『アインシュタインより愛を込めて』感想

PCゲームブランド・GLOVETYの第一作。脚本:新島夕・キャラクター原画:きみしま青・アートディレクション:志水マサトシの3人がメインスタッフとなって制作されている。
ちなみにこのトリオが組んで制作された過去作品に『恋×シンアイ彼女』(2015年、Us:track)があるが、この作品の企画者がアートディレクターの志水であったのに対し、『アインシュタイン』の企画者はシナリオライターの新島である。

さて、この『アインシュタインより愛を込めて』、コンセプトは「ひと夏のサイエンスラブストーリー」となっている。
実際、科学者・医療者がメインキャラクターとして登場し、本作でのみ成立する科学理論や、荒唐無稽なロボットなども登場する。
新島の過去作も追ってきた人間として、ファンタジックな氏の作風と「サイエンス」が結びつくのか不安な面も正直あったのだが、結論から言えば、これらのSF要素がいい具合にポエムでごまかされていて(褒めてます)「それは現実の科学と照らし合わせて違うだろう」といった感想を抱くことはなかった。
かと言ってSFの皮をかぶったファンタジーというわけでもなく。
SF(サイエンス・フィクション)の最低条件は、作中に登場する理論が(現実の理論を参照しているか否かに関わらず)矛盾なく体系化されていることにあると思うが、少なくとも表に出ている情報に矛盾はなかったし、読者が「どういうこと?」と思う寸前でポエムを挿入し、キャラクターのドラマへと意識を逸らさせる手腕が上手いと感じたのだ。

体験版のラスト部分を参照しよう。

魂というものの存在が科学的に証明された。
(脳は魂から送られてくる情報をキャッチする受信機のようなものである)

主人公は脳障害を抱えているが、この理論によればむしろ治療(強化)しなければならないのは魂のほうである。

魂を強化するためには、他人との交流が必要だ。

「街に灯りをともすんだよ」(ポエム)

みたいな按配である。

それ自体が目的化したハードSFでもない限り、SFにおけるサイエンス要素というのはキャラクターがどう行動するかの動機付け、あくまでドラマに関わるものとして存在しなければならない。
逆に言えばキャラクターの行動原理に関わらないサイエンス要素は不要と言えるのだが、この観点において一切の無駄がなかったということをまずは評価したい。

さて、ここでひとつ別作品の名前を引き合いに出して本作の評価を述べねばならない。

アインシュタインより愛を込めて』は、「俺(新島夕)の考えた最強の『Charlotte』」だったのではないか?

ということである。

Charlotte』とは2015年に放送された、麻枝准原作・脚本のテレビアニメのことである。
アインシュタイン』の「数年前に落ちてきた彗星が少年少女の脳に影響を及ぼし、一部には超能力を発現させた者がいる」「主人公もそのひとりであり、中でも特別に強力な能力を持っている」という設定は、まるきり『Charlotte』と重複するものだ。
アインシュタイン』は2016年あたりから企画の萌芽があったという(事実、主題歌である「新世界のα」は2016年にすでに発表されている)。
そして本作の発売までの間に、新島夕は麻枝准原案のKey『Summer Pockets』にメインライターとして参加している。
これでKey/麻枝准をまるで意識していないというほうがおかしいというものだろう。
そもそも、新島はもともとKeyと同じビジュアルアーツ傘下のブランドSAGA PLANETSでライターとしてのキャリアをスタートさせている。
彼の手がけた作品は「四季シリーズ」と呼ばれ、これも『Kanon』~『CLANNAD』に至る季節の流れを意識したKey作品への目配せを感じさせるものだった。
Summer Pockets』の作業をしながら並行して『アインシュタイン』の企画も動かしていく中で、ふと『Charlotte』のことが気にかかり「自分だったら、あの作品の魅力的な設定をより上手に物語に落とし込めるぞ?」という思いが生まれたのではないだろうか。
……いや、憶測はやめておこう。しかし少なくとも、ぼんやりと私自身が『Charlotte』という作品に対して抱いていたそんな思いを、新島が見事に作品として結実させてくれた(ように見えた)のは確かである。

