約束と呪い――「Key」と「久弥直樹」の差分として読み解く「麻枝准」

本テキストは、2015年に刊行した合同誌『Life is like a Melody―麻枝准トリビュート』に寄稿した文章を一部改稿したものです。同書が品切重版未定であることから、編集長・meta2氏の許可を得て転載します。

 

麻枝准」の作家性について直接言及することは実は難しい。というのもこのクレジットが記載された作品というのはあくまで「Key」というブランドのもと送り出されてきたゲームやアニメ……集団制作の産物だからである。逆にいえば、Keyというブランドの「らしさ」、すなわち作家性に相当するものを抽出することは相対的に容易である。「麻枝准」の作家性とはいかなるものかを浮かび上がらせるべく、本稿ではまず「Keyらしさ」とは何かということについて考察を進めていく。

 

「Keyらしさ」を規定する「久弥直樹的主題」

Keyというブランドの名のもと世に送り出された作品群に共通する特徴とは何か。それは「ここにいない」ものへの感受性である。何か/誰かが「ない」ということが、ストーリー中において異様な存在感を発揮しているといってもいい。ブランドの第一作である『Kanon』(1999年)においては、メインヒロインである月宮あゆがまさしくこうした「不在」を担っている。あゆは、その「本体」は七年前の事故以来寝たきりであるという、いわば「生き霊」的な存在だ。その時よりあゆは主人公の幸せを祈っており、それが七年ぶりに舞台となる街に帰ってきた主人公の前に「生き霊」として姿を現す理由でもあるのだが、彼女自身のシナリオに進まないかぎりは、あゆは思わせぶりな台詞を残して消えゆくのみだ。主人公の幸せを一途に願う彼女は、主人公が他のヒロインを選んだとしても、その道行きを祝福する。彼女自身が報われるためには、主人公にあゆを選ばせなければならない……マルチエンディングタイプの恋愛アドベンチャーゲームにおいて、原理的にすべてのヒロインが幸せになることはできない(少なくとも、皆がともに幸せになったという情景を見届けることができない)というこのアポリアは、俗に「Kanon問題」とも称された*1

Kanon』は久弥直樹によって企画された作品だが、彼自身の手によって上述の問題を乗り越えようとしたかのように見える作品が、久弥が全話の脚本を執筆したオリジナルアニメ『天体のメソッド』(2014年)である。北国が舞台、主人公が舞台となる街に「七年ぶり」に帰ってくる点など明らかに『Kanon』を反復したかのような設定が見られる今作は、しかし主人公は中学生の女の子であり、また当然ながらノベルゲームではない。しかしあゆと同様に「不在」を担うキャラクターは存在しており、それがノエルというキャラクターである。ノエルはメインキャラクターである五人の少年少女が七年前に呼び寄せた「円盤」の現身であり、まさしくファンタジックな……「ここにいない」はずの存在であるのだが、しかし非現実的な力をもって物語に介入することはない。ノエルが作中ですることといえば、せいぜいフォトアルバムなど幼い頃の思い出が詰まった品を、誰かから誰かのもとに運ぶ程度のことだ。しかしノエルを介するからこそ、互いにわだかまりを抱えていた五人は自分の素直な気持ちにいま一度向き合うことができ、元の仲良かったころの関係性を取り戻していくのである。ノエルがそこで果たしているのは「媒介者」としての役割である。五人のうち誰か――たとえば、主人公である古宮乃々香――が主体となり「五人の仲を取り持とう」と思い立ったら、身ひとつで動き回る必要が生じ、各人との対話にかける時間も平等にとはいかなかっただろう。一対一の関係をつないでいくのでなく、媒介者こそが中心となることで、個々のキャラクターはばらばらでありつつも、互いに対等な立場として、ひとつの集団を形作ることができるのである。

