レクイエム・フォー・イノセンス――『リトルバスターズ!』との10年

本稿は、サークル「Rhetorica」の発行する雑誌『Rhetorica#04』に寄稿したエッセイを編集部の許可を得て転載したものです。『Rethorica#04』の特設サイトはこちら


 

大学に入学した2007年、僕は決定的な一作に出会った。京都アニメーション制作によるアニメ作品『CLANNAD』である。原作はゲームブランド・Keyによる2004年発売のアドベンチャーゲーム。感動作という評判とともに、タイトル自体はアニメ版の視聴以前から耳にしていた。それでも頑なに避けてきたのは、ひとえに原作のジャンルが「恋愛アドベンチャー」というものだったからである。複数の「攻略ヒロイン」が存在し、そのすべてと恋愛関係になれるという形式に眉をひそめただけではない。そもそも「恋愛」というものに対して懐疑的な気持ちがあったのだ。

僕は小4の1学期まで親の仕事の都合でドイツに住んでいて、私立の日本人学校に通っていた。生徒たちはみな朗らかでいじめというものもなく、男女が共に仲良く下の名前に「くん」「ちゃん」付けで呼び合っていた。だからこそ転校先の日本の学校で、体格で勝る女子が男子を「支配」している光景に絶句してしまったのだ。「女子と男子の違い」というのは僕にとって「思春期」といった言葉で片づけられるようなものではなく、「支配者と被支配者」「日本とドイツ」といった他の二項対立と一体となって、突如として外部から到来したものだった。そんなことだから、中学に上がると話題として増える「恋愛」も、そうした二項対立の図式を強化するものにしか思えなかった。僕の理想であるドイツ時代の情景――誰かと誰かが特別な関係になることなく、「みんな」でひとつのボールを追いかけている情景――は、遠く届かないものになってしまったという実感があった。

僕は様々な二項対立を生む世界の構造、それ自体に対して抵抗したかった。支えを求めて様々な物語に触れてみるも、どうしてもしっくりくるものは見つからない。多くの物語は「大人」と「子供」という二項対立を立て、僕の理想とする情景を「乗り越えるべきもの」として切り捨てていたからだ。かと言って子供向けの作品でも駄目だった。性差や属性の違いによる差別のない「優しい世界」は一時の逃げ場所にはなれど、現実に立ち向かう強さを与えてはくれない。僕が求めていた物語は、理想の情景を捨てることなく、現実を生き抜く力に変えてくれるような物語だった。

アニメ版『CLANNAD』はまさにその条件を満たしていた。「恋愛アドベンチャー」である原作を踏まえつつ、その構造を読み替えることが試みられていたのだ。選択肢によって分岐するアドベンチャーゲームとは違い必然的に一本道のシナリオになるアニメ化では、個々の「攻略ヒロイン」のエピソードを「恋愛」という落とし所をつけずにメインのストーリーに織り込む操作が必要になる。本作で僕が最も好きなのは一ノ瀬ことみ編にあたる第13話で、ことみの家の打ち捨てられた庭を主人公の岡崎朋也に加え、古河渚藤林杏・椋姉妹ら「攻略ヒロイン」も協力して修復に励む場面である。相手が恋愛関係にある人間でなくても、また隣にいるのが「恋敵」になるかもしれない人間であっても、ひとりの落ち込んでいる友達のために手を取り合うことができる。僕たち視聴者の目からすれば「恋愛アドベンチャーのヒロイン」だということがわかっているキャラクターたちが、「恋愛アドベンチャーのヒロインである」という自身の運命に打ち勝って手を取り合っている姿は、僕が失ってしまった理想の情景を蘇らせているようでもあり、いま一度現実に向かい合う勇気を与えてくれるものだった。

CLANNAD』の原作にはいわゆる「渚ルート」の後日談としての「AFTER STORY」がある。上記のように他ヒロインのシナリオを回収しつつも、アニメ版も原作を踏襲して古河渚を「正ヒロイン」として物語が進行していき、最終的には朋也と渚の娘・汐を含む岡崎家と古河家、血縁的な「家族」の物語に帰結する。それまでの伏線が回収されるシナリオ上のピークであり、東浩紀をはじめとした論者の読解が集中するのもこのクライマックス付近だが*1、僕からすれば前半部で提示されていた「二者関係の読み替え可能性」が「結婚」や「家族」といった現実の制度に敗北したに等しいものだ。「恋愛」に疑問を持つがゆえに、「結婚」も「家族」も自分事としてイメージできない……そんな人間を救ってくれる物語はやはり存在しないのか。すでに「恋愛アドベンチャー」という形式に逆説的な希望を見出していた僕は、『CLANNAD』が描き切れなかった可能性を求めて、Keyの次作である『リトルバスターズ!』に手を伸ばしたのだった。

