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『planetarian〜星の人〜』鑑賞記録――「Key」とは何か

 

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映画『planetarian〜星の人〜』を観てきた。Keyとは何か、ということについて、とても示唆深いものを与えてくれる映画だった。

planetarian』の原作には麻枝准樋上いたる折戸伸治、どの名もメインスタッフとしてクレジットされていない。でもKeyの作品である。それは一体どういうことなのか。

他ならぬ、「星の人」のエピソードがそれを証立てている。

 

 

「意志」を託す話

 

planetarian』本編(アニメでいえば、配信版のラスト)で「屑屋」は「星屋」になることを決意する。古きものの残骸からかろうじて生きる糧を見出す仕事から、形はないけれど人が生きる上で最も大切なものを生み出す仕事に鞍替えするのだ。

小さな投影機を携え滅びゆく世界をめぐり、星の話を語り聞かせる。老人になり肺を病んだ彼が最期に辿り着いた集落で出会った三人の子供たち。彼らに星の美しさを教え、ゆめみのメモリを託して逝く。

メモリーカードを受け取った少年少女たちは永遠にその使い方や中身を知ることは無いが、プラネタリウムを見て星の話を聞いた事は、彼らの中に一生残る。

— 星の人 (@yuji_isogai) 2016年9月3日

どんなに過酷な世界であっても、決して希望を失わないという「意志」を託す話なのだ。

 

Keyという名は(あらゆる屋号というものがそうなのかもしれないが)意志が受け継がれているということの符牒としてある。具体的にそれと名指せる対象はないのだけど、受け手たる我々の心の中には確かに「ある」と信じられるもの。

星というのもそのようなものであると思う。そもそも星の光は遅れて届くのだ。我々は星を手にすることはできない。だけど心の中には確かにある。

 

「Key」とは「星」のことなのである。

  

planetarian』で「屑屋」あらため「星の人」を演じた小野大輔は、Key作品において『AIR』(国崎往人)、『Charlotte』(乙坂隼翼)と「大切な人を見送り、その思いを受け取って前に進んでいく」役を演じている(『planetarian』の舞台挨拶や『Charlotte』最終巻付属のラジオCDで自ら言及している)。

「受け継がれる意志」の話として見れば――つまり小野が演じた隼翼を主人公として見れば――『Charlotte』もまたKeyの系譜に連なる作品だということが言えるだろう。

Keyというよりは「麻枝准」の作品であることが強く打ち出されてきた『Charlotte』。確かに乙坂有宇を主人公として見たとき、タイムリープできない(しない)ということや記憶喪失などのモチーフから、『AIR』や『智代アフター』などと同じく「麻枝准」の作家性とされる「不能性に止まること(東浩紀)」を見出すのは容易い。

しかし隼翼という人物を配置し小野大輔を起用しているという事実が、何より強くこの作品が「Key」の作品であることを主張しているといえるのではないだろうか。

 

 

Charlotte』と『君の名は。』、ふたつの彗星

 

Charlotte』にも彗星が登場するが、新海誠の『君の名は。』においても彗星が重要なファクターとして登場している。この作品における彗星は震災のメタファー――美しいものであると同時に、厄災をもたらす崇高なもの――として用いられていて、そのことは複数の論者によって指摘されてもいる。しかし星というのは美しいだけの、あるいは厄災をもたらすだけのものであっただろうか。

自然現象としてでなく、あくまでそれを見つめる人間の側に立てば、「星」が象徴するテーマとは届きそうで届かないものに「手を伸ばす」ということであると自分は思う。美しさに対する憧れと、そこに届こうとする人の意志の象徴なのだ。あるいは彗星であれば周回軌道を描くことから、「繰り返し」「次代へつなぐ」ことの象徴としても捉えられるかもしれない。 

麻枝准が震災という事件を全く意識することがなかったといえば、そんなことは決してないだろう。しかし、麻枝准は彗星を地球に落とさなかった。あくまでその影響を受け特殊能力を発現させた、思春期の少年少女の人生のゆくえにのみフォーカスした。