Charlotte』の魅力的だった設定……「彗星(の正体)」や「“病”としての特殊能力」は、物語の根幹に深く関わることがなかった(それっぽい雰囲気を出したかった、アニメ的に映える要素として取り入れたといった旨のことは、麻枝もたびたびインタビュー等で述べている)。
アインシュタイン』は「サイエンス(ラブ)ストーリー」として、まさにこれらの設定を「科学的」に肉付け(体系化)している。
さらに主人公が「宇宙の真理を知りたい」と願う科学者(志望)の少年と設定されているため、その体系が明かされていくプロセスを通じて、読者が主人公の心情(なぜ「宇宙の真理を知りたい」などと願うようになったのか?)をスムーズに理解できるようになっており、最終的に突きつけられる「宇宙の真理を知ることと引き換えに、世界を滅ぼすことができるか」という二者択一にも、自然と切実さを感じることができるようになっている。

ちなみに、いくつかの特殊能力が登場する本作だが、「ループもの」としての要素は存在しない。サブヒロインとのストーリーはいわゆる「夢オチ」であることが示唆され、主人公がそのような「リアルな夢」を見ることの裏付けとして、彗星に関する設定が用いられているという構造になっている。
「ループもの」と相性が良いはずのノベルゲームで、あえてそれをしない。「アニメ映えする」ことにこだわりながら、結局(原作者の出自であるところのノベルゲーム的な)「ループもの」の要素を取り入れていた『Charlotte』との、これも対照的な点である。

Charlotte』との関連では、音楽面にも触れておきたい。『アインシュタイン』にはボーカル曲が4曲(うち2曲は同じ曲のボーカリスト違い)流れるが、そのいずれをも作曲しているのが竹下智博、『Charlotte』で「How-Low-Hello」楽曲のアレンジを担当した人物である。『Angel Beats!-1st Beat-』のED曲「すべての終わりの始まり」の作曲も手がけており(作詞は麻枝准)、シナリオ面で麻枝准の影響下にあるのが新島夕なら、音楽面ではこの人と個人的にも注目してきた人物だ。
2019年にビジュアルアーツを退職し、フリーになって初めての作品がこの『アインシュタイン』での仕事だったようで、相当に気合いが入っていたことは想像に難くない。
「新世界のα」と並んで2nd OP曲となっている「Answer」もギターのがっつり入った勢いのある楽曲で、ノベルゲームの主題歌としては新鮮さを感じさせる。ロック系のアレンジを得意とする作曲家はノベルゲーム業界内には常に不足しているように感じるので(本来青春ものとの相性は良いはずなのだが)この方向性はぜひ伸ばしていってもらいたい。
ちなみに、グランドED曲は「新世界のα」の男性ボーカルバージョンで、この歌唱を担当しているのが麻枝准とともにユニット「Satsubatsu Kids」を組んでいる「ひょん」であることも付け加えておく。

他作品との比較はこれくらいにして、本作固有の魅力についても言及していこう。

本作で筆者が最も惹かれたのは日常パートの部分だった。友人キャラの「片桐」を筆頭として、ほっこり笑える、とぼけたキャラクターたちのかけ合いが非常に良い味を出している。伏線の管理やテーマの展開といった面にも良い作用をもたらす単独ライター制だが、日常パートのクオリティが落ちないという意味でも重要だなと改めて感じさせられた。読者も自然と愛おしく思える日常があったからこそ、最終的に「世界を滅ぼさない」主人公の選択にも説得力が感じられるのである。

https://glovety.product.co.jp/chara/sub/mou_face2.png

↑友人キャラの片桐 猛(もう)。何度も笑わせてもらいました

そして作品のタイトルについて。「アインシュタイン」とは単に科学者であった主人公の父親が遺した形見のロボットの名前であり、そこには(「シャーロット」が単に彗星の名前であった)『Charlotte』と似たものを感じなくもないのだが、「~より愛を込めて」がついていることはやはりポイントである。
要するに本作のタイトルが示しているのは「父から息子に愛を込めて」ということなのだ。グランドED曲がOP曲の男性ボーカルバージョンであるということも示唆的で、息子にとっての父親という存在を肯定的に描いている。これはノベルゲーム(恋愛ADVゲーム)においては非常に珍しいことと言えるのではないだろうか。「(主人公が)父になろうとして失敗するジャンル」と東浩紀がこのジャンルを定義したのはもはや古典に属する話だが、本作においてはある種子育てに失敗してしまった父親が、最後の最後で主人公をずっと見守っていたんだよ、という形で回帰してくる。そして父子をつなぐのは「宇宙の真理を知りたい」というロマン主義的な探究心なのである。
メインヒロインにして、裏主人公といった性格も強い有村ロミは逆に、実母との確執を抱えたキャラクターとして設定されている。主人公は最終的に彼女の助言を受け入れる形で日常を選択するのだが、それはロマン主義的な探究心を完全に捨て去るということを意味しない。ロミにとっては、日常の中であがき続けながらも、ロマン主義的な探究心を捨てきれない主人公の姿こそが救いになっていたからだ。
本作の素晴らしいところは、「宇宙の真理を知ることと引き換えに、世界を滅ぼすことができるか」という物語展開において日常を選択する結末を描きながらも、そこに父子関係を再挿入することでロマン主義的な価値観自体は否定しなかったところである。また、主人公の日常への帰還を後押しするロミは(主人公より優秀な)科学者であり、この種のゲームにつきもののジェンダー的非対称性への言及に、あらかじめ応答する構造になっている点も特筆すべきだろう。エピローグ、主人公の住む街を離れたロミから、「いくら考えても解けない問題にしがみつきつづけて/それでも進むことを諦めない君のありかたが、私は好きです」という手紙が届いて物語は終わる。