*   *

リトルバスターズ!』(以下『リトバス』)という物語の中心となるのは男女混合の草野球チーム「リトルバスターズ」だ。元々はリーダーの棗恭介を中心とする五人の幼馴染を指す名称であり、そこに野球をするにあたって、五人の女子メンバーを加えた構成になっている。この五人の女子メンバーがいわゆる「攻略ヒロイン」に相当し、それぞれの「個別ルート」では各人の悩みやトラウマに「主人公」の直江理樹が寄り添っていくことになる。後に明かされるところによると、「個別ルート」の世界は女子メンバーそれぞれの内面の表象であり、その全体を恭介が作り出した「ループし続ける世界」が包含する構造になっている。なぜそのような世界が必要とされるのか。「リトルバスターズ」のメンバーは修学旅行中にバスの滑落事故に遭い、今際の際をさまよっている。理樹(と、恭介の妹である鈴)の二人は無事だったが、兄離れできていない鈴と、幼少期に両親を亡くした経験から「大切な人との別れ」を何より恐れている理樹にとって、自分たちだけが生き残った現実を受け入れることは困難だろうと恭介は考えた。恭介は彼岸と此岸の境目で、現世で果たせなかった想いを抱える五つの魂――五人の女子メンバー――を見つけ出す。彼女たちを迎え入れることで、先述した構造の世界を作り上げたのだ。理樹が「個別ルート」において問題の解決に当たらねばならないのは、それが恭介が理樹を精神的に強くするべく課した試練だからである。一見楽しげなサークルに見える「リトルバスターズ」だが、それは別れが前提づけられている束の間の関係性なのだ。

女子メンバーの抱える問題は、閉鎖的な旧家のしきたりに由来するアイデンティティの危機(三枝葉留佳)や、万能型の天才であるがゆえの孤独感(来ヶ谷唯湖)など多種多様である。問題の解決に寄り添うといっても、単純に共感を示したり励ましを与えたりというだけでは、理樹自身が精神的な強さを得ることにはつながらない。ヒントになるのは理樹と恭介の関係性だ。理樹は両親を失って塞ぎ込んでいた頃、恭介に外の世界に連れ出してもらったことで救われたという経験を持つ。「今度は自分が恭介のように、人知れず孤独を抱える誰かに手を伸ばしたい」という理樹の想いが、「個別ルート」の物語を駆動するのだ。『リトバス』における「恋愛」は、「誰かによく似た自分/自分によく似た誰か」を受け入れていくプロセスとして読み替えられている。

そしてそのような「恋愛=個別ルート」が複数存在するのは、個々人の抱える内的な世界=孤独にはそれぞれバリエーションがあるということの表現になっている。それまでのKey作品においては、『AIR』の「空」、『CLANNAD』の「幻想世界」のように、現実世界とは異なる超越的な次元が存在していた。「個別ルート」の世界はそこから枝分かれしたものにすぎず、最終的にはその次元における問題の解決をもってすべての「攻略ヒロイン」を救済するという構造になっていたのだ。一方、『リトバス』においては恭介によって作られた「ループし続ける世界」は存在するものの、「個別ルート」はあくまで各ヒロインの内面を反映したものであり、恭介の意思とは無関係に存在している。また、「ループし続ける世界」自体も現実に起きた一学期の出来事をモデルにしており、まったくのファンタジックな法則によって成り立っている世界というわけではない。『リトバス』における「世界」――現実世界、「ループし続ける世界」、「個別ルート」の世界――の間にヒエラルキーはなく、お互いに重なり合うようにして存在しているのだ。

かくして「ループし続ける世界」の中で精神的な強さを得た理樹は、鈴とともに現実世界に帰還する。恭介は二人以外が助からないと踏んで前述のような試練を課したわけだが、彼の想像を超えて、理樹と鈴は「リトルバスターズ」のメンバーを救い出すべく奮闘することになる。その努力は報われ、エピローグではメンバー全員の退院を待って修学旅行をやり直す、という大団円を迎える。しかしそれは仲良しグループがその後もだらだらと続いていくということを示唆するものではない。大切なのは形としての共同体の維持ではなく、メンバーひとりひとりが「自分に似た人がどこかにいる」と気づけたということだ。彼らが「ループし続ける世界」の中で経験したのは、何よりもそうした魂の交感だった。

ひとりが辛いから ふたつの手をつないだ
ふたりじゃ寂しいから 輪になって手をつないだ(1番)

きみもひとり 僕もひとり
みんなが孤独でいるんだ この輪の中でもう気づかないうちに(2番)

