『Charlotte』を解読する(補論)

※こちらの記事の補論として書かれています。
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Charlotte』を解読するにあたって一番の難所となるのが、やはり第9話「ここにない世界」で描かれる映像である。

結論からいえば、あれは「並行世界」なのであるが、後に登場する隼翼の「タイムリープ」能力とは無関係に存在していることが曲者である。

乙坂にあの映像が流れ込んできたのは、ZHIENDの「Trigger」を聴いてなのだから、おそらくサラ・シェーンの能力によるものだと考えるのが正しい。

彼女の能力は「並行世界をまたいで歌を響かせる(その歌を聴いた並行世界の同一人物をつなぐ)」といったものだろう。

(ちなみになぜ成人しているであろうサラがいまだに能力者であるかは、ミュージシャンである彼女は感性が子供に近いから…とか、あるいは彼女自身にはすでに能力はなく、その「音楽」の中に能力が保存されているからだ…とかいった解釈が考えられる)

乙坂は隼翼のことを「思い出した」のではなく、「並行世界」の映像を通して「『兄がいる』という事実(だけ)を知った」と言ったほうが正しい。

しかし、サラの能力について詳しいことが言われていない以上、素朴に見ている限りでは隼翼のことを「思い出した」ように錯覚してしまう(乙坂や隼翼自身も「記憶を取り戻した」前提で会話をしている。だからこそ、隼翼は乙坂との間に「歩未を救う」という「約束」があったことを語るのである)。熊耳が隼翼に「前泊が消去した記憶は取り戻していないようだ」と耳打ちする場面があるが、実際には乙坂はいかなる記憶も「取り戻して」いないのである。

(こうして見ると、1話のラストや5話「いつか聴いた音」で、隼翼のことをおぼろげに「思い出す」シーンでかかっているのがZHIENDの「Fallin'」なのは、完全にミスリードであるとわかるだろう。ZHIENDの音楽は「(忘れていた記憶を)思い出す」音楽ではなく「(並行世界の映像を)到来させる」音楽なのである)

そして隼翼の主観からすれば、「並行世界」などというものは存在しない。乙坂がサラの能力によって見せられた映像に近い経緯はたどっているだろうが、それもすべて等しく「過去」として消え去っている(隼翼の経験上は、すべて一直線の出来事である)。

そう考えなければ、乙坂にタイムリープ能力を託すとき、あれほどあっけらかんとした態度をとっていた説明がつかないだろう。「この世界の歩未は助けられたが、あの世界の歩未は助けられなかった」というような倫理観を、隼翼は持ち合わせていないのだ。

しかし乙坂はサラの能力によって、「並行世界」の存在を知ってしまった。同じタイムリープ能力者といっても、兄弟にはその明確な差異がある。

(実際に映像として見ることをしなければ「並行世界」の存在に思いが至らないというのは、「並行世界もの」の物語を見慣れている私たちにとっては理解しにくい。しかし作中では「並行世界(もしくはパラレルワールド)」という言葉は一度も出てきておらず、この『Charlotte』という作品の世界においては、そのような概念は基本存在しないのかもしれない。そもそも、私たちだってそういった物語を受容する前はその存在について考えなかったはずで、「実際に映像として見ることをしなければ「並行世界」の存在に思いが至らない」というのは、かつての私たちのメタファーであるとも捉えられる。そう考えると、すっかり人口に膾炙した「並行世界的想像力」そのものに対する批評的な意識も、この作品に見出せるだろう)

「並行世界」の存在を知ってなおタイムリープ能力を使うということは、自らの意志で「並行世界」を生み出すということである。それは、「この世界の歩未は助けられたが、あの世界の歩未は助けられなかった」というような倫理的命題を、積極的に引き受けるということを意味する。そこに哲学的な可能性を見たのが、東浩紀の固有名論=キャラクター論だったわけだが、乙坂の「タイムリープをしない」という選択は、そもそもそういった命題が存在することがないような世界を選択するということである。それは単なる「責任逃れ」ではない(少なくとも、その決断をした時点では「並行世界は存在する」という記憶を失ってはいない)。本論でも述べたように、それは友利の寄せてくれた「対等な人間」としての信頼に応えるためであり、他人を「キャラクター」のようにしか見なせない「プレイヤー」としての倫理を、自らの意志で捨て去るということだったのである。

