Key『Summer Pockets』総評

※以下、設定や物語展開について多くのネタバレがあります。これからプレイされる方はリターン推奨。

 

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6月29日に発売されたKeyの新作『Summer Pockets』。2016年末の発表よりむろん心待ちにしていた。
今作発売までの間には麻枝准氏の入院、樋上いたる都乃河勇人両氏の脱退などKeyというブランドにとっての大きな危機があった。しかしそういうときだからこそKeyというブランドの輝きが増すのではないかとの思いも同時に持っていた。

自分は、Keyの主題とは「不在を埋めること」「意志を継承していくこと」だと考えている。(詳しくは過去に書いた記事を参照してほしい)

メインスタッフの多くが不在の状況で作られ始めた今作は存在自体が「Key的」と言うことができ、ゆえに最高傑作たりうるのではないかというわけだ。事前に公開されていたテーマ曲「アルカテイル」の「歩き続けることでしか残せないものがあるよ」というフレーズにも、直接的にその決意が込められているように思えてならなかった。

さてそんな『Summer Pockets』だが、ボリューム的には「Pockets」というタイトルが示す通りの小品(という言い方が言いすぎなら中編)という印象。プレイ時間は共通部分が2時間、各個別シナリオ(×4キャラクター分)が3時間ずつあれば読める。その後のグランドシナリオは5時間ほど……とすると総プレイ時間は20時間くらいかと。(もちろんミニゲームをやりこんだりすればもっと増える。リズムゲームに近いインターフェースの卓球ゲームはタブレットPCでやると非常に楽しい)

本作では「ノスタルジー」をキーワードに、「夏休み」というものを概念的に捉え直している(原案としてクレジットされている麻枝氏から提示された先行作品は『ぼくのなつやすみ』だという*1)。夏休みは「青春」とは違って「卒業しなきゃならない」ものではない。また夏は巡ってくるし、傷ついたらいつでも戻って来れるそんな時間/場所。終わりがあり、常になつかしく、くり返すもの……

最終シナリオにおけるとある人物のセリフに本作の「夏休み」観が凝縮されている。

どこにでも行ける翼があるとするね
過去にも未来にも飛んでいけるの
例えば、過去とか未来とか、いろんなものの境目がなくなったとしたら
それってどういうことなんだろう
それって自由なのかな
逆にどこにも行けなくなってるだけじゃないのかな
私には大きな籠の中に閉じ込められてるようなイメージに見えるの
夏休みだってそうだよ
7月の下旬にはじまって、8月で終わる
だからいいんだよ
それがずっと夏休みだよなんて言われたら……
自由なように見えて……それは、大きな籠の中に閉じ込められてるのと同じなのかもしれない

Key作品はクオリティ優先で発売日を引き延ばすことも常だったと聞くが、今回はマスターアップまでのカウントダウン(「発売までの」ではなく、ですよ!)などもして進行が順調であることを伺わせていた。「夏休み」がテーマで、新しい「夏休み」が始まるというところで終わるこの作品を、この時期に発売できたということはとても大きい。

どの時期にどれくらいの時間をかけてプレイするかということは、たった数年前と比べてさえ細切れの時間を生きるようになった私たちにとってはとても大事なことで。クオリティはもちろん大事であるが、ディレクターも兼ねている魁氏をはじめとしたスタッフたちの戦いが「この夏に間に合わせる」というところにもあったのだとしたら、それは評価されるべきことだし、していきたいと思う。

 


 

以下、シナリオの感想。

共通設定として、主人公の鷹原羽依里は有望な水泳選手だったがリレーの試合中に泳げなくなり(いわゆるイップス)、部活をやめて荒れた生活を送るようになる。やがて暴力沙汰に関わったことが親や学校に露見し停学処分となり、夏休みを利用して親戚の住む「鳥白島」に来ている……というものがある。

 

・鳴瀬 しろは
海神を祀る神社の家系の娘である彼女は未来が視えるという。幼い頃クラスメートが事故に遭う光景を視てしまったことをきっかけに「呪いをかけた」と噂されるようになり、自ら他人と距離を置く性格になっていた。それを余所者である主人公の介入で解きほぐしていくのだが、設定の根幹に触れる能力を持つ彼女だけにこのシナリオ単体ではいまいち盛り上がりにかける印象。「呪いをかけた」とか本気にしているのは専ら年配の世代であり、同年代の脇キャラは大して本気にしていない……ということでいろいろ世話を焼いてくれる、その幼馴染感の描写はよかった。メインヒロインということで、シナリオ担当の中で一番上にクレジットされている新島夕氏が担当していると思われる。

 

・空門 蒼
しろはが海の巫女なら蒼は山の巫女。死者の残留思念が蝶の形をとった「七影蝶」を黄泉の国へと還す祭事を担っているという。ただ彼女はその役目とは別にある特別な記憶を持った七影蝶を探していた。それは幼い頃迷子になった自分を探す過程で事故に遭い、いまでも眠り続けているという双子の姉の記憶であった……。
ロゴにもあしらわれておりシナリオの全体を理解する上でも重要な「七影蝶」が登場。このシナリオ単体では個人的な問題の解決(姉の記憶探し)に終始しクエスト的に進行するので尻切れトンボ感はない……のだが、終盤の展開・演出にはくどさを感じる。蒼のキャラ自体は悪くないのだが、他シナリオでは友人ポジションなので恋愛展開に持っていくために多少力技を使っている感はあるなと。他の3シナリオの担当がほぼ確実なので、消去法的に魁氏が担当か(キャラ設定的にも紫髪・双子・女友達と魁氏が担当したCLANNADの杏を想起させる)。

 

