の翻訳の他、初学者におすすめのすぐれた概説書も手がけている。

*3:この概念については提唱者であるSF作家ブルース・スターリングによる論文をRhetoricaメンバーの太田知也氏が訳出したものを、ネット上で読むことができる。

*4:“(クラブは)「居合わせている」という強烈な実感が立ち上がってくるような場所であり、その実感は個々人が個であろうとするような場だからこそ生じ得る。〔…〕スタンスを共有しているからこそ差異も浮かび上がりやすくなり、個々人の違いーー何に同意しており、何に同意していないのかーーはむしろ鮮明に把握できる。〔…〕ここに、クラブが都市と結んでいる関係の本質がある。普段は可視化されない「自分と似たような人たち」が、潜在的にはこれだけいるのだという実感。”(「機運と被劇」より。括弧内引用者)

*5:以下を参照。

『planetarian〜星の人〜』鑑賞記録――「Key」とは何か

 

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映画『planetarian〜星の人〜』を観てきた。Keyとは何か、ということについて、とても示唆深いものを与えてくれる映画だった。

planetarian』の原作には麻枝准樋上いたる折戸伸治、どの名もメインスタッフとしてクレジットされていない。でもKeyの作品である。それは一体どういうことなのか。

他ならぬ、「星の人」のエピソードがそれを証立てている。

 

 

「意志」を託す話

 

planetarian』本編(アニメでいえば、配信版のラスト)で「屑屋」は「星屋」になることを決意する。古きものの残骸からかろうじて生きる糧を見出す仕事から、形はないけれど人が生きる上で最も大切なものを生み出す仕事に鞍替えするのだ。

小さな投影機を携え滅びゆく世界をめぐり、星の話を語り聞かせる。老人になり肺を病んだ彼が最期に辿り着いた集落で出会った三人の子供たち。彼らに星の美しさを教え、ゆめみのメモリを託して逝く。

メモリーカードを受け取った少年少女たちは永遠にその使い方や中身を知ることは無いが、プラネタリウムを見て星の話を聞いた事は、彼らの中に一生残る。

— 星の人 (@yuji_isogai) 2016年9月3日

どんなに過酷な世界であっても、決して希望を失わないという「意志」を託す話なのだ。

 

Keyという名は(あらゆる屋号というものがそうなのかもしれないが)意志が受け継がれているということの符牒としてある。具体的にそれと名指せる対象はないのだけど、受け手たる我々の心の中には確かに「ある」と信じられるもの。

星というのもそのようなものであると思う。そもそも星の光は遅れて届くのだ。我々は星を手にすることはできない。だけど心の中には確かにある。

 

「Key」とは「星」のことなのである。

  

planetarian』で「屑屋」あらため「星の人」を演じた小野大輔は、Key作品において『AIR』(国崎往人)、『Charlotte』(乙坂隼翼)と「大切な人を見送り、その思いを受け取って前に進んでいく」役を演じている(『planetarian』の舞台挨拶や『Charlotte』最終巻付属のラジオCDで自ら言及している)。

「受け継がれる意志」の話として見れば――つまり小野が演じた隼翼を主人公として見れば――『Charlotte』もまたKeyの系譜に連なる作品だということが言えるだろう。

Keyというよりは「麻枝准」の作品であることが強く打ち出されてきた『Charlotte』。確かに乙坂有宇を主人公として見たとき、タイムリープできない(しない)ということや記憶喪失などのモチーフから、『AIR』や『智代アフター』などと同じく「麻枝准」の作家性とされる「不能性に止まること(東浩紀)」を見出すのは容易い。

しかし隼翼という人物を配置し小野大輔を起用しているという事実が、何より強くこの作品が「Key」の作品であることを主張しているといえるのではないだろうか。

 

 

Charlotte』と『君の名は。』、ふたつの彗星

 

Charlotte』にも彗星が登場するが、新海誠の『君の名は。』においても彗星が重要なファクターとして登場している。この作品における彗星は震災のメタファー――美しいものであると同時に、厄災をもたらす崇高なもの――として用いられていて、そのことは複数の論者によって指摘されてもいる。しかし星というのは美しいだけの、あるいは厄災をもたらすだけのものであっただろうか。

自然現象としてでなく、あくまでそれを見つめる人間の側に立てば、「星」が象徴するテーマとは届きそうで届かないものに「手を伸ばす」ということであると自分は思う。美しさに対する憧れと、そこに届こうとする人の意志の象徴なのだ。あるいは彗星であれば周回軌道を描くことから、「繰り返し」「次代へつなぐ」ことの象徴としても捉えられるかもしれない。 

麻枝准が震災という事件を全く意識することがなかったといえば、そんなことは決してないだろう。しかし、麻枝准は彗星を地球に落とさなかった。あくまでその影響を受け特殊能力を発現させた、思春期の少年少女の人生のゆくえにのみフォーカスした。

ことさら震災というものを暗示するまでもなく、人ひとりの背に負うには大きすぎる「過酷」との向き合い方を、一貫して描いてきたのが麻枝准という作家だった。
Charlotte』において彗星の存在があくまで背景情報として処理され、内容的には「約束」や「家族の再生」といったKeyおなじみといえる主題をめぐることに終始したのは、それらの主題に時代性を超えた普遍的な強度があるということに他ならない。

 

それぞれ『AIR』『ほしのこえ』で、2000年代を象徴する作家として名前を挙げられることも多かった麻枝准新海誠。その共通する資質は先にも言った「不能性」……「つながらない」ということの感覚であったわけだが、麻枝准は『Charlotte』において有宇と隼翼の兄弟に「不能性」と「受け継がれる意志」をそれぞれ託し、新海誠は『君の名は。』においてそれまでの作品では結ばれずに終わった男女を再会させるという「真っ当なハッピーエンド」に着地した。

麻枝准はひとりのクリエイターであると同時に「Key」を担う一員でもあり、新海は自らの名前を背負って作家的に活動する道を選んだ。その違いが同じく彗星を主要なモチーフとして採用した最新作に表れているのだと思う。 

 

 

「鍵っ子」から「星の人」へ

 

「鍵っ子」という言葉がある。熱心なKey作品のファンを指して言う言葉だが、Keyの作品から何か大切なものを受け取り、自らの人生において伝えていくというのであれば、それはもう「星の人」と呼ばれるべきなのではないだろうか。

麻枝准も、樋上いたるも、折戸伸治も、その他の加わっては離れていったスタッフも――みな等しく「星の人」である。逆説的だけれど、「Key」としか言いようのない何かがあるからこそ「Key」は存在するのだ。それを続かせていくのは、その存在を信じる私たち一人ひとりの意志でもある。

 

「星の人」に、なろう。