某レビュー投稿サイトを見ると、本作のユーザーからの評価はすこぶる高いとは言えないようだ(発売一週間時点)。それはサブヒロインのストーリーがグランドルートへの伏線を散りばめる役割に終始している(尺も短い)ことに起因するのかもしれないし、グランドルートにしても描写を最小限に抑えて突然スパっと終わるようにエンドロールが流れる、演出面への不満なのかもしれない。しかし自分としてはそうしたネガティブ(かもしれない)ポイントも本筋のテーマ性をダイレクトに伝えるための必要なシンプルさであったように思うし、それが実現したのはやはり新島夕というひとりのライターがすべてのシナリオを書き上げたがゆえのことだったと思うのだ。キャラクターデザインや背景美術にしても同様で、各セクションにつき最少人数しか関わっていないからこその統一感というのが、プロダクトとしての本作を特別なものにしている。4年の歳月をかけ、各分野のプロのクリエイターがある種同人的に作り出したという意味でも本作は賞賛されるべきだと思うし、繰り返しになるが、何よりその内容が素晴らしいものであったと私は思う。今後も折に触れて推していきたいタイトルとなった。

『Summer Pockets REFLECTION BLUE』感想

Summer Pockets REFLECTION BLUE』を読了。無印版は2年前にプレイ済。

「聖地」直島・男木島には発売前に行ったので、訪問後にプレイするのは初めて。今回の再プレイでは、主人公が舞台となる島に対して覚える「不思議になつかしい」という感覚とのシンクロ度が高まって新鮮だった。

(当時の旅行写真)

シナリオの追加・演出強化がなされた『REFLECTION BLUE』。結論……プレイしてよかった!
追加シナリオはそれぞれ、一度世界観を俯瞰したからこそ描けるテーマを扱っていたし、強化された演出も無印版で食い足りなさを感じていたところを見事に補強していて、スタッフの職人的な仕事ぶりを感じた。

以下、感想と総論。(なお、ガンガンネタバレしているのでご注意を)

個別ルート(追加分)について

神山識

作中で執り行われる精霊流し的な儀式の由来にまつわるお話。後付けっぽい感もあるのだが不自然さは感じさせない。
識は過去の鳥白島から来たタイムトラベラー。現在時間軸での歴史書に自身のことが書いてある……という謎を梃子にシナリオが進行する。
この作中作要素に加え、ヒロインの側が自己犠牲的に頑張る(最終的には主人公の元から消える、ビターエンド)という展開も含めて、非常に新島夕氏の作風っぽさを感じる。
(「海賊・鬼姫」という伝奇・バトルヒロイン要素からも、個人的には『はつゆきさくら』を連想した)
一人称「僕」でちょこまかと動き回るの識のキャラクター造形も楽しくて好き。(アニメ化して動くところを見てみたいけれど特殊な立ち位置のためオミットされそう?)