Keyの第三作である『CLANNAD』(2004年)においても、ノエルと同様の役割を持ったキャラクターが登場する。伊吹風子という名の彼女は本編の始まる二年前に交通事故に遭い、実は病院のベッドに寝たきりという、月宮あゆと同様「生き霊」的な存在である。まさしく「ここにいない」はずの彼女だが、姉の結婚式を大勢の人で賑わわせたいという願いから実体化し、招待状代わりとして、木彫りのヒトデを配り歩いていく。「生き霊」としての彼女は最終的に消えてしまい、誰の記憶にも残らないわけだが、しかしその努力の痕跡は木彫りのヒトデという形で残り、姉の結婚式には名も知らぬ大勢の人々が集う。その情景は、まさに作品全体のテーマである「街は大きな家族」を体現するものだろう。加えて京都アニメーション制作によるアニメ版(2007年)では、風子の手引きによって主人公の岡崎朋也とヒロインである古河渚がお互いを名前で呼び合うようになるというエピソードも挿入されている。原作では数多ある分岐のひとつ、「渚ルート」でしかあり得なかった呼び名の変化すら導くという意味でも、風子の存在は作品が持つ様々な分岐可能性の中心に位置しているといえるだろう。こうして見たとき、『Kanon』のアポリアを『天体のメソッド』が克服したのと同じように、『CLANNAD』の重心も岡崎朋也という「主人公」の視点にあるのではない、ということが理解できる。風子が作り出すヒトデのネットワーク……「大きな家族」としての「街」こそが『CLANNAD』という作品を支えているというのは、このような意味においてなのである。

久弥直樹は『Kanon』を完成させた直後にKeyを離れた。その理由は私たちに知る由もないが、しかし残された麻枝がKeyというブランドを死守するため、久弥のシナリオを徹底的に研究したことは複数のインタビューから確認できる*2。「ここにいない」ものの存在によって駆動されていく風子のエピソードというのは、麻枝にとっての「Keyらしさ」とは何か、という探求から生みだされたものではないだろうか。そしてその「Keyらしさ」とはとりも直さず、「久弥直樹らしさ」だったのではないか。このように考えると久弥の不在を埋めるべく、残された個々のメンバーがその才気を注ぎ込んでいったというKeyの歩みそのものが、「Key的」であったのだということもできて興味深い。

 

麻枝准的主題」とは何か

さて、ここで「麻枝准」の作家性とは何か、という当初の問いに立ち返ってみる。これまで述べてきた「Keyらしさ」からはこぼれ落ちてしまう部分、いわばKeyというブランドの無意識ともいえる部分に、「麻枝准」は姿を現すのではないか。補助線となるのは、麻枝・久弥がともに最初期の企画作品において「約束」を中心的なモチーフとして採用している点である。比較対象となるのは麻枝准企画作品である『ONE~輝く季節へ~』(1998年、以下『ONE』)と久弥直樹企画作品である『Kanon』だが、同じ「約束」というモチーフであっても、その使われ方は両者の間で大きく異なっている。

Kanon』は先に触れたようにKeyというブランド名を冠した初めてのタイトルである。企画者である久弥直樹は全五ヒロインのうち三人までのシナリオを自身で手がけており、「月宮あゆ」のシナリオも当然彼の担当だ。今作において、「約束」の内容それ自体が現在時制の出来事に関わることはほとんどない。舞台となる「雪の街」に七年ぶりに戻ってきた主人公が、ヒロインである少女たちと過去に交流を持っていたと気づくためのささやかなきっかけとして、「約束」を交わしたというそのシーンが回想されるのである。七年間の断絶が生んだ記憶の齟齬、誤解に基づくネガティブな感情を解きほぐすべく、過去の「約束」をきっかけにして、両者の対話が行われる。あくまで現在時制での物語を紡いでいくことに、ここでは力点が置かれているのである。

対する『ONE』はKeyの前身であるブランド、Tacticsによって開発されたノベルゲームである。企画者は麻枝准。全六ヒロインのうち、半数にあたる三ヒロイン(長森瑞佳、七瀬留美椎名繭)のシナリオを自身で手掛けているとされる。主人公は妹の死、それに伴う家庭崩壊によって絶望の淵にいた幼いころ、「いつか終わりの来る日常」を否定し、悲しみのない「永遠の世界」を望むようになる。彼にはそんな「永遠」を肯定してくれた幼なじみの少女がいたのだが、その幻影は「永遠の世界」を象徴するイメージとして、現在も彼を縛っている。主人公はやがてヒロインの一人と親密になるが、かつて幼なじみの少女と交わした「永遠の盟約」に従うようにして、「もうひとつの世界」へと姿を消してしまう。主人公が日常に帰還を果たすのは、かつて少女と交わした盟約を上書きする形で、「いま」隣にいるヒロインとの日々が肯定されたことによる。今作において「約束」とは、かように主人公を縛るものとして、言い換えれば「果たされなければならない」ものとして存在している。

