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世界の「見取り図を描く」ということ――『放課後のプレアデス』について(2016.1.17追記)

「行って帰ってくる」。古今東西の物語に見出されるというこの「形」は、しかし『放課後のプレアデス』という作品においては当てはまらない。帰ってきて「終わり」ということはなく、五人の魔法使いたちは繰り返し宇宙に飛び立つのだ。彼女たちにとって、宇宙とは通過儀礼としての「異界」ではない。可知範囲を広げることで、世界の「見取り図を描く」ということがそこでは目指されている。

 

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第11話で言及のあった「宇宙図」。

 

上記の企図が前面化してくるのは第9話においてだ。月、土星、太陽、銀河の果てまでも旅する範囲を広げてきた主人公のすばるは、星々の輝きを直接目にしてなお、手製のプラネタリウム作りに励むのである。宇宙の果てに至ること、それ自体を目的としていたのなら、そのような「部活動」は中断されてもおかしくないはずである。しかし彼女たちが旅する目的はあくまで「エンジンのかけら」を集めることにあった。宇宙の広がりを目にすることができたのは、あくまでその副産物にすぎない。ペン先が点と点を結んで線を描くように、「かけら」というのは魔法使いたちが軌跡を描くための媒介としてあった。そうして描かれた宇宙の見取り図を、再度飲み込んだ上でマッピングしたのが、すばるのプラネタリウムなのだ。単純な物理量としてのスケールの違いはもはや問題にならない。体感した宇宙の広がりと、画用紙にプロットした星々の地図が相似形をなしていることが重要なのである。

 

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すばるの作ったプラネタリウム

 

「見取り図を描く」という主題は人間関係のフォーメーションにおいても見出される。「五人だとこんなに安定するなんて!」といういつきの台詞にあるように、各人を「点」として捉えたときの距離や位置関係によって、多彩な幾何学模様が姿を現すことは全編を通して反復されてきた。第2話や第7話におけるすばるとあおいの微妙な距離感、第4話と第8話でひかるとななこがそれぞれに再発見した、家族や友人との位置関係。五人がそれぞれに織りなす幾何学模様と、「かけら」集めの宇宙航行で得られた見取り図もまた、相似形をなしているのである。

 

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五つ星のフォーメーション。

 

誰もが共通して思い描く人生の「ゴール」というものがなくなったと言われてひさしい。直線的に「ゴール」を目指す「成長」のモデルというのも、もはや説得力を持ち得ない。「何でもあり」がデフォルトとなったこの世界においては、諸要素をマッピングし、そこにある無数の経路を見つけ出す……自らの手で「見取り図」を描く能力というものが求められるのではないか。物事のすべては連関し合い、相似形はいたるところに見出される。そんな風にして世界を見る「目」を得たことこそ、きっと五人の魔法使いにとってかけがえのない財産なのだ。絡まっていた運命線がほどけ、元いた世界で「ひとり」になったとしても、彼女たちは恐れることなく新しい景色の中に踏み出していけるだろう。星々のめぐりも、人と人とのつながりも、縮尺を変えれば同じ見取り図の変奏であると知っている彼女たちなら。

 

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追記(2016.1.17)

ひさしぶりに本編を観返すと、第6話におけるプレアデス星人の「僕たちは選択することを止め時を止めた」「人間とは選択する生き物だ」という台詞に違和感を覚えた。選択されなかった経路も含めて、多元性を丸ごと肯定するような宇宙観――ライプニッツ的と言ってもよい――を信奉する自分にとっては、選ばれなかった可能性については「なかったこと」になる、というこの台詞には、違和感を覚えざるを得なかったのだ。曖昧に可能性が重なり合っている状態、つまり本編の五人が同時に存在している状態こそが、自分の宇宙観には近いという感じがする。だが、考えてみれば『プレアデス』という作品が好きということは、五人の魔法使いが一堂に会していてプレアデス星人もいる、あの本編を観ている時間が好きということだから、この感情に矛盾はない。「始まり」と「終わり」があって、元いた運命線に「戻らなければならない」というのは、全12話のテレビシリーズという形式が要請するものであって、作品が提示する宇宙観というわけではないのだ(現にYouTube版では「戻る」ということはないままに終わる)。

ところで、『プレアデス』においては五人の魔法使いが様々な幾何学的フォーメションを描くのだが、古代、幾何学天文学は世界の調和を解き明かす学問としてあった。つまり幾何学の証明によって得られる定理というのは「神秘」そのものであった。しかし宇宙と幾何学は、現代においてはもはや全く関係がない。両者が結び付くことがあるとすれば、星々の配置と幾何学図形に対して抱く感情を、同じ「美しさ」の系列に属させる誤りによる。しかしその「誤り」は単純に棄却すべきものでもない。それは「世界の真理」などではありえないが、「美しい」という感情を持ったこと自体は誰にも否定することはできないからだ。

現代の宇宙科学を精緻に参照した今作の世界観の中にあって幾何学模様が反復されるのは、彼女たちの操る技術がまさしく「神秘=魔法」だからである。そう、「魔法」とは何かを美しいと思う心、そのものなのだ。なので昨年のうちに書いたこのエントリには若干の補足・修正が必要となる。反復される幾何学模様の表現とは、何よりもまずなにかを「美しい」と思う心、すなわち「魔法」の実在を表現するものに他ならないのである。