・久島 鴎
結論からいうと彼女はあゆ‐風子の系譜に属する生霊的な存在である。本体は遠く異国の地で眠りについているのだという。
10年前、ささやかな冒険ごっこを通じて仲良くなった友達との約束を胸に当時隠したお宝を探しに島に戻ってきたのだというが、そのエピソード自体が病気がちな彼女のために作家である母親が彼女をモデルにしたためた物語だった。しかしその物語が本になって出版されたことで「読者」という名のたくさんの「幼馴染」が彼女にはできていた。“カモメ”というヒロインのファンになった子供たちがたくさんいたのだ。主人公の羽依里もそのひとりで、過去にファンレターを送ってもいた。
クライマックスでは同じように“カモメ”に手紙を出していた子供たちに羽依里が招待状を返送し、集まったかつての子供たちに物語に描かれた冒険譚をオリエンテーリングとして提供する。姿を消していた鴎も戻ってきてその光景を見届ける。「ここにいない」はずの生霊的存在が本来つながらなかった人々を集わせるという光景はCLANNAD風子シナリオの結婚式シーンを思い出させる。「夏の冒険」というこの作品らしい意匠を盛り込みつつ、作中作というガジェットを用いてブリッジしたのは新島夕氏の過去作を思わせる手つき。これまでのKeyのモチーフを拾いつつライターの個性も出した完成度の高いシナリオといえるのだが、個人的には涙を流すまでには至らなかった。おそらく演出の問題で、たとえば羽依里の招待した読者がたくさん集まっている光景の一枚絵があるだけでも全然違ったのではないかと思う(アニメ化に期待したい)。

 

・紬 ヴェンダース
大号泣……。ベタな話といえばベタな話(ネタ的にはCLANNAD美佐枝さんシナリオが近いと言えばだいたい伝わるだろう)なのだけど、演出もテキストによる作中時間のコントロールも個別シナリオの中ではずば抜けていた。
キャラの好感度的には他の3人に比べても高くなかった。「むぎゅ」とかいう口癖も含めてわりとあざとさを感じてしまったというか……しかしそれを緩和する存在として静久というキャラがいるのがよかった。2人だけの閉じた関係を作ろうとするのではなく、3人組で夏の思い出を作ろうとなる。そこに次第に他の連中も加わっていき……(最終ルートを除けば)すべての攻略ヒロインがお話に絡む唯一のシナリオでもある。
夏休みの間に一生分の思い出を作った主人公たち。残された2人の別れ際、「あの子(紬)は夏休みだったのよ」という静久の言葉がすべてを物語っている。紬と過ごした時間ではなく、紬という存在自体が夏休みのようなものだったと。「夏休み」のキャラクター化。いつか終わることを知っていて、それでも全力で駆け抜けずにはいられない……
挿入歌(これが流れるタイミングがやばい)の作詞を「ハサマ」氏が手がけているので、シナリオ担当は氏で確定かと。知らない方だったので発売前は不安視していたのだが、良い意味で見事に裏切ってくれた。

 

・ALKA/Pocket
最終シナリオ。RewriteにおけるMoon/Terraのように二段構えになっている(ただしMoon/Terraと違って、文章量は圧倒的にALKAのほうが多い)。

まず押さえておかなければならないこととして、共通シナリオにおいて日常を象徴する「うみ」というキャラクターがいる。羽依里のはとこにあたるという10歳くらいの女の子なのだが……2キャラをクリアした時点で日常シーンにおける彼女のキャラ性が変化する。最初は誰に対しても丁寧語でしっかり者な印象だったのが、どんどん子供っぽく……いや、幼児化していくのだ。少し他人行儀な主人公との距離感(実は理由があり、後述する)が好きだったので、この変化には戸惑いも覚えてしまった。しかも微妙にテキストが変化したことにより既読スキップが不可能になるので、メタレベル(テキストを読んでいるプレイヤーとしてのレベル)で彼女への好感度が下がっていくという大きな問題が……ともあれこの変化により作品世界がオブジェクトレベル(キャラクターの存在しているレベル)でもループしていると示唆される。だが単純なループではないのではという示唆もあって、少なくとも並行世界モデルではなさそうだなと。しろはルートで一瞬彼女に乗り移る形で神?のような存在が「私たちは時の編み人……」とか言うシーンがあるのだが、今作では時間というものが「編まれる」ものとしてイメージされているようなのだ。

以上を踏まえた上でALKAシナリオの本筋へ。幼児化したうみとしろはと主人公は夏休みの思い出作りに擬似家族を形成する。やがて明かされるのはうみは実はしろはと主人公の娘であり、実現されなかった三人での親子関係を求めていたということ。しろははうみの出産時に死亡しており、その後うみと羽依里は良好な父娘関係を築くことができなかった(CLANNAD!)。そこでうみは島の巫女としての能力を発動させ、過去へとワープしてきたのだった。

ここで島の巫女の能力について詳細が明かされる。それは寂しさやつらさを抱えたときに「楽しかったあの頃」に心だけを戻すことができるというもの(その際に七影蝶の姿をとる)。しろはシナリオで未来視だと思われていたのは、実は彼女がこの能力によって何度も同じ夏をくり返していたからなのだった。うみは両親に会いに過去へとやってきたが(身体ごとなのはイレギュラーらしい)、それによってしろはにはうみとの思い出が「生まれてしまった」。まさに卵が先か鶏が先か、という状態に陥り、しろはも「あの頃」を求めて無限ループに囚われてしまったのだ。

そう、本作において実はループ主体となっているのは主人公の羽依里ではなく、ヒロインのしろはとその娘であるうみなのである。プレイヤーが見てきたのは蝶になったうみが見た様々な「夏休み」のあり方。しろはと羽依里が結ばれないルートでは当然うみは存在できないが、それによって「正しくない」夏休みということにはならない。ひとつの楽しい「夏休み」のあり方を見せてくれたという意味で、うみにとっても大切なものなのである(現に、本作ではすべてのテキストを読み終えたあとに4人のヒロインが並列に描かれた最初のイラストに戻る。ALKA/Pocketシナリオの結末は決して「TRUE」エンドではない)。くり返してきたすべての時間がモザイク状に重なり合って、ひとつの「夏休み」という情景を浮かび上がらせる。それが時が「編まれる」というモデルである。

