28 (orbital period)

12月30日に28歳になってしまう。恐ろしいことだ。だってロックスターとして死ねなかったことを意味するのだから……しかしカート・コバーンにしてもジム・モリソンにしても、それまでに死後讃えられるだけの伝説と逸話を遺したからこそ歴史に刻印されているわけで、去年の今頃に「あと一年しかない!」などと思っていた時点で遅きに失していたというか。敗北は決定づけられていたのであり、あとは28歳よりも先の「余生」を「いかに上手く敗けていくか」の闘いになる……

 

なんて、そんなわけあるか!!!

 

いやいや勝負はこれからだ、とか人生はまだ長い、とかそんな綺麗事を言うつもりはないですよ。ただこれからは縁側に座った老人のような目で世界を見続けなければならないというのなら……それも違うだろう。知らない世界、知らない人、知らない作品があるというのは何歳になっても変わることがないだろうし、まだ見ぬそれらに出会えるということははっきりいって27歳でこの世を去ったミュージシャンたちよりもアドバンテージといえる。逆をいえば長生きしていいことなんてそれくらいしかないのだから、好奇心だけは忘れずにいたいものである。

 

それにしても新しい何かに出会う際にはこれまでに触れてきたものを参照するということは確かである。人は足場があって初めて物事を考えることができる……いい機会なのでその足場というのをいま一度点検してみよう、というのが今回の主旨である。

結論を先取りしていえばそれはノベルゲームということになる。少なくともこの10年に関してはそうであった。

 

それにしても2007年から10年とは驚きである。2007年というのは自分が大学に入学した年であった。京アニ版の『CLANNAD』が放送され、『リトルバスターズ!』が出て、『ゲーム的リアリズムの誕生』が上梓された。それまで僕を形作っていたのはBUMP OF CHICKENを筆頭とした日本語ロックと小学生の頃住んでいたヨーロッパ文化へのノスタルジーだった。それがなぜ2007年からいわゆる「オタク系」になったのかといえば……前述した作品の影響が大きい。シナリオと音楽を効果的に組み合わせて感動を生み出す麻枝准というクリエイターの存在がまず衝撃だったし、京アニの美麗な映像表現、『リトバス』については恋愛ゲームという媒体の制約を逆手にとって友情の大切さを謳い上げたシナリオに深く感じ入った。『ゲーム的リアリズムの誕生』によって、これらの作品を「真面目に(文学的/実存的に)」捉えてもいいのだ、と思えたことも大きい。この本の存在があったからこそ京アニ版『CLANNAD』を観て、アニメというよりもその背後にあるノベルゲームという媒体に興味を向けた面も間違いなくあると思う。

 

さて突然だが、自分は恋愛という価値観にずっと疑問を持っている。「自分」と「誰か」の境界線を(一時的にでも)なかったことにし、あるいはそのように振る舞うことで成立するのが恋愛という「状態」であると思うが、実際にはたったひとりの人と一体化したところですべてが解決するわけではない。また新たな「誰か」が現れて「自分とは違う」ということを突き付けてくるだろう……孤独が止むことは永遠にないのだ。

自分は転校が多かったこともあって、「自分」を「世界」にアジャストしようとしてできないということに深く悩まされてきた。ひょっとしたら今でもそうかもしれない。「自分」と対になる単位が「他人」ではなくどうしても「世界」、そう言うのが大げさなら「環境」になってしまう。「自分‐対‐世界」の物語には心躍るのだが、「自分‐対‐他人」の物語にはそれほど心が動かないのだ。

しかし同時に「幼馴染」的な人間関係には強い憧れもある。転校もなく、「自分」をとりまく「世界」が連続的であったなら他人との関係性を変化させていく中で自然と「恋」に目覚めることもあったかもしれない。その対象は当の「幼馴染」であるかもしれないし、あるいはそうではないかもしれないがーーとにもかくにも、「世界」と「誰か」がこれほどまでに乖離することはなかったのではないかと思う。

 

リトルバスターズ!』……というより、この作品が逆手にとったマルチエンディングタイプの恋愛ゲームという形式は、「世界」と「誰か」が完璧に一対一の対応を見せている。ヒロインの抱える問題を解消することがそのまま物語的な決着……ひとつの「世界」の終わりを意味しているのだ。これだけ取り出せば僕の否認した「恋愛」そのものであろうが、重要なのはやはり「マルチエンディング」という要素がそこに加わることである。「誰か(ヒロイン)」の複数性というのが、そのまま「世界」の複数性に対応している。現実に置き換えてみればこれは「誰もが自分の世界を生きている」ということで、そのことは僕をひどく安らがせた。誰かと一体化する……恋愛という事柄にリアリティを覚えられずとも、生きていけるような世界のあり方。それが表現されている媒体があることがうれしかったのだ。

