再説・無名論的キャラクター論――「蓮實重彥の功罪」から考える

※本記事は2017年に筆者が参加していた講座「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾」第3期で提出した文章を一部改稿の上転載したものです(講座の詳細はこちら)。またオリジナルの文章は、ゲスト講師である宮台真司氏による以下の課題文に応える形で書かれました。

映画批評において蓮實重彥が果たした役割の功罪を評価せよ。ただし発話が持つ階層性(音素・音韻・語・句・文・文章・遂行・物語)をヒントにすること。

追加課題
余裕のある者は「ロラン・バルト」「思弁的実在論(思弁的唯物論)」に言及しながら課題を達成せよ。

<本文>

蓮實重彥による三島由紀夫賞受賞会見、終始不機嫌さを装い記者たちの肝を冷やし続けたあの振る舞いは、はたして彼一流の「映画的」身振りだったのだろうか? そこで言われていることは要するに「テクスト的現実」を見よ、「作品」を「作者の意図」などというものに還元するな、という、何十年と繰り返し彼が述べてきたことにすぎないのだが、しかしそれを自ら矢面に立って口にするとき、変わってしまっているものがひとつある。

「大御所感半端ねえ」「これは新進気鋭だな」「かましの天才」「さすが大先生wwwwwwwwww」「ハスミンwwww」「男やで」「かっけえww」「ひでぇ」「おもしろすぎるwwww」

そう、かの会見は「ニコ生」で中継されていたのである。

ニコニコ生放送、通称ニコ生の特徴が画面に視聴者がリアルタイムでコメントを書き込めることにあるのは、もはや言うまでもないだろう(何せ「見えて」いるのだから)。それはデジタル環境で制作される映像というものが基本的にレイヤー構造になっていることを端的に明るみにしている。東浩紀はその変化を「スクリーンからインターフェイスへ」という表現で述べた。蓮實の映画批評が影響力を持ちえたのは、かつて映画というものがスクリーンという物質的な支持体に根拠を持つ「見えるもの」の秩序に覆われていたからなのだと……その時代には確かに「動体視力」によって目に「見える」ものを余さず掴まえよとする蓮實の「表層批評」も有効性を持ちえたのだ。しかしインターフェイスの時代の主体とは「見える」映像(イメージ)と「見えない」記号(シンボル)を同時に「みて」いる。東がそこで引き合いに出すのはアニメオタクたちの例だ。

オタク的感性の特徴は、特定のキャラクター(登場人物)に対して、一方でそれが絵としてどのように描かれたのか、作画スタッフの癖から技法的細部にいたるまで執拗に詮索しつつ、他方でそのキャラクターがあたかも絵でないかのように(実在の人物であるかのように)強い感情を向ける、その矛盾する二つの態度の共存にある。つまり彼らは、描かれたキャラクターを、一方でイメージ(絵)として、他方でシンボル(人間を表す記号)として二重に処理している*1

引用した東の論考「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」は1997年から2000年にかけて連載されたものだが、事態はより進行している。ニコニコ生放送の画面に現れた蓮實重彥は、むろん「描かれた」アニメキャラクターではない。にもかかわらずコメント機能というアーキテクチャによって、生身の人間がインターフェイス的な二重性にさらされているということなのである。件の会見をコメント付きで「みる」とき、そこで起きているのは蓮實が「キャラクター化」しているという事態である。そこでは東大の総長まで務めたフランス文学および映画批評の大家、という歴史性ははぎ取られ、「ハスミン」という愛称までつけられた「偏屈でユーモラスな老人」がいるだけである。「蓮實重彥」という固有名は、流れては消えていく有象無象のコメントによって形作られた輪郭を、そこに係留するためのアンカーのようなものとしてのみ機能する。このような固有名(キャラクター)について考察を加えたのが村上裕一の『ゴーストの条件』であった。

『ゴーストの条件』は2011年に出版された村上の初の単著で、講談社東浩紀が合同で企画した批評家輩出プログラム「東浩紀ゼロアカ道場」の最終成果作でもある。その序文で宣言されている通り、同書が目指すのは「キャラクターの哲学」の展開であり「ゴースト」という概念をプレゼンテーションすることにある。議論を先取りすれば、「ゴースト」というのは初音ミクのような、集合知的に作成された無数の物語が最大公約数的に重なり合ったその中心に固有名が与えられることによって存在を確立するような「現象」のことであると言っていい。通常キャラクターというものは、ある一次創作から二次創作へ……という展開をたどる中で保たれる、虚構の登場人物の同一性を指して言うことが多いわけだが、村上は物語と固有名の発生順序が逆転(というより入れ子)になっているこの関係にこそ、キャラクターという概念の「可能性の中心」を見るわけである。