ことさら震災というものを暗示するまでもなく、人ひとりの背に負うには大きすぎる「過酷」との向き合い方を、一貫して描いてきたのが麻枝准という作家だった。
Charlotte』において彗星の存在があくまで背景情報として処理され、内容的には「約束」や「家族の再生」といったKeyおなじみといえる主題をめぐることに終始したのは、それらの主題に時代性を超えた普遍的な強度があるということに他ならない。

 

それぞれ『AIR』『ほしのこえ』で、2000年代を象徴する作家として名前を挙げられることも多かった麻枝准新海誠。その共通する資質は先にも言った「不能性」……「つながらない」ということの感覚であったわけだが、麻枝准は『Charlotte』において有宇と隼翼の兄弟に「不能性」と「受け継がれる意志」をそれぞれ託し、新海誠は『君の名は。』においてそれまでの作品では結ばれずに終わった男女を再会させるという「真っ当なハッピーエンド」に着地した。

麻枝准はひとりのクリエイターであると同時に「Key」を担う一員でもあり、新海は自らの名前を背負って作家的に活動する道を選んだ。その違いが同じく彗星を主要なモチーフとして採用した最新作に表れているのだと思う。 

 

 

「鍵っ子」から「星の人」へ

 

「鍵っ子」という言葉がある。熱心なKey作品のファンを指して言う言葉だが、Keyの作品から何か大切なものを受け取り、自らの人生において伝えていくというのであれば、それはもう「星の人」と呼ばれるべきなのではないだろうか。

麻枝准も、樋上いたるも、折戸伸治も、その他の加わっては離れていったスタッフも――みな等しく「星の人」である。逆説的だけれど、「Key」としか言いようのない何かがあるからこそ「Key」は存在するのだ。それを続かせていくのは、その存在を信じる私たち一人ひとりの意志でもある。

 

「星の人」に、なろう。

 

 

 

『君の名は。』と新海誠とRADWIMPS――あるいは作品における「テーマ」と「手段」の関係性

 

君の名は。』評に対する違和感

新海誠監督作品『君の名は。』が話題になっている。学生時代『秒速5センチメートル』の映像表現に衝撃を受け、(同時期に鑑賞した京都アニメーション版『CLANNAD』と合わせて)アニメ表現というものの大いなる可能性に打たれたのは今も記憶に新しい。今回の映画も当然のごとく、鑑賞必須の作品になるはずだった。

……が、結論からいえば僕はこの作品を観ることはできない。金輪際能動的に観ることはないだろう。理由は明確で、主題歌・劇伴をロックバンド「RADWIMPS」が手がけているということに尽きる。僕はこのバンドの楽曲、より正確にいえば歌詞表現というのがどうしても昔から好きになれないのだ。

彼らのレパートリーに「五月の蝿」という楽曲がある。僕が説明するより以下のリンク先を見るが易しなのだが、僕はこのような“作品”を世に売り物として出すということ自体、どんな事情があったとしても品がないことだと思うし、一度そんなことをしたバンドの音楽を2時間も聴き続けていることなんてできない、というのが本音だ。

五月の蝿 - RADWIMPS - 歌詞 : 歌ネット

RADWIMPSのファン層とも重なる中高生や、古参の「新海誠ファン」にも概ね好意的に受け止められている『君の名は。』だが、RADWIMPSというバンドの来歴や音楽性について顧みた感想は少ない。しかし新海氏が事あるごとに今回のコラボレーションを必然的なものとして強調するにつれ、やはり彼らのことについて触れないわけにはいかないと思うようになった。

 

RADWIMPSというバンド

畳み掛けるような言葉の奔流、言葉遊びを駆使した作詞法、前半で謎を与え後半で種明かしをするストーリーじみた構成など、手数の多い楽器隊のフレージングも相まって2010年代前半を席巻した「高速ボカロック」*1への影響関係を見てとることは容易いだろう(その一人であるボカロPのハチ=米津玄師は、昨年RADWIMPSの対バンツアーで共演した)。異なる点があるとすれば、ボカロPというのはやはりボーカロイドに「歌わせる」という視点が入るため第三者的な目線での歌詞が目立つのに対して、RADWIMPSは徹頭徹尾「野田洋次郎」という個人の経験に根ざした内容になっているということだろうか(これにはソースがある。Wikipediaからの孫引きで恐縮だが、かつて「ROCKIN'ON JAPAN」のインタビューで「自分の経験したことでないと納得できない。(当時発表した「遠恋」という楽曲は)初のフィクションである」という主旨の発言をしたことがあるのだという*2)。