Pocketシナリオにおいてはそもそもしろはが過去へ戻る能力を得なければいい=「あの頃」を求める気持ちを持たなければいいとのことで、彼女が両親を失い、能力を得てしまった幼少期へと遡行する。この遡行する主体はうみをベースにした複数の七影蝶の集合体であり、「七海」という仮初の名前をもって受肉する。このCVを務めるのがそれまで「語り部」としてクレジットされていた花澤香菜で、彼(中性的に描かれているが、「僕」と言っているので便宜上こう呼ぶ)こそが「時の編み人」=すべてのシナリオを見てきたプレイヤーに相当する存在だといえる。
「七海」は自らの身体を構成していた七影蝶をしろはに分け与えることで様々な「夏休み」のあり方を見せる。両親はいなくなってしまったかもしれない、それでもこんなに楽しい夏休みが待っているのだよと……これによりしろはは過去へ戻る能力を身につけることなく、未来を見据えて歩いていけるようになる。しかしそれはうみとの因果が切れるということも意味しており、うみという存在がまた産まれてくるのか、そもそもしろはと羽依里はまた出会えるのか、ということは白紙になる。

そして数年後――というところでエピローグ。

 


 

さて、実際に最高傑作といえる出来になっていたのかだが……一言でいえば「Keyの新たなスタンダードとなりうる」作品であったなと。

マスターアップまでのカウントダウンができるほどにスケジューリングがしっかりしていたことをはじめ、音楽面、ビジュアル面、インターフェースの操作性……どれをとっても高水準だった。特に音楽に関しては間違いなくこれまでにない高みに達していると思う。舞台が小さな島であり、一ヶ月間という短い期間を描く物語だということもあるが、ギラつく日差し、青空と海の透明感、虫の鳴く夜の静けさ……それらのトータルなパッケージとしての「島で過ごす夏」が見事に組曲のようにして表現されている。複数の作曲家が書いているとは思えないまとまり感があり、今回初めて「サウンドプロデューサー」という肩書きを背負った折戸伸治氏の貢献は大きいだろう。やはりKeyにとっての生命線は音楽だと実感できた。

ビジュアル面のクオリティも総じて高かった。立ち絵を担当する原画家はゲストを含め4人だが、各担当のキャラが並んで表示されたときにも驚くほど違和感がなかった。リトバス以来メインを張ったNa-Ga氏はもちろん、今回からKeyに加わったという若手の「ふゆむん」氏もとても魅力的なキャラクターデザインされていたので、今後の活躍に期待したい。

 

そして肝心のシナリオ面であるが、麻枝氏が付録の冊子でこんなことを言っていた。

ラストシーンのテキストを確認し終えた後、「惜しい!」と感じました。ここに至るまでにたくさんのものを積み上げてきたのに、あまりに短かったため「これで終わりなの?」という肩すかし感を覚えました。

相変わらずの「あ、そういうこと言っちゃうのね……」な発言である。まあ、確かに言われてみればそんな気もしたのだが、しかしそのすっと終わっていく感じが本作のテーマ性には合っていた気もしている。というのも冒頭に引用した作中のセリフにもあったように、本作における夏休みとは「終わるからこそ、いい」ものとして提示されているわけで。そしてそれは「ノスタルジー」に重きを置く姿勢と矛盾しない。そこで憧憬されているのは、無時間的で普遍的な風景としての「夏」なのだ。

実は作中の年代は2000年の夏であることがALKAシナリオで判明する(それまでも携帯は登場しなかったり、ED曲の歌詞に「MD」というワードが入っていたりと伏線はあるのだが)。言わずもがな2000年とは『AIR』の発売された年であり、当時からのKeyファンに向けたサービス、あるいは「ゼロ年代というループを終わらせる話なのだ」といった物言いも直ちに思い浮かぶ。しかし個人的にはそういう「文脈」はどうでもよくって、自然と戯れながら夏を過ごすキャラクターたちの様子が本当に楽しそうで、島の暮らしっていいな、携帯のない生活っていいなと素朴に思わせてくれることがこの作品の何よりの価値だったと思っている(ちなみに自分は事前に「聖地」である直島・男木島に行ってきたのだが、プレイしながらも当地の空気感が思い出され本当に正解だった)。環境音楽のようにして、夏がくる度にプレイしたいと思わせる心地よい空気感。「泣き」と「笑い」の極端なコントラストを重視する麻枝体制では生まれなかっただろう魅力を、本作は確かに持っている。

また「泣き」の部分……シナリオの「深み」を担う部分に関しても、過去のKey作品の主題を総合し、さらに更新するようなことになっている。「AIRのような親子愛がテーマになっている」とは麻枝氏の弁であるが、ループ主体が主人公から子供(うみ)に移ったことで「主人公がヒロインを救う」から「ヒロインが主人公を救う」も飛び越えて、「子が親を救う」構造になっているのだ。その過程では同世代のメンバーをはじめとした島民との交流も描かれており、『リトバス』以降目立つようになったと言われる共同体への志向性も。ヨコの関係性(共同体)がタテの関係性(親子)を救うという物語構造は、村上裕一氏がかつて『カゲロウプロジェクト』を引き合いにKeyの発展形として提示していたビジョンであるが*2、それがまさに今回Keyのナンバリングタイトルとして具現化されたのは興味深い。

