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『天体のメソッド』は「物語るということ」そのものを描き出した作品である

アニメ『天体のメソッド』を観返している。

2017年を迎えるにあたって、「天文×アニメ」をテーマとした同人誌をつくるということを掲げたり、これまでの来し方を振り返ったりする中で、やはりこの作品こそが自分にとってキーになるという確信めいた予感があった。久弥直樹論という形で、彼のノベルゲーム時代の作品を基点に論じたことはあったが、一般的な内容とはいえなかったので、いま一度整理し直してみることにした。

近年のアニメ作品の中で、最も過小評価されているアニメ作品であると個人的に思う。

 


  

近代文学の条件として、「風景」の発見ということがかつて言われたりしたが、まさしく風景とは「発見」されるものだった。わざわざ描写しなければ「意味のない風景」は文字媒体である小説には出現しえないのだ。そして「わざわざ」描写する、ということは、結局意味化を行っているということである。

小説というのは基本的に意味のある情報だけで成り立っている媒体である。「風景」の発見という切り口で行われた近代文学批判は、意味のないものであるはずの「風景」を登場人物の「心情」に重ね合わせたりして(結局のところ「意味化」して)使用する、その特徴的な身振りに対する批判だった。
「心情」というのはあくまで個人の体験・記憶に紐付くものとしてある。「意味のない風景」というのはいわばその外側にあるものであって、「心情」の中に取り込まれたりするようなものではない。個人にとってのある場所の記憶というのは、その時の心理状態によって歪められていて、「意味のない風景」そのものとはイコールではないのだ。

「意味のない風景」というのは、人物にフォーカスを当てた際に背後に映ってしまう通行人や木々の揺れのことだ。定点カメラで撮影した映像のようなものである。
すべてを人の手によって描くアニメでは、すべてが意味的な統制の下にあるようにも思われるが、実写ライクな(「聖地巡礼」などされる)背景を描き込む作品の場合はそのようにはいかない。最近では3DCGを使ってまで通行人を表現する傾向にあり、こうした意味でのアニメの「実写性」はより強まっているといえる。
(たしかに映画やアニメでも「カット」という単位でみれば、完璧に意味のないカットなど存在しないだろう。つまり「カット」と「風景」とは異なるということだ)

文字媒体(小説やノベルゲーム)と映像媒体(映画やアニメ)の最も大きな違いは、「意味のない風景」が存在する余地があるかどうか、さらにいえば、「意味のない風景」と「意味のある風景(個人の記憶)」との対立を描けるかどうかという違いにある。
(「意味のない風景」を小説において取り入れようとしたのがたとえば「描写」に重きを置くヌーヴォー・ロマンの実践であり、その逆に「意味のある風景」で画面を満たさんとしたのが映像媒体における新海誠の一連の実践であるといえるだろう)

天体のメソッド』というアニメは、実写ライクな(現実の北海道洞爺湖町をモデルにしている)「風景」の中に「個人の記憶」の象徴である「円盤」を浮かばせることによって、その対立を見事に視覚的に表現しているといえる。さらに、そうした「風景」に亀裂を入れる「円盤」の現身としてノエルというキャラクターを配置し、コミュニケーションの媒介者としての役割を与えることによって、キャラクター個々人が抱える記憶にも微妙なずれがあることを浮き彫りにし、「個人の記憶」をめぐる主題にも一層の深みを与えている。
ここでノエル=円盤が五人のメインキャラクターの「約束」によって出現したということも重要だろう。「約束」というのは「個人の記憶」にかかわるものである(ゆえに「なぜ、その約束がなされたのか」といった記憶の逆行=物語化が行われたりもする)と同時に、かならず他者を必要とする行為でもある。つまり「約束」という行為の内に、すでに「個人間の記憶にはずれが生じる」ということは織り込まれている。
物語というのがすべからく「意味化」の運動であるとすれば、円盤という舞台装置によって「意味のある風景/意味のない風景」の対立軸を浮かび上がらせ、さらにノエルという存在によって「個々人の記憶=物語のずれ」を浮かび上がらせたこの作品は、二重に「物語るということ」そのものを描き出した作品だといえるのである。

 

天体のメソッド / CELESTIAL METHOD

天体のメソッド / CELESTIAL METHOD