野村美希

「島は大きな家族」のテーマを描く。前作で小出しにされていた「なぜ彼女は親元を離れて一人暮らしをしているのか?」の理由明かしがシナリオ駆動因。
島の治安を守る少年団活動に精を出し、良い意味で日常=サブキャラポジション然としていた彼女をヒロインとして扱うにあたり「実は捨て子で、島のみんなに育てられた」というテーマに敷衍したのはスマートな「ヒロイン昇格」の手管だと思った。
(ただ、途中の「夢が交わる」サスペンス描写がかなり冗長だった……これは無印版の蒼ルートにも感じた難点である)

水織静久

無印版からのヒロイン・紬のペアとして登場していたサブキャラだが、そこでも発揮されていた「母性の象徴」的な人となりを等身大の高校生として掘り下げ直しつつ、隠された問題点も解消していくシナリオ。
優等生を演じ、誰の相談にも分け隔てなく乗ってあげる……そんな彼女の張り詰めていたものを、優等生としての彼女を知らない余所者の主人公が解きほぐす展開。
同時に、挫折した主人公がもろもろの夏の出来事を通じ、新たな一歩を踏み出すことにもうまくつなげていた(「別れ」を前向きなものとして捉えるのがポイント)。
紬ルートのタネ明かしを知っているとぐっとくる演出も満載。「ビジュアルノベル」というメディアの特性にもかなり意識的で、担当ライター「ハサマ」氏の地力を強く感じた。

加藤うみ

隠し(トゥルー)シナリオにおけるヒロイン扱いのうみだが、そこでの彼女は幼児退行を起こしており、「親(主人公・しろは)」の目線として「子(うみ)」を慈しむ視線に同一化できなければ感動するのに厳しさがあるのが、難点といえば難点だった。
この追加シナリオでは、初プレイ時で見せていたしっかり者の人格でストーリーが進行。ささやかな子供の反抗を企てたうみに対し、主人公は「叱ってあげられる親(と子)」の関係を築くことになる。
劇場版アニメ『CLANNAD』のシナリオ再構成(奇跡は起こらず、渚の死を受け入れ汐と向き合う)を彷彿とさせる展開。育児放棄に近い状態だった未来の父(主人公)との和解は終ぞ描写されないが、テーマ的には回収。
「叱る」立場になった経験を通じて、自身の親との関係を見つめ直し再起に向かう主人公の心の動きも、丁寧に描かれていて好印象だった。(水泳部の仲間がテレビの向こうから呼びかけてくるシーンなども、シンプルにぐっとくる)

演出強化について

細かいところは他にもあったのだろうけどわかりやすいところを。

隠しシナリオ「ALKA」ルートで、うみは自身の「記憶を失いながら、何度も夏を超えてきた」体験をオリジナルの童話絵本にする。
無印版ではこの絵本の内容はテキストで表示されるのみで絵は描かれていなかったのだが、『RB』では描かれている。
エンドロールではその絵本の内容が改めてリフレインされる。繰り返しの物語を作中作として描き、それを物語の外部にいる私たちプレイヤーの側にも開く、というのは新島夕氏の真骨頂。
シナリオ担当として一番目にクレジットされているものの、パッケージヒロインのしろはルート及びオーラスルートの筆致はかなり「Keyらしさ」にチューニングしていると感じていたので、ここにきて氏の作風を前面に出す演出が採用されているのは、個人的にぐっときた。
(なお、同じく氏が担当している久島鴎ルートはある種サブライター的に自由に書いている感じがする。上述の童話絵本も、鴎がうみを手伝う形で制作されたものとなっている)
自分がKey作品に感じる魅力は、実体があるようでない「Keyらしさ」を集団制作として追い求めながらも、その無意識とも言える部分にひょっこりと作家性が顔を覗かせてしまうような瞬間の体験にこそあると思っているので、このポイントは嬉しかった。

また同じくエンドロールにて。歌曲「ポケットをふくらませて」は原案の麻枝准氏による作詞・作曲だが、発注時のコミュニケーションが上手くいかなかったとかで、本編で流れるタイミングを踏まえない歌詞になってしまったことを後々麻枝氏が苦言として表明する事態になっていた。その後、コンシューマ版で「ポケットをふくらませて~Sea, you again~」として歌詞を改めたバージョンが収録。
『RB』でも「~Sea, you again~」バージョンが収録されており、自分は今回初めて聴いたのだが、確かに歌詞を本編に合わせて変えたほうが流れとしてしっくりきた。
(無印版の歌詞は無印版の歌詞で、麻枝准流「少年時代」的な味が出ていて好きなのだが)

