「セカイ系」と「批評」についての覚え書き

1.

約一年前、「批評再生塾」なるプログラムに参加していた自分はその課題として「『セカイ系批評』再生宣言」なるものを書いた。そこでは「セカイ系」と「批評」との相同性を指摘することで「セカイ系」という語に込められたイメージを刷新し、その「公共的」な性格を問う議論が展開されていた。

https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kitade/2628/

蓮實重彦曰く、「作品」というものは到底ひとりの人間(鑑賞者)にはすべてを汲み尽くすことはできず、常に/既に「接近不可能」なものとしてある。そうした体験のことを蓮實は「批評体験」と呼ぶが、それは「セカイ系」という物語類型における「世界」への近付けなさ……せいぜい「君と僕」の二項関係に矮小化させなければ「世界」を物語として語りえない、という図式にも一致する。そこで「批評体験」および「セカイ系」における「接近不可能性」の只中で紡ぎ出される言葉の群れこそを「批評(文)」と呼んでみよう……というのが、この論考における立論であった。

同じ「作品」であっても、鑑賞者が異なれば紡ぎ出される言葉(批評文)も異なる。その総和が「作品」の全体を照らし出すかといえば、無論そうではない。ありきたりな言い方になってしまうが、ある「作品」に対する解釈というものは人の営みが続く限り無数にありうるからだ。「批評」は何のために存在するかといえば、「作品」の全体像を明らかにするためでなく、むしろ異なる解釈を許容することで「刺激的で実りある不一致」を生み出すことにある……すなわち、対話を継続していくことにこそあると、リチャード・ローティの論を参照しつつ文章は締め括られていた。

2.

「『セカイ系批評』再生宣言」のアップデート版として書かれたのが、「オルタナティブゼロ年代の構想力」という論考である。これは来るべき2020年代を構想するにあたって、PCディスプレイを介した「視覚」モデルに依拠していた2000年代から、スマートフォン、位置情報、AR……新しい「時空間認識」のモデルが生じた2010年代、という変化を描き出そうとしたものだった。タイトルにある「オルタナティブゼロ年代」という名称は、コンテンツの流行が20年周期で繰り返すという説から、2020年代=「2周目のゼロ年代」ということを意図したものだ。「ゼロ年代」に勃興した「セカイ系」概念に対して「オルタナティブゼロ年代」における「セカイ=接近不可能性」とは、「視覚」モデルに由来する「距離」から、不断にズレ続けていく「時空間認識」(Twitterのタイムラインなどに見られる非‐同期性が参照されている)になっているのだということが、そこでは言われていたのだった。

https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kitade/2847/

しかし、よくよく考えてみると絶対的な「時間」や「空間」などといったものはなく、運動する物体の属する系によって異なる=不断にズレ続けていると捉えたほうが良いというのは相対性理論の発見以来、むしろ常識的なことである。加えて、「時空間のズレ」を「接近不可能なもの」として捉えるというのは、これもよくよく考えてみれば同義反復というか、そりゃズレ続けていくのだから到達点などないだろう、と言える。そもそも「不断にズレ続ける」ということ自体、鑑賞者=パースペクティブの違いによってある対象に対する無数の「批評」があり得るという「『セカイ系批評』再生宣言」の中で既に達成されていた。「時間」や「空間」といった単位を持ち出さなければそれを語ることができないという形になっていたことで、論考「オルタナティブゼロ年代の構想力」は「セカイ系」概念の持つポテンシャルを、むしろ低めてしまっていたといえる。

3.