「中動態的家族」の誕生――『Charlotte』に見る「約束」の新たな相貌

※本稿は「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾」第3期の國分功一郎さんゲスト回にて提出した評論文を改稿したものです。

 

1.

2010年代の終わりもいよいよ見えてきた今年の初め、あるひとりの音楽家の突然の引退会見が世間に波紋を投げかけた。

小室哲哉。90年代に一世を風靡した作曲家・音楽プロデューサーである。

会見ではくも膜下出血により高次脳機能障害を負った妻・KEIKOが「夫婦として、大人としてのコミュニケーションが日に日にできなくなって」いる現状を告白。自身の体調不良、絶頂期に比しての作曲能力の衰えも感じる中、不倫相手と報じられた看護師との会話を通して「メンタルケアと言うときれいな言い方ですが、なんとなく容認してもらってるのかなという気持ちに」なったのだという。女性への依存を強く自覚する中で週刊誌の取材を受けたことに「自分への戒め」のようなものを感じ、けじめとして「引退」という形をとることを決意。会見の最後には「高齢化社会、介護、ストレスだったりの問題について、少しずつですがこの10年で触れることができたので、こういったことを発信することで、何かいい方向に、皆さんが幸せになる方向に進んでくれたらいいなと、心から思います」と締めた。*1

一時代を築いた音楽家が自らのプライベートな部分も含めて悲痛に語るその姿に同情的な反応が多く見られたこの会見だが、不倫疑惑を介護疲れや音楽家としての苦悩などの問題にすり替えたとして、批判的に反応している者たちも少なからずいた。しかし抜粋された発言を見るかぎり、小室は当該の事実を何らかの「原因」と結びつけることを慎重に回避しているように思える。女性看護師と会っていたという事実はあった、介護疲れという事実もあった、そして自らの才能の限界に直面したという事実もあった……と。それでもこうした糾弾が止まないのは、不倫、というよりはその前段である「結婚」という行為が持つ、根本的な性質に起因している。

ジョン・L・オースティンによって提唱され、弟子筋であるジョン・サールによって深化させられた「行為遂行的発言」の概念は、ある発言をすることがそのままひとつの行為となるような事態を説明する。彼らの著作中で特に代表的なものとして分析されるのが「約束」という行為である。サールによれば、「約束」という行為にはそこで言われている内容を遵守しなければならないという「責任」が常に伴う。「「私はAを行なうと約束するが、Aを行なうということを意図してはいない」などと述べるならば、つねに奇妙な事態が生ずる〔…〕つまり、「私はAを行なうと約束する」と述べることは、Aを行なうことを意図するという責任を負うことなのである」*2。「死がふたりを分かつまで……」の定型句を引くまでもなく、「結婚」という行為のうちにもこうした「約束」概念をめぐる素朴な理解は書き込まれている。不倫が世間に対して謝らなければならないとされる理由もそこにある。単なる行為のひとつでしかないはずの「約束」には、それが「誠実になされたかどうか」という倫理的な問題が、常について回るのである。

一方で國分功一郎は、 ある選択の「責任」を問う局面にて「意志」というものが初めて現れることを指摘する*3。本来、ある選択に至るまでにはあまりにも多くの要素が関わっているため、その始まりを何かひとつに定めることはできない。しかしある行為の「責任」を問うためにはその行為の「始まり」を確定させなければならず、そのために「意志」が召喚される。「意志」とは、数直線的なイメージの下に捉えられた時間において、その「絶対的な始まり」を司る。