Kanon』と『ONE』の比較から見えてくる麻枝准に固有の作家性とは、久弥/Keyと同じように「ここにいない」ものに突き動かされつつも、失われてしまえば「二度と戻ることのない」という意識である。だからこそ麻枝の用いる「約束」という言葉には、常に「果たさなければならない」という強迫性が滲んでいる。作詞家でもある麻枝の歌詞には「強さ」という言葉が頻出するが、これもまた果たすべき「約束」を持った者に対するエールというか、そのような至上命令があるからこそ人は「強く」なれるのだという意識の表れであるように思えてならない。「約束」をした時点というのは単に数直線上の「過去」ではなく、どこか現在とは異なるレイヤーに保存されており、そこから現在の、日常への侵入を試みてくる。過去に「約束」をした自分とそれを乗り越えていく自分、二つの点を結ぶものは「約束をした」というその事実だけであり、二つの「自分」は別人のようになってしまっている。『ONE』において、「永遠の世界」にたたずむ少女「みずか」と、少女の成長した姿であり、ヒロインのひとりである「長森瑞佳」が分裂してしまっているように。たとえそのことを当人は忘れていたとしても、「約束をした」という事実だけは保存されており、その存在が日常を脅かしていく。そのような意味で「約束」とは「呪い」である。『AIR』における「翼人」の集合的意識、「星の記憶は、永遠に幸せでなければなりません」とどこからともなく響いてくる声も、こうした至上命令の存在……麻枝の「約束=呪い」観から派生したイメージであると言えるのではないだろうか。

麻枝准にとって、「約束」とは「呪い」である。そう定義したときにどうしても想起してしまうのが、麻枝の担当したシナリオのクライマックスに頻出する「結婚」という言葉である。『Kanon沢渡真琴シナリオのクライマックス然り、『智代アフター』(2005年)然り、『Angel Beats!』(2011年)におけるユイのエピソード然り、麻枝のシナリオにおける「結婚」の宣言とは、あらかじめ失われるとわかっている関係性の、そのまさに失われる瞬間において行われる。結婚というのは「死が二人を分かつまで……」の定型句を引くまでもなく、まさに究極の「約束」とでも言うべきものである。それは未来におけるお互いの時間を先取りする。その先も共に歩む人生が想像できるからこそ、本来効力を持ち得るものなのだ。一方で麻枝のシナリオにおいては、逆説的ではあるが、まるで「結婚」をしたことが原因でヒロインが失われてしまうかのようにも感じられる。麻枝のシナリオは「約束」をしたその時点を「永遠」の向こう側に保存しつつも、日常の延長として「永遠」が続いていくということについては、ことごとく否定するのである。

 

麻枝准的主題」の臨界点としての『Charlotte

ところが麻枝が全面的にシナリオに関わった最新の作品である『Charlotte』(2015年)においては、こうした「呪い」を打ち消すかのようにして、新たな「約束」の形が見出される。それはどういったものなのか? 今作では第九話で唐突に主人公である乙坂有宇に、ある研究施設にて実験体としての日々を送る「ここにない世界」での記憶が甦る。記憶が甦った正確なメカクニズムについては終ぞ明かされることがないのだが、ともかくそれが本当に自身の体験であるか否かは、会ったばかりの「兄」を名乗る人物の証言のみが頼りであり、乙坂にとっては疑わしいことこの上ない。その「兄」隼翼はタイムリープ(時空移動)の特殊能力を持っており、弟と同様に研究施設に幽閉されていた時点から何度も過去へと遡り、現在の乙坂たちが平和裏に学園生活を送れる状況を作り上げたという。そんな隼翼にとっては、ともに施設での日々を送っていたのも、何もかもを忘れ、カンニング犯として学園に連行されてきたのも同じ「乙坂有宇」である。しかし現在ここに立っている乙坂にとっては、学園で友利奈緒や高城丈士朗と出会い、妹の死とその直後の自暴自棄な日々、そこからの更生を経ることによって「変わることができた」と感じる現在の「乙坂有宇」が何より肯定すべき「自分」である。ここで第一話冒頭の台詞がリフレインしてくる。

ずっと小さい頃から疑問に思っていた
なぜ自分は自分でしかなく 他人ではないのだろうと
「我思う故に我在り」とは 昔の哲学者の言葉だそうだが
僕は我ではなく 他人を思ってみた