総論

恋愛のその先に結婚→家族というものがあるとすれば、何度も選択肢を選び直すことができ、複数の恋愛対象と関係を結ぶことができる恋愛ADVプレイヤーの倫理観・成熟観とは? ……という問題設定が、かつて恋愛ADVというジャンルをめぐる批評では共有されていた。
Summer Pockets』においては主人公とヒロインの子供である「うみ」はすでに冒頭から物語に登場しており、後に同じ時を繰り返しているのはむしろ主人公ではなく彼女だった、という構造が明かされる。
形式上「主人公」と「攻略ヒロイン」がいるという恋愛ADVの体裁をとってはいても、2020年(2018年)現在それはもはや「様式美」でしかなく、むしろ「同じ夏を繰り返す」ことそれ自体が自己目的化したプレイ体験が求められている。
(実際に今回の『RB』でも日常シーンの大幅追加、ミニゲームの強化という施策が取られている)
複数ヒロインとの顛末を見届けることは、もはや倫理的な葛藤をプレイヤーにもたらさない。だからこそ逆説的に、しろはという固定のヒロインと主人公の子供である「うみ」がいちキャラクターとして作中に登場できるのだ。
(うみが最後に自己の存在を消尽させなくてはならないのは、「私は実は固定ヒロインと主人公の子でしたよ=私の存在そのものが“トゥルーエンド”があることの証明ですよ」というネタバラシをプレイヤーに対して行ってしまったことへの、ある種の贖罪のようなものである)

Summer Pockets』を一本道の物語として捉えようとすると、主人公の物語というよりうみの物語(ひいては、その母であるしろはも含む「巫女」の血族の物語)という色彩が強くなる。
しかしそのように「一本道の物語」を思い描くこと自体が、「夏休み=時期が来れば繰り返すものであり、同時に一度として“同じ”ことはないもの」という解釈に基づいた本作の時間観と矛盾する。
傷が癒えれば後にし、しかしいつでも戻ってきていいよ、という優しさの在り処をこそ本作ではテーマにしている。(それが「夏休み」であり、「田舎の島」として象徴的に表されている)
「挫折した主人公が、夏の島の出来事を通じて再起する」という一見物語的な要素は、そうした背景を構成するものでしかない。
本作のシナリオは、「(男性)主人公が(女性)ヒロインのトラウマを治療する」ジャンルであると論難された、かつての恋愛ADVの図式には収まらないものだ。
治療者と被治療者の関係ではなく、「ともに歩む」「お互いをお互いの鏡とする」関係のバリエーションとして、所謂「個別ルート」は存在している。
プレイヤーは主人公に同一化しヒロインの問題を主体的に解決するというよりも、繰り返す「夏休み」の中で、俯瞰的に「ともに歩む」バリエーションを記憶していくといったほうが正確だろう。

長らく、アドベンチャーゲームにおいては「主人公=プレイヤー」図式を基本に、「主体的な選択」によって「未来が分岐」するという「世界線」モデルが支配的だった。
STEINS;GATE』に着想を得たOfficial髭男dismのヒット曲「Pretender」にそのものずばり「世界線」というワードが登場するように、もはやこれはノベルゲーム愛好者という狭い範囲の問題ではない。
世界線」をベースにした世界観は、可能世界は「ある」のかもしれないが、「そこには辿り着けない」という絶望も同時に生じさせる。
2010年代はSNSが発達し、主体的にアクションを起こした瞬間にすべてが「つながり」のネットワークに絡め取られてしまうような……フィルターバブル的な、カッコ付きの「現実」に覆い尽くされてしまった。
そういう状況において、「ここ以外の世界はあるかもしれないが、辿り着けない」ということは「ここ以外の世界はない」ということ以上に深い絶望感をもたらすだろう。
アクションすること自体の自由は奪われていないからこそ性質が悪いのだ。

Summer Pockets』全編通してのエピローグにて、主人公が行う「蔵の遺品整理」のメタファーで描かれているのは、「時系列は整理のためのひとつの指標ではあるが、数ある指標のひとつでしかない」ということだ。
体験の内容・種類によっても、記憶や出来事は整理されうる。形あるモノとして残っているのであれば、色や大きさによって整理されることもあるだろう。
私たちに与えられた〈自由〉とは、過去-現在-未来と一直線に続く時間の上で、行き先を剪定する権利だけを指すのではない。
プレイヤーにとっての〈主体性〉というものを、「選択肢を選ぶ」というシステムに紐づいたメタファーから解放し、ゲームをプレイした体験・記憶そのものを絵具として、一枚の絵を描くような能力として捉え直させる。
そのヒントが、本作のテーマ性・時間観・シナリオ構成には散りばめられているように思う。

そこに「孤独」の位置はあるか?――新海誠とRADWIMPS、そして『天気の子』

0.

