『Charlotte』を解読する(補論)

※こちらの記事の補論として書かれています。
sr-ktd.hatenablog.com

 

Charlotte』を解読するにあたって一番の難所となるのが、やはり第9話「ここにない世界」で描かれる映像である。

結論からいえば、あれは「並行世界」なのであるが、後に登場する隼翼の「タイムリープ」能力とは無関係に存在していることが曲者である。

乙坂にあの映像が流れ込んできたのは、ZHIENDの「Trigger」を聴いてなのだから、おそらくサラ・シェーンの能力によるものだと考えるのが正しい。

彼女の能力は「並行世界をまたいで歌を響かせる(その歌を聴いた並行世界の同一人物をつなぐ)」といったものだろう。

(ちなみになぜ成人しているであろうサラがいまだに能力者であるかは、ミュージシャンである彼女は感性が子供に近いから…とか、あるいは彼女自身にはすでに能力はなく、その「音楽」の中に能力が保存されているからだ…とかいった解釈が考えられる)

乙坂は隼翼のことを「思い出した」のではなく、「並行世界」の映像を通して「『兄がいる』という事実(だけ)を知った」と言ったほうが正しい。

しかし、サラの能力について詳しいことが言われていない以上、素朴に見ている限りでは隼翼のことを「思い出した」ように錯覚してしまう(乙坂や隼翼自身も「記憶を取り戻した」前提で会話をしている。だからこそ、隼翼は乙坂との間に「歩未を救う」という「約束」があったことを語るのである)。熊耳が隼翼に「前泊が消去した記憶は取り戻していないようだ」と耳打ちする場面があるが、実際には乙坂はいかなる記憶も「取り戻して」いないのである。

(こうして見ると、1話のラストや5話「いつか聴いた音」で、隼翼のことをおぼろげに「思い出す」シーンでかかっているのがZHIENDの「Fallin'」なのは、完全にミスリードであるとわかるだろう。ZHIENDの音楽は「(忘れていた記憶を)思い出す」音楽ではなく「(並行世界の映像を)到来させる」音楽なのである)

そして隼翼の主観からすれば、「並行世界」などというものは存在しない。乙坂がサラの能力によって見せられた映像に近い経緯はたどっているだろうが、それもすべて等しく「過去」として消え去っている(隼翼の経験上は、すべて一直線の出来事である)。

そう考えなければ、乙坂にタイムリープ能力を託すとき、あれほどあっけらかんとした態度をとっていた説明がつかないだろう。「この世界の歩未は助けられたが、あの世界の歩未は助けられなかった」というような倫理観を、隼翼は持ち合わせていないのだ。

しかし乙坂はサラの能力によって、「並行世界」の存在を知ってしまった。同じタイムリープ能力者といっても、兄弟にはその明確な差異がある。

(実際に映像として見ることをしなければ「並行世界」の存在に思いが至らないというのは、「並行世界もの」の物語を見慣れている私たちにとっては理解しにくい。しかし作中では「並行世界(もしくはパラレルワールド)」という言葉は一度も出てきておらず、この『Charlotte』という作品の世界においては、そのような概念は基本存在しないのかもしれない。そもそも、私たちだってそういった物語を受容する前はその存在について考えなかったはずで、「実際に映像として見ることをしなければ「並行世界」の存在に思いが至らない」というのは、かつての私たちのメタファーであるとも捉えられる。そう考えると、すっかり人口に膾炙した「並行世界的想像力」そのものに対する批評的な意識も、この作品に見出せるだろう)

「並行世界」の存在を知ってなおタイムリープ能力を使うということは、自らの意志で「並行世界」を生み出すということである。それは、「この世界の歩未は助けられたが、あの世界の歩未は助けられなかった」というような倫理的命題を、積極的に引き受けるということを意味する。そこに哲学的な可能性を見たのが、東浩紀の固有名論=キャラクター論だったわけだが、乙坂の「タイムリープをしない」という選択は、そもそもそういった命題が存在することがないような世界を選択するということである。それは単なる「責任逃れ」ではない(少なくとも、その決断をした時点では「並行世界は存在する」という記憶を失ってはいない)。本論でも述べたように、それは友利の寄せてくれた「対等な人間」としての信頼に応えるためであり、他人を「キャラクター」のようにしか見なせない「プレイヤー」としての倫理を、自らの意志で捨て去るということだったのである。