RADWIMPSはいわゆる「ロキノン系」(「ROCKIN'ON JAPAN」が主に取り上げるバンドのこと)の系譜の中で、BUMP OF CHICKENとの連続性/あるいは切断をもって語られることがある。僕自身の解釈でいえば、それは「(架空の)物語」から「(現実にいる個人の)打ち明け話」への変化を示すものだ。個人の体験に根ざした歌詞を「赤裸々に、明けすけに」表現し、リスナーはそれに「共感」する。「共感」のメディアと言われるSNSが本格的に普及する少し前から(RADWIMPSのメジャーデビューが2005年、Twitterの日本でのサービス開始が2008年)、そうした転換点を体現していたのがRADWIMPSというバンドだった。

(先に少し述べたボーカロイドとの関連でいえば、フィクション性の強い「物語」的な歌詞表現を得意としてきたBUMP OF CHICKEN初音ミクとのコラボレーションを果たしたことは興味深い。BUMP OF CHICKENはこのコラボを行った時期と前後して(具体的にはアルバム『RAY』を発表した時期から)鼓笛隊のようなステージ衣装を纏って演奏することが多くなっているが、それは彼ら自身が「BUMP OF CHICKEN」という集団を客観的に捉え、自ら作り出す「物語」の中に「登場人物」として取り込むという戦略をとったということに他ならない)

 

セカイ系」再考

さて、ここでようやく『君の名は。』の話に戻るのだが、新海氏がRADWIMPSをコラボレーション相手に指名したのも、この強い「共感性」によるものだと考えられる。何しろ「自分の経験したことしか歌っていない」と本人が公言しているのだから、(言い回しのテクニックなど、異分野のクリエイターに対する憧憬やリスペクトはあるにせよ)言ってしまえば野田洋次郎の恋愛観に新海誠は共感した、とまとめてしまうことが可能である。これについては柴那典氏のコラムを参照するのがわかりやすいだろう。

RADWIMPSが『君の名は。』で発揮した、映画と音楽の領域を越えた作家性|Real Sound|リアルサウンド

「君と僕」の一対一の関係性。ここで即座に思い浮かぶのは、新海氏が世に出るきっかけとなった短編アニメーション作品『ほしのこえ』――ひいては、同作をその代表例として名指すことの多い文芸ジャンル(?)「セカイ系」のことである。バズワードに近いこの語には、一応教科書的に「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群」という定義がなされているのだが*3、柴氏も前掲のコラムで述べる通り新海氏は一貫して「一対一の関係」……具体的には男女間の恋愛を描いてきたのであり、それが遠宇宙であったり、時空間のねじれであったりといった道具立てを用いて表現されていただけなのである。新海氏にとっては描きたいテーマ(恋愛)を伝えるための「手段」でしかなかった「抽象的な大問題」が、あたかも作品のコアであるかのように語られてしまったのが「セカイ系」をめぐる言説だったのだ。

「単なる恋愛劇」が、「セカイ系」などという新語を用いてまで大上段に語られなければならなかったのはなぜなのだろうか。ひとつには単純に新海氏の生み出す鮮烈なビジュアルイメージに対して、適切に語る言葉を受け手の側が持たなかったということが言える。そしていまひとつには、現在の新海作品にも脈々と受け継がれている作劇上の特性……モノローグ主体のシナリオ構成というのが挙げられるだろう。「セカイ系」の代表例として『ほしのこえ』と共に挙げられる『イリヤの空、UFOの夏』『最終兵器彼女』はそれぞれ小説、漫画であり、これらの媒体はテキストという「黙読」に適した情報を含むがゆえに、モノローグとの親和性が高い。『ほしのこえ』はアニメーション作品でありながらモノローグ主体のシナリオ構成であったところに画期性があった(同じく「セカイ系」作品と捉えられることもある『新世紀エヴァンゲリオン』は、その「内省的」な内容もさることながらタイポグラフィを全面に用いた「テキスト的」な映像作品であったことも重要である)。実はこの記事を書くにあたって小説版の『君の名は。』を読んだのだが、「ああ、“新海誠”らしいな」と個人的に感じたのもまさにこの部分だった。

