『Summer Pockets REFLECTION BLUE』感想

Summer Pockets REFLECTION BLUE』を読了。無印版は2年前にプレイ済。

「聖地」直島・男木島には発売前に行ったので、訪問後にプレイするのは初めて。今回の再プレイでは、主人公が舞台となる島に対して覚える「不思議になつかしい」という感覚とのシンクロ度が高まって新鮮だった。

(当時の旅行写真)

シナリオの追加・演出強化がなされた『REFLECTION BLUE』。結論……プレイしてよかった!
追加シナリオはそれぞれ、一度世界観を俯瞰したからこそ描けるテーマを扱っていたし、強化された演出も無印版で食い足りなさを感じていたところを見事に補強していて、スタッフの職人的な仕事ぶりを感じた。

以下、感想と総論。(なお、ガンガンネタバレしているのでご注意を)

個別ルート(追加分)について

神山識

作中で執り行われる精霊流し的な儀式の由来にまつわるお話。後付けっぽい感もあるのだが不自然さは感じさせない。
識は過去の鳥白島から来たタイムトラベラー。現在時間軸での歴史書に自身のことが書いてある……という謎を梃子にシナリオが進行する。
この作中作要素に加え、ヒロインの側が自己犠牲的に頑張る(最終的には主人公の元から消える、ビターエンド)という展開も含めて、非常に新島夕氏の作風っぽさを感じる。
(「海賊・鬼姫」という伝奇・バトルヒロイン要素からも、個人的には『はつゆきさくら』を連想した)
一人称「僕」でちょこまかと動き回るの識のキャラクター造形も楽しくて好き。(アニメ化して動くところを見てみたいけれど特殊な立ち位置のためオミットされそう?)

野村美希

「島は大きな家族」のテーマを描く。前作で小出しにされていた「なぜ彼女は親元を離れて一人暮らしをしているのか?」の理由明かしがシナリオ駆動因。
島の治安を守る少年団活動に精を出し、良い意味で日常=サブキャラポジション然としていた彼女をヒロインとして扱うにあたり「実は捨て子で、島のみんなに育てられた」というテーマに敷衍したのはスマートな「ヒロイン昇格」の手管だと思った。
(ただ、途中の「夢が交わる」サスペンス描写がかなり冗長だった……これは無印版の蒼ルートにも感じた難点である)

水織静久

無印版からのヒロイン・紬のペアとして登場していたサブキャラだが、そこでも発揮されていた「母性の象徴」的な人となりを等身大の高校生として掘り下げ直しつつ、隠された問題点も解消していくシナリオ。
優等生を演じ、誰の相談にも分け隔てなく乗ってあげる……そんな彼女の張り詰めていたものを、優等生としての彼女を知らない余所者の主人公が解きほぐす展開。
同時に、挫折した主人公がもろもろの夏の出来事を通じ、新たな一歩を踏み出すことにもうまくつなげていた(「別れ」を前向きなものとして捉えるのがポイント)。
紬ルートのタネ明かしを知っているとぐっとくる演出も満載。「ビジュアルノベル」というメディアの特性にもかなり意識的で、担当ライター「ハサマ」氏の地力を強く感じた。

加藤うみ

隠し(トゥルー)シナリオにおけるヒロイン扱いのうみだが、そこでの彼女は幼児退行を起こしており、「親(主人公・しろは)」の目線として「子(うみ)」を慈しむ視線に同一化できなければ感動するのに厳しさがあるのが、難点といえば難点だった。
この追加シナリオでは、初プレイ時で見せていたしっかり者の人格でストーリーが進行。ささやかな子供の反抗を企てたうみに対し、主人公は「叱ってあげられる親(と子)」の関係を築くことになる。
劇場版アニメ『CLANNAD』のシナリオ再構成(奇跡は起こらず、渚の死を受け入れ汐と向き合う)を彷彿とさせる展開。育児放棄に近い状態だった未来の父(主人公)との和解は終ぞ描写されないが、テーマ的には回収。
「叱る」立場になった経験を通じて、自身の親との関係を見つめ直し再起に向かう主人公の心の動きも、丁寧に描かれていて好印象だった。(水泳部の仲間がテレビの向こうから呼びかけてくるシーンなども、シンプルにぐっとくる)

演出強化について

細かいところは他にもあったのだろうけどわかりやすいところを。

隠しシナリオ「ALKA」ルートで、うみは自身の「記憶を失いながら、何度も夏を超えてきた」体験をオリジナルの童話絵本にする。
無印版ではこの絵本の内容はテキストで表示されるのみで絵は描かれていなかったのだが、『RB』では描かれている。
エンドロールではその絵本の内容が改めてリフレインされる。繰り返しの物語を作中作として描き、それを物語の外部にいる私たちプレイヤーの側にも開く、というのは新島夕氏の真骨頂。
シナリオ担当として一番目にクレジットされているものの、パッケージヒロインのしろはルート及びオーラスルートの筆致はかなり「Keyらしさ」にチューニングしていると感じていたので、ここにきて氏の作風を前面に出す演出が採用されているのは、個人的にぐっときた。
(なお、同じく氏が担当している久島鴎ルートはある種サブライター的に自由に書いている感じがする。上述の童話絵本も、鴎がうみを手伝う形で制作されたものとなっている)
自分がKey作品に感じる魅力は、実体があるようでない「Keyらしさ」を集団制作として追い求めながらも、その無意識とも言える部分にひょっこりと作家性が顔を覗かせてしまうような瞬間の体験にこそあると思っているので、このポイントは嬉しかった。