そもそも、結婚とは社会的な制度にすぎない。生まれ来る子供たちに戸籍という社会的身分を与えるために、あるいは氏族同士の結び付きをより強固にするために……つまり制度としての「家族」を実現するためにそれは繰り返されてきた。しかし自由恋愛と核家族の時代を経て、シェアハウスや事実婚など新たな「家族」の形が模索される現在において、その「絶対的な始まり」として結婚=約束を位置付けるのは適当ではない。

約束はいったい何を与えるのか。時間をである。もちろん、「待つ」時間を、「決済のなされるときを待つ」時間を。〔…〕約束という行為のもつ力と危うさは、時間のなかでしか〔…〕与えられぬものを、「現在」〔…〕のうえに構築するということにあるのである。〔…〕われわれは約束によって設定された時間だけを生きており、それ以外の時間を生きるすべを知らない。だからこそ、人は皆約束をもたねばならないのである。*4

「家族」は結婚=約束をしたという「事実」によってではなく、その後の長い時間の中で育まれる「愛」によって支えられている。この当たり前の事実を踏まえれば、「約束」を新たな相貌の下に捉え直すことができるようになるのではないか。

 

2.

アニメ『Charlotte』(2015年)は、まさにこのような主題を扱った作品である。本作は『CLANNAD』『AIR』『リトルバスターズ!』などのゲームを手がけたシナリオライター麻枝准が全話の脚本を執筆した全13話のテレビシリーズで、いわゆる「超能力者もの」に分類される。特殊な能力(他人に乗り移る、姿を消す、高速で移動する、など)を持った少年少女たちが協力して様々な事件を解決する、というこのジャンルのフォーマットを、(少なくとも序盤においては)踏襲している。またこれまでの麻枝作品と同様、「家族」の主題も早い段階から提示されており、主人公・乙坂有宇とヒロイン・友利奈緒が、ともに育児放棄をされて育ったという事情などが語られる。

しかしこの作品を取り上げる上で重要なのは、タイムリープ(時空移動)の能力が登場する終盤の展開である。そこではこの能力が登場する多くの作品と同じように、タイムリープをした者とそうでない者、両者の生きる「時間の隔たり」の問題が前景化してくる。その中で「約束」というファクターが大きな意味を持つのである。

掻い摘んで流れを説明しよう。中盤、乙坂の妹・歩未が不慮の事故により命を落とす。失意の乙坂は荒れた生活を送るが、友利の叱咤により救われ、そのことをきっかけに乙坂は友利に好意を持つ。

やがて乙坂はあるきっかけにより、それまで忘れていた兄・隼翼の存在を知る*5。隼翼は自身の持つタイムリープ能力を駆使して過去を変え、現在の乙坂や友利も通う、能力者のための学園を作った人物だった。しかしこのタイムリープ能力は使うたびに使用者の視力を奪っていくもので、すでに失明した隼翼には使えない。隼翼は「何があっても歩未を救う」ことが兄弟の約束だったことを告げ、乙坂の持つ「他人の能力を奪い取る=略奪」能力によってタイムリープ能力を譲渡する。それによって乙坂は、歩未を救いに過去へと赴くことになる。

過去へと戻った乙坂は、歩未が命を落とすはずだった事故を未然に防ぐ。しかし今度は彼の「略奪」能力を狙うテロリストの襲撃を受けることになってしまう。戦闘の中でタイムリープ能力を封じられ、隼翼の親友・熊耳を失うなどの犠牲も出る中、乙坂は自身の能力を使って「世界中の能力を奪い、能力者の存在しない世界にする」ことを決意する。旅立つ直前、乙坂は友利に告白する。「歩未を失った絶望から救ってくれた君が好きだ」と。タイムリープ前の記憶を有しない友利には当然心当たりがないのだが、「すべての能力者を救ってもう一度会えたなら、恋人同士になる」ことを約束する。乙坂はその約束を胸に海外へと旅立つ。

順調に世界中の能力者から能力を奪っていく乙坂だったが、複数の能力を宿すことは脳への負担が凄まじく、次第に記憶を失っていく。それでも目的を完遂し、倒れ伏したところを隼翼によって回収されるが、その時にはすでに自分が何者なのかもわからない状態になっていた。長い眠りから目覚め、「君は誰?」と問いかける乙坂に友利は答える。「私はあなたの恋人です」と。

 

3.