さらにこうした構造の対比は、今回メインを担当した新島夕氏と麻枝氏の対比としても捉えることができる。『はつゆきさくら』『魔女こいにっき』『恋×シンアイ彼女』と3作品プレイしてみての所感だが、新島氏が企画・メインシナリオを手がけた作品には「夢だったとしても幸せな夢だったらいいじゃん」とでも言いたげな世界観があり、そんな「夢」を提供するものとして「物語」という抽象概念を位置付けている。新島氏の描く「物語」の外にメタレベルは存在しないのだ(鴎シナリオの感想でも触れた作中作というガジェットについても、「物語」の外にではなく中にプレイヤーの居場所=メタ的な位相を作るべく用いられている印象がある)。これはプレイヤーの属する現実と作中世界を並行世界などの設定を用いてつなげるゲーム的リアリズム麻枝准的な処理とはある意味対極にあるスタンスとも言えるだろう。並行世界モデルにおいては、すべての分岐可能性を救うために特権的な存在としての主人公がメタレベルでの解決を試みる、という展開が常套である。その際に同じくメタレベルに存在する真ヒロインとの「約束」が主人公を突き動かす原動力になるわけだが(CLANNADの幻想世界の少女と「僕」、Rewriteの篝と瑚太朗に典型的)、今作ではそもそも主人公はループ主体ではない。個別シナリオのED曲「Lasting Moment」は新島氏が作詞しているが、その歌詞にある「約束のない永遠の中 いくつもの物語があふれてくるよ」というフレーズはこの対比の妥当性を裏付けてくれるものだろう(もっとも、今回「娘がループする」ということまで麻枝氏が考えている可能性もあるが)。

もうひとりのゲストライター、ハサマ氏の紬シナリオもよかったし、上述したような「Key的」なるシナリオ構造のリバースエンジニアリングを都度行うことができれば、ゲストライターも適宜迎えつつ新作を世に問い続けていくことができるのではないだろうか。

(なんだか批判するような形になってしまったので付け足しておくと……麻枝氏が書き下ろしたボーカル曲「ポケットをふくらませて」および、そこから派生する形で作られた数曲のBGMはbermei.inazawa氏のアレンジも相まって圧倒的な強度を備えていた。今回は折戸氏が座った「音楽プロデューサー」の位置に、麻枝氏が座った作品というのも見てみたいかもしれない)

 

今回築き上げた体制を元に、大作至上主義から転換し舞台やテーマをコンパクトに絞った作品をコンスタントにリリースし続けることができれば、これまでとはまた違った形でKeyというブランドの存在感が増してくることも考えられる。Keyを超えられるのは、やはりKeyだけだ。今作をプレイして、個人的にはその可能性は十分にあるなと感じられた。

また、そういうことを抜きにしても空気感がとても良い、実際に直島などに行きたくなる素敵な作品である。夏はまだこれから。ぜひ多くの人にプレイしてもらいたいと思う。

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アニメ『刀使ノ巫女』がすごかった。

アニメ『刀使ノ巫女』がすごかった。

完璧、100点満点すぎて書くことがないくらいなのだが、残念ながら一部熱狂的ファン以外には知られていないのが現状であるようなので、記録のためにも書いておこうと思う。

まず話の展開が面白い。ある剣術の大会の決勝で、主人公格のひとり(十条姫和)がいきなり刀使のトップに立つ偉い人(折神紫)に斬りかかるところから始まる。偉い人はラスボスである悪霊の親玉みたいのに取り憑かれていて、それを討つためではあったのだがそんなことは他の人間にはわからずお尋ね者になってしまう。そうしたら決勝で当たったもうひとりの主人公(衛藤可奈美)がさっき会ったばかりの姫和のことを助ける。可奈美はバトルマニアで「斬り結べば人となりもわかる」とか言い始めるタイプの人なのだが、それで姫和には何か事情があってそんなことをしたのだと確信したというのだ。こうして一見して相性の良くない二人組の逃避行がなし崩し的に始まっていく。

なし崩し的に始まるストーリーはライブ感を生む一方で、世界観を理解できないままにどんどん話が動いていくので、置いてけぼりになる可能性もある。特に最初のうちは刀使の使う独自の戦闘技術のせいで、戦闘で何が起こっているのかわかりづらい。ゴースト状態になり致命傷を避けることができる技「写シ」、加速した時間の流れに突入することで超高速戦闘を可能にする「迅移」など、作中の根幹の謎にも関わる「隠世」周りの設定がややこしい。自分も最初のうちは戦闘で何が起こっているのかわからなかった(1クール目の終盤でようやくなんとなく理解きるようになった)。これに関しては一気見することでストーリー展開の面白さの波に乗るしかないとしか言えない。幸いAmazonプライムに入っているし、どうしても理屈を理解したい人には用語集も充実している。


・用語集(公式サイト)

キービジュアルにも描かれているようにメイン格は6人なのだが、徐々に合流していく展開。6人というのはわりと多いと思うんだけど、序盤はペア×3をつくることでうまいこと視聴者の認識を助けている。(後期では別の組み合わせ、6人全員のチーム感というのも出てくる)

親衛隊という敵サイドのキャラも魅力的。前述のように刀使のトップに立つ折神紫は実は荒魂(大荒魂と呼ばれる高い知性を持った存在)に取り憑かれているのだが、親衛隊の面々は薄々そんな状態に気づきつつも、それぞれの思惑で籍を置いている。
親衛隊は荒魂の力を取り入れることで強さを得ている(人体実験的な…)。それによって病弱だが延命してた燕結芽というキャラの散り様を描いた11話が僕のベスト話数。傍から見て明らかに切ない人生だった人が、それでも人生を走りきったという満足感の中死んでいく…って話にはどうも弱い。「幸せだったかなんて当人にしかわからない」という命題をきっちり描いている作品は信頼できる。

荒魂という悪霊的なものを祓うのが「刀使」なのだが、悪霊というのは考え方でしかなく、祀り鎮める、敬意の対象である神であるという考え方も後に出てくる。荒魂はそれを斬る「御刀」を精製するときに出る不純物(ノロ)が結合し生命体のようになった存在、という設定もあり、そうした民俗学っぽいバックグラウンドもしっかり作られている。