 新海誠の監督最新作『天気の子』は、「セカイ系」を2019年現在を舞台にポジティブに捉え直した作品だという評を多く見かける。
 「君と僕の(恋愛)物語の正否が社会という中間項を抜きにして『世界の危機』のような抽象的な問題と直結してしまう」
 これが「セカイ系」の標準的な定義といえるが、本作に肯定的な評者は(「セカイ系」という言葉を使っている/いないに関わらず)本作から抽出した上記のような図式をいわゆる「トロッコ問題」へと敷衍し、「個人を犠牲にする『社会』よりも個人を選ぶ」という結末に落とし込んでいる点、またそれ以上に、理屈抜きでただ一人の大切な「君」を求める「僕」の若いエネルギーを肯定的に描いている点を概ね評価しているようだ。

 『天気の子』を評価するには上記のような読みしか許されていないかと言えば、もちろんそうではない。しかし強力にそのような読解をアシストする作りになっていることも間違いないというのが、僕の考えだ。
 この記事ではその「作り」がどのように実現しているかを、新海誠のフィルモグラフィに一貫して見られる特徴、および『君の名は。』から引き続き劇中音楽を手がけるロックバンド・RADWIMPSの作品の特徴をクロスさせることで解き明かしていく。
 その上で、そうした「作り」が生み出すひとつの問題点と、その外側に立つための視点、そして「セカイ系」図式(の反転)を介することなく『天気の子』を肯定的に評価する道筋までを示したいと思う。

 

1.

 まず新海作品をたどっていく上で補助線としたいのが、「世界」とは一体どのような範囲を指すのかということである。
 初の劇場公開作品『ほしのこえ』の冒頭の台詞からして、「世界、っていう言葉がある。」だった。新海のフィルモグラフィは、この言葉の定義から始まっていると言っても過言ではないのだ。

 『ほしのこえ』の台詞は、「私は中学の頃まで、世界っていうのは、携帯の電波が届く場所なんだって、漠然と思っていた。」と続く。ここから「空間的距離」が重視されていることは明らかである。ミカコとノボルは宇宙と地上、空間的に離れてはいるが、お互いにお互いを想っていることに確信がある(有名な「ここにいるよ」の同期がその確信を表現している)。彼らはその意味で決して「孤独」ではない。寂しいと感じてはいるだろうが、それは想う相手が空間的・身体的に「そばにいない」ことによるものだろう。そして、そのことこそが彼らにとっては何より重要なのである。

 ところで、「世界」という言葉が必ずしも空間的な広がりと結び付くとは限らない。たとえばかつて哲学者ウィトゲンシュタインは、「私の言語の限界が、私の世界の限界である」と言った(『論理哲学論考』)。これは噛み砕いて言えば、「私が認識しうる範囲のことを『世界』と呼ぼう」ということで、「私=世界」という簡単な等式で表せることから「独我論」と呼ばれることもある。

 「セカイ」というカタカナの表記から僕が思い浮かべるのは、こうしたウィトゲンシュタイン的な、誰とも隔絶され空間的な位置を持たない「孤独」の問題が、思わず「世界」と名指したくなるような視覚的広がりに展開されるイメージである。
 ひとりぼっちでどこまでも澄んだ青空を見上げて涙が出る感じ……と言えば伝わるだろうか。
 他者との関係や「社会」の中に居場所を持てない「孤独」を、しかしそれらとは対立させることなく、「その孤独は、『世界』にも等しい価値がある」と、優しく肯定してくれるようなイメージだ。

 『ほしのこえ』における「そばにいなくて寂しい」という気持ちと、このような意味での「孤独」は、表面的には似ていても全く異なるものだ。
 僕の実感では、この意味での「孤独」に寄り添ってくれる唯一の新海作品として、『秒速5センチメートル』がある。
 それは新海誠のフィルモグラフィの中でこの作品だけが備えている、連作短編(三部構成)という形式によるものだ。

