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Charlotte第十話を前に 「他人(が)思う故に我在り」という認識に到達した乙坂有宇くんの話

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Charlotteは「アニメとして」は完全に破綻している。妹が死ぬ、それは乙坂にとっては「世界が終わる」ような出来事かもしれないが、客観的にそれを見つめている視聴者からすると「いや、崩れたのは校舎だろ」となってしまうし、直後の第七話でああまで堕ちきってしまった人間の姿を淡々と見せ続けたのも、エンターテインメントとして明らかにバランスを欠いている。放送前にも言われていたように、「等身大の主人公」の「成長物語」として前半~中盤を描きたかったのだろうが、それにしても上手いやり方はあったはずで、やはり麻枝准が「ノベルゲームのシナリオライター」である限界が表れてしまっている。ユーザーと主人公の視界が完全に合致した状態で進行していくノベルゲームにおいては、主人公の周囲にいる人間や建物を精緻に描き込む必要はない。しかしアニメにおいてはそれらは「映り込んでしまう」。主人公のインナーワールドに寄せた形で、いっそのこと現実感を欠いたおどろおどろしい情景を描き込んでもよかったのではないかと思う。こうして見ると脚本というよりは、それを「アニメ向け」にアレンジできなかったアニメ制作サイドのほうに瑕疵があったようにも思えるが、しかしこうまで言ったにも関わらず、第七話でこの作品の「観方」がわかったようにも思う。要するに乙坂自身に「入り込んで」彼と視界を共有することが大事なのだ。ノベルゲームのシステムがなければ、自前でそれを用意してやればいいというか。「映り込んでしまう」ものについては見逃すことも重要なのではないかという話である。それは必ずしも「善い」アニメの観方ではないのかもしれないが、アニメという以前に「麻枝准が作ったもの」としてCharlotteを観てしまう私のような人間からすると、むしろ当然の帰結ともいえる。とにかくそのようにして細部を切り捨てることで、話の骨格が姿を現し始めたのだ。それは「成長」しているかどうかはともかく、乙坂有宇という主人公の「等身大」の物語である。単なる状況変化のきっかけにすぎない友利との出会いを「お前が僕を変えてくれた」とまで思ってしまう性急さとか、ZHIENDのライブに出かける際にえらく時間をかけて洋服を選んでしまう感じとか、とにかく幼稚で「かわいい」一面が目につくようになってくる。

しかしその直後に「乙坂は記憶を消されていた」という設定が明かされてしまう。ようやく乙坂という主人公に「萌え」始めたのに、これまで視聴者とともに歩んできた乙坂の人格というのはある意味、捏造されたものだったということが判明するのである。兄によるタイムリープ+世界改変が行われる前、実験施設にいたころの乙坂はそれなりに使命感と行動力を持っていた人物であったようで、では「等身大の物語」とはなんだったのかと。「成長」なんてものはしなくても、以前の世界(過去)ではすでに通った道だったんじゃないのかと。しかしこんなことは当の乙坂自身が最も感じていることだろう。夢の中で見た「過去」の自分は、自分であって自分ではない、別人だと思えることだろう(兄にとっては同じ「有宇」かもしれないが、そのように言い聞かせる「兄」を名乗る人物こそが現在の乙坂にとっては疑わしい)。こんな種明かしをされてしまったら、冗長に感じられた前半の話数にも何だかんだ付き合ってきた私たちからすると、「現在の」乙坂有宇に肩入れしたくなってしまうというものである。彼の現在を肯定するために、前半の話数自体が肯定的なものに思えてくるというか、冗長さこそが尊い日常であり「輝かしい青春」であったという認識が、ここに開かれるのである。

失われた記憶と他人からの同一性の指摘、それに対する受け入れがたい感情というのは、「自己の同一性を保つのは何によってなのか」という主題を導き出しもする。兄は実験施設に暮らしていた頃も、何もかもを忘れ、カンニング犯として星ノ海学園に連行されてきたのも同じ「有宇」であるという。しかし現在ここに立っている乙坂有宇は、友利や高城と出会ったことで「変わることができた」現在の自分を何より肯定したい気持ちになっている。「他人によって私が在る」という意識が、現在の乙坂有宇には確かに生まれているのだ。ここで第一話冒頭の台詞がリフレインしてくる。「ずっと小さい頃から疑問に思っていた/なぜ自分は自分でしかなく 他人ではないのだろうと/『我思う故に我在り』とは 昔の哲学者の言葉だそうだが/僕は我ではなく 他人を思ってみた」。この時点では他人「を」思うことにしか至らなかった乙坂は、第九話までの一連の出来事を経て他人「が」思うことによって「我在る」のだ、という認識に到達している。それは運命とか神とかいう超越的なものに縋るのではなく、もっと日常に根差した、すぐ傍にいる他人の存在を重要なものとして取り入れる態度である。それでも乙坂はそうして辿り着いた現在を、日常を捨て去らなければならないだろう。タイムリープが行われる前も、現在も、貫世界的に残存している歩未への思いによって。その思いは「自身の記憶」にも「他人による同一性の指摘」にも拠ることのない場所に保存されている。どんな記憶を消されても、いくら時空をまたごうとも、そのたったひとつの思いだけは消えることがない、それは「呪い」とも「奇跡」ともいえるものだろう(過去作品から連綿と続くKeyの主題にここで接続する)。そんなものに届くためには、それこそ自らも「神にも等しい役を担う」しかない*1。Charlotteはそんな「Keyの呪い(あるいは奇跡)」に弄ばれる「乙坂有宇」という存在を憐み、またその名前が指し示すあらゆる可能性の対象を、丸ごと肯定してやることで成立する物語なのである。

*1:ここでいう「神」とは「これから起こりうるすべての事象を知りうる存在」と言い換えてもいいだろう。というのもタイトルが現在のものに決まる前の候補として、「ラプラスの死神」というものがあったらしいのだ。物理学者であるラプラスは「悪魔」という言葉を用いてだが、まさしく上記のような存在を仮想することによって自らの決定論と呼ばれる立場を打ち立てた人物である。