ここで剣術のことにも触れておくと、実在の流派が各キャラにつきひとつ割り振られていて、構えや陣形などは専門家の助けを借りて忠実に描かれている。戦闘となると3Dモデルになることも多くこれに最初は違和感があったのだが、たとえば感覚が研ぎ澄まされて動きが超スローに見えるとか、空間的な集団戦闘の表現とか、終盤で出てくる「相手の技をコピーして戦う」なんていうのもモーションを使い回すことができる3Dの利点を活かしたものであり。単なる作画コストの省力化ではない、3Dモデルの可能性がこんなところにあったのかと唸らされた。

「継承」の主題がある。「御刀」は前の持ち主が死んだり、刀使を引退すると次の持ち主を選ぶという。それは必ずしも血縁に限らないが、母娘間でこの継承関係があるのが姫和と可奈美。最終話はまさにこの主題をもって全体が締めくくられる。母が娘を想う、という素朴な愛情表現だけではなく、刀使としてのプロフェッショナリズムと絡めて描かれているというのが好感ポイント。結果的に半数が亡くなる親衛隊まわりにおいてもこの主題に基づいたエピローグでの回収がなされており、キャラクターへの行き届いた配慮を感じる。

世界情勢などもきっちり組み込んでいる。荒魂テクノロジーアメリカが狙っているとか…こんなやばいことが起こってるのに日本だけの問題で終わるかよ? ってツッコミを予め回避していてスキがないなと。また、荒魂は刀使しか斬ることができないのだが、バックアップとして自衛隊も出てくる。攻撃の支援というよりは刀使が来るまでの足止め、避難誘導が主な役割という感じだが…重要な局面では彼らの表情がきちんと描かれることもあり、ファンタジー的な存在である刀使とモブキャラでしかない彼らがプロとして互いを信頼している様子が見受けられるのが気持ちいい。

回想シーンでは死体が運ばれていく描写なんかもあり、全体的にハードな世界観。大荒魂は封印したが荒魂の本質は本来善も悪もない災害のようなものなので、これからも人命を守るための彼女たちの闘いは続いていくのだろう。
ハードなプロフェッショナルの世界を民俗学的な伝統と剣術を主体とした「意志の継承」という主題で乗り越えながら、ライブ感あるストーリーテリングでキャラクター同士の関係性の変化も楽しめる。キャラクターデザイン自体のかわいさに加えクスリと笑えるギャグ的なセンスも時に光り、2クールあったからこその立体的な楽しみ方のできる作品だった(並行してローンチしたアプリゲームでは本編の裏側を描くなどのストーリー補完も行われており、応援次第で今後も息の長い展開が期待できそうだ)。

まだまだこんなアニメを観ることができるのだなという驚きと喜びがあった。スタッフの皆さん、本当にありがとうございました。

約束と呪い――「Key」と「久弥直樹」の差分として読み解く「麻枝准」

本テキストは、2015年に刊行した合同誌『Life is like a Melody―麻枝准トリビュート』に寄稿した文章を一部改稿したものです。同書が品切重版未定であることから、編集長・meta2氏の許可を得て転載します。

 

麻枝准」の作家性について直接言及することは実は難しい。というのもこのクレジットが記載された作品というのはあくまで「Key」というブランドのもと送り出されてきたゲームやアニメ……集団制作の産物だからである。逆にいえば、Keyというブランドの「らしさ」、すなわち作家性に相当するものを抽出することは相対的に容易である。「麻枝准」の作家性とはいかなるものかを浮かび上がらせるべく、本稿ではまず「Keyらしさ」とは何かということについて考察を進めていく。

 

「Keyらしさ」を規定する「久弥直樹的主題」

Keyというブランドの名のもと世に送り出された作品群に共通する特徴とは何か。それは「ここにいない」ものへの感受性である。何か/誰かが「ない」ということが、ストーリー中において異様な存在感を発揮しているといってもいい。ブランドの第一作である『Kanon』(1999年)においては、メインヒロインである月宮あゆがまさしくこうした「不在」を担っている。あゆは、その「本体」は七年前の事故以来寝たきりであるという、いわば「生き霊」的な存在だ。その時よりあゆは主人公の幸せを祈っており、それが七年ぶりに舞台となる街に帰ってきた主人公の前に「生き霊」として姿を現す理由でもあるのだが、彼女自身のシナリオに進まないかぎりは、あゆは思わせぶりな台詞を残して消えゆくのみだ。主人公の幸せを一途に願う彼女は、主人公が他のヒロインを選んだとしても、その道行きを祝福する。彼女自身が報われるためには、主人公にあゆを選ばせなければならない……マルチエンディングタイプの恋愛アドベンチャーゲームにおいて、原理的にすべてのヒロインが幸せになることはできない(少なくとも、皆がともに幸せになったという情景を見届けることができない)というこのアポリアは、俗に「Kanon問題」とも称された*1

Kanon』は久弥直樹によって企画された作品だが、彼自身の手によって上述の問題を乗り越えようとしたかのように見える作品が、久弥が全話の脚本を手がけたオリジナルアニメ『天体のメソッド』(2014年)である。北国が舞台、メインキャラクターのひとりが舞台となる街に「七年ぶり」に帰ってくる点など明らかに『Kanon』を反復したかのような設定が見られる今作は、原作としてのノベルゲームを持たないがゆえに、当然視点キャラクターとしての(男性)主人公を欠いている。しかしあゆと同様に「不在」を担うキャラクターは存在しており、それがノエルというキャラクターである。ノエルはメインキャラクターである五人の少年少女が七年前に呼び寄せた「円盤」の現身であり、まさしくファンタジックな……「ここにいない」はずの存在であるのだが、しかし非現実的な力をもって物語に介入することはない。ノエルが作中ですることといえば、せいぜいフォトアルバムなど幼い頃の思い出が詰まった品を、誰かから誰かのもとに運ぶ程度のことだ。しかしノエルを介するからこそ、互いにわだかまりを抱えていた五人は自分の素直な気持ちにいま一度向き合うことができ、元の仲良かった頃の関係性を取り戻していくのである。ノエルがそこで果たしているのは「媒介者」としての役割である。五人のうち誰かが主体となり「皆の仲を取り持とう」と思い立ったら、身ひとつで動き回る必要が生じ、各人との対話に割ける時間も平等にとはいかなかっただろう。「主人公‐ヒロイン」のような一対一の関係を積み重ねていくのではなく、「媒介者」が中心となり関係性を取り持つことで、個々のキャラクターはばらばらの時間を生きつつも、次第にひとつの集団が形作られていくのだ。