リトバス』において「『世界』が複数ある」ということはまさしく「世界の秘密」という言葉で表されている(周回プレイ時に出現するあの印象的な問いかけを思い出してみるとよい)。括弧の付いていない、大文字の世界というのは、括弧の付いた複数の「世界」を予め包含したものとしてある。『リトバス』のテーマは友情とよく言われるけれど、本当は「異なる『世界』に生きる僕らが、一方が一方を取り込んだり、境界線を消し去ったりすることなく、互いにばらばらのまま、それでも共に生きるということはどういうことか」ということなのだと思う。もちろんそれが最終シナリオRefrainで明示的に表現されているのが素晴らしい。多くのマルチエンディングタイプのノベルゲームでは、各ヒロインのシナリオと最終的に出現するグランドルートとの関係が特に設定されていないか、あるいは設定されていたとしてもSF的な説明付けがなされるだけのことがほとんどである。しかし『リトバス』においてはすべての「世界」の終わりを見届けた唯一の人物として、主人公の理樹(便宜的にそう呼ぶが、彼の特異性とは単に「すべての物語の見届け人であった」ということでしかない)にそれまでの物語体験のすべてがフィードバックされる。「生まれなければ別れを経験することもない。だけど僕はまたみんなと出会いたい」という彼の独白はきわめて本質的だ。チーム「リトルバスターズ」の面々は卒業しそれぞれの進路を歩んだら、劇中のように頻繁には集まらないだろうなということがなんとなく透けて見える。だけどそれがいいのである。「死が二人を分かつまで」――「恋愛」の果てにあるとされる「結婚」の誓いの言葉は、お互いを縛る「呪い」として機能する。しかし『リトバス』においてあるのはただ「リトルバスターズ」というある時、ある瞬間に存在したチームの名前だけである。その名前には何の拘束力もないが、いつでもその名の下に再会することができる。

「私の世界」は「あなたの世界」と絶対的に隔てられている。そうした断念の感覚を透明に描き出した作品というのは他にもいくつか考えられる。『素晴らしき日々〜不連続存在〜』や『CROSS†CHANNEL』はその筆頭で、これらも大好きな作品である。ただ、「ばらばらな世界が、ばらばらなまま隣り合って、ひとつの名の下に束の間集うことができる」というビジョンを示してくれたのは、結局のところ『リトバス』しかない。30本弱ほどのノベルゲームを読んできたが……おそらくこの先もそうなのだろう。この本数をこなしたからこそ見えてきたということもあると思うし、そういう意味ではまったく無駄だとは思っていない。だが、繰り返すように作品と出会って10年、年齢的にも節目の歳を迎えるということで、そろそろ実践的に『リトバス』の教えてくれた世界を生きてみたいと思うのである。

 

27歳は多くのロックスターが亡くなった歳だが、28歳という年齢も大きな意味を持つ。そう、BUMP OF CHICKENのアルバムにも冠された「orbital period」だ。「公転周期」を意味するこのタイトルは、同作品のリリース時にメンバー全員が28歳――一年のうち同じ日に同じ曜日が来る年月の間隔は、6年・5年・6年・11年というサイクルで1セットとなり、それらを合計して28年周期になっているという*1――を迎えることから名付けられた。「27歳」のあとに「28歳」が来ることの意味。文字通り新たな周期が始まるのだ。「終わりはまた始まりでもある」ということを体現するに、これほどふさわしい歳はない――これまでの周回があったからこそ現在の自分があるのだということをあらためて胸に留めつつ、大きな希望をもってたくさんのチャレンジをしていきたい。

 

補足: そういえば、と思い調べてみたら、なんと『orbital period』がリリースされたのも2007年であった!! こんなにも巡り合わせのよいことがあるだろうか。2017年という年がますます楽しみになってきた。

 

リトルバスターズ! パーフェクトエディション TVアニメ化記念版

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orbital period

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映画『聲の形』感想

 

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映画『聲の形』を観た。鑑賞後初めに思ったのは、この映画は「差別」や「いじめ」についての映画ではなく、むしろそれらがなぜ起きてしまうのか、ということを問題にしている映画だということだ。結論からいえばそれは「聴こえる/聴こえない」「話せる/話せない」といった分断線を引くということで、それを引かずにあいまいな状態というのをいかに受け入れるか、ということがストーリーと映像表現、双方の水準で目指されている。

