アニメ版『リトルバスターズ!』の「児童文学性」――脚本家・島田満さんを悼んで

脚本家の島田満さんが亡くなられた*1島田満さんといえば、私にとっては何といってもアニメ『リトルバスターズ!』シリーズの構成・脚本を務められた方だ。私が『リトバス』に抱いている特別な思いについては以前にも書いたことがあるが、そこで書ききれなかったこともあった。それがまさしく島田さんという脚本家が携わったことにより改めて浮き彫りになった要素であり、おそらく私が『リトバス』という作品を特別に思えた最も深い理由なのだ。それは『リトバス』という作品のもつ「児童文学性」ということである。

リトバス』には小毬という、絵本作りが趣味の女の子が登場するのだが、彼女はある意味で作品世界を俯瞰的に見下ろすポジションにいるため、作中の構造を寓話的に説明するものとしてその創作絵本は随所に顔を覗かせる。それは「男の子と女の子と、8人の小びとさんのお話」というものだ。男の子と女の子は小びとさんたちの悩みをひとつひとつ解決して、悩みが晴れた小びとさんたちは順に消えていく、という「お話」なのだけど、これは男の子と女の子が主人公の理樹と鈴で、小びとさんたちというのがその他のリトルバスターズのメンバー。作中の世界というのはバス事故に遭った彼らが今際の際に見ている夢のようなもので、唯一生き残ることができる(とされている)理樹と鈴が強く生きていけるようにと、「リトルバスターズメンバーの悩みを解決させる」という形で(夢の世界における「神」的な存在が)成長を促しているというのが全体の構図である。 

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いつかは終わる夢の中で大切なものを得て外に出ていく、というのは児童文学というもののジャンル性に一致していると思う。自分が好きだった作品だと、『エルマーのぼうけん』『くまのプーさん』……などなど。主人公たちはしゃべる竜やぬいぐるみなどとの交流を通じて友愛の精神や優しさ、勇気を育んでいく。彼らはいわゆる「イマジナリー・フレンド」というものだ。主にひとりっ子に見られるという、頭の中だけに存在する架空の遊び相手。漫画研究者の泉信行さんによれば、島田さんが脚本を手がけた主に児童向け作品の多くにも、このモチーフが散見されるという。

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リトバス』の西園美魚ルートというのは、そのものずばりイマジナリー・フレンドを扱ったお話だ。美鳥というイマジナリー・フレンドを忘れてしまったことに自責の念を感じていた美魚は、心残りを叶える「夢の世界」で自らの人格を美鳥に明け渡してしまう。そういうことが起こりうるのが『リトバス』本編の世界なわけだけど、彼女たちの関係だけでなくリトバスメンバーそれぞれが、それぞれにとってのイマジナリー・フレンドであったともいえるのではないか。最終的に外の世界に出ていく(とされている)のは理樹と鈴だけだけれど、メンバーはそれぞれ現世での未練を抱えており、その解決にメンバーの助力を乞うことになる。恋愛アドベンチャーの形式を借りた原作では理樹がひとりその役割を果たすのだけど、アニメではすべてのエピソードについて、(その時点でメンバーになっている)すべてのリトバスメンバーが問題解決にかかわるようになっている。他人の手助けを通して成長を促されているのは、ただ二人、理樹と鈴だけではないのだ。キャラクターたちすべてに対するそうした「親」のような目線が、アニメ版『リトバス』には溢れていると思う。 

