「Long Long Love Song」

熊木杏里さんのライブ「An’s meeting ~Long Long Love Song~」に行ってきた。7月に麻枝准×熊木杏里の名義で発売されたアルバム『Long Long Love Song』の再現ライブ。セットリストはアルバムの曲順通り。当たり前のように素晴らしく、ライブで音源の印象から大きく変わった曲も多かった(「Rain Dance」〜「約束の唄」の畳み掛け感!)。BPMの速い曲はドラムの手数もさることながらベースが動きまくっていて、「だーまえ曲はミュージシャン殺しだなあ」などという感想も改めて。

『Long Long Love Song』はビジュアルとの相乗効果を狙ったアルバムなので(MVがある曲は実際に映し出されてもいた)、基本的には歌詞のストーリーを思い浮かべながら聴いていたのだが、その法則が崩れたのが「汐のための子守唄」。当然『CLANNAD ~AFTER STORY~』の場面を思い出そうとするのだが……そういや『CLANNAD』観たのって10年前か、まだ10年って感じもする、そもそも『CLANNAD』で麻枝准って名前を知ったんだった、その前に18年生きてたってことなんだよな(そっちのほうが長いじゃん!)、なんで人生の3分の1しか一緒にいない作品や作者のことをこんな大事なもんだと思ってるんだっけ、それまでの18年の間に何もなかったってことはないだろう、あんなことやこんなこと……そんな風に時間を遡っていたら歌が終わっていた。そうしたら「ここ(麻枝准の曲を演奏するライブ)に立っている」という事実だけが残っていた。

その後の2曲、「Supernova」と「Love Songの作り方」で『Long Long Love Song』というひとつの物語が大団円を迎え、そこにはちゃんと気持ちをシンクロできたのだが、一方で先ほど28年分の人生を一気に旅した中で生じた、解の出ないもどかしさのようなものは残っていた。そしてアンコールが始まる。結局この曲を聴きにきたのだと言っても過言ではないこの曲が――。

 

「君の文字」

 

いわずと知れた『Charlotte』の最終ED曲であり麻枝准×熊木杏里コラボの始まりの曲。僕はこの『Charlotte』という作品にとても固執している。それは僕もコアメンバーとして制作に携わった同人誌『Life is like a Melody―麻枝准トリビュート』がこの作品の放送をきっかけとして編まれた本であるということもあるが、その物語的な内容というのが個人的にどうしても引っかかっていたのだ。

 

結論からいうと、今日「君の文字」をライブで聴いたことでなぜ自分が『Charlotte』という作品に固執していたのか、完全に理解した。

 

Charlotte』という作品について考えるとき、やはり12話〜13話(最終話)の流れが思い返される。根拠の薄い「約束」によってかろうじて繋ぎ止められる関係、過酷を生きた者たちはすべての業を精算し手を取り合ったかのように見えるが、失われたものは決して戻らず、その「連帯」の風景にもどこか後ろ暗さが漂っている――それでも宣言される「楽しいことだらけの人生にしていきましょう」、その言葉の曇りのなさ。

他人と他人は理解しえない、みんなが孤独でいるんだ――というのは、僕にとって最も思い入れの深い(初めてまっさらな状態で原作をプレイしたゲームでもある)『リトルバスターズ!』でも扱われていたテーマであったが、『リトバス』が「みんな」という幻想の裏側としてそのテーマを走らせていたのに対し、『Charlotte』は恋人という絶対的二者関係を着地点としている点で感触が異なる。「みんな」が幻想であることも、「誰もが究極的には孤独なのだ」ということも、言ってしまえば当たり前の話であるために表裏一体の関係を築くことができるのだが、恋人関係というのはそもそもが「他人同士は理解し合える」という嘘を前提に始まるものだから、(少なくともその関係が始まる時点では)「誰もが究極的には孤独だよね」ということは言いづらい。『Charlotte』でいう「約束」というのは、「誰もが孤独」ということが当たり前に登場人物たちに共有されている世界で無理やりに恋人関係というものをでっち上げるための方弁であり、「約束」の主体である乙坂と友利は、運命とか絶対的な理解者としての他者というのをまったく信じていなさそうなのだ。いわば彼らの意思よりも上位に「約束」という概念があり、それをさせようとしている大いなる力(物語の都合や作者の意思などとは、あえて言わない)が存在しているのではないかと。