(Rita「Little Busters!」)

主題歌である「Little Busters!」の歌詞だが、「みんな」と「孤独」を肯定する二つのフレーズがひとつの曲の中に共存していることは重要だ。『リトバス』は「つるむ」話ではない。個々人が「孤独」なままで、いかに「ともに在る」ことができるかということを描いた物語なのだ。そこには完璧な理解なんてなくていい。だけど共感よりも確かな何かがほしい。彼らの「孤独」でありながら「みんな」であるという関係性を通じて、自分にもこの世界のどこかに似たような魂を持つ人がいる……まだ見ぬ「リトルバスターズ」のメンバーがいると思えるようになることが、この作品が持つ一番の効能なのである。

*   *

最後に音楽という観点から『リトバス』を語ってみたい。Key作品に出会う前、ゼロ年代前半の中高生時代に僕が心の拠り所としていたのは音楽だった。とりわけ傾倒していたのは、当時デビューしたばかりのBUMP OF CHICKENASIAN KUNG-FU GENERATIONといったロックバンドたちだ。彼らは鋭いギターサウンドに乗せ、叙情的で物語性の高い歌詞を歌っていた。Key作品に興味を持ったのも、メインシナリオライターである麻枝准が、自身の手がけた音楽でシナリオを演出しているということに衝撃を受けたのが最初のきっかけだ。麻枝が作るのは基本的に「打ち込み」の電子音楽ということもあり、当初は「シナリオライター兼作曲家」という創作スタイルへの興味が勝っていた。しかし『リトバス』に至ってその音楽性も、それまで好んで聴いてきたロックバンドたちのそれに通じていることに気づくのである。

前述したバンドたちも含まれることがある、オルタナティブロックというジャンルがある。日本においては70年代後半生まれの「ロストジェネレーション」世代によって、90年代の末にスタイルとして確立された。社会学者の南田勝也によれば、そのサウンド的な特徴は「渦」という一言に集約される。エフェクトをかけたノイジーなギターサウンドが重奏的に響き、「弾いた弦(や発した声)の音と同時に、倍音や半分ずれた音や、ときに意図すらしない音が共鳴し、それらがたたみかけて聴こえてくる」*2のである。そこではオーディエンスと演者の区別なく、ひとりひとりが音の「渦」の中で、自らの「孤独」に向き合っている。身体を激しくぶつけ合う「ダイブ」や「モッシュ」といった現象が起きるのも、自らの心の深奥に潜った状態で、身体が直接的に「渦」としてのサウンドに反応するがゆえのことだという。

音楽ジャーナリズムのいくつかの言説によれば、2010年代に向かう中でロックフェスがレジャー化し、そこに訪れる新しいオーディエンスに対応した「みんなで拳を突き上げて踊れる」四つ打ちの楽曲がロックシーンを席巻していったとされる*3。しかしそうした変化をよそに、「孤独」であることを肯定するオルタナティブロックの精神性は、アドベンチャーゲームである『リトバス』に息づいていた。直接的な符号もある。麻枝自身が後の脚本担当作品『Charlotte』のタイトルを同バンドの曲名(「シャーロット」)から取っていると公言していることからも*4、『リトバス』の主人公である「理樹」の名前はオルタナティブロックバンド、ART-SCHOOLのギターボーカル・木下理樹から取られていることは想像に難くない。また『リトルバスターズ!』というタイトルも、やはりオルタナティブロックバンドであるthe pillowsの曲名に同名のものがある(「LITTLE BUSTERS」)。これらが単なる名前の借用に留まらないことは、以下の木下理樹の発言からも明らかだろう。

木下:若い子たちって、感性が敏感だからね。傷ついてしまうんですよ。そういう子たちがART-SCHOOLの音楽を聴いて、少しでも楽になってくれればいいと思う。自分がそういう子供だったからこそ、そう思いますね。僕はグランジやUKロックに出会って、いくら学校で無視されようが、そんなことどうでもよくなったんですよ。だって、家に帰れば宝物のような音楽が待っているんだから。そうやって、僕らも若い子たちのシェルターになるような音楽がやりたい。*5

