読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『planetarian〜星の人〜』鑑賞記録――「Key」とは何か

 

f:id:sr_ktd:20160904110957p:plain

 

映画『planetarian〜星の人〜』を観てきた。Keyとは何か、ということについて、とても示唆深いものを与えてくれる映画だった。

planetarian』の原作には麻枝准樋上いたる折戸伸治、どの名もメインスタッフとしてクレジットされていない。でもKeyの作品である。それは一体どういうことなのか。

他ならぬ、「星の人」のエピソードがそれを証立てている。

 

 

「意志」を託す話

 

planetarian』本編(アニメでいえば、配信版のラスト)で「屑屋」は「星屋」になることを決意する。古きものの残骸からかろうじて生きる糧を見出す仕事から、形はないけれど人が生きる上で最も大切なものを生み出す仕事に鞍替えするのだ。

小さな投影機を携え滅びゆく世界をめぐり、星の話を語り聞かせる。老人になり肺を病んだ彼が最期に辿り着いた集落で出会った三人の子供たち。彼らに星の美しさを教え、ゆめみのメモリを託して逝く。

メモリーカードを受け取った少年少女たちは永遠にその使い方や中身を知ることは無いが、プラネタリウムを見て星の話を聞いた事は、彼らの中に一生残る。

— 星の人 (@yuji_isogai) 2016年9月3日

どんなに過酷な世界であっても、決して希望を失わないという「意志」を託す話なのだ。

 

Keyという名は(あらゆる屋号というものがそうなのかもしれないが)意志が受け継がれているということの符牒としてある。具体的にそれと名指せる対象はないのだけど、受け手たる我々の心の中には確かに「ある」と信じられるもの。

星というのもそのようなものであると思う。そもそも星の光は遅れて届くのだ。我々は星を手にすることはできない。だけど心の中には確かにある。

 

「Key」とは「星」のことなのである。

  

planetarian』で「屑屋」あらため「星の人」を演じた小野大輔は、Key作品において『AIR』(国崎往人)、『Charlotte』(乙坂隼翼)と「大切な人を見送り、その思いを受け取って前に進んでいく」役を演じている(『planetarian』の舞台挨拶や『Charlotte』最終巻付属のラジオCDで自ら言及している)。

「受け継がれる意志」の話として見れば――つまり小野が演じた隼翼を主人公として見れば――『Charlotte』もまたKeyの系譜に連なる作品だということが言えるだろう。

Keyというよりは「麻枝准」の作品であることが強く打ち出されてきた『Charlotte』。確かに乙坂有宇を主人公として見たとき、タイムリープできない(しない)ということや記憶喪失などのモチーフから、『AIR』や『智代アフター』などと同じく「麻枝准」の作家性とされる「不能性に止まること(東浩紀)」を見出すのは容易い。

しかし隼翼という人物を配置し小野大輔を起用しているという事実が、何より強くこの作品が「Key」の作品であることを主張しているといえるのではないだろうか。

 

 

Charlotte』と『君の名は。』、ふたつの彗星

 

Charlotte』にも彗星が登場するが、新海誠の『君の名は。』においても彗星が重要なファクターとして登場している。この作品における彗星は震災のメタファー――美しいものであると同時に、厄災をもたらす崇高なもの――として用いられていて、そのことは複数の論者によって指摘されてもいる。しかし星というのは美しいだけの、あるいは厄災をもたらすだけのものであっただろうか。

自然現象としてでなく、あくまでそれを見つめる人間の側に立てば、「星」が象徴するテーマとは届きそうで届かないものに「手を伸ばす」ということであると自分は思う。美しさに対する憧れと、そこに届こうとする人の意志の象徴なのだ。あるいは彗星であれば周回軌道を描くことから、「繰り返し」「次代へつなぐ」ことの象徴としても捉えられるかもしれない。 

麻枝准が震災という事件を全く意識することがなかったといえば、そんなことは決してないだろう。しかし、麻枝准は彗星を地球に落とさなかった。あくまでその影響を受け特殊能力を発現させた、思春期の少年少女の人生のゆくえにのみフォーカスした。

ことさら震災というものを暗示するまでもなく、人ひとりの背に負うには大きすぎる「過酷」との向き合い方を、一貫して描いてきたのが麻枝准という作家だった。
Charlotte』において彗星の存在があくまで背景情報として処理され、内容的には「約束」や「家族の再生」といったKeyおなじみといえる主題をめぐることに終始したのは、それらの主題に時代性を超えた普遍的な強度があるということに他ならない。

 

それぞれ『AIR』『ほしのこえ』で、2000年代を象徴する作家として名前を挙げられることも多かった麻枝准新海誠。その共通する資質は先にも言った「不能性」……「つながらない」ということの感覚であったわけだが、麻枝准は『Charlotte』において有宇と隼翼の兄弟に「不能性」と「受け継がれる意志」をそれぞれ託し、新海誠は『君の名は。』においてそれまでの作品では結ばれずに終わった男女を再会させるという「真っ当なハッピーエンド」に着地した。

麻枝准はひとりのクリエイターであると同時に「Key」を担う一員でもあり、新海は自らの名前を背負って作家的に活動する道を選んだ。その違いが同じく彗星を主要なモチーフとして採用した最新作に表れているのだと思う。 

 

 

「鍵っ子」から「星の人」へ

 

「鍵っ子」という言葉がある。熱心なKey作品のファンを指して言う言葉だが、Keyの作品から何か大切なものを受け取り、自らの人生において伝えていくというのであれば、それはもう「星の人」と呼ばれるべきなのではないだろうか。

麻枝准も、樋上いたるも、折戸伸治も、その他の加わっては離れていったスタッフも――みな等しく「星の人」である。逆説的だけれど、「Key」としか言いようのない何かがあるからこそ「Key」は存在するのだ。それを続かせていくのは、その存在を信じる私たち一人ひとりの意志でもある。

 

「星の人」に、なろう。