「他人に乗り移る」能力を得たことで他人をいいように利用してきた乙坂だったが、「乗り移る」ということは他人そのものに成り代わることでは決してない。他人はどこまで行っても他人であり、ただ「思う」ことしかできないのだということに、第九話時点での乙坂は気づいている。自分本位であった主人公が他人の存在を受け入れる、それは麻枝が『Charlotte』の見どころとして掲げていた「主人公の成長」そのものであろうが*3、それでも乙坂はそうして辿り着いた日常を捨て去らなければならない。何度タイムリープが繰り返されても変わらない、妹・歩未への思いによって。彼の背中を押すのはタイムリープの前後、二人の「乙坂有宇」を同一人物として見なす兄・隼翼の台詞である。「まだやり残したことがある。それは絶対に達成しなくちゃならない、俺たちの約束だったはずだろう」……「現在の乙坂有宇」の与り知らぬところでいつの間にか交わされていたという、(歩未を救うという)「約束」の存在。それはまさしく先に述べた麻枝の「約束」観――どこか「いま、ここ」とは異なるレイヤーに保存されており、日常をおびやかす「永遠の世界」なるもの――そのものであろう。乙坂は過去の麻枝作品の主人公が直面してきたのと同様、その「約束」を「果たさなければならない」。

こうして麻枝作品の定型を忠実になぞってきた『Charlotte』だが、残る三話をもって大きくそこから逸脱していくことになる。歩未の命は乙坂が兄から引き継いだタイムリープ能力を駆使することによって救われるのだが、その「約束を果たす」という物語が収束した直後、まったくその外部から、これまで登場を匂わせてもいなかった「海外のテロ集団」が現れ、隼翼をリーダーとする組織を壊滅状態に追いやってしまうのである。そこで話は同様の事態を繰り返さないよう、特殊能力自体をこの世から根絶しなければならないという方向に急展開する。この唐突さはまったく脈絡を欠いているのだが、しかしこのような展開を見せること自体には意味がある。それはこれまでの麻枝作品を構造的に超えているということであり、新たな「約束」の形もこの先に見出される。

乙坂はテロ集団によって引き起こされた一部始終の後、ある「約束」を友利奈緒と交わすことで国外へと旅立つ。その「約束」とは世界中すべての特殊能力を自身の真の能力「略奪」によって奪って帰ってくるというもので、「作戦」とも言えない無謀な思いつきでしかないのだが、しかし立ち止まっていることはできないと考えた乙坂にとって、何でもいいから行動のきっかけが必要だったのだろう。乙坂は妹が死に、自暴自棄の日々を送っていた過去(タイムリープが行われたため、その事実は彼の記憶の中にしかない)において更生の手助けをしてくれた友利に恩を感じており、その感情を乙坂は「恋」であると言う。「恩」から「恋」に発展することについて、その不可解さを指摘されても「恋に理屈なんて必要あるか!」と声を荒げるばかりで、そこに明確なロジックは見当たらない。当の友利との対話の中で、初めてその言葉は口に出されたのである。意地を張る乙坂に仕方なし、といった体で提示した友利の回答、「(全ての能力を奪って帰ってきた暁には)私たちは恋人同士になりましょう」というのは、「絶対に帰ってくる」ということを約束しているだけであり、「恋人になる」ということを約束しているわけではない。本来恋人という関係性の基盤となるはずの恋愛感情の存在についても、「(本当にやり遂げたら)無条件で私は乙坂有宇という存在を愛おしく思うでしょう」と仮定法未来形だ。この「約束」は「恋」という言葉でできた器だけの、感情という「中身」が伴っていない空虚なものである。このような「約束」をわざわざ交わすことの意味とはなんだろうか。

彼らの「約束」は、これまでの麻枝作品において交わされてきたそれとは根本的に異なっている。心を通じ合わせた二人が「結婚」を宣言して間もなく死に別れてしまうように、過去作品においては「死をもってしても引き裂けない(とその時点においては信じられている)」感情を、「永遠」の向こう側に保存するべく行われてきた。風化していく記憶と裏腹に、取り残された一方はその「約束」に縛られ続けるわけで、ゆえに「呪い」なわけだが、乙坂と友利に関してはそもそも恋人という関係性が生じていないために、「約束」が達成されなかったとしても友利が「取り残された」という感情を持つ可能性は少ないだろう(残念だな、とくらいは思うかもしれないが)。この「約束」の意味とは友利も言うように、乙坂がこれからしようとしていることへの動機付け、「モチベーションを高める」ということでしかない。しかし逆にいえば、乙坂の背中を押し海外へと旅立たせる、その役割は十二分に果たしているわけである。今作の物語において中核をなしているのは、先に述べたように「主人公=乙坂有宇の成長」である。最終話にも「これからの記録」というサブタイトルが冠されているように、物語全体が「これから=未来」への指向性を持っていたからこそ、「歩未を救う」という、過去に交わされた「約束」を果たすことだけでは不十分だったのである。麻枝の中にあった「約束とは呪いである」という観念が完全に払拭されたのかどうかは私たちにはわからない。しかし少なくとも乙坂有宇というキャラクターが「約束」というキーワードを梃子にしてなしえた行動は、既存の麻枝作品が陥っていた隘路=呪いを解くことに成功している。そのことを証明するように、帰還した乙坂は「それまで」の記憶を失っていながらも、友利や歩未、その他の仲間たちとともに穏やかな笑顔を見せているのである。