アニメーションというのは「あいだ」の芸術であると思う。「動いている/動いていない」の間を観ているのが、観客にとっての「アニメーションを観る」という体験だからだ。京都アニメーションはこの「あいだ」を表現することに一貫してこだわってきたスタジオである。その端緒は『涼宮ハルヒの憂鬱』における「閉鎖空間」や『CLANNAD』における「幻想世界」などに見出すことができるだろうが、夢と現、現在と過去の間を行き来するような映像表現というのはその後も幾度となく繰り返されてきた。それが「水」という、現実にも存在する物質を介して行われたのが『ハイ☆スピード!』であり、それは同スタジオのひとつの到達点だったと思うのだが(詳しくは過去に書いたこちらの記事を参照)、今作『聲の形』はまた違った角度からこの方向性に切り込んでいる。

 

アニメにおける「声」というのは必要不可欠ともいえるしまるで関係ないともいえる。アニメーション、というのは元々「絵を動かす」ということに掛かっている言葉だし、当然無声アニメーションというのも存在するからだ。そんな特異点ともいえる「声」を持たない、そのことを本人(西宮硝子)も周囲も問題にしているという状況から始まる物語というのを、「あいだ」を描くことを追求してきたアニメーション制作会社の生理が選んだということなのではないだろうか。聴覚障害者への「配慮」の有無が封切り後大きな話題になったが、むしろそういった「障害者である/障害者でない」という分断をいかにして回避し、あいまいな「あいだ」の状態を肯定できるかということが問題になっているのである。

「分断」を踏み越えたところにいるキャラクターというのは何人か登場し、たとえば硝子の「妹」ということになっている結弦の性別は最後まで決定的な証拠を示されずに終わるし、見るからに外国人風の外見でありながら何の説明もなく石田家に同居しているマリアも「日本人/外国人」「家族/非家族」といったボーダーを踏み越えたところにいる存在である。また主人公の石田将也は序盤何事につけ「理由」を求める人物として描写されているが、「原因」を特定し「以前/以後」のスラッシュを引くことで安心を得ようとする彼のそうした二分法的な態度は、「被害者/加害者」という構図を再生産し、硝子の自殺未遂という悲劇を招いてしまう(硝子は今度は自分が「加害者」だと思い込んでしまった)。そのことを鋭く指摘するのが植野というキャラクターで、彼女はそうした分断線というのを一貫してくだらない、ナンセンスだと切り捨てる存在という点で今作の最大のキーパーソンである。もちろん小学生時代の彼女の言動・行動は褒められたものではないが、しかし彼らが真に気づくべきだったのは、たとえば補聴器を奪って壊すといった行動が「いけないこと」なのは相手が「障害者だから」ではなく、単に「他人の持ち物を奪って壊す」という行為が許されざるものである、ということだったのではないか。 今作を観て「聴覚障害者への『配慮』が足りない」と嘯く人たちには、こうした点に注目して(とりわけ植野の所作ふるまいに注目して)今作を観直してほしいと願うばかりである。

 

音楽についても触れておこう。今作の劇伴を担当するのはソロユニット「agraph」名義で活動する電子音楽家・牛尾憲輔氏である。彼は音楽界きってのアニメオタクとして知られ、その知識量の一端は過去にナタリーで公開されたインタビューでも垣間見ることができるのだが、とにかく今作の劇伴の凄みは「つなぎ目を感じさせない」というところにある。シーンとシーンの間で、一端無音になって場面が切り替わるということが基本なく、それは「始まり/終わり」という分断線を引かないという意味で作品全体に共有されている意識と通底している。もちろんサウンドトラックの曲目リストを見れば数分間の楽曲の集合体であることはわかるのだが、「このシーンに合わせてこういう曲を」という発注の仕方をどうにもされていないように感じられるのだ。

そう思って牛尾氏の今作についてのインタビューがないか探してみたところ、まさにといった内容の記事が発見された。

 

 