オルタナティブロックという音楽は、こうしてリスナーひとりひとりの「孤独」に寄り添う。麻枝は1975年生まれであり、オルタナティブロックのオリジネイターたち(ナンバーガール向井秀徳くるり岸田繁スーパーカー中村弘二など)と同世代だ。しかしその音楽的ルーツは海外のオルタナティブロックバンドを範とした彼らとは異なり、大衆的な人気を博した日本のバンド(TM NETWORK、B'z、BOOWYなど)や、トランスやエピックハウスなどのダンスミュージックにある。こうした音楽性は超越的な次元の存在が作品に大きく影を落としていた『CLANNAD』までの世界観にも影響を与えているが*6、前節でも見たように『リトバス』の世界観はそこから転回している。複数の「孤独」な世界が重なり合うように存在している『リトバス』の世界観の屋台骨を支えるのは、「PMMK」という外部から参加したクリエイターの音楽だ。タイトル画面で流れる「生まれ落ちる世界」を初めとする「PMMK」のトラックは、ミニマルミュージックの素養も感じさせる繊細な音像のエレクトロニカである*7。このジャンルに属する音楽の多くはいわゆる「宅録」で作られ、内省的で個人的な質感からオルタナティブロックとも近いリスナー層を持っている。ここから導き出されるのは、麻枝の中でまずシナリオライターとして送り出したい世界観の変化があり、それに応じて自身のルーツにはない音楽性を、他者を通じて作品の中に取り入れるようになったということだ。こうした創作スタイルの変化が、『リトバス』後にシナリオを手がけたアニメ『Angel Beats!』『Charlotte』における作中バンドのプロデュースワークにもつながっている。『Angel Beats!』の「Girls Dead Monster」では編曲を、『Charlotte』の「ZHIEND」では作曲を、それぞれギターロックに強いボーカロイドクリエイターである「光収容」が手がけているのだ(前者の作詞作曲、後者の作詞は麻枝本人が担当)。麻枝はシナリオライターや作曲家である以前にコンセプトメイカーであり、そのコンセプトの部分が『リトバス』以降の作品においてオルタナティブロックの精神性と同期しているのである。

麻枝は遅れてきたオルタナティブロック世代であり、その音楽的嗜好の変遷はシーンにおけるオルタナティブロックの存在感が退潮していったのと、ちょうど逆向きに重なっている。それは音楽ジャーナリズムがシーンの表面的な変化に惑わされている間に断ち切られてしまった、ロックミュージックがリスナーの「孤独」に寄り添ってきた歴史である。昨今ではアニメを観たりアドベンチャーゲームをプレイするという行為も、「孤独」に作品と向き合うのではなく、SNSで実況・感想をシェアして「共感」を得ることがベースになってしまった。『Angel Beats!』や『Charlotte』の放送時には、麻枝自身そうした視聴者の反応を気にかけていたことをインタビューなどで匂わせているが、しかし無理をしてまで時流に合わせる必要はないと僕は言いたい。『リトバス』は、あるいはその音楽に込められた精神性は、音楽や物語を通じて世界との摩擦を実感し、「孤独」を掘り下げることで救われる道もあると教えてくれた。少なくとも僕はそのようにして救われたし、自分と同じようにして救われた人たちといつかどこかで出会えると信じたいのだ。そう信じ続けることが、僕が理想像として抱き続けているドイツ時代の情景に報いることでもあるだろう。そこでひとつのボールを追いかけている「みんな」こそ、僕(たち)にとっての「リトルバスターズ」なのだ。

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*1:汐は救われているのか - 東浩紀の渦状言論 はてな避難版(http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090317/1237217360)など参照。

*2:南田勝也『オルタナティブロックの社会学』(南雲堂、2014年)より。

*3: 「4つ打ち」の次にくる邦楽バンドシーンのトレンドとは? - レビュー : CINRA.NET(https://www.cinra.net/review/20141006-satori)など参照。

*4:月刊ニュータイプ』2015年11月号に掲載のインタビューより。

*5:「子供たちのシェルターになる音楽を」腹を括った木下理樹の覚悟 - インタビュー : CINRA.NET(https://www.cinra.net/interview/201605-artschool)より。

*6:アメリカのテクノミュージシャン・BTのアルバム『ESCM』、とりわけ収録曲の「Flaming June」に麻枝が影響を受けたことはファンの間では有名である。BTのアルバム『These Hopeful Machines』の日本盤にも、以下のような推薦文を麻枝は寄せている。「1997年発表「ESCM」が自分の創作人生に与えた影響は多大なものだった。そこから「永遠の世界(ONE)」「大気の中で待つ少女(AIR)」「幻想世界(CLANNAD)」は生まれた。今作ではその回帰が、ヴォーカル・アルバムとして果たされている。」(https://www.amazon.co.jp/dp/B003DRVGXM

*7:PMMKのサークルとしての名義「POSTMÄRCHEN」の公式サイトより。「エレクトロニカのムーブメントをPCゲームの音楽向けに再解釈し、女の子たちが活躍する可愛らしい音楽に取り込んだほか、PCゲームの音楽としては珍しい実験的な表現も、いろいろと行っています。」(http://postmarchen.org