最後に、友利奈緒というキャラクターに関しても記しておこう。本来「約束」というのはその内容に関して、両者が平等にリスクを負うことで成立するものである。しかし先に述べたように友利が乙坂有宇と交わした「約束」とは、単に乙坂の行動を動機付けるものでしかない。友利は文字通り「待っている」だけでよく、その達成の条件に関与しないのである。では乙坂はたったひとりで、自らに「帰ってくる」と誓うだけで十分だっただろうか? そうでないことは本作を実際に観た方ならおわかりだろう。友利との対話の中で「約束」が形を成したことそれ自体が、友利という人物の存在が必要であったことを証明しているのだ。こちらの呼びかけに対して応えてくれる存在、そんな存在が目の前にいることで、どれだけ未来の輪郭が鮮明になることか。「約束」の内容にでなく、約束を「誰か」と交わすことができるということ、それ自体に価値があるという視座への転換。それはまさしく他者という存在を、人生において価値あるものとして認めるということである。友利奈緒というヒロインは「永遠の世界」へと共に旅立つ相手ではないかもしれないが、「永遠」を誓い合う前の段階に留まっているからこそ、自律的な「他者」として私たちの、そして主人公である乙坂有宇の前に立ち現われてくるのかもしれない。

*1:Kanon問題」について詳細は、以下のリンク集 https://bit.ly/2sPTVL0 を参照。

*2:『オールアバウト ビジュアルアーツ~VA20年のキセキ~』(ホビージャパン、2013年)所収のインタビューなど。

*3:「電撃オンライン」掲載の麻枝准インタビューより。 http://dengekionline.com/elem/000/001/103/1103671/

「批評再生塾第3期」の修了と、この一年で僕自身に起きた変化について

批評再生塾というプログラムが終わってから振り返りのエントリを書いていなかったので(前回の投稿は最終課題の提出前)。

 

最終講評会がさる4月13日行われ、その模様はYouTubeで見ることができる。

 

いろいろな要因があったとは思うが、結果的に自分は最終の6名に滑り込むことができた。その論考はこちら

「オルタナティブ・ゼロ年代」の構想力――時空間認識の批評に向けて – 新・批評家育成サイト

詳しくは割愛するが、今後の思考/試行につながる数多くの示唆を壇上でも得ることができたと思う。

 

ポップカルチャー回講師のさやわかさん(@someru)から、審査員賞(さやわか賞)もいただくことができた。授賞コメント(の一部)がこちら

https://pbs.twimg.com/media/DatQtisUQAEn6oF.jpg:large

つまり彼は、ゼロ年代批評やセカイ系に拘泥しているつもりなのでしょうが、そこを踏み越えて、彼自身が思っている以上に10年代のがわにいる人間なのです。そして今回、彼は無意識にか、そうした自身の状況を説明するための批評へと、踏み出しました。これはゼロ年代批評の延命ではなく、10年代の批評を試みています。

ゼロ年代」や「セカイ系」をめぐるテクストはツールとして有用だ、という信念のもとに10年代を論じる、ということにトライしてきたつもりなので、モチベーションの実態は若干違うのだけれど、「書く」という運動の中で混乱が生じていたのは事実だし、とても的確に僕という書き手が置かれている状況をとらえてくださっている選評だ。

このあと選評は、「そうした文脈を正しく評価できるのは、同じようにゼロ年代批評のことを理解しつつ、横断的に書いてきた現役の書き手だけです。つまり僕です。だから彼を評価できるのは自分だけだという自尊心をもって、彼を僕の個人賞としたいと思います」と続く。つまり論自体の完成度はまだまだでも、同じ方向を見ている「同志」がここにいる、という旨の授賞であり、そのことがよりいっそう今後も書き続けていこう、という気持ちを強くする。称号や名誉なんかとは全然違ううれしさが、そこにはある。