正直黙って読んでくれとしか言いようのない内容なのだが、抜粋すると「音楽や映画だけでなく、絵画や彫刻、舞踊、写真、建築」まで含めた「自分たちがいいと思い、この作品にとってふさわしいと思うものが、映画『聲の形』の根幹をなすコンセプトとなって」いったと。「普通、音響監督や選曲の方から音楽メニューという、こういうシーンがあるのでこういう曲を作ってくださいという指示書をいただくんですね。ところが今回はそれが2、3曲だけだった。それはなぜかというと、コンセプトワークを最初に2人で徹底的に行ったからです。」「(山田尚子監督と)2人で週に一度レコーディングスタジオに入って、その時点でできている映像へ、実際にスケッチの曲を当ててみたり、合わせたものを観てアレンジを変えてみたり、もっと別の曲が必要だと思えばその場で作ったりといった作業をひたすら続けていったんです。」とのことだった。牛尾氏は山田監督とのそうした共同作業を「セッション」のようだったと表現しているが、 確かにそれは各楽器パートの役割を超え、一体となって純音楽的な探究に没頭する「セッション」そのものだろう。 映画監督と音楽家、発注をする側と受ける側、という分断線が融解し、ひとつの「作品」を作り上げるという一点にのみ神経が注がれているのである。聴覚障害という「無音の世界」を題材にしながらも、同時にきわめて本質的な意味で「音楽的」な映画でもある。アニメーションにおける「音」や「音楽」の存在について語る上で、避けて通ることはできないマスターピースが誕生したといえるだろう。

 

  

 

『君の名は。』感想

11月某日、結局『君の名は。』を観た。以前「金輪際能動的に観ることはないだろう」などと書いたが、そうはならなかったことをお許しいただきたい。ただ「嘘をついた」という感覚もなくて、この記事を書いたときとは状況が変わったというのがある。それはRADWIMPSがオリジナルアルバムをリリースしたということに尽きるのだが、畢竟僕にとって『君の名は。』という作品(をめぐる言説)への違和感というのは「RADWIMPSというバンドの物語」がまったく語られていないことに拠っていたのであって、それはバンドの表現をあまり好きになれないということ以前の問題であった。「アンチということはそれだけ気にかけていることの裏返しだ」というのはこの件に関してはまさしくそうで、自分の土台になっているのは「ロキノン文化」だという自覚があるからこそバンドの固有名詞に最も反応するし、そのメインストリームを形作ってきたバンドとしては元から十分にその存在を認めていた(と言ったら偉そうかもしれないが)。

このリリースタイミングで単独の、バンドとしてのインタビューが出てきたことでようやく『君の名は。』という映像作品と「ロキノン文化」を切り離して見れるようになった気がする。「ロキノン文化」というのは表現主義、「二万字インタビュー」に象徴されるような「内面」の召喚……つまり現代において最も愚直に(褒めてはいない)近代「文学」を継承している批評のあり方なのだが、これはロッキング・オン・ジャパン誌の一方的なレッテル張りというよりも、評されるバンド(とその周囲のファン)の共犯関係によって成立するものである。「二万字インタビュー」で「半生」を語ることによって晒け出された「傷」にその「表現」の根拠を求めるというわけだ。ミュージシャンの側も積極的に「傷」を明かすことによってその渦の中に飲み込まれていく……私見だがRADWIMPS、というか野田洋次郎はこのような「ロキノン・スパイラル」にどっぷり浸かった最後の世代なのではないかと思われる(音楽的には彼らに多大な影響を受けているはずの米津玄師たちの世代を、「ロキノン」誌のインタビュアーは取り扱いかねている印象がある)。つまりこのような文化の中でどっぷり10代を過ごした者にとって「RADWIMPS」という名前が召喚された時点でそこに表現主義的な読みが起動してしまうのである。正直「新海誠」なんかより全然“強い”名前なのだ。「ロキノン文化」においては、そのバンドのフロントマンの自意識の吐露、開陳される「傷」に「共感」できるか否かが唯一の判断基準になる。僕が『君の名は。』を観るのを渋っていたのは結局それなのだ。自分はかつてRADWIMPS……というか野田洋次郎が「ロキノン」誌で開陳してきた「内面」や「傷」に拒否反応を示してしまったから。表現がいくら卓抜であろうと目に入らなくなってしまう(表現自体が稚拙だ、と感じた場合も「ああ、やっぱりああいう内面の人だから」と考えてしまうのだから結局同じである)。