マルクス・ガブリエルの提唱する「世界は存在しない」というテーゼがある。彼はあらゆる対象は「意味の場」において立ち現われ、すべての「意味の場」を包括する「意味の場」=「世界」は存在しない、という一種の多元論を主張する。一方で彼は「世界」という語自体の存在を認めていないわけではない(何せ書名に用いているのだから)。彼がもし日本語話者なのであれば、「意味の場」という術語を「セカイ」という表記で表現していたのではないか。すなわち、「セカイ」は存在するが、「世界」は存在しない、と(「セカイ」と「世界」は、言語(発音)のレベルにおいて重なり合いつつも、その存在論的なレベルにおいては重なり合わない)。

ガブリエルの提唱する「新しい実在論」における「世界は存在しない」というテーゼは、「時間」や「空間」といった従来の(自然科学的)世界像の基本形式として見なされてきた語彙を無効化する。「セカイ」は他のどんな要素にも還元されるものではないのだ。これをグレアム・ハーマンの提唱するオブジェクト指向存在論における「対象」の概念と照らし合わせてみてもいいだろう。ハーマン曰く、「対象」は他のどんな要素にも還元することができず、「退隠」している。ガブリエルにおける「意味の場(セカイ)」とハーマンにおける「対象」は、それぞれの立論におけるポジションが相同している。「セカイ」は他の「セカイ」から「退隠」して(引きこもって)いるというわけだ。

4.

ガブリエルやハーマンの論において、「セカイ(系)」というのはむしろ人間の生にとっての基礎的な条件である。「セカイ(系)」の公共性ということを「『セカイ系批評』再生宣言」では論じようとした。しかしその必要性はそもそもなかったのだ。批評とは、対象への距離を言語によって埋め尽くすことなどできないというこの事実――人間の生とは「セカイ系」的であるということ――を、端的に体現する実践である。それが「何の役に立つか」ということを、考える必要などない。

また「セカイ(系)」について考える際に、「時間」や「空間」など、物事を思考可能にする(とされる)何らかの形式を持ち出す必要もない。もちろん、ガブリエルが「世界は存在しない」と言いつつ、哲学史上で使われてきた「世界」という語の用法には敬意を払っているように、そうした語を使用すること自体に制限はない。たとえば「君と僕」や「ポピュラーとオルタナティブ」という二項関係を記述する語のペアについても同様だ。ただ、それらを「セカイ(系)」を外側から規定する絶対的な形式として想定することは退けられなければならないのである。言葉の公共性についての議論は、むしろこうした「言葉というものが『ある対象の外縁を定義する形式』になることはありえない」という認識の下に成立するものだろう。

5.

以上から導かれる帰結はこうだ。

  • 批評は確かに言葉により営まれるものであるが、それが示すところは「セカイ(系)」という(語らずとも自明な)人間の生にとって基礎的な条件である。
  • 言葉は、「批評」などという実践を経ずともその機能(コミュニケーション、公共性の土台)を十全に果たしうる。

セカイ系」とは「再生」を「宣言」などされずとも常に/既に私たちの生を規定している基礎条件のようなものである。つまり私たちが自らの生について語ろうとすれば、それは「接近不可能性の只中で紡ぎだされる言葉」すなわち「批評」とならざるを得ないのである(人生の全体について語ることはできない……「死については語りえない」というありふれたフレーズを思い出してもいいだろう)。言い換えれば、「世界」や「作品」についてその〈全体〉を語ることはできないということをきちんと踏まえていれば、それらに対する思考は同じく〈全体〉については語りえない「人生」と同等のものだと見なすことができる。「世界>人生>作品」のような包摂関係は存在しない。「作品」を通じて「人生」を理解する、などといったことはあってはならないのだ。重要なのは「接近不可能性」に正面から向き合うことであり、その只中で紡ぎ出される言葉は(対象が何であるかを問わず)「批評」と呼ばれて然るべきだろう。

そして「批評」はコミュニケーションの道具となってはならない。「公共性」ということについても、それは言語そのものに備わった性質であり、「批評」がいかにあるべきかを規定する条件ではない(「批評」は「言語」よりも「接近不可能性」にかかわる概念だ、と言ってもいい。このことは「批評」が言語以外の表現手段によっても実践されうることを示唆するだろう)。もちろん適切な語彙の選択によって、「コミュニカティブな」批評(文)というものが生み出される可能性はありうる。しかしそうした文章が「良い」批評(文)であるかといえばそうではない。「より批評的」という尺度があるとすれば、それは「接近不可能性」への向き合い方の真摯さ……ある対象について「わかる」と簡単には思わない態度の徹底において測られるべきだろう。