遠宇宙や時空のねじれといった「壮大な」道具立てを用いながらも、シナリオ面では登場人物のモノローグに終始する。それは従来の「アニメーション」の常識からすればきわめて贅沢な作劇法だったのであり、衝撃をもって受け入れられたわけだが(ゆえに新語をも必要とした)、実際には個人制作という条件下では、そのような手段をとるより他なかったという事情が大きかったことが推察される(物議を醸した『エヴァ』テレビ放映版の最終2話に関しても同じことは言えるだろう)。作り手の特異な「作家性」が発揮されたのではなく、当時の特殊な制作環境に強いられたがゆえの特異点的な表現であったというのが、「セカイ系」作品の内実であったというのが筆者の見解である。

 

「恋愛」は価値観の一つでしかない

新海氏は『君の名は。』の公開直前に自身のTwitterアカウントで以下のようにツイートしている。

また、RADWIMPS野田洋次郎映画の公式サイトに以下のようなコメントを寄せている。

ど真ん中を真っすぐに突き進む—この映画から強く受けた印象です。主題歌4曲全てがラブソング。いつもは、つい逃げがちな性格で、ここまでストレートに表現してしまうと恥ずかしさが出てしまい、別の方向性や受け止められ方を求めてしまうんです。だから「恋」をこんなに真っ正面に表現したこと自体、本当に珍しいこと。今回も最初はどこか無意識な逃げがあって、新海監督はその部分を見逃さなかった。「とにかくこの物語が貫こうとしているど真ん中を全力で歌って欲しい」と。だからこそ、踏み込めた。まだ恋愛をしたことがない人でも、『君の名は。』はいつしか自分がたどるんじゃないかという未来を感じさせてくれる物語だと思います。間違いなく僕も瀧と三葉に引き込まれました。

両者のコメントから読み取れるのは、この映画が紛れもなく「デートムービー」であり、恋愛というものが人生の主軸にあると感じられる人に向けて作られているということである。そんなの当たり前のことじゃないかと、この記事をお読みの方も思われるかもしれない。事実として、公開3日間で興収10億円という驚異的な数字を叩き出している*4

が、こと僕に関していえば「恋愛」というものをどうしても人生の主軸に据えることができないのだ。より抽象的に「特定の他者に絶対性を見出す」ような経験と言ってもいいかもしれないが、記憶しているかぎり物心つく前から、そのような経験をしたことがない。そういう回路が生まれつき欠落しているのだと、すっかり最近は開き直れるようになったが、逆にごく最近まで開き直れなかったのは、まさしく『秒速5センチメートル』に心打たれてしまった自分がいたからである。しかし、いま考えてみると自分が敬服したのは新海氏の圧倒的なビジュアルセンスに対してなのであって、物語内容やテーマに対してではなかった(同じことがアニメ『CLANNAD』にもいえる)。そのことがRADWIMPSという、新海氏と同じテーマを僕にとっては苦手とする「手段」で伝える作家と並列させたことによって、初めてクリアに見えてきたのである。

作品において「テーマ」とそれを伝える「手段」とは程度の差はあれ分かちがたく結び付いていて、中でもその境目を完璧に意識させないような作品が「傑作」と呼び称されるのだろう。その意味で僕にとって『君の名は。』は鑑賞前から傑作とは言えない作品になってしまった(し、今後鑑賞するすべての新海誠作品が傑作とは感じられないだろう)。

みなさんにとっては、どうだろうか。

アニメ『Rewrite』のOP/ED映像にPCノベルゲームの歴史を見る

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アニメ『Rewrite』のOP/ED映像が第2話より放映されました。