今回のタイミングで開陳された「内面」とは「結成以来のドラマーが病気により叩けなくなり、脱退・解散の機器に直面したが周囲の支えもあって乗り切り、その過程で新海氏との出会いや楽曲提供などの機会に恵まれ結果的にバンドの風通しがよくなった。過去もっとも“開けた”モードで制作された気分がアルバムに結実している」という「物語」であった。まあこれは非常にわかりやすいというか、とても“健全”で“真っ当”な話だろう。つまりRADWIMPSは自身の「傷」というか「毒」を出すということを少なくとも『君の名は。』においてはほとんど行わなかった……それはネガティブな意味ではなく、むしろポジティブな意味合いとしてそうだったのだ。僕は彼らの表現を好かないと言い続けながらも、どこか新海氏に対して全力でぶつかっていない、「お仕事」でやっているだけなんじゃないか? という二重にねじれた不満というのを持っていたのだが、このような「物語」を経由することでそれも解消した。そんなわけで、きわめてフラットな気持ちで映画館に足を運んだということをまずは言っておく。

 

では、実際観た『君の名は。』はどうだったのか。それを語るにも、まずはRADWIMPSというバンドのことを語る必要がある(今度は「内面」とかの話ではなく、技術的な話なのでご安心を)。

RADWIMPSは表現の水準においても「共感か、否か」を推し進めたという意味で画期をなしたバンドであると思う。以前の記事では歌詞が「野田洋次郎の個人的な体験」に根差していることがRADWIMPSを「共感性の音楽」たらしめている根拠としたが、技術的に言えばその性質は歌詞のワード数や楽器隊のフレージングの「情報量の多さ」に下支えされているところがある。僕がRADWIMPSを知ったのは「有心論」というシングル曲からだが、ラップともポエトリーリーディングとも違う、とにかくまくしたてるように言葉を連射するその「歌」に当時は衝撃を受けたものだ。そのとき感じたのは「処理が追いつかない」ということだが、これがなぜ「共感性の音楽」を下支えするのか。認知限界という言葉があるが、あまりに巨大な情報のフローに当てられたとき、どこかのタイミングでただ流れてくる情報を浴びるだけになる。つまり言葉の持つ重要な分節機能というのが機能しなくなり、「解釈」という第三項を介さずに情報のフロー=“事実”を受け止めるようになるのである。RADWIMPSの、特にアッパーな曲の歌詞を初見ですべて書き起こすというのはまず不可能だ。せいぜいが印象的なワードやフレーズを拾うのみになる。そして野田洋次郎はおそらく(きちんと分析したことはないが)、大量の情報の中に引っかかりを残す一語を忍び込ませるということに長けている。それは洪水の中ですがる板切れのようなものなので、ぴたりと嵌まればワンワードで撃ち抜かれることにもなるだろうが、それが全くピンとこなかったときの落胆というのもまた凄まじいものである。

そして面白いことに『君の名は。』という映画自体にも僕はこれと同様の感想を持ったのである。新海誠監督作品と言われているが、ジブリアニメで活躍した凄腕アニメーターの安藤雅司、記号的にして現代的なキャラクターデザインで一斉を風靡する田中将賀、そしてロックバンドとしては10年のキャリアを誇るが、劇伴作家としてはいわば「素人」のRADWIMPS。加えて新海氏の「風景」や「人工物」に対する執念めいた描き込みというものも相当なもので、これらが有機的に結び付いているというよりはオードブル的にばらばらのままひとつの皿に出された、という印象を僕は持った。まず「どこから手をつけようかな」という判断を漫画や小説などの静的なメディアであれば挟むことができるが、映画という「スペクタクル」の芸術においてはその暇(いとま)はない。クライマックス付近の、主人公の男女が現世と幽世の狭間のような場所で思いを交わし合うシーンに辿り着く頃には、「ああ、ここが盛り上がるところなんだろうな」とは思いつつも何がどうしてそこに至ったかをまったく処理できておらず「どうして彼女の名前が思い出せないんだ!!!」と叫ぶ男性主人公の狼狽ぶりに思わず吹き出してしまった。

「情報量が多い」ということはそのままこの映画が「大ヒット」していることの要因であるような気もする。要するに初見で処理することができないからリピーターが多いのでは、ということだ。あとは言いたいことがシンプルだから、圧倒的な情報の奔流に呑まれた後に残るものに、虚脱感込みの満足感を得ている人が多いのだろうと推察する。言いたいこと、というのは「思い出したいのに思い出せないもどかしさ」というか、そういう想い人への想い? みたいなもので、俗に言う“恋心”というやつなのだろう、かつてそういった想いを抱いた人、現在進行形でそういう想いを抱いている人には特に受けているのだろうと思われる。自分にはピンとこなかったが……代わりに100mを全力疾走した後の疲れに似たものだけが残った(内容を評する以前に、内容を追おうとして最後まで追い付けなかった、という感覚)。

 

