『君の名は。』と新海誠とRADWIMPS――あるいは作品における「テーマ」と「手段」の関係性

 

君の名は。』評に対する違和感

新海誠監督作品『君の名は。』が話題になっている。学生時代『秒速5センチメートル』の映像表現に衝撃を受け、(同時期に鑑賞した京都アニメーション版『CLANNAD』と合わせて)アニメ表現というものの大いなる可能性に打たれたのは今も記憶に新しい。今回の映画も当然のごとく、鑑賞必須の作品になるはずだった。

……が、結論からいえば僕はこの作品を観ることはできない。金輪際能動的に観ることはないだろう。理由は明確で、主題歌・劇伴をロックバンド「RADWIMPS」が手がけているということに尽きる。僕はこのバンドの楽曲、より正確にいえば歌詞表現というのがどうしても昔から好きになれないのだ。

彼らのレパートリーに「五月の蝿」という楽曲がある。僕が説明するより以下のリンク先を見るが易しなのだが、僕はこのような“作品”を世に売り物として出すということ自体、どんな事情があったとしても品がないことだと思うし、一度そんなことをしたバンドの音楽を2時間も聴き続けていることなんてできない、というのが本音だ。

五月の蝿 - RADWIMPS - 歌詞 : 歌ネット

RADWIMPSのファン層とも重なる中高生や、古参の「新海誠ファン」にも概ね好意的に受け止められている『君の名は。』だが、RADWIMPSというバンドの来歴や音楽性について顧みた感想は少ない。しかし新海氏が事あるごとに今回のコラボレーションを必然的なものとして強調するにつれ、やはり彼らのことについて触れないわけにはいかないと思うようになった。

 

RADWIMPSというバンド

畳み掛けるような言葉の奔流、言葉遊びを駆使した作詞法、前半で謎を与え後半で種明かしをするストーリーじみた構成など、手数の多い楽器隊のフレージングも相まって2010年代前半を席巻した「高速ボカロック」*1への影響関係を見てとることは容易いだろう(その一人であるボカロPのハチ=米津玄師は、昨年RADWIMPSの対バンツアーで共演した)。異なる点があるとすれば、ボカロPというのはやはりボーカロイドに「歌わせる」という視点が入るため第三者的な目線での歌詞が目立つのに対して、RADWIMPSは徹頭徹尾「野田洋次郎」という個人の経験に根ざした内容になっているということだろうか(これにはソースがある。Wikipediaからの孫引きで恐縮だが、かつて「ROCKIN'ON JAPAN」のインタビューで「自分の経験したことでないと納得できない。(当時発表した「遠恋」という楽曲は)初のフィクションである」という主旨の発言をしたことがあるのだという*2)。

RADWIMPSはいわゆる「ロキノン系」(「ROCKIN'ON JAPAN」が主に取り上げるバンドのこと)の系譜の中で、BUMP OF CHICKENとの連続性/あるいは切断をもって語られることがある。僕自身の解釈でいえば、それは「(架空の)物語」から「(現実にいる個人の)打ち明け話」への変化を示すものだ。個人の体験に根ざした歌詞を「赤裸々に、明けすけに」表現し、リスナーはそれに「共感」する。「共感」のメディアと言われるSNSが本格的に普及する少し前から(RADWIMPSのメジャーデビューが2005年、Twitterの日本でのサービス開始が2008年)、そうした転換点を体現していたのがRADWIMPSというバンドだった。

(先に少し述べたボーカロイドとの関連でいえば、フィクション性の強い「物語」的な歌詞表現を得意としてきたBUMP OF CHICKEN初音ミクとのコラボレーションを果たしたことは興味深い。BUMP OF CHICKENはこのコラボを行った時期と前後して(具体的にはアルバム『RAY』を発表した時期から)鼓笛隊のようなステージ衣装を纏って演奏することが多くなっているが、それは彼ら自身が「BUMP OF CHICKEN」という集団を客観的に捉え、自ら作り出す「物語」の中に「登場人物」として取り込むという戦略をとったということに他ならない)

 

セカイ系」再考

さて、ここでようやく『君の名は。』の話に戻るのだが、新海氏がRADWIMPSをコラボレーション相手に指名したのも、この強い「共感性」によるものだと考えられる。何しろ「自分の経験したことしか歌っていない」と本人が公言しているのだから、(言い回しのテクニックなど、異分野のクリエイターに対する憧憬やリスペクトはあるにせよ)言ってしまえば野田洋次郎の恋愛観に新海誠は共感した、とまとめてしまうことが可能である。これについては柴那典氏のコラムを参照するのがわかりやすいだろう。

RADWIMPSが『君の名は。』で発揮した、映画と音楽の領域を越えた作家性|Real Sound|リアルサウンド

「君と僕」の一対一の関係性。ここで即座に思い浮かぶのは、新海氏が世に出るきっかけとなった短編アニメーション作品『ほしのこえ』――ひいては、同作をその代表例として名指すことの多い文芸ジャンル(?)「セカイ系」のことである。バズワードに近いこの語には、一応教科書的に「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群」という定義がなされているのだが*3、柴氏も前掲のコラムで述べる通り新海氏は一貫して「一対一の関係」……具体的には男女間の恋愛を描いてきたのであり、それが遠宇宙であったり、時空間のねじれであったりといった道具立てを用いて表現されていただけなのである。新海氏にとっては描きたいテーマ(恋愛)を伝えるための「手段」でしかなかった「抽象的な大問題」が、あたかも作品のコアであるかのように語られてしまったのが「セカイ系」をめぐる言説だったのだ。