 

ここからは約一年間のプログラムを通して、僕自身に起こった変化を書く。便宜上そう名指してはいるところはあるものの、これをもって「批評」とはこういうものだ、と主張する意図はない。

 

自分にとって批評再生塾は、自分の「世界との向き合い方」こそが正しいと思っている人、「書く」ことでそれを証明したいと思っている人にこそ薦めたい場だ。他ならぬ僕がそういう人だったからなのだけど、しかしこれは逆説的な意味においてである。

実際には賞を獲ったり、優秀作に選ばれてプレゼンの機会を得ることは、僕の抱えているもやもやにとって本質的な解決にはならなかった。4期にむけた佐々木先生の檄文にもあるように、「批評」とは書き手の「世界に臨む姿勢」が示されたものではあるけれど、同時に「読み」に開かれていなければならない。完結した構築性が一方で求められる創作よりも、相対的により強く他者による「読み」によってこの「批評」というジャンルは成立している。自分の書いたものも、また「批評」にさらされるということが自ずと強く意識される。

批評再生塾には、そのことを実感させてくれるプログラムがあった。投稿文のウェブ上での公開、ニコ生でのプレゼン、下読み(チューター)制度、実作者自らが「批評対象」として出向いてくださるというのもそうだ(実作者ゲストは、ジャンルや自作に対して「批評的」な視点を持っていると、佐々木先生によって選定された方々だ)。

戦って勝つ、受賞して自分の「世界に臨む姿勢(セカイ)」を認めさせる、ということしか考えられなかった自分は、3期のプログラムを通じて他者(講師の方々、読者、そして同期の受講生…)に出会い、そのような「セカイ」に生きてしまっていることを言葉にし、対話の糸口とするための手続きを学んだ。それは他者に「理解してもらう」ということではない。あくまで一緒のテーブルについてもらうための方法論だ。

自分とは異なる「世界に臨む姿勢」がたくさんあり、それらの間に「正しさ」はなく、かといってそのことに立ちすくむこともない……そんな「構え」のようなものが、プログラムを通じてインストールされたと思っている。

 

ともにプログラムを駆け抜けた同期生に対しては、上記のような「構え」がインストールされた人間としての「信頼」がある。もともと異なる「世界に臨む姿勢」があったのだから、同質の「構え」がインストールされた現在でも(いや、プログラムを経てよりいっそう)関心をもつ対象や相手どる課題のばらばらさは際立っている。そういう意味でも、ここでいう「信頼」というのは単純な仲間意識とは違う。しかし、趣味や嗜好などといったレベルにとどまらず、「世界に臨む姿勢」そのものの違いを認め合いなお残る「信頼」とは、一生のうちでいくら得られるかという類のものだ。こうした他者との関係がありうると知れたこと自体、人生の大きな財産だと思っている。

「KSL Live World 2018」に行ってきた

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5月6日、ゲームブランド・Keyの楽曲が披露されるライブの今年度版、「KSL Live World 2018 ~Summer Pockets & Key's Best Night~」に行ってきた。(公式サイト

「神イベント」とはこのことか、と思った。

今年は新作ゲーム『Summer Pockets』が発売される(完全新作としては『Rewrite』以来だから、実に7年ぶりだ)。樋上いたる都乃河勇人という、『Rewrite』の中心人物だったスタッフが抜け、麻枝准氏も大病を患い戦線を離れた、という状況で制作がスタートした『Summer Pockets』。だからこそ、残されたスタッフが「Keyとは何か」ということを真摯に考え、結果的に「最もKeyらしい」作品になるのではないかと期待しているのだが……はたしてこの日のライブは、そんな期待に応えるかのような、「Keyとはこれだ」というものを、存分に見せつけてくれるライブであった。

以下、各演者ごとに、演出の内容も交えながら振り返っていく。

 

・ステージは2段構成になっており、階段上に映像のモニターが。歌い手さんは2Fから登場するパターンと1F舞台袖から登場するの2パターン。左右には神殿の柱風のオブジェと、『サマポケ』ヒロインのイラストが。

・冒頭、『AIR』の夏の記憶と『サマポケ』の夏の記憶をつなぐようなポエム+映像の演出あり。

 

鈴木このみ

・アルカテイル

開幕はやはりこの曲でしょう。「歩き続けることでしか残せないものがあるよ」という歌詞は、Keyの現在地を示すようできわめて感動的。

 

Ayasa(ヴァイオリニスト・インストカバー)

・Last Desire
・theme of SSS
・青空

海外のアニメイベントで演奏しているのを観た馬場社長が出演依頼したらしい。「theme of SSS」がよかった。

 

Lia

鳥の詩
・Light Colors
My Soul, Your Beats!