だけどそれを『Charlotte』という作品の不備だとはどうしても考えられなかった。その理由は他ならぬ、僕と麻枝准――正確には、「麻枝准」という名前――の関係がそういう「でっち上げの運命=約束」によって結ばれていた二者関係だったからだ。

 

確かにアニメ版『CLANNAD』に受けた衝撃は相当なものだ。しかしいま考えればそれはアニメを制作した京都アニメーションのすごさでもあっただろうし、原作BGMをアレンジ版まで含めて効果的に運用した音響スタッフの技によるところも大きかったように思う。それでも「曲とストーリー、双方に作者として関わっている人物」として「麻枝准」という名前は運命的なものとして僕の胸に刻まれた。その名前自体が神格化されてしまったのである。インタビューを読んだり肉声を聴いたりしようという気も、どうしてかまったく起こらなかった。

僕は『麻枝准トリビュート』制作の過程で初めて麻枝准の人となりというのに向き合うことになった。「殺伐RADIO」の存在も、正直その時点で初めて知ったのである。他のメンバーにとっては麻枝さんのパーソナリティも作家性も自明とした上で、『Charlotte』という作品をどう評価するかというスタンスであったように思うのだが、僕にとっては『Charlotte』という作品を追いかけるのと麻枝准というひとりの人間を知る過程というのが、完全にイコールだったのである。

……で、結局「麻枝准というひとりの人間」は、他の多くの他人と同じように、理解することはできなかった。むしろ理解できなかったことによって、彼もひとりの人間だと気付かされたというべきか。

神というのは「自分だけがすべてを理解している」と思える存在であり、だからこそ(対象としては)この世に存在しない。

「まちがいはないか かみにといかける」
(「Bravely You」)

この「かみ」は「紙」なのだと麻枝准は明かすが、なるほど「不在の対象」である神に「問いかける」ことなどできようはずがないのである。

 

Charlotte』というのは上述の「Bravely You」の歌詞にも表れている通り、神=運命を否定し紙=他者に至る物語である。しかし「紙」そのものと「紙に書かれた文字」は分けて考える必要がある。たとえすべての記憶が失われ、「約束」が失われようとも、そのように「約束」したという痕跡……文字だけは残る。それは記憶を失ったその人にとって、神にも等しい導き手となるだろう。「文字を書いた人(君)」は他者であって神ではないが、「君の文字」は確かに神たりうるのである。僕は『麻枝准トリビュート』の制作を通じて麻枝准という「神」を殺した。結局そんな神はいなかった、いたのはひとりのクリエイター、人間だったのだ。しかし「麻枝准」という名前=文字に出会った、そこから歩んだ10年間という痕跡は嘘じゃない。僕にとって「麻枝准」という名前=文字が大切なことは、この先ずっと変わらない――「君の文字」というのはそういうことを歌っていたのだ。

これは今夜「君の文字」が歌われる前に、「汐のための子守唄」――アニメ版『CLANNAD』の放送を観て感銘を受けた麻枝准自身が、急遽BGMをボーカル化したという――が歌われなければ、絶対に気付けなかったことだ。「汐のための子守唄」は当初10年以上前の作品がモチーフの曲ということで、アルバムに収録される予定ではなかったのだが、熊木杏里さんの歌声が想像以上に映えたため、収録されることになったのだという。そう考えると『Charlotte』にて熊木杏里さんとのコラボが実現したことに始まり、『Long Long Love Song』というアルバムが完成した(ご承知の通り、本作は麻枝さんの過酷な闘病生活の果てに生まれたアルバムである)こと、それがライブで曲順通りに披露され、「君の文字」で締め括られたということ……あの場所ですべてが必然性をもってつながったような気がする。この円環を作り出したのが熊木杏里さんの唯一無二の「声」だったということは、改めて特筆すべきだろう。物語上では運命=神を否定しても、声や音楽には神秘があると信じたい……信じざるをえないからこそ、麻枝さんも何よりも音楽というものを核として、創作活動を続けているのかもしれない。

 

ひとつ確実に言えることがある。
それは熊木杏里さんはとても素晴らしいシンガーであり、今夜はとても素晴らしいライブだったということだ。
熊木さんがその場にはいない麻枝さんへの手紙を読み上げるという一幕(「君の文字」を歌う直前!)には、とても心を動かされるものがあったということも最後に記しておきたいと思う。

 

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