Keyの第三作である『CLANNAD』(2004年)においても、ノエルと同様の役割を持ったキャラクターが登場する。伊吹風子という名の彼女は本編の始まる二年前に交通事故に遭い、実は病院のベッドに寝たきりという、月宮あゆと同様「生き霊」的な存在である。まさしく「ここにいない」はずの彼女だが、姉の結婚式を大勢の人で賑わわせたいという願いから実体化し、招待状代わりとして、木彫りのヒトデを配り歩いていく。「生き霊」としての彼女は最終的に消えてしまい、誰の記憶にも残らないわけだが、しかしその努力の痕跡は木彫りのヒトデという形で残り、姉の結婚式には名も知らぬ大勢の人々が集う。その情景は、まさに作品全体のテーマである「街は大きな家族」を体現するものだろう。加えて京都アニメーション制作によるアニメ版(2007年)では、風子の手引きによって主人公の岡崎朋也とヒロインである古河渚がお互いを名前で呼び合うようになるというエピソードも挿入されている。原作では数多ある分岐のひとつ、「渚ルート」でしかあり得なかった呼び名の変化すら導くという意味でも、風子の存在は作品が持つ様々な分岐可能性の中心に位置しているといえるだろう。『CLANNAD』という作品の骨格をなしているのは岡崎朋也という「主人公」の物語ではなく、風子という「ここにいない」存在が作り出すネットワーク……「大きな家族」としての「街」である。こうして見たとき、「血縁的家族から擬似家族へ」という語られ方をすることの多い『CLANNAD』から『リトルバスターズ!』への移行も、「ここにない」ものが特定のキャラクターから「リトルバスターズ」という集団の名前に置き換わったものとして捉えることが可能になるだろう。「リトルバスターズって、何なのさ」という直江理樹の台詞に象徴されている通り、それは実質を持たないゼロ記号であるがゆえに、チームの成員を自由に拡張し、ひとつの目的にしばられずに様々な活動を行うことができる。

久弥直樹は『Kanon』を完成させた直後にKeyを離れた。その理由は私たちに知る由もないが、しかし残された麻枝がKeyというブランドを死守するため、久弥のシナリオを徹底的に研究したことは本人へのインタビューからも確認できる*2。「ここにいない」ものの存在によって駆動されていく風子のエピソードというのは、麻枝にとっての「Keyらしさ」とは何か、という探求から生みだされたものではないだろうか。そしてその「Keyらしさ」とはとりも直さず、「久弥直樹らしさ」だったのではないか。このように考えると久弥の不在を埋めるべく、残された個々のメンバーがその才気を注ぎ込んでいったというKeyの歩みそのものが、「Key的」であったのだということもできて興味深い。

 

麻枝准的主題」とは何か

さて、ここで「麻枝准」の作家性とは何か、という当初の問いに立ち返ってみる。これまで述べてきた「Keyらしさ」からはこぼれ落ちてしまう部分、いわばKeyというブランドの無意識ともいえる部分に、「麻枝准」は姿を現すのではないか。補助線となるのは、麻枝・久弥がともに最初期の企画作品において「約束」を中心的なモチーフとして採用しているという事実である。比較対象となるのは麻枝准企画作品である『ONE~輝く季節へ~』(1998年、以下『ONE』)と久弥直樹企画作品である『Kanon』だが、同じ「約束」というモチーフであっても、その使われ方は両者の間で大きく異なっている。

Kanon』は先に触れたようにKeyというブランド名を冠した初めてのタイトルである。企画者である久弥直樹は全五ヒロインのうち三人までのシナリオを自身で手がけており、「月宮あゆ」のシナリオも当然彼の担当だ。今作において、「約束」の内容それ自体が現在時制の出来事に関わることはほとんどない。舞台となる「雪の街」に七年ぶりに戻ってきた主人公が、ヒロインである少女たちと過去に交流を持っていたと気づくためのささやかなきっかけとして、「約束」を交わしたというそのシーンが回想されるのである。七年間の断絶が生んだ記憶の齟齬、誤解に基づくネガティブな感情を解きほぐすべく、過去の「約束」をきっかけにして、両者の対話が行われる。あくまで現在時制での物語を紡いでいくことに、ここでは力点が置かれているのである。

対する『ONE』はKeyの前身であるブランド、Tacticsによって開発されたノベルゲームである。企画者は麻枝准。全六ヒロインのうち、半数にあたる三ヒロイン(長森瑞佳、七瀬留美椎名繭)のシナリオを自身で手掛けているとされる。主人公は妹の死、それに伴う家庭崩壊によって絶望の淵にいた幼いころ、「いつか終わりの来る日常」を否定し、悲しみのない「永遠の世界」を望むようになる。彼にはそんな「永遠」を肯定してくれた幼なじみの少女がいたのだが、その幻影は「永遠の世界」を象徴するイメージとして、現在も彼を縛っている。主人公はやがてヒロインの一人と親密になるが、かつて幼なじみの少女と交わした「永遠の盟約」に従うようにして、「もうひとつの世界」へと姿を消してしまう。主人公が日常に帰還を果たすのは、かつて少女と交わした盟約を上書きする形で、「いま」隣にいるヒロインとの日々が肯定されたことによる。今作において「約束」とは、かように主人公を縛るものとして、言い換えれば「果たされなければならない」ものとして存在している。