双方非常に個性的な作りの映像になっていますが、OPの絵コンテを担当したのが「URA AC-Promenade」(以下、URA)さん、EDの絵コンテ・演出・作画を担当したのが「江畑諒真」さん。直接的には天衝監督の過去作『グリザイア』シリーズでOP/EDを担当されたことからのつながりですね。過去作と比較してみるとわかる通り、実質お二方のプライベート作品と言ってよい仕上がりになっています。

 

 

 

「URA」さんは18禁PCゲーム、いわゆる「エロゲ」のOPムービーを中心に手掛けてきた人物で、ニコニコ動画黎明期に人気を博した『いただきじゃんがりあんR』のOPや先述の『グリザイア』シリーズのOPなどを手掛けています。近年ではシャフトの『〈物語〉シリーズ』のOPにもディレクターとして携わっていました。

 

 

 

一方の江畑諒真さんはKeyのデビュー作『Kanon』でシナリオを執筆した久弥直樹さんが原作・脚本に携わったアニメ『天体のメソッド』EDで一躍注目を集め、その後も『アブソリュート・デュオ』OP、『グリザイアの楽園』ED、『ディメンションW』ED、『少年メイド』OPなど絵コンテ・演出・原画をすべて一人で担う「一人原画」にてOP/EDを制作する、作家性の強いアニメーターとして着実にキャリアを積んでいます。

 

 

 

Rewrite』はそもそも原作の時点で『CROSS†CHANNEL』の田中ロミオ、『ひぐらしのなく頃に』の竜騎士07をゲストに迎え、樋上いたる折戸伸治、そして麻枝准というKeyのメインスタッフもそれぞれの立場から携わるまさに集大成的な作品でした。その2ndオープニング(物語の折り返し点で2つ目のOP映像が流れるという演出がなされたのです)にてアニメーションディレクター(氏の公式サイトによると、監督、デザイン、原画etc…を担当したとのこと)を務めたのが天衝さん(当時は「田中基樹」名義)です。

 

 

その後天衝さんは日常系四コマ原作の『きんいろモザイク』、シリアスでハードな内容のPCゲーム原作『グリザイア』シリーズを経て、満を持して『Rewrite』の監督を務めることに。

可愛らしくにぎやかな日常ものとしての前半とシリアスでハードな後半の両面を持つ『Rewrite』に至るまでに、上記の2作品の監督を務めたことはおそらく偶然だとは思いますが、結果として過去のノベルゲーム史を総ざらいするかのような固有名詞の乱舞する作品になっており……「歴史の因果」のようなものの存在を感じざるをえません。

 

 

そうそう、もうひとつ重要な固有名詞を忘れていました。『きんいろモザイク』『グリザイア』シリーズの両作で各話脚本に参加した、髙橋龍也さんです。

知っている人にはもはや当然の情報ですが、髙橋さんは元々ゲームブランド・Leafシナリオライター。過去にはKeyと双璧をなし「葉鍵」とも並び称された同ブランドの初期代表作、『雫』『痕』『To Heart』の企画・シナリオを手掛けたノベルゲーム史に燦然と名を残す重要人物です。

2000年代末以降はもっぱらアニメ脚本家としての活躍が目立っていますが、今回の『Rewrite』参加に際してはご自身にとっても感じ入るものがあったご様子。

 「かつての同僚」ということで真っ先に名前が思い浮かぶのが折戸伸治さんです。いまやKeyの音楽面での「顔」といえる折戸さんですが、もともとはLeaf最初期のメンバーとして『雫』を制作したのがクリエイターとしての原点。折戸さんは「音楽プロデューサー」(シナリオのどのタイミングで原作のBGMを流すべきか、というジャッジを下したりしているのだと考えられます)としてもアニメ『Rewrite』に携わっていますから、打ち合わせなどで顔を合わせることも多いでしょう。

これもまた偶然なのかもしれませんが、形は変われど創作に携わる仕事を続けてきたからこその奇跡……「継続は力なり」の偉大さを、いち視聴者である僕にも強く思い起こさせてくれるのでした。