『劇場版 響け!ユーフォニアム』を観たら、『サクラノ詩』にしか見えなかった話

 

以下の文章は『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』のネタバレ要素を含んでいます。

また、『響け!ユーフォニアム』の一部のキャラクターの性格付けに対してばっさり切っているところがあるので、そういうのがちょっと…な方も回れ右推奨です。

 

なお、「ギャルゲー」「ノベルゲー」と言ってもよさそうなところを、インパクトと語感重視で「エロゲ」と言っていることを先にお断りしておきます(要は複数の「攻略ヒロイン」とそれに対応する「個別ルート」がある、という形式さえ押さえておけば良いです)

 


 

『劇場版 響け!ユーフォニアム』を観て、まず漏らした感想が

 

サクラノ詩』じゃんこれ!!

 

だった。

 

ユーフォニアム』だが、もともと放送時には視聴していなかった。日ごろ懇意にさせていただいている相互フォロワーの方にも愛好者が多いことから、放送終了後だいぶ経ってから第一話を観てみたのだが、冒頭のシーンから「おいおい、悔し泣きだと普通わかるだろ!! てか『ダメ金』だと自分でもわかってるんだったら、少なくとも悔し泣きである可能性を考慮しろよ!!」……となり、「こいつ(黄前)が主人公というのはキツい…」と即座に挫折。しかし自分でもよく覚えていないのだが、合わないからと目を背けるのではなく、向き合おうという気持ちになり、「映画館ならチケットを買って席に座ったら、逃げ出すわけにもいかないし…」と劇場に足を運んでみたのだった。

 

 

今にして思えば金色のホールが大写しになったこのキービジュアルに、『サクラノ詩』をすでに感じていたのかもしれない……そう、この両作品は同じく高校の芸術系クラブを舞台とし、そのクライマックスは金色の大ホールでの作品披露という構造を持つ。そして『ユーフォニアム』=『サクラノ詩』と考えると必然的にひとりの人物が浮かび上がってくる。

 

滝先生だ。

 

ここまで読んできてくれた皆さんはもう『サクラノ詩』をプレイ済かネタバレ上等という方だろうから遠慮なく続けると、正確には『ユーフォニアム』=『サクラノ詩』の六章、およびその続編である『サクラノ刻』である。つまり滝先生とは高校時代編の物語(『サクラノ詩』五章までに相当)をすでに通過した草薙直哉なのであり、直哉と同様母校(という設定があったか定かではないが)の教師の職に就いたのである。例の「上手くなりたい!」の後に黄前が夜の学校で滝と会話するシーンで、滝の父親もまた北宇治高校の吹奏楽部顧問をしていたという言質でこのシンクロは決定的になる。草薙直哉の父、草薙健一郎もまた弓張学園の美術教師をしていたからだ。

そうなると滝先生というのがもうエロゲの主人公……すでに自らの語るべき物語を語り終えてしまった主人公にしか見えなくなってくる。彼もまた吹奏楽部部員として全国を目指した過去があったのだろう、しかし(それが在学中だったか、卒業後プロの演奏家を目指す過程でかはわからないが)挫折を経験し、一介の教師として再びオーケストラに向き合う決意をしたのだろう……そのようにしか思えなくなってくる(そうすると、滝の側に控える彼より年長の女性の副顧問は鳥谷校長に見えてきて仕方ない。口調といい滝との距離感といい、全く彼女を彷彿とさせるのである)。今度放送されるという2期では、ぜひとも滝の高校時代を掘り下げてほしいものである。

 

ユーフォニアム』=『サクラノ刻』と考えると、『サクラノ刻』では『サクラノ詩』六章にも登場した直哉の教え子たちがいわゆる「攻略ヒロイン」になるようなので、つまりユーフォニアム』の物語を演じている少女たちは「エロゲヒロイン」ということになる。もちろんこれはあくまで構造的にという話であって、彼女たちがみな滝の食い物にされるとかそういう話ではない(しかし滝の実力を認め全幅の信頼を寄せるようになっていく様は、男子も含め滝に「攻略されている」と表現して差し支えないのではないか?)