Kanon』と『ONE』の比較から見えてくる麻枝准に固有の作家性とは、久弥/Keyと同じように「ここにいない」ものに突き動かされつつも、失われてしまえば「二度と戻ることのない」という意識である。だからこそ麻枝の用いる「約束」という言葉には、常に「果たさなければならない」という強迫性が滲んでいる。作詞家でもある麻枝の歌詞には「強さ」という言葉が頻出するが、これもまた果たすべき「約束」を持った者に対するエールというか、そのような至上命令があるからこそ人は「強く」なれるのだという意識の表れであるように思えてならない。「約束」をした時点というのは単に数直線上の「過去」ではなく、どこか現在とは異なるレイヤーに保存されており、そこから現在の、日常への侵入を試みてくる。過去に「約束」をした自分とそれを乗り越えていく自分、二つの点を結ぶものは「約束をした」というその事実だけであり、二つの「自分」は別人のようになってしまっている。『ONE』において、「永遠の世界」にたたずむ少女「みずか」と、少女の成長した姿であり、ヒロインのひとりである「長森瑞佳」が分裂してしまっているように。たとえそのことを当人は忘れていたとしても、「約束をした」という事実だけは保存されており、その存在が日常を脅かしていく。そのような意味で「約束」とは「呪い」である。『AIR』における「翼人」の集合的意識、「星の記憶は、永遠に幸せでなければなりません」とどこからともなく響いてくる声も、こうした至上命令の存在……麻枝の「約束=呪い」観から派生したイメージであると言えるのではないだろうか。

麻枝准にとって、「約束」とは「呪い」である。そう定義したときにどうしても想起してしまうのが、麻枝の担当したシナリオのクライマックスに頻出する「結婚」という言葉である。『Kanon沢渡真琴シナリオのクライマックス然り、『智代アフター』(2005年)然り、『Angel Beats!』(2011年)におけるユイのエピソード然り、麻枝のシナリオにおける「結婚」の宣言とは、あらかじめ失われるとわかっている関係性の、そのまさに失われる瞬間において行われる。結婚というのは「死が二人を分かつまで……」の定型句を引くまでもなく、まさに究極の「約束」とでも言うべきものである。それは未来におけるお互いの時間を先取りする。その先も共に歩む人生が想像できるからこそ、本来効力を持ち得るものなのだ。一方で麻枝のシナリオにおいては、逆説的ではあるが、まるで「結婚」をしたことが原因でヒロインが失われてしまうかのようにも感じられる。麻枝のシナリオは「約束」をしたその時点を「永遠」の向こう側に保存しつつも、日常の延長として「永遠」が続いていくということについては、ことごとく否定するのである。

 

麻枝准的主題」の臨界点としての『Charlotte

ところが麻枝が全面的にシナリオに関わった最新の作品である『Charlotte』(2015年)においては、こうした「呪い」を打ち消すかのようにして、新たな「約束」の形が見出される。それはどういったものなのか? 今作では第九話で唐突に主人公である乙坂有宇に、ある研究施設にて実験体としての日々を送る「ここにない世界」での記憶が甦る。記憶が甦った正確なメカニズムについては終ぞ明かされることがないのだが、ともかくそれが本当に自身の体験であるか否かは、会ったばかりの「兄」を名乗る人物の証言のみが頼りであり、乙坂にとっては疑わしいことこの上ない。その「兄」隼翼はタイムリープ(時空移動)の特殊能力を持っており、弟と同様に研究施設に幽閉されていた時点から何度も過去へと遡り、現在の乙坂たちが平和裏に学園生活を送れる状況を作り上げたという。そんな隼翼にとっては、ともに施設での日々を送っていたのも、何もかもを忘れ、カンニング犯として学園に連行されてきたのも同じ「乙坂有宇」である。しかし現在ここに立っている乙坂にとっては、学園で友利奈緒や高城丈士朗と出会い、妹の死とその直後の自暴自棄な日々、そこからの更生を経ることによって「変わることができた」と感じる現在の「乙坂有宇」が何より肯定すべき「自分」である。ここで第一話冒頭の台詞がリフレインしてくる。

ずっと小さい頃から疑問に思っていた
なぜ自分は自分でしかなく 他人ではないのだろうと
「我思う故に我在り」とは 昔の哲学者の言葉だそうだが
僕は我ではなく 他人を思ってみた

「他人に乗り移る」能力を得たことで他人をいいように利用してきた乙坂だったが、「乗り移る」ということは他人そのものに成り代わることでは決してない。他人はどこまで行っても他人であり、ただ「思う」ことしかできないのだということに、第九話時点での乙坂は気づいている。自分本位であった主人公が他人の存在を受け入れる、それは麻枝が『Charlotte』の見どころとして掲げていた「主人公の成長」そのものであろうが*3、それでも乙坂はそうして辿り着いた日常を捨て去らなければならない。何度タイムリープが繰り返されても変わらない、妹・歩未への思いによって。彼の背中を押すのはタイムリープの前後、二人の「乙坂有宇」を同一人物として見なす兄・隼翼の台詞である。「まだやり残したことがある。それは絶対に達成しなくちゃならない、俺たちの約束だったはずだろう」……「現在の乙坂有宇」の与り知らぬところでいつの間にか交わされていたという、(歩未を救うという)「約束」の存在。それはまさしく先に述べた麻枝の「約束」観――どこか「いま、ここ」とは異なるレイヤーに保存されており、日常をおびやかす「永遠の世界」なるもの――そのものであろう。乙坂は過去の麻枝作品の主人公が直面してきたのと同様、その「約束」を「果たさなければならない」。