 『秒速』においては、各部の間に時間の隔たりが存在する。加えて、第二部「コスモナウト」では「君と僕」に代わる第三者(澄田花苗)が語り部となる。
 このことによって、物語に語られていない空白が生まれることになる。物語の結末から逆算しても、そこは想像で埋めるより他ない。
 (『秒速』第三部の山崎まさよしOne more time, One more chance」パートにおけるフラッシュバックは一見その穴埋めをしているように見えるが、実のところそこに描かれていない出来事の存在を際立たせるものになっている)
 鑑賞者と、主人公の遠野貴樹をはじめとしたキャラクターとの隔絶が、そのことによってより強く意識される。また、「コスモナウト」の語り部である花苗は、遠野に対するそうした隔絶をはっきりと口にする。キャラクター同士も隔絶しているのだ。このことによって『秒速』は、必ずしも遠野という主人公の立ち位置をトレースせずとも、この「孤独」の構造に触れられる作りになっている。しかも、「孤独」が「世界」にも等しいということが、ビジュアルイメージによって展開されるのだ。
 (「コスモナウト」冒頭の「世界の果て」じみた光景において、「君」の表情はどこまでも見えない。それによってあの光景は特定の「君(篠原明里)」を想う遠野個人のものとしてでなく、「孤独」一般に敷衍できるものとして鑑賞者は受け取ることができる)

 以上を踏まえて改めて新海誠の作品群を振り返ると、やはり『秒速』だけがその中で異色だったのではないかという思いが強くなる。

 『ほしのこえ』に続く『雲のむこう、約束の場所』は、「世界の危機」と「少女の夢」が直結するという、「いわゆるセカイ系」の形式を忠実になぞった設定、プロットである。主人公がヒロインを救出するため「天に向かって伸びる白い塔」に向かうのがクライマックスになるなど、変わらず空間的距離は重要だ。
 夢に囚われた少女がひとり孤独に耐える情景カットが含まれることは注目すべきだが、その少女・佐由理はご丁寧にも最後に記憶を失ってしまう(なお、この失われた「佐由理の夢」を少し異なる形で作中に取り戻したのが、『天気の子』だと言うこともできる。このことは最後に述べる)。

 『星を追う子ども』は地底世界アガルタへの「縦の空間移動」を幹とする作品だ。妻と死別したモリサキという人物が登場するが、彼が求めるのも身体を伴った妻の再生である。また、そもそも冒険活劇、アクションの比重が高く、心理的なイメージとしての「孤独」が十分に映像化されているとは言えなかった。

 『言の葉の庭』で顕わになったのは、触覚性へのフェティシズムである。匂い立つような緑と雨滴の表現、靴という「身に着けるもの」を作る少年。キャラクターデザインもより肉感的で重量を増したものになり、直接的に肌を触れさせたりといったアクションも増えた。「身体はそばにいても、心は離れている」ことが、そこではドラマの要点となっていた。

 『君の名は。』『天気の子』においても田中将賀による肉感的なキャラクターデザイン(共通)やスタジオジブリ出身の安藤雅司による重力を意識したアニメート(『君の名は。』)、薄汚れ廃棄物の散乱した東京の街並みをシミュレートする(『天気の子』)など、触覚性への意識は地続きである。加えてキャラクターの性格付けがカラッとしていることもあり「心の距離」の問題にはフォーカスが当たらず、単に主人公格である少年少女が「(空間的に)そばにいない」ことをどう乗り越えるかという作劇が展開される。

 このように整理すると、新海誠作品において「孤独」というテーマは「世界」と直接対置させられる形で表現されたことはなかった。特徴的なモノローグによって近い感触があったとしても、そこには必ず他者(の身体)のような、接地面が存在していたのだ。

 以上を踏まえた上で、次の話題に移りたい。
 新海誠作品とロックバンド・RADWIMPSの関係である。

 

2.

 新海誠の、その初期から持っていた空間的な距離や身体的な接触を重視するという志向性と、RADWIMPSというロックバンドの音楽性が合致したことが、『君の名は。』の爆発力を生んだと考えられる。

 RADWIMPSはライブ――オーディエンスとの「いま、ここ」における接触的経験――に重きを置いたバンドであるということはもちろん、楽曲単位でも触覚性を強く喚起させるバンドである。それはとりわけ歌詞表現に顕著だ。ソングライティングを手がける野田洋次郎の紡ぐ言葉は言葉遊びに満ち溢れており、ラップ調の歌唱で膨大な言葉が矢継ぎ早に掃射される。またラブソング(恋人同士だけでなく、母子の関係も含む)において「遺伝子」という単語を多用し、(恋)愛と生殖を直結させることに象徴的だが、その言葉の感触は非常に「即物的」である(言い換えれば、迂遠なほのめかしによる「エロさ」はほぼないと言っていい)。