かように同書で最も主題的に論じられるのは「物語」と「固有名」の関係であるわけだが、これを先鋭的に表現した作品として実は蓮實の著作が引き合いに出されている。蓮實の小説第一作となる『陥没地帯』がそれである。「この小説は、批評家によって、理論的に書かれている」と留保をつけながら村上は、同作を「無名論的キャラクター論の対象」と位置付ける*2。無名論的キャラクター論とは何か。『陥没地帯』においては犯人の素性も被害者の素性も明らかではないある「事件」についての叙述が、話者を次々に変えながら繰り返されていく。しかし彼らは語りを終えるやいなや、作中でその存在自体が「なかった」ことにされてしまう。そうして「事件」は明確にその輪郭を結ぶことがないまま小説は終わりを迎えてしまうのだが、村上はこの物語を「キャラクター未満の存在たちによる、不在の語り手の地位=“陥没地帯”を奪い合うポリフォニックな闘争劇」と位置付けている。彼らが後に残れないのは、そこに固有名が欠けていたからだ、と。

小説においては読者が筋を追う時間と事件の推移というのが基本的には一致している。その原則を逆手にとるように、話者を次々と変え擬似的な「ループ」を発生させることにより「通常は隠蔽されている小説自身の時間構造=小説的時間」を顕在化させることこそが『陥没地帯』の戦略だったわけだが、しかしそれは小説という、読者が「めくり」によってスピードを自由に変えられるメディアだから可能だったのであった。映画という観客の手を離れたところで時間が進んでいくメディアでは、単純にその戦略を適用することはできない。蓮實は小説においては「無名論的」という逆説的な形ではあるが「キャラクター論者」たりえたわけだが、そのもうひとつの領分である映画批評においてはどうなのか。

蓮實の映画批評において、人物描写が必要とされる場合は俳優の固有名が用いられることが多いが、虚構の登場人物の名前が用いられることが皆無というわけでもない(たとえば今たまたま開いた『映画時評 2012-2014』所収の『グラン・トリノ』評にも、クリント・イーストウッドが演じる「ウォルト」という人物の名前が書きつけられている)。しかしそれはあくまで「虚構の登場人物の名前」なのであって「キャラクターの名前」ではないのではないか。村上はこの区別についても、マンガ研究者の伊藤剛の論を引きながら整理している。

彼(引用者註:伊藤)は、マンガなどでしばしば起きる「キャラ立ち」という現象に注目し、〈キャラ〉と〈キャラクター〉の区別を試みた。「キャラ立ち」というのは、「虚構の登場人物」が作品外でも存在感を示す現象のことである。彼の語彙では、〈キャラクター〉が「虚構の登場人物」に対応し、〈キャラ〉が「キャラクター」に対応する。つまり「キャラ立ち」とは〈キャラクター〉が〈キャラ〉になること、我々の言い方では、「虚構の登場人物」が「キャラクター」になることに他ならない。*3

つまりキャラクターとは、作品を離れて自律的にふるまう存在だということだ。今日のデジタル化した映像環境――いわゆる「ポストシネマ」的状況においては、このようなキャラクターという存在はますます無視できないものになっている。たとえばVFXによってその身体を可塑的に変形させる、マーヴェル映画のヒーローたちの表象をどのように説明するのか。あるいはフルCGによって描かれながらも生身の俳優とコミュニケートしながら物語を結末へと導いていく、『ジュラシック・ワールド』のラプトルたちは。こうした角度からの映画批評の再編成を目論む渡邉大輔は、近年急速に他分野への影響力を強めている思想的動向、思弁的実在論と「ポストシネマ」的状況との親和性を見て取る*4。正確には渡邉が注目するのは、この思想的動向全体――「新しい唯物論」「オブジェクト指向存在論」などいくつかの分派が存在する――に共通して影響を与えている科学人類学者、ブリュノ・ラトゥールの「ハイブリッド」という概念である。『虚構の「近代」』などの著書で人間と物の世界(=自然)との関係を分析するために提示されたこの概念は、人間が自然に働きかけた結果であるのか、自然が人間に働きかけた結果であるのか、判然としないグレーゾーンにある対象のことを指す。ラトゥールが事例として引き合いに出すのは地球温暖化の原因としても挙げられる「オゾンホール」という現象だが、「ハイブリッド」概念を援用することで、このような国際政治上の懸案についてもより具体的に考えることができるようになる。