こうして麻枝作品の定型を忠実になぞってきた『Charlotte』だが、残る三話をもって大きくそこから逸脱していくことになる。歩未の命は乙坂が兄から引き継いだタイムリープ能力を駆使することによって救われるのだが、その「約束を果たす」という物語が収束した直後、まったくその外部から、これまで登場を匂わせてもいなかった「海外のテロ集団」が現れ、隼翼をリーダーとする組織を壊滅状態に追いやってしまうのである。そこで話は同様の事態を繰り返さないよう、特殊能力自体をこの世から根絶しなければならないという方向に急展開する。この唐突さはまったく脈絡を欠いているのだが、しかしこのような展開を見せること自体には意味がある。それはこれまでの麻枝作品を構造的に超えているということであり、新たな「約束」の形もこの先に見出される。

乙坂はテロ集団によって引き起こされた一部始終の後、ある「約束」を友利奈緒と交わすことで国外へと旅立つ。その「約束」とは世界中すべての特殊能力を自身の真の能力「略奪」によって奪って帰ってくるというもので、「作戦」とも言えない無謀な思いつきでしかないのだが、しかし立ち止まっていることはできないと考えた乙坂にとって、何でもいいから行動のきっかけが必要だったのだろう。乙坂は妹が死に、自暴自棄の日々を送っていた過去(タイムリープが行われたため、その事実は彼の記憶の中にしかない)において更生の手助けをしてくれた友利に恩を感じており、その感情を乙坂は「恋」であると言う。「恩」から「恋」に発展することについて、その不可解さを指摘されても「恋に理屈なんて必要あるか!」と声を荒げるばかりで、そこに明確なロジックは見当たらない。当の友利との対話の中で、初めてその言葉は口に出されたのである。意地を張る乙坂に仕方なし、といった体で提示した友利の回答、「(全ての能力を奪って帰ってきた暁には)私たちは恋人同士になりましょう」というのは、「絶対に帰ってくる」ということを約束しているだけであり、「恋人になる」ということを約束しているわけではない。本来恋人という関係性の基盤となるはずの恋愛感情の存在についても、「(本当にやり遂げたら)無条件で私は乙坂有宇という存在を愛おしく思うでしょう」と仮定法未来形だ。この「約束」は「恋」という言葉でできた器だけの、感情という「中身」が伴っていない空虚なものである。このような「約束」をわざわざ交わすことの意味とはなんだろうか。

彼らの「約束」は、これまでの麻枝作品において交わされてきたそれとは根本的に異なっている。心を通じ合わせた二人が「結婚」を宣言して間もなく死に別れてしまうように、過去作品においては「死をもってしても引き裂けない(とその時点においては信じられている)」感情を、「永遠」の向こう側に保存するべく行われてきた。風化していく記憶と裏腹に、取り残された一方はその「約束」に縛られ続けるわけで、ゆえに「呪い」なわけだが、乙坂と友利に関してはそもそも恋人という関係性が生じていないために、「約束」が達成されなかったとしても友利が「取り残された」という感情を持つ可能性は少ないだろう(残念だな、とくらいは思うかもしれないが)。この「約束」の意味とは友利も言うように、乙坂がこれからしようとしていることへの動機付け、「モチベーションを高める」ということでしかない。しかし逆にいえば、乙坂の背中を押し海外へと旅立たせる、その役割は十二分に果たしているわけである。今作の物語において中核をなしているのは、先に述べたように「主人公=乙坂有宇の成長」である。最終話にも「これからの記録」というサブタイトルが冠されているように、物語全体が「これから=未来」への指向性を持っていたからこそ、「歩未を救う」という、過去に交わされた「約束」を果たすことだけでは不十分だったのである。麻枝の中にあった「約束とは呪いである」という観念が完全に払拭されたのかどうかは私たちにはわからない。しかし少なくとも乙坂有宇というキャラクターが「約束」というキーワードを梃子にしてなしえた行動は、既存の麻枝作品が陥っていた隘路=呪いを解くことに成功している。そのことを証明するように、帰還した乙坂は「それまで」の記憶を失っていながらも、友利や歩未、その他の仲間たちとともに穏やかな笑顔を見せているのである。

最後に、友利奈緒というキャラクターに関しても記しておこう。本来「約束」というのはその内容に関して、両者が平等にリスクを負うことで成立するものである。しかし先に述べたように友利が乙坂有宇と交わした「約束」とは、単に乙坂の行動を動機付けるものでしかない。友利は文字通り「待っている」だけでよく、その達成の条件に関与しないのである。では乙坂はたったひとりで、自らに「帰ってくる」と誓うだけで十分だっただろうか? そうでないことは本作を実際に観た方ならおわかりだろう。友利との対話の中で「約束」が形を成したことそれ自体が、友利という人物の存在が必要であったことを証明しているのだ。こちらの呼びかけに対して応えてくれる存在、そんな存在が目の前にいることで、どれだけ未来の輪郭が鮮明になることか。「約束」の内容にでなく、約束を「誰か」と交わすことができるということ、それ自体に価値があるという視座への転換。それはまさしく他者という存在を、人生において価値あるものとして認めるということである。友利奈緒というヒロインは「永遠の世界」へと共に旅立つ相手ではないかもしれないが、「永遠」を誓い合う前の段階に留まっているからこそ、自律的な「他者」として乙坂有宇の、いや私たちの前に立ち現われてくるのかもしれない。

*1:Kanon問題」について詳細は、以下のリンク集 https://bit.ly/2sPTVL0 を参照。

*2:『オールアバウト ビジュアルアーツ~VA20年のキセキ~』(ホビージャパン、2013年)所収のインタビューより。

*3:「電撃オンライン」掲載の麻枝准インタビューより。 http://dengekionline.com/elem/000/001/103/1103671/