以上が『Charlotte』の概略であるが、そこでは「約束」という概念の二つの新たな相貌が示されているといえる。

  1. 「待つ」ための時間を与え、「愛」を育むものとしての「約束」。
  2. 対等な人間同士の、相互信頼の証としての「約束」。

1.については、第一節の最後に提示した問いの通りである。友利から乙坂に対する恋愛感情は無いに等しいものであったが、「待つ」時間の中で愛は育まれていった。ここでポイントとなってくるのが拡張された「家族」の存在である。実は、友利にも兄がいた。彼もやはり能力者だったのだが、非道な科学者の手に落ち実験材料とされ、現在は廃人同然の状態である。友利がいくら妹として兄を想っても、兄からの応答を得ることはない。一方で、乙坂と歩未の間には「時を超えてまで」命を救おうとする絆があり、友利はその姿に「兄‐妹(自分)」の関係の、「ありえたかもしれない姿」を重ねていたのではないか。直接的な描写はないが、旅立った乙坂のことを友利と歩未はともに待っていたはずで、だとすれば歩未の存在を介して二つの兄妹がパラレルに結び付き、ひとつの擬似家族的な関係が形成されていたといえる。「誰かを待つ」ことで育まれる愛とは、その「誰か」に対してのみ育まれるものではない。その「誰か」を「ともに待つ」人々との間にも育まれるものなのだ。

2.に関しては、まず隼翼と乙坂の間で交わされたという「約束」について考える必要がある。隼翼が乙坂に告げる「何があっても歩未を救う」という「約束」は、隼翼についての記憶を失っていた乙坂にとっては本人の口から聞かされただけの不確かなものである。それでも乙坂がタイムリープの能力を受け継いだのは、彼自身にも「歩未を救いたい」という思いがあったこと以上に、友利が能力者のリーダーである隼翼に、全幅の信頼を寄せていたことによる。乙坂は隼翼との「約束」を守ることで、友利を含むこうした「信頼関係のネットワーク」の一員になろうとしたのではないか。

「約束」は「信頼」に基づく――このことは乙坂と友利の間で交わされた「約束」について考える上でも重要である。

乙坂が好きだと告げる友利は、「歩未を失った絶望から乙坂を救った」友利ではない。にもかかわらず目の前の友利のことを好きだと言うとき、乙坂の中にあるのは「友利奈緒」という「キャラクター」への信頼である。ここでの「キャラクター」とは東浩紀の論を参照している。東曰く、あるキャラクターがそのキャラクターとして存在しているのは、そのキャラクターに関する二次創作が存在しているという事実に拠っている(「固有名」一般に敷衍すれば、あらゆる「Xは~だ」が言いうるということが、その固有名Xにとって本質的だということだ)。言い換えれば、どんな物語に投げ込まれたとしても「そのキャラクターだ」と確信できるような何かが、そのキャラクターをそのキャラクター足らしめているということである。

タイムリープ能力を持つ限り、乙坂にとって「友利奈緒」という固有名=キャラクターはあらゆる可能性=二次創作に開かれた存在であり、約束を交わした「この」友利を好きだという必然性はない。その非対称な関係はゲームの「プレイヤー」と「キャラクター」の関係にもなぞらえられる。乙坂が旅の途中で再びタイムリープ能力を手にする機会を得た際、結局それをしないのは、一見「兄の親友の命」と「愛する人との約束」を天秤にかけたように見えて、実はそうではない。友利が「すべての能力を消し去って帰ってきたら、恋人になる」という約束をしたのは、乙坂を対等な「人間」として信頼したからだ。乙坂は友利の信頼に応えるため、「プレイヤー」であることを自らの意志=責任において放棄し、対等な「人間」としての立場に下りようとしたのである。

 

4.