フロンガスの入った製品を売っている企業の活動や、それを買って使用する購買者の行動は、間違いなく人為的な行動である。しかしそれが、いったんオゾンホールという「ハイブリッド」を経由すると、今度はそれが科学的対象の姿をとって現われてくる。またこれに対し、産業国の首脳会議が開催されてその対策が議論されたりすると、そこでは再び人為的な活動が展開されることになる。〔…〕日常的に流されるニュースを目で追っているだけでは、物の次元から人間社会の次元へと、こんなふうに幾度も折り返しが見られ、両者が混淆していることには決して気がつかない。〔…〕ハイブリッドが媒体となっていることを理解することで、複数の人間集団の活動が、微妙に牽制し合いながら結びついていく状況を、目に見えるかたちで分析することが可能になる。*5

こうした「ハイブリッド」を介した人間集団の活動全体をネットワークとして捉えその有様を記述するのが、ラトゥールの提唱する「アクター・ネットワーク論」なのだが、このように個人を結びつける媒体として「ハイブリッド」を捉えると、キャラクター論の「可能性の中心」として見出された村上の「ゴースト」概念と驚くほど近しいことに気づく。「ゴースト」とは繰り返すように、ニコニコ動画における初音ミクというキャラクターの成長過程――音声合成ソフトウェアのパッケージに描かれた図像でしかなかったそれが、無数の音楽家イラストレーターの協働によって様々な物語可能性を内包した存在となる――に代表されるような「クラウド化した二次創作」、その中心となる媒体のことでもあったからである。

さてこうして考えたとき、蓮實重彥は「ハイブリッド」ないしは「ゴースト」であったのではないか? という仮説が成り立つ。蓮實重彥の論がラトゥールや村上の論に近いというのではない、「蓮實重彥」その人がそうだったのではないかという話だ。蓮實はその小説第一作にて、無数の無名者たちの声を反響させることで「キャラクター」概念の核心に肉薄したことはすでに述べたが、その他の評論活動においても徹底した「無名論者」であった。最初期の著作『夏目漱石論』からそれはすでに明らかである。

漱石を読むとはその事件に与えられた仮の名前であるにすぎない。それは、もはや漱石にも属していないし、読むものにも属していない非人称の運動である。夏目漱石とも、われわれ読むものの体験とも異質の領域で、漱石を読むことが、何ものにも類似することのない匿名の事件として実践され、成就されるのだ。この事件を、「解読」と呼ぶことも、「批評」と名付けることもできようが、それはいずれもとりあえずのものにすぎない。なぜなら、そんな事件は、いま、どこにも起こってはいないからである。*6

蓮實の文体には独特の調子がある。固有名の周りを旋回しながらあくまでテクストそのものに寄り添おうとする姿勢は、それ自体が強烈なキャラクター性をもって読者のもとに立ち現れてくる。しかしそれが批評文であるがゆえに固有名をまったく登場させないということができないのも事実で、対象を持たない単なる文字列に変換されたそれらの名たちは、まるで「蓮實重彥」という媒体を介してひとつのネットワークを形成しているかのようだ。このネットワークの中にはフローベールジョン・フォードといった作家の名の他に、彼が教官として学生時代を指導した黒沢清青山真治といった映画監督の名も含まれるだろう。蓮實の批評の対象となるとき、教え子である彼らの名もまた「事件に与えられた仮の名前」にすぎないわけだが、彼ら自身が蓮實について語ることも多く、その往還運動によって「蓮實ゼミ」の神話性は高められていく。まるで『陥没地帯』における無名の話者たちの振る舞いのようではないか。蓮實によって書かれた、いや蓮實によってこれから書かれる「かもしれない」名――つまりそれは名を持つすべての存在ということである――は、蓮實について語る可能性を持つ以上すべて「蓮實重彥」という「神話」を形成してしまうのであり、蓮實がもたらした映画批評における功罪というのもここに認めるべきだろう。もはやそれは功罪を問うレベルではない、単なる事実であるのかもしれないが。

*1:東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』(河出文庫、2011年)所収、「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」第七回より。