「単なる恋愛劇」が、「セカイ系」などという新語を用いてまで大上段に語られなければならなかったのはなぜなのだろうか。ひとつには単純に新海氏の生み出す鮮烈なビジュアルイメージに対して、適切に語る言葉を受け手の側が持たなかったということが言える。そしていまひとつには、現在の新海作品にも脈々と受け継がれている作劇上の特性……モノローグ主体のシナリオ構成というのが挙げられるだろう。「セカイ系」の代表例として『ほしのこえ』と共に挙げられる『イリヤの空、UFOの夏』『最終兵器彼女』はそれぞれ小説、漫画であり、これらの媒体はテキストという「黙読」に適した情報を含むがゆえに、モノローグとの親和性が高い。『ほしのこえ』はアニメーション作品でありながらモノローグ主体のシナリオ構成であったところに画期性があった(同じく「セカイ系」作品と捉えられることもある『新世紀エヴァンゲリオン』は、その「内省的」な内容もさることながらタイポグラフィを全面に用いた「テキスト的」な映像作品であったことも重要である)。実はこの記事を書くにあたって小説版の『君の名は。』を読んだのだが、「ああ、“新海誠”らしいな」と個人的に感じたのもまさにこの部分だった。

遠宇宙や時空のねじれといった「壮大な」道具立てを用いながらも、シナリオ面では登場人物のモノローグに終始する。それは従来の「アニメーション」の常識からすればきわめて贅沢な作劇法だったのであり、衝撃をもって受け入れられたわけだが(ゆえに新語をも必要とした)、実際には個人制作という条件下では、そのような手段をとるより他なかったという事情が大きかったことが推察される(物議を醸した『エヴァ』テレビ放映版の最終2話に関しても同じことは言えるだろう)。作り手の特異な「作家性」が発揮されたのではなく、当時の特殊な制作環境に強いられたがゆえの特異点的な表現であったというのが、「セカイ系」作品の内実であったというのが筆者の見解である。

 

「恋愛」は価値観の一つでしかない

新海氏は『君の名は。』の公開直前に自身のTwitterアカウントで以下のようにツイートしている。

また、RADWIMPS野田洋次郎映画の公式サイトに以下のようなコメントを寄せている。

ど真ん中を真っすぐに突き進む—この映画から強く受けた印象です。主題歌4曲全てがラブソング。いつもは、つい逃げがちな性格で、ここまでストレートに表現してしまうと恥ずかしさが出てしまい、別の方向性や受け止められ方を求めてしまうんです。だから「恋」をこんなに真っ正面に表現したこと自体、本当に珍しいこと。今回も最初はどこか無意識な逃げがあって、新海監督はその部分を見逃さなかった。「とにかくこの物語が貫こうとしているど真ん中を全力で歌って欲しい」と。だからこそ、踏み込めた。まだ恋愛をしたことがない人でも、『君の名は。』はいつしか自分がたどるんじゃないかという未来を感じさせてくれる物語だと思います。間違いなく僕も瀧と三葉に引き込まれました。

両者のコメントから読み取れるのは、この映画が紛れもなく「デートムービー」であり、恋愛というものが人生の主軸にあると感じられる人に向けて作られているということである。そんなの当たり前のことじゃないかと、この記事をお読みの方も思われるかもしれない。事実として、公開3日間で興収10億円という驚異的な数字を叩き出している*4

が、こと僕に関していえば「恋愛」というものをどうしても人生の主軸に据えることができないのだ。より抽象的に「特定の他者に絶対性を見出す」ような経験と言ってもいいかもしれないが、記憶しているかぎり物心つく前から、そのような経験をしたことがない。そういう回路が生まれつき欠落しているのだと、すっかり最近は開き直れるようになったが、逆にごく最近まで開き直れなかったのは、まさしく『秒速5センチメートル』に心打たれてしまった自分がいたからである。しかし、いま考えてみると自分が敬服したのは新海氏の圧倒的なビジュアルセンスに対してなのであって、物語内容やテーマに対してではなかった(同じことがアニメ『CLANNAD』にもいえる)。そのことがRADWIMPSという、新海氏と同じテーマを僕にとっては苦手とする「手段」で伝える作家と並列させたことによって、初めてクリアに見えてきたのである。

作品において「テーマ」とそれを伝える「手段」とは程度の差はあれ分かちがたく結び付いていて、中でもその境目を完璧に意識させないような作品が「傑作」と呼び称されるのだろう。その意味で僕にとって『君の名は。』は鑑賞前から傑作とは言えない作品になってしまった(し、今後鑑賞するすべての新海誠作品が傑作とは感じられないだろう)。

みなさんにとっては、どうだろうか。