構造的な意味での「エロゲヒロイン」というのはつまり「個別ルート」……多くは幼少期に負った心の傷に起因する固有の物語を持っているということで、実際の「エロゲ」においては主人公がそれに寄り添うことで傷と向き合えるようになる。しかしエロゲをアニメ化する場合、当然主人公は特定の一人と添い遂げるわけにはいかないから、ヒロインは主人公なしでも自分で傷と向き合い(あるいは主人公や他のヒロイン含むより多くの人の支えによって)克服していく、という形になることが多い。傷を克服した=自らの語るべき物語を語り終えたヒロインは後景に退き、他のヒロインの後押しに回るか、そもそも舞台から退場する。

 

舞台から退場する……この表現から思い出すのはやはりなつき先輩をはじめとする落選組だ。劇場版では初見の自分にも明らかなほどなつき先輩周りのエピソードがカットされていたのだが、そうでなくても最後の舞台に向かう黄前と拳を合わせるシーンは未練を吹っ切って成仏する寸前の幽霊のようにしか見えない。語るべき物語を語り終えたら退場=成仏していくという構図は『Angel Beats!』や『リトルバスターズ!』を思い出させる。金色の輝きに包まれたホールはそんな想像も手伝って、生と死の境、『ユーフォニアム』というひとつの世界が消え去るか消え去らないかのギリギリの縁にあるように見えてくる。

だからそんな「世界が終わるかもしれない」場所であすか先輩が漏らす「この夏がずっと続けばいいのにね」という言葉は切実である。そもそもあすか先輩とは第一話のアバンで「北宇治高校へようこそ!」という作品のサブタイトルを発しているように、作品の外側に片足をかけている存在、視聴者と視点を共有する半-メタ的な存在である。だからこそ高坂と部長がソロ争いをする展開になったときも「どうでもいいよそんなこと…」となるのだし(部長が高坂の実力を認め自ら譲る展開になるのは「物語のセオリー的に」見え見えであるから)、徹頭徹尾本音を見せない人物として描かれてきたわけだが、さすがに『ユーフォニアム』という世界=物語が消滅するとなったら話は別である。ここまで追走してきた視聴者は当然「この演奏が終わったら映画は終わってしまう」と思っているわけだし(テレビ版ならもちろん最終回だ)、「視聴者としての」本音も漏れるというものである。あの言葉が作中において発された瞬間、それまで漫然と画面を見つめていた視聴者も自らの「本音」に気付かされるのであり、もはや「観客」の位置に甘んじていることはできなくなってしまうのである。

 

以上、『ユーフォニアム』を『サクラノ詩』を補助線にすることで「エロゲアニメ」として見ることが可能になること、また「エロゲアニメ」として見たときの注目ポイントについて解説してきた。言うまでもなく京都アニメーションとは2000年代にKeyのノベルゲーム『AIR』『Kanon』『CLANNAD』をアニメ化したスタジオであり、私見では「走馬灯めいた」回想シーンの使い方などに、その時期に培ったメソッドが生きていると強く感じる(詳しくは『ハイ☆スピード!』の記事を参照)。また劇場版で追加された新規カットに思わせぶりに登場した(おそらく第2期のキーキャラクターになるであろう)新キャラが「銀髪赤眼」のまるでエロゲの隠しキャラのような(『最果てのイマ』のイマや『グリザイア』シリーズの風見一姫を思い出してみれば良い!)見た目をしていたことも見逃せない。一般文芸原作の『ユーフォニアム』にも、このような読解を許してしまう物語の構造・キャラクターの配置が見られるのは、京アニがエロゲ的価値観……「語るべき物語」を持たないキャラクターなんていないという価値観を、今でも大切にしていることの証左だと受け取りたい(単にどうしようもなく私が「エロゲ脳」である可能性も高いが……)

 

とにもかくにも、2期の展開を見守りたい。