*2:村上が「東浩紀ゼロアカ道場」第三関門で提出した「自著要約」より。同プログラムでは複数の「関門」ごとに参加者がふるい落とされていくバトルロイヤル形式が取られており、その「第三関門」では以下のような課題が出された。「ゼロアカ道場の関門をすべて突破したあと、あなたが講談社BOXから出版したいと考えている著作の内容を要約せよ。そして同時に、その書籍がいま(2008年5月)出版されたと仮定し、あなた以外の架空の執筆者による好意的あるいは批判的な書評を作成せよ。」提出作品は講談社のホームページに公開されていた。
https://web.archive.org/web/20160310190852/http://kodansha-box.jp/zeroaka/youyaku/06.html

*3:村上裕一『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(講談社BOX、2011年)より。

*4:渡邉大輔「ディジタル映像と『モノ』のうごめき 現代ハリウッド映画から見るイメージの変質」(『文学界』2015年11月号掲載)参照。

*5:清水高志ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』(白水社、2013年)より。

*6:蓮實重彥『夏目漱石論』(講談社文芸文庫、2012年[原著1978年])より。

『猫狩り族の長』感想 麻枝准の意義ある「変わらなさ」

f:id:sr_ktd:20210523013937p:plain

麻枝准の初となる小説作品『猫狩り族の長』を読んだ。
この作品を単体の小説作品として評価することは、自分にはできない。いいとか悪いとかではなく、これまでの麻枝准作品と合わせて読まれるべきものだと思う。

しかし今後この作品を通らずして「麻枝准」という表現者の作家性について語ることはできない、と言えるものになっているのは間違いない。
それはつまり、この作品を通過することで既存の麻枝准作品に通底する一本の軸が見えてくるということでもある。

近作である『神様になった日』については少なくない批判もあった(麻枝准本人も「麻枝准研究所」番組内などでコメントしている)。リアルタイムの感想を見て僕の目についたのは、終盤の展開における「ひな」の自由意志の所在と「陽太」の行動の拙速さといったものである。
過去に『ゲーム的リアリズムの誕生』という本で『AIR』を高く評価した東浩紀は同様の観点から『神様になった日』の問題点についてまとめており、それは「『AIR』では主人公は無力なカラスとなりヒロイン(観鈴)が弱っていくのを見つめているしかできなかった。これはヒロインを「所有」するという形式の「美少女ゲーム」に対する内側からの批判だったのであり、そこを自分はゲーム的リアリズムという言葉で評価した。しかし『神様になった日』では男性主人公が劣位に置かれたヒロインを「所有」することで生きがいを見出す、という話をベタにやってしまっており、「原点回帰」がそこに行きつくのであればまずいだろう」と、概ねこういったものだった*1

しかし『猫狩り族の長』を読むとまた違った見方ができるようになるのではないか。主要な二人の登場人物がともに女性である本作を通過すると、『神様になった日』のあの結末が純然たるハッピーエンドとして描かれたらしいということが理解しやすくなる。それは(東もそのような姿勢自体は否定しないように)「誰かのために生きる、ということを生きがいとして見出す」ということなのであり、「男性と女性の非対称構造」について言及がないということは、それを超えたところにこそ伝えたかったものがあるということの表れかもしれないのだ。

『猫狩り族の長』の語り手はぼんやりと生きているお人良しの女子大生で、時椿という名の彼女がチャートをにぎわす「天才作曲家」十郎丸(こちらも女性)が自殺しようとしているのを止めに入るところから物語は始まる。偏屈な自説を全編にわたって披露する十郎丸の物言いはインタビューなどで垣間見える麻枝准の思考そのもので、帯に書いてある「本当のことを書きました」とはつまり彼女の口から語られる言葉のことなのだろう。

『神様になった日』との対比では、時椿が陽太に相当する。平々凡々な語り手が非凡な存在に出会い、そのために生きるということを決意する、という構図だ。
ちなみに、時椿には密かに「ちょっといいな」と思っている男性の同級生がいる。しかし彼女は最終的にすべてを投げ打ち、十郎丸との関係性の存続をこそ選ぼうとするのだ。そこには異性愛や同性愛といった枠組みを超えた、かけがえのない「個」との出会いが尊ばれている。