上に見たような意味での「約束」概念を通じて「家族」概念を再考することは、東浩紀の提唱する「家族の哲学」を拡張することにもつながる。東の「家族の哲学」は新しい「家族」概念を考える上での三つの特徴を「強制性」「偶然性」「拡張性」に求めているが、このうち「偶然性」こそは『存在論的、郵便的』『ゲーム的リアリズムの誕生』『クォンタム・ファミリーズ』と、複数の著作にまたがって展開されてきた東の思想の核心に通じている。

世間では「子どもは親を選べない」と言ったりするが、それは哲学的には不正確である。子はたしかに親を選べないが、そもそもほかの親を選んだら自分が自分でなくなるのだから、その想定には意味がない。ほんとうの意味で「選べない」、すなわち偶然性に曝されているのは、むしろ親のほうである。ぼくたちはみな、出生のときに巨大な存在論的抽選器を通過している。ぼくたちのだれひとりとして、生まれるべくして生まれた必然的な存在はいない。ある親からある子どもが生まれることには、じつはなんの必然性もない。みな親から見れば偶然なのだ。この点において、すべての家族は本質的に偶然の家族である。*6

以上の記述からもわかる通り、東の「家族の哲学」における「偶然性」とは、あくまで「親」の立場から見た「子」という存在の偶然性のことを指す。この「偶然の子供たち」の問題は、前節でも触れた「キャラクター」の問題に重なっている。語弊を恐れず言えば、東にとって「子」とは「キャラクター」と等価なのである。それを端的に示しているのが、『Charlotte』の麻枝准がシナリオを手がけたゲーム『CLANNAD』をアニメ化した作品、『CLANNAD AFTER STORY』(2008年)について述べた以下のテキストである。

ぼくの考えでは、もともとマルチエンディング・ノベルゲームでは(そして本当は、ぼくたちが生きているこのリアルな世界においても)、「トゥルー」エンドなどというものはありえない。渚と汐を失った人生も、渚と汐と幸福な家庭を築き上げた人生も、ともに朋也にとっては真実でしかありえない。不幸な人生にも幸福な人生が可能性の芽としては畳み込まれており、またその逆もある、というのがマルチエンディング・ノベルゲームが提示する世界観なのであり、それは原理的に、「主人公が努力すれば幸せを摑むことができる」という通常の物語とは異質なものです。

したがって、CLANNAD AFTER STORYの最終2話で、朋也がある一方の人生から別の一方の人生に突然にジャンプしたとしても、それはまったく原作の世界観を損なわないとぼくは考えます。そして逆に、放映直後のエントリでも書いたように、あの最終話が単なるハッピーエンドだとも思わない。というのも、あの最終話を観たあとでも、ぼくたちは渚と汐が死んだ「別の世界」を忘れてはならないはずであり、そしてその忘却不可能性はアニメ版でもしっかり演出されていたと思うからです。汐はCLANNADでは、救われていると同時に救われていない。*7

「朋也」とはこの物語の主人公、「渚」とは妻となるヒロイン、そして「汐」とは朋也と渚の間に産まれた娘のことである。原作『CLANNAD』はプレイヤーの選択によって物語が分岐していくタイプの「マルチエンディング・ノベルゲーム」で、それをテレビアニメという一本道の物語に再構成するにあたって上述したような表現がなされていた。東が言っているのは、ゲームでは描かれていた「複数の可能性」がアニメでは直接的に描かれていなかったとしても、そのような可能性は常にすでに存在している、そしてそのような想像力を呼び込む契機となるのが、「汐」という固有名=キャラクターなのだ、ということである。

