「批評」ってなんだ。

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このエントリから気づけば半年以上が経っていた。

ゲンロン批評再生塾第三期。いよいよそのフィナーレを迎えようとしている(まだ最終課題の提出が残っているが)。

 

結果的には全15回中、2回登壇(蓮沼執太回、宮台真司回)。うち1回は1位を獲得(蓮沼執太回)。

 

■蓮沼執太回「蓮沼執太についての評論を執筆せよ」
理想と破壊、そして相即――「肯定の音楽」としてのポップス考 – 新・批評家育成サイト

 

宮台真司回「蓮實重彥の功罪」
蓮實重彥は「ゴースト」である――再説・無名論的キャラクター論 – 新・批評家育成サイト

 

おまけで、批評再生塾初の「登壇してないのに特別点1点」をいただくという珍事もあった(東浩紀回)。 

 

東浩紀回「批評とはなにかを定義せよ。」
「セカイ系批評」再生宣言 – 新・批評家育成サイト

 

登壇するまでは、とにかくやさぐれていて、自分が書くものは誰にも理解してもらえないのか、能力のない者が何かを書きたいと思うのは罪なのか、ならばいっそ書くことを止めてしまえば……と、自意識が負のスパイラルを描くのを止められなかった。たぶん当時のTwitterのログを見たら、ものすごいことになっていると思う。 

蓮沼回で初登壇できたというのは皮肉な話で、現在も仕事で関わっているためにツイートすることすらなるべく避けてきた、ポップミュージックへの言及というのを解禁した途端だったからだ。「書く」ということはプライベートに属することで、仕事=社会で考えていることを持ち込みたくない、という意識がどこかにあった。

 

でも「批評」というのはそういうある程度の距離感を保った対象を扱わないと成り立たないものなのかもしれない、といまにして思う。

結局好きな対象について書くとそれがいかに素晴らしいものかということを伝えたくて、説明部分が長くなってしまう。最新回*1ではそれを「悪癖」と断罪されてしまったが、そういう「オタク語り」「エモ語り」は(少なくとも「批評」の読者にとっては)よそでやってくれ、ということなのだろう。

 

数ヶ月このプログラムに全力をかけてきて思ったのは、自分は「書く」ということをやめることはないだろうなということと、自分が本当にやりたいことは「批評」ではないのではないかということだ。

 

そもそも自分にとっての「書く」ことのモチベーションというのは、自分がある作品や出来事に心を動かされたということを、誰とも共有できないことの「寂しさ」から来ている。

小さい頃はよく泣く子供だった。いま思えばそれはすべて「なぜ自分の感情は誰にもわからないんだ」という根本的なことに対する悲しさや悔しさからだった。

「悲しさ」や「悔しさ」を堪えられるようになった代わりに、「寂しさ」を感じるようになった。

大切なことは誰とも共有できないというのは、見方を変えれば誰にも侵されない領域があるということで、救いでもあるのかもしれない。

でもそんな風に大人ぶって割り切ってみせたところで、この「寂しい」という感情は残り続ける。理屈じゃないのだ。

 

「本当に好きなもの」について語るのを避ければ、「批評」を続けることは可能だと思う。複数回登壇できたことで、その手応えはあった。

ただ僕は、「本当に好きなもの」について語りたい。それが「どのようにして」自分の心を震わせたのかという、感動そのものを伝えたいのだ。

たとえば、感動とは対象の中に性質として存在するものではなく、「私の」側にあるものなのだと考えれば、そのような効果を生むものを自らが「創る」ことで再現することはできるかもしれない。「批評」ではなく「創作」をということだが、これもひとつの道ではあると思う(プログラムが終わったら真剣に取り組もうとは考えている)。

しかし、「その」対象に覚えた自分の感動を共有できないという「寂しさ」は、この方法によってもやはり埋められそうにない。

 

個人的に受けた感動について「自分は「書く」ということをやめることはない」と言うことは、「誰とも異なる感情をもった、ひとつの実存として生き続ける」と言っているのと変わらない。決意するまでもなく当たり前のことだ。

批評再生塾のプログラムを通じて気づかされた最も大きなことは、人は社会の中に住んでいるということと、「書く」ということもまたその中にしかあり得ないという、やはり当たり前のことである。だが自分はそんな当たり前のことにも気づけていなかった。「書く」ということは、「社会=他人の解釈」を介さず感動を直接伝播する、「エーテル」のようなものだとどこかで信じ込んでいたのだ。

 

ひとりひとりの人生(実存)と 、社会の中で生きるということは別物だ。
社会の中に僕も生きている。そのことをないがしろにするつもりはない。

だけどやっぱり、僕は人生(実存)のほうが「本物」だと思ってしまう。 

虚空に吠えるような言葉ではなく、誰かに「読んで」もらうためのものを「書く」ということは、どんなスタイルであれ「本物」の度合いを薄めなければならないだろう。そのようにして「書く」ことを続ける(生業にする)かというのは……まだちょっと答えが出そうにない。それは「寂しさ」により近いところで向き合い続けることだと思うからだ。

 

まずは2万字の最終課題を書いてみようと思う。もちろん適切な「距離」をとれる対象、テーマを相手取ってだ。

この先も「寂しさ」に耐えることができるか、それがひとつの試験紙になると思うから。

*1:Charlotte』を扱った國分功一郎回。ちなみに当初これを最終課題にしようと思っていたが、考えた末こちらに回した。 

「中動態的家族」の誕生 – 新・批評家育成サイト