『猫狩り族の長』が興味深いのはラストの展開で、何の前触れもなくそれまで語り手だった時椿のほうが世界から消失し、十郎丸のほうが「いつか迎えにくる」という時椿の約束を胸に50年生き続け、転生(?)を果たした時椿と今際の際の会話を交わして物語は締め括られる点である。
つまり、『猫狩り族の長』では「本当のことを書いた(言わせられた)」、すなわち麻枝准の投影と見なせる十郎丸のほうが世界に取り残され、再会を待ちわびて長い時を生きるという立場を与えられているということになる。

この「約束」を胸に「待つ」という構図は『智代アフター』や『Charlotte』の智代や友利にも重なるものだが、彼女たちはあくまで男性主人公(朋也・有宇)に対する「ヒロイン」として配置されていた。実際、これらの作品の大半を占めるパートが彼ら主人公の一人称語りで成り立っているのだが、本来麻枝准が描きたかったものは「約束」を胸に「待つ」という姿、その気の遠くなるような時間の中で得られる「強さ」のことではなかったか。

Angel Beats!』において語り手の音無と並ぶ、女性版の主人公と言って差し支えない“ゆり”の心情を歌った「Brave Song」の歌い出しを思い出す。

いつもひとりで歩いてた
振り返るとみんなは遠く
それでもあたしは歩いた
それが強さだった

とはいえ、ここで言いたいのは「麻枝准作品において、本当は女性キャラクターのほうに麻枝准の本心が投影されていたのだ」ということではない。
ある一人のキャラクターの視点から見た物語ではなく、ある二者関係とそれが迎える顛末が描き出す「人生観」「世界観」こそが、麻枝准にとって描き出したいものなのではないかということだ。

十郎丸は作中でよく「種の保存に連なることのできない私の存在は罪だ」といったことを口にする。

「とはいえ、人間は惰性であれ不毛であれ、種さえ残せばすべてが許されるのかもな。むしろ、そう思わない私の遺伝子が異常なのだろう」

「このプールで泳がされているイルカと同じだと言っているのだよ。我々の生きる世界はこのプールだ。種として正しく生きなさい。正しく、子を産み、育てなさい。存続させていきなさい。よーし、よく出来ました。ほら、ご褒美に『幸せ』という感情だよ。たーんと味わうがいい。特に意味はないものだけど、これがなければ不幸になる。不幸にはなりたくないだろう? 『幸せ』はいいだろう? だからちゃんと生きなさい。そうそう、いい子だねぇ……」

「結局のところ、私たちはDNAを運ぶ船でしかなく、個に意味はなく、種のために生きなければならないなんて、個としては実に馬鹿らしい。私は何も残したくないし、守りたくないし、跡形もなく消え去りたい」

芸術的な才能に恵まれ、語り手いわく容姿も整っているという十郎丸は、退屈を紛らわすために複数の男性と交際したこともあるという。
マッチングアプリで探すのは男性であるとの発言があることから、性的嗜好としては異性愛者ではあるようなのだが、それとは別の意味で「子をなし育てること」を幸せな像だと思えない。
その正体ははっきりと語られるわけではない。性的嗜好にも精神的な病名にも還元できない、名状しがたい絶望感なのだ。

そういった人間が特別な誰かとの出会いを経て、その先の世界に行くことができるか、ということが麻枝准作品を貫く主題なのである。運命的な二人が出会い、一緒になってめでたしめでたし、とは決してならない(あの印象的な『CLANNAD』のオーラスエンディングも、一周目の汐が犠牲になった感触の上に成立している)。
絶望した人間は誰かと出会って、まだ生きてもいいと少しばかり前向きになって、しかしすぐにまたひとりになる。しかしそのかけがえのない誰かとの「約束」を胸に、孤独でも「強く」生きていく。

Angel Beats!』放映から10年が経って、とっくに麻枝准作品は男性ファンだけのものではない。
社会を取り巻く状況も変わり、ジェンダー性的嗜好の多様性、「家族」の形も様々とされる時代。
そんな中、実質的なシナリオライターデビュー作『MOON.』(1997年)以来、実に二十数年ぶりに女性主人公の一人称で紡がれた自身初の小説で、麻枝准の一貫した「変わらなさ」が示されたことは、非常に意義あることのように思う。
いつの世も、どんなアイデンティティを持った者にも普遍的に襲い来る絶望と、それを超えていく「出会い」と「強さ」の意義について、一貫した世界観を描き続けているのが麻枝准という作家なのだ。

*1:下記の動画(有料)の3:00:00頃より言及あり。

shirasu.io