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「自分事」になるということ――『Charlotte』と『ガッチャマン クラウズ インサイト』がたどり着いた、一つの終着点。

『Charlotte』と『ガッチャマン クラウズ インサイト』は、ともに如何にして「他人事」が「自分事」になるか、の話である。『Charlotte』においては主人公・乙坂有宇の成長譚として、『インサイト』においては目に見えない「空気」との戦いとして、それぞれ描かれる。

『Charlotte』において、「私」と「他人」をめぐる問題にテーマが収斂していくことは当初から予測されていた。「我他人を思う」。これは第一話のサブタイトルだったわけだが、このフレーズの周りを旋回するように乙坂有宇の考えは変遷していく。彼にとっては妹・歩未の安否がすべてで、それは作中で「シスコン」と揶揄されるほどのものなのだが、時空を超えても記憶を消されようとも残る意思というのは実際大したものだ。だから乙坂にとって「他人を思う」ということは「乙坂が歩未を大切に思うように、誰かも誰かを大切に思っているはずだ」という、ベクトルの反復として理解される。乙坂が友利奈緒に対して特別な感情を抱くのも、「堕ちてしまったときに見守ってくれていたから」という言葉に出した思い以上に、友利もまた「妹」であり、逆に兄を失っているという反転の関係にあったことが影響しているだろうし、兄・隼翼が親友である熊耳を失った際も、「自分にとって歩未が失われたときのように」考えることで「他人を思う」言葉をかけることができている。

インサイト』においては政治という具体的・社会的フィールドにおける意思決定の問題が扱われるが、核にあるのは「同調圧力」に負けずに自分の頭で思考し続けることができるか、という問いかけである(「考える」ということは一ノ瀬はじめの口から繰り返し発せられるテーマであり、また「考えない」者たちを総称して鈴木理詰夢の口からは「猿」という表現がされている)。「空気」を代弁する者としての宇宙人ゲルサドラ、しかしそのゲルサドラも一個の人格であり、彼一人を滅することでは何も変わらない、というのが本作のクライマックスなのだが、その際にキーとなるのが「憐れみ」の感情である。「空気」の支持により決定権を移譲されたガッチャマンたちはゲルサドラ(のフリをしたはじめ)を「殺害」するという狂言を行うのだが、その様子はネット接続された監視カメラの映像によって全国に中継される。手元の画面の中、目の前でのたうち回るゲルサドラ(偽)の姿を見て我関せずとしていた「猿」たちはまさしく身体的な反応として「萎えて」いくのだ。頭で考えない者たちには身体でわからせる。映像という(心理的・身体的な)「距離」をショートカットする道具を使って「自分事」を作り出すことが、ここでは試みられている。

二つの作品の差分とは、『Charlotte』がごく狭い人間関係の中での「他人を思う」ということに焦点を当てているのに対して、『インサイト』ではタイトルにもあるようにCrowds=群衆という、顔の見えない不特定多数を相手にしているということである。顔の見えない相手に対しては感情移入も成立しない、というところにメディアの力を利用して(ある種身体的な錯覚を起こさせることによって)「自分事」を作り出したのが『インサイト』の解法なら、『Charlotte』におけるそれはごく身近な他人との関係性をいったん抽象化し、それを他人がまた別の「他人を思う」ケースに当てはめることで「自分事」に変換するというものである。両者は対立するものではなく、むしろ補い合うことによって他者理解を助けることになるだろう。ただ忘れてはならないのは、『インサイト』なら「国民」、『Charlotte』なら「能力者」と、ある集合の内部での問題を扱っており、異なる集合同士が対立した場合(たとえば、国家間対立)にはどうするか、という問題には踏み込めていないということである。両者の続編(特に『インサイト』にはまだその先の展開がありそうだ)があるならそういったイシューに踏み込まざるをえないだろうし、もし作品としてそれが実現されなくても、視聴者はそういった問題に思いを馳せる必要があるだろう。