生歌を初めて聴いたが、音源と遜色なくて逆に感動が薄いくらい安定感があって透き通る歌声だった。「鳥の詩」では京アニ版『AIR』の映像がふんだんに使われており……ひさしぶりに再見したくなった。「Light Colors」は「プリズムを通した~」という歌詞に合わせ、虹色のレーザーで。「My Soul, Your Beats!」はちょっとアレンジが微妙だったかも。

 

Rita

Little Busters!
・Garugantua
・Alicemagic

炎の演出があった。2曲目は麻枝准作詞作曲の新曲とのこと。
「やっぱりリトバスなんだよなあ……」という嘆息を漏らすしかなかった。ここでもアニメの映像が使われており、シーンの抜き出しが神がかっていた。恭介との別れから救出、エピローグまで。京アニフィルムの持つ“力”には及ぶべくもないが、アニメ版『リトバス』は原作の隙間を埋めるコンテの補完がほんとに素晴らしいということを再実感。去年発売から10周年だったが、自分がプレイしたのは2008年だったので、個人的10周年として再プレイしたい……。

 

Satsubatsu Kids

・Birthday Song=Requiem
・ひきこもりの唄
・Autumn Song

麻枝さんが本当にステージに立っていた。それだけで震えた。大病を患い生死の境をさまよい、きわめて成功率の低い難手術を乗り越え再び姿を見せてくれた麻枝さん。以前にお見かけしたときは『Charlotte』制作発表会のスペシャルゲストとしてだった。あれからもう3年以上が経つ……麻枝さんにも、自分にもいろいろあった。けど、お互いに必死に生きている。“殺伐”とした生きることの過酷を、比喩やオブラートに包むことなく歌う「Satsubatsu Kids」の歌。それを演奏する麻枝さんを見て、ただ「元気そうでよかった」という感想が漏れるのは、歌い手である「ひょん」さんの陽性のキャラクターにもよるのだろう。煽り上手で、気配り上手。ほぼ初対面・男性8割のKeyファンともしっかりコミュニケーションが取れていて、人格者だなあ……と。
2曲目「ひきこもりの唄」ではなんと麻枝さん本人が1フレーズだけ歌唱。「こんな暮らしやめて~結婚なんかしてみて~」という箇所だったのには苦笑したが笑 ともあれ、よかった。

 

riya

メグメル
・一万の軌跡
・小さな手のひら

麻枝准登場というこの日最初のピーク、しかもサウンド的には直球のバンドサウンド、という後に何がくるのかと思っていたら……まさかの「メグメル」ですよ。「リトバス→Satsubatsu Kids→CLANNAD」このつなぎ。完全にこの瞬間「神セトリ」を確信しましたね。「メグメル」のアレンジは劇場版のサントラに入ってる「frequency⇒e ver.」になっていたのが「わかってるな~」と(間奏に即興っぽい演奏が入るやつです)。
そして2曲目には……『ソララド』(CLANNADのBGMアレンジアルバム)から「一万の軌跡」! 正直、riyaさんが歌うのは「メグメル」「小さな手のひら / だんご大家族」くらいだろうと思っていました。まさかの『ソララド』……「今回のセトリが送られてきて、麻枝さんにありがとうメール送っちゃいました」と語っていたので、セトリもしかしたら麻枝さんが考えていたのかも? 「小さな手のひら」は『~AFTER STORY』の素材をふんだんに使い魅せる。もう言わずもがな、という感じ。

 