個人的には最近読んだ二つの本を強く思い出させる映画であった。ひとつは柴那典『ヒットの崩壊』。「ヒットチャート」というものが機能しなくなった現在、「ヒット」とはどのようにして生まれるのか、そもそも「ヒット」とはなんであったか? というテーマを、筆者のメインフィールドであるポピュラー音楽(氏はもともと「ロッキング・オン・ジャパン」のライターである)を事例に読み解いていく本で、この本を読んで「ヒットって結局、計算だけでは生まれない」との考えに至ったことも『君の名は。』に足を運ぶに至った要因のひとつである。観終えたあとに思い出したのは海外受けする日本発の音楽は“過圧縮ポップ”ともいえる情報量の多さ、ごった煮感が特徴であるとのくだりで、実例として挙げられていたのがBABYMETAL、マキシマム ザ ホルモンなどの「ミクスチャー・ロック」、およびヴィジュアル系バンドであった。『君の名は。』の「情報量の多さ」も、今であれば「日本的」なものとして受け止められるのかもしれない。

もうひとつは大塚英志の『感情化する社会』だ。今上天皇の生前退位「お気持ち」表明についての話題を皮切りに、文学(小説)においても「気持ち」への「共感」ばかりが持て囃される状況に対して苦言を呈したもの……というと何やら固い本のように思えるが、近代文学というものが「内面」を発明/捏造してきた歴史を無化するようにして「共感」によってつながるSNSが勃興し、そもそも「内面」など持ちようもない人工知能botがそのSNS上においてはむしろ「内面」を持っているように見える……などの逆説をさまざまに描き出していて文芸/メディア批評として興味深い。「内面」と「共感」の相克ということについてはRADWIMPSを語る際にも言及したが、そこで起きていたのがいわば「内面」に「共感」するような事態であったのに対して、小説を事例とするこちらの本で提示されている見立ては少し異なる。それは「音楽」と「小説」というメディアの違いなのかもしれないし、翻って『君の名は。』という映画作品においてはどうか、ということに考えが至りもする。

二つの本を通して『君の名は。』について考えたとき、やはり思い出すのは「セカイ系」のことだ。「君と僕」の二者関係=恋愛にテーマを絞っているという意味では『ほしのこえ』と全く変わっておらず、何が起きたかということよりも事態に直面した主人公の「気持ち」が優先されるというのもまた同様である。ただその伝え方が『ほしのこえ』とは正反対のものになっていて、『ほしのこえ』が余計なものをそぎ落として最小限の要素で作られた「引き算」の作品だとしたら、『君の名は。』は要素を盛りに盛った「足し算」の発想で作られた作品である。これは新海氏を取り巻く制作環境が変わった(身も蓋もない言い方をすれば、今回は「お金」と「人」を使うことができた)ことと、デジタル技術が当時から飛躍的に進歩し、高解像度でより多くの情報量を画面に描き出せるようになったことの二つが大きいだろう。いかに要素を「使わない」かというところに「引き算」の発想、「わび・さび」の精神はあると思うのだが、もしかしたら新海氏は『ほしのこえ』の頃から「使わない」のではなく「(制作費その他の理由で)使えない」だけだったのかもしれない。『君の名は。』は、使えるものは全部使おう、という精神で要素が追加されていったように思えるのだ。

そうして生まれた作品は図らずも「日本的」な特徴を備えている。それが柴氏の著作でも言及された「過圧縮」ということで、おそらく現代において「JAPAN」を感じさせる大きな要因になっている。これが海外の人から見た「JAPAN」なのが重要で、大量の情報に直面した時頭が適当に不要な情報をシャットアウトするのは受け手の側に「引き算」の構えが生まれていることを意味する。「わび・さび」を精神論だとすれば文化的にその素養がない人(つまり海外の人)は理解できない、ということになってしまうが、情報の取り扱いという観点からすれば、過度の情報を与えることによって(どの国出身の人であろうと)受け手の側に「引き算=わび・さび」の構えを発生させることができるのだ。この意味で『君の名は。』のような作品は「“日本的”な作品」ではなく、「(観る側に)“日本的”な鑑賞態度を要請する作品」と言えるだろう。国産コンテンツの海外輸出という観点から見たとき、このような作り方はより一般化していくのかもしれない。自分としては削ぎ落とされた最小限の要素で構成されたものに惹かれるので、そうした作品も残っていってほしいものだが……少なくとも新海氏にそれを求めるのはもはや酷なのだろう。

 

MUSICA(ムジカ) 2016年 12 月号 [雑誌]

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ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

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感情化する社会

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