また同じくエンドロールにて。歌曲「ポケットをふくらませて」は原案の麻枝准氏による作詞・作曲だが、発注時のコミュニケーションが上手くいかなかったとかで、本編で流れるタイミングを踏まえない歌詞になってしまったことを後々麻枝氏が苦言として表明する事態になっていた。その後、コンシューマ版で「ポケットをふくらませて~Sea, you again~」として歌詞を改めたバージョンが収録。
『RB』でも「~Sea, you again~」バージョンが収録されており、自分は今回初めて聴いたのだが、確かに歌詞を本編に合わせて変えたほうが流れとしてしっくりきた。
(無印版の歌詞は無印版の歌詞で、麻枝准流「少年時代」的な味が出ていて好きなのだが)

総論

恋愛のその先に結婚→家族というものがあるとすれば、何度も選択肢を選び直すことができ、複数の恋愛対象と関係を結ぶことができる恋愛ADVプレイヤーの倫理観・成熟観とは? ……という問題設定が、かつて恋愛ADVというジャンルをめぐる批評では共有されていた。
Summer Pockets』においては主人公とヒロインの子供である「うみ」はすでに冒頭から物語に登場しており、後に同じ時を繰り返しているのはむしろ主人公ではなく彼女だった、という構造が明かされる。
形式上「主人公」と「攻略ヒロイン」がいるという恋愛ADVの体裁をとってはいても、2020年(2018年)現在それはもはや「様式美」でしかなく、むしろ「同じ夏を繰り返す」ことそれ自体が自己目的化したプレイ体験が求められている。
(実際に今回の『RB』でも日常シーンの大幅追加、ミニゲームの強化という施策が取られている)
複数ヒロインとの顛末を見届けることは、もはや倫理的な葛藤をプレイヤーにもたらさない。だからこそ逆説的に、しろはという固定のヒロインと主人公の子供である「うみ」がいちキャラクターとして作中に登場できるのだ。
(うみが最後に自己の存在を消尽させなくてはならないのは、「私は実は固定ヒロインと主人公の子でしたよ=私の存在そのものが“トゥルーエンド”があることの証明ですよ」というネタバラシをプレイヤーに対して行ってしまったことへの、ある種の贖罪のようなものである)

Summer Pockets』を一本道の物語として捉えようとすると、主人公の物語というよりうみの物語(ひいては、その母であるしろはも含む「巫女」の血族の物語)という色彩が強くなる。
しかしそのように「一本道の物語」を思い描くこと自体が、「夏休み=時期が来れば繰り返すものであり、同時に一度として“同じ”ことはないもの」という解釈に基づいた本作の時間観と矛盾する。
傷が癒えれば後にし、しかしいつでも戻ってきていいよ、という優しさの在り処をこそ本作ではテーマにしている。(それが「夏休み」であり、「田舎の島」として象徴的に表されている)
「挫折した主人公が、夏の島の出来事を通じて再起する」という一見物語的な要素は、そうした背景を構成するものでしかない。
本作のシナリオは、「(男性)主人公が(女性)ヒロインのトラウマを治療する」ジャンルであると論難された、かつての恋愛ADVの図式には収まらないものだ。
治療者と被治療者の関係ではなく、「ともに歩む」「お互いをお互いの鏡とする」関係のバリエーションとして、所謂「個別ルート」は存在している。
プレイヤーは主人公に同一化しヒロインの問題を主体的に解決するというよりも、繰り返す「夏休み」の中で、俯瞰的に「ともに歩む」バリエーションを記憶していくといったほうが正確だろう。

長らく、アドベンチャーゲームにおいては「主人公=プレイヤー」図式を基本に、「主体的な選択」によって「未来が分岐」するという「世界線」モデルが支配的だった。
STEINS;GATE』に着想を得たOfficial髭男dismのヒット曲「Pretender」にそのものずばり「世界線」というワードが登場するように、もはやこれはノベルゲーム愛好者という狭い範囲の問題ではない。
世界線」をベースにした世界観は、可能世界は「ある」のかもしれないが、「そこには辿り着けない」という絶望も同時に生じさせる。
2010年代はSNSが発達し、主体的にアクションを起こした瞬間にすべてが「つながり」のネットワークに絡め取られてしまうような……フィルターバブル的な、カッコ付きの「現実」に覆い尽くされてしまった。
そういう状況において、「ここ以外の世界はあるかもしれないが、辿り着けない」ということは「ここ以外の世界はない」ということ以上に深い絶望感をもたらすだろう。
アクションすること自体の自由は奪われていないからこそ性質が悪いのだ。

Summer Pockets』全編通してのエピローグにて、主人公が行う「蔵の遺品整理」のメタファーで描かれているのは、「時系列は整理のためのひとつの指標ではあるが、数ある指標のひとつでしかない」ということだ。
体験の内容・種類によっても、記憶や出来事は整理されうる。形あるモノとして残っているのであれば、色や大きさによって整理されることもあるだろう。
私たちに与えられた〈自由〉とは、過去-現在-未来と一直線に続く時間の上で、行き先を剪定する権利だけを指すのではない。
プレイヤーにとっての〈主体性〉というものを、「選択肢を選ぶ」というシステムに紐づいたメタファーから解放し、ゲームをプレイした体験・記憶そのものを絵具として、一枚の絵を描くような能力として捉え直させる。
そのヒントが、本作のテーマ性・時間観・シナリオ構成には散りばめられているように思う。