多田葵

・CANOE
・灼け落ちない翼
・おきらく☆きゅうさい

CLANNAD』パートからの「CANOE」。ここが一番泣きましたね。なんでだろう? 麻枝さんが『リトバス』でいったん引退宣言して、監修という立場に回って初の作品のエンディングだったこともあり……「(次の世代に)バトンを渡す」というKeyのモチーフがこれ以上なく表れた曲でもあり(もともと「旅」というインスト曲のアレンジですしね)。スタッフが代わっても、Keyという旗印はつづいていくんだなあ……ということが壮大な曲調で歌われるのだ。相当な難曲ということもあり、まさかライブで聴けるとは思わなかった。
MCが明るい感じで、本人のキャラには3曲目のほうが合っていた(篝のキャラソン? 知らない曲。バズーカとか撃ってた)。「灼け落ちない翼」は麻枝さん本人の希望でとのこと。同人誌を作るきっかけになったり、『Charlotte』には思い入れがあるので、1曲だけでも関連曲が聴けてよかった……。

 

NanosizeMir

Philosophyz
・ささやかなはじまり

Rewrite曲は正直多いなと感じた。(あとで数えてみたらCLANNADに次いで多かった)

 

Lia(2回目)

時を刻む唄
・星の舟

本編ラストに「星の舟」を持ってくるセットリストを英断と讃えたい! 『planetarian』はKeyの主要スタッフ(折戸・麻枝・いたる)が原作の時点から関わっておらず、2016年のアニメ化時も「なぜ今? とうとう過去作を切り崩すしかなくなったか……」というタイミングだったにもかかわらず、大傑作だった作品(特に劇場版の『星の人』)。このエンディング曲もむろんすばらしかった。Keyの「次代につないでいく」というテーマが「CANOE」にも匹敵するスケールで描かれている……。
時を刻む唄」は、むろん言うまでもなく。

 

〜アンコール〜

Farewell SongLia
・Brave Song(多田葵
・オーバー(riya

どれもよかったが、「オーバー」のイントロが流れた瞬間の盛り上がりにはこの日一番の一体感を感じた。『ソララド』からやるならこの曲をやってほしかったなあ……と思っていたところにこれだったし、ああ、みんなそう思っていたんだなあと。「隠れた名曲」としてコアなファンはみんな知っているので、結果的に有名曲みたいな笑(ちなみにこの曲が挿入歌で使われた伝説の“フラグ折り”回「逆転の秘策」の映像は、前半の『CLANNAD』パートでも使われていました)

だんご大家族(合唱)
・アルカテイル(合唱)

すばらしかった。合唱とか普通恥ずかしいのだが、「だんご」はね……ちなみに他の曲でも、みんなで歌ってほしい、という旨の曲の場合は、映像にテロップが出てました。そのあたりも気配りが利いていたなあと。
このパートが始まる前にこれまでの出演者が総登場したのだが、麻枝さんは来ず。「え〜」という場内の声に、「ひょん」さん「俺が一番『え〜』だわ!(笑)」「麻枝さんらしいよね」と。大人な対応! 最後の全員歌唱での「アルカテイル」でもハモリパート歌ったりして、大活躍だった。めっちゃ好感度上がりましたね。
「アルカテイル」でも映像にテロップが。というわけで歌わせてもらったのだが、これまでKeyの道のりを追体験してきたからこそ「歩き続けることでしか残せないものがあるよ」を自分の喉で歌ったことで、全身にパワーが満ち溢れるような感覚があった。ほんと、「歩き続けることでしか残せないものがある」んだよなあって。

最後に『サマポケ』のロゴ中央にも描かれている蝶の形の紙片が舞う演出もあり、フィニッシュ。記念撮影もあった。

 

以上。新たなKeyの黄金期が始まる……と言ったら、ひいき目に過ぎるかもしれないけど、確かに紡いできたものがあるし、それは新作に至るまで確かに受け継がれている。そういうKeyというブランドの長い「旅」を垣間見たようなイベントだった。

全編にわたって(アニメ化されているものは)アニメの素材が使われているのが豪華。自分の中で、やはり京アニと『リトバス』は別格だなと……『AIR』『CLANNAD』の映像が流れた瞬間は「あ~これだよこれ!」という気持ちになったし、『リトバス』はキャラクターたち自体が愛おしくて。そのあとに続いてきた道も大事だけれど、やはり自分にとっての原点は忘れずにおこうと。

Keyと出会って人生が変わった。京アニから入り憧憬し、『リトバス』で「自分ごと」となり、そのあとはどこか「応援」するような気持ちがあった。そういう個人的な歴史とは無関係に、KeyはKeyで歩みを進めていて、「歩き続けることでしか残せないものがある」という境地に至っている。これからは追いかけるのでも、見守るのでもなく、並び立って歩いていきたい。そう思わせてくれるイベントだった。行ってよかった!