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しかしお互いがお互いのイマジナリー・フレンドであるということは、最終的にはみんながひとりになってしまうということで(「みんなが孤独でいるんだ/この輪の中で/もう気づかないうちに」)、単純に「仲間と力を合わせて問題解決!」というのとは違う、ある種の厳しさも含まれていると思う。島田さんが1995年に手がけた『ロミオの青い空』は、「夢の世界」という装置なしに別れの痛みを伴う成長を描いた傑作だ。「世界名作劇場」シリーズの一作として放送され、原作にドイツの児童文学『黒い兄弟』を持つ本作は、様々な事情から児童労働(煙突掃除)に身をやつすことになった少年たちが、自助組織として「黒い兄弟」(すすに汚れた、という意味。ブラックなことをするという意味ではない)を結成して様々な困難を乗り越えていくというお話である。相手取っているのがより現実的な「大人」や「社会」であるという違いはあれど、子供たち自らがチームを結成し、それに名前をつけて大切な居場所としていくというところは共通している。何より主人公ロミオとカリスマ的魅力を持つリーダー・アルフレドの関係が、『リトバス』における理樹と恭介の関係とそっくりなのだ(ちなみに『ロミオ』にはアルフレドの妹として、ビアンカというキャラクターも登場する)。『ロミオ』の最終回付近の展開は、少なくない『リトバス』ファンが「ここで終わっておけばより名作だったのに」と言う展開をなぞるようであり、その点からも必見である(『ロミオ』の重大なネタバレになっている気がしなくもないけれど)。

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理樹−恭介ラインともうひとつ、『リトバス』には鈴−小毬ラインというのがあるのだけど(主人公とメンターの関係。原作は恋愛アドベンチャーの形式を借りていたため理樹の一人称単数視点で物語が進んだが、実質的には理樹と鈴のダブル主人公と考えてよいと思われる)、原作ではラスト付近で駆け足で回収された感の強かった後者について、アニメでは一話を割いてとても丁寧に描いている。その話数、1期24話「鈴ちゃんが幸せなら私も幸せだから」は、原作の鈴周りのエピソード(子供たちのために人形劇を演じる)を拾いつつ、小毬とのある「約束」を交わす場面に収束させるという、島田さんの脚本家としての技が光る実質的なオリジナル回だ。

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「約束」というのはKeyの前史、Tacticsの『ONE〜輝く季節へ〜』から見られるKey/麻枝准のメインモチーフのひとつなのだが(このことについては『麻枝准トリビュート』の拙論でも書いてます)、恋愛アドベンチャーという形式上、それは基本的に主人公とヒロインとの間で交わされるに限られていた。だからこそそうではない(女の子同士である)鈴と小毬の「約束」は、原作ではあくまでサブエピソード的に処理された感が強かったのだけど、アニメでは1期の最終回直前という位置に持ってくることによって、「約束」モチーフの本来もつ意味性が回復されている。約束というのはいわば「時間の先物買い」であり、「約束をした」という事実が忘れた頃に遅延的に効いてくる……ということこそがその本質である。このエピソードの後に2期である『Refrain』が続くということの意味は、単純だが大きい。Key/麻枝准といえば「家族」の主題を扱っているというのが通説で、「友情」を描くことにシフトしたとして『リトバス』以前と以後、という風に切断線が引かれることが多かったわけだけど、鈴−小毬関係をもうひとつの主軸に据えることで「約束」モチーフによるKey/麻枝准史の再編成がなされ、同時にそれが女の子同士の関係であことで、連続した主題を持ちつつも発展している、という構図も見出せるようになっているのだ。

アニメ版『リトバス』は、麻枝准の作家性ともいえる「過酷な生」に向き合う弱き者たち、という側面よりも、「自分とどこか似た人たち」を思いあう優しさのほうが前に出ている印象を受け、これは間違いなく島田さんの構成によるところが大きいように思う。主に児童向けの(朝や夕方の時間帯に放送される)アニメの脚本を担当されることの多かった島田さんだが、近年ではトリガー制作の深夜アニメ『リトルウィッチアカデミア』の構成を担当するなど、大人向けの、あるいは大人の視聴にも耐えうる作品におけるやさしさ、なつかしさの要素をすくい上げるお仕事にも貴重なものがあった。まだまだそうしたアニメを観たいと思っていたし、このたび亡くなられたことはもちろん残念でならないのだけど、それにも増して沸き起こってくるのは感謝の気持ちだ。自分の原風景を形成している絵本や児童文学と、10代の終わり、カウンターカルチャーとして好きになったノベルゲーム。島田さんの手がけたアニメ版『リトバス』によって、切断されていた両者が一本の線によってつながり、人生が丸ごと肯定されたと言っても過言ではない。

島田満さん、あらためて、本当にすばらしい作品をありがとうございました。手がけられた未見の作品についても、時間をかけて観ていきたいと思います。