東の「家族の哲学」において「愛」の問題が語られうるとすれば、「子」の偶然性=キャラクター性を媒介にして、「ここにない世界」に思いを馳せよ、そうした可能性の総体に対してこそ「愛」を差し向けよというものになるだろう。しかしそこには「時間」の位相が欠けている。ちょうどノベルゲームの各「ルート」のうち、相互に重複する過程がアニメ化に際して省略されてしまうように。

國分功一郎がエミール・バンヴェニストを引きつつその存在を示す「中動態」は、「主語が(その行為の)過程の内部にある」ことによって特徴づけられている*8。本稿で取り上げてきた「待つ」「愛する」「信頼する」といった行為はまさにこの特徴に当てはまるわけだが、そもそもこうした行為に伴う「過程=時間」を与えるものとして、「約束」概念が新たに見直されたのであった。こうして「約束」概念が「中動態」的行為の契機として見出されるとき、そこに立ち上がる家族観を「中動態的家族」と呼ぶことができるだろう。これは小室哲哉、あるいは友利奈緒が直面する「記憶を失った恋人(妻)と、どのような関係を築いていくべきか」という問題にも、ひとつの解答を与えるものである。小室はKEIKOとの離婚を考えているのかという記者からの質問に対して「女性というよりも子供のようで、今のKEIKOのほうが愛情は深いです。離婚という大人の言葉が浮かんでこないです」と答えていた。交わした「約束」が与えた時間は、いわば「第三の時間」として永遠に保存される。その中で育まれた「愛」は、たとえ一方が記憶を失い、「同じ時間」を生きられなくなったとしても、確かに二人を支えてくれるのである。

*1:小室の発言に関しては、「音楽ナタリー」に掲載の記事「小室哲哉、涙の引退会見「悔いなし、なんて言葉は出てこない」」を参照。
https://natalie.mu/music/news/265902

*2:J. R. サール著、坂本百大・土屋俊訳『言語行為 言語哲学への試論』(勁草書房)より。

*3:國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)より。

*4:立川健二・山田広昭著『現代言語論 ソシュールフロイトウィトゲンシュタイン』(新曜社)より。

*5:実際にはこの経緯はもう少し複雑である。全話視聴を前提としたものだが、別稿にて整理したので興味のある方はそちらを読まれたい。
http://sr-ktd.hatenablog.com/entry/2018/02/27/025443

*6:東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)より。

*7:東浩紀の渦状言論 はてな避難版」に掲載の記事「汐は救われているのか」より。
http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090317/1237217360

*8:國分、前掲書より。

「批評」ってなんだ。

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このエントリから気づけば半年以上が経っていた。

ゲンロン批評再生塾第三期。いよいよそのフィナーレを迎えようとしている(まだ最終課題の提出が残っているが)。

 

結果的には全15回中、2回登壇(蓮沼執太回、宮台真司回)。うち1回は1位を獲得(蓮沼執太回)。

 

■蓮沼執太回「蓮沼執太についての評論を執筆せよ」
理想と破壊、そして相即――「肯定の音楽」としてのポップス考 – 新・批評家育成サイト

 

宮台真司回「蓮實重彥の功罪」
蓮實重彥は「ゴースト」である――再説・無名論的キャラクター論 – 新・批評家育成サイト

 

おまけで、批評再生塾初の「登壇してないのに特別点1点」をいただくという珍事もあった(東浩紀回)。 

 

東浩紀回「批評とはなにかを定義せよ。」
「セカイ系批評」再生宣言 – 新・批評家育成サイト

 

登壇するまでは、とにかくやさぐれていて、自分が書くものは誰にも理解してもらえないのか、能力のない者が何かを書きたいと思うのは罪なのか、ならばいっそ書くことを止めてしまえば……と、自意識が負のスパイラルを描くのを止められなかった。たぶん当時のTwitterのログを見たら、ものすごいことになっていると思う。 

蓮沼回で初登壇できたというのは皮肉な話で、現在も仕事で関わっているためにツイートすることすらなるべく避けてきた、ポップミュージックへの言及というのを解禁した途端だったからだ。「書く」ということはプライベートに属することで、仕事=社会で考えていることを持ち込みたくない、という意識がどこかにあった。

 

でも「批評」というのはそういうある程度の距離感を保った対象を扱わないと成り立たないものなのかもしれない、といまにして思う。

結局好きな対象について書くとそれがいかに素晴らしいものかということを伝えたくて、説明部分が長くなってしまう。最新回*1ではそれを「悪癖」と断罪されてしまったが、そういう「オタク語り」「エモ語り」は(少なくとも「批評」の読者にとっては)よそでやってくれ、ということなのだろう。

 

数ヶ月このプログラムに全力をかけてきて思ったのは、自分は「書く」ということをやめることはないだろうなということと、自分が本当にやりたいことは「批評」ではないのではないかということだ。

 

そもそも自分にとっての「書く」ことのモチベーションというのは、自分がある作品や出来事に心を動かされたということを、誰とも共有できないことの「寂しさ」から来ている。

小さい頃はよく泣く子供だった。いま思えばそれはすべて「なぜ自分の感情は誰にもわからないんだ」という根本的なことに対する悲しさや悔しさからだった。

「悲しさ」や「悔しさ」を堪えられるようになった代わりに、「寂しさ」を感じるようになった。

大切なことは誰とも共有できないというのは、見方を変えれば誰にも侵されない領域があるということで、救いでもあるのかもしれない。

でもそんな風に大人ぶって割り切ってみせたところで、この「寂しい」という感情は残り続ける。理屈じゃないのだ。

 

「本当に好きなもの」について語るのを避ければ、「批評」を続けることは可能だと思う。複数回登壇できたことで、その手応えはあった。

ただ僕は、「本当に好きなもの」について語りたい。それが「どのようにして」自分の心を震わせたのかという、感動そのものを伝えたいのだ。

たとえば、感動とは対象の中に性質として存在するものではなく、「私の」側にあるものなのだと考えれば、そのような効果を生むものを自らが「創る」ことで再現することはできるかもしれない。「批評」ではなく「創作」をということだが、これもひとつの道ではあると思う(プログラムが終わったら真剣に取り組もうとは考えている)。

しかし、「その」対象に覚えた自分の感動を共有できないという「寂しさ」は、この方法によってもやはり埋められそうにない。

 

個人的に受けた感動について「自分は「書く」ということをやめることはない」と言うことは、「誰とも異なる感情をもった、ひとつの実存として生き続ける」と言っているのと変わらない。決意するまでもなく当たり前のことだ。

批評再生塾のプログラムを通じて気づかされた最も大きなことは、人は社会の中に住んでいるということと、「書く」ということもまたその中にしかあり得ないという、やはり当たり前のことである。だが自分はそんな当たり前のことにも気づけていなかった。「書く」ということは、「社会=他人の解釈」を介さず感動を直接伝播する、「エーテル」のようなものだとどこかで信じ込んでいたのだ。

 

ひとりひとりの人生(実存)と 、社会の中で生きるということは別物だ。
社会の中に僕も生きている。そのことをないがしろにするつもりはない。

だけどやっぱり、僕は人生(実存)のほうが「本物」だと思ってしまう。 

虚空に吠えるような言葉ではなく、誰かに「読んで」もらうためのものを「書く」ということは、どんなスタイルであれ「本物」の度合いを薄めなければならないだろう。そのようにして「書く」ことを続ける(生業にする)かというのは……まだちょっと答えが出そうにない。それは「寂しさ」により近いところで向き合い続けることだと思うからだ。

 

まずは2万字の最終課題を書いてみようと思う。もちろん適切な「距離」をとれる対象、テーマを相手取ってだ。

この先も「寂しさ」に耐えることができるか、それがひとつの試験紙になると思うから。

*1:Charlotte』を扱った國分功一郎回。ちなみに当初これを最終課題にしようと思っていたが、考えた末こちらに回した。 

「中動態的家族」の誕生 – 新・批評家育成サイト