 このことは野田も自覚しているようで、並行して走らせているillionというソロプロジェクトでの2ndアルバム『P.Y.L』リリース時に行われたインタビュー(2016年秋)にて言及がある。曰く、RADWIMPSはある感情のピークを楽曲ごとに表現する形だったが、最近ではその「あわい」にも色々な感情があるようになったと考えるようになった、それをillion名義の作品では表現していると。

RADWIMPSでの僕は、何かしらの感情のピークを歌にしてきたと思うんです。なぜなら、何も起きず、誰も泣かなくて笑わないような映画は存在しないから。音楽もそうだと思っていたんですよ。喜び、怒り、悲しみ、叫び出したくなるような幸せ……そういう感情のピークを、僕はずっと曲にしてきた。でも、その感情と感情の間にも、目を凝らしてみれば小さな振動があるんですよね。今は、その振動の滲み方にすごく興味があるんです。

――野田洋次郎が語る、RADWIMPSと両輪をなすillionの再始動(CINRA.NET)より

 記事中でインタビュアーからも指摘されているが、野田洋次郎の表現の極端さというのは、「五月の蝿」という(元?)恋人への愛憎を猟奇的(とあえて言う、詳しくは各自で検索されたし)な言葉で綴った楽曲を「ラブソング」と言い切る感覚に表れているだろう。かと思えば<『生まれてはじめて』と『最初で最後』の『一世一代』が君でした>と歌う「ラストバージン」のような、直球の愛情表現を用いたりもする。一曲の中に揺れ動く感情を同居させるということが、基本的にないのだ。

 野田の書く楽曲は基本的に一人称的で、私小説的な色合いの強いものとなっている。その「内容」への共感性のみでファン心理が駆動されているのであれば、もっと小規模なファンベースに留まっていてもおかしくない。しかし実際には、スタジアム級のライブ会場を満員にしている。その理由とはもちろん、歌詞の内容(だけ)ではなくそれ以外の音楽的要素(メロディ、演奏、サウンド、パフォーマンスetc)が観客を惹きつけているということに他ならないのだが、このように考えることもできる。野田にとって歌詞とは、それを自ら発声することで音楽的パフォーマンスを最大限に発揮するための、いわばブースターなのだ。野田の歌詞というものについての考えを、著書『ラリルレ論』から引用する。

 でもね、アンケートにも書いたけど歌詞についての質問はやっぱあんま答える気にならないよ。その日によって違うもん、俺。答えなんてさ、その時の気持ちと今の気持ちも違うし。違っていいの。
 歌は今に向けた手紙であり、宿題であり、投げかけなの。これどういう意味だ? って俺もツアーで歌いながら考えるの。そして今の俺なりの答えを考える。その繰り返し。それでいいと思ってるし、それがいいと思う。
 僕はミュージシャンでシンガーでアーティスト。作詞家じゃない。でも自分の歌を歌ってるから歌詞を書く。

――野田洋次郎『ラリルレ論』(文藝春秋)より

 個人的には、『君の名は。』挿入歌の歌詞に「キス」とか、作中でキャラクターが行っていない行為を示す言葉が入っていることに対して「果たしてどうなんだ?」と思ったものだ。しかし、野田のこうした考えを補助線にすればその狙いを想像することはできる。つまり野田が「キス」と歌うことによってブーストされる感情が映像に必要なものであれば、(キャラクターがその行為を実際に行っていなかったとしても)その楽曲が流れることが必然だという判断が、新海の中でなされたのだろうということだ。

 

3.

 新海作品において、潜在化していた触覚性への意識が、『言の葉の庭』以降顕わになったように見えるのはなぜか。

 彼はその時々のメディア環境の変化と、それに伴って生じる新しい生理感覚に鋭敏な作家だと思う。先述したように基本的には「空間的距離・身体的接触」を重視する人なのだが、『ほしのこえ』当時は空間的距離が離れていても手軽に交信できる携帯電話・電子メールというものが登場したことで、あのような作劇になったのではないか(つまり、「電子メールで済ませりゃいい」という考えとは真逆だからこそ、電子メールが印象的に使われたということだ)。

 新海が触覚性へのフェティシズムを前面に押し出し始めた時期(2010年代前半)というのは、スマートフォンが十分に普及した時期と重なる。タッチパネルによる情報の送受信、「触覚性の時代」に対応させるようにしてキャラクター描写にも自然描写にも触覚性を充溢させていき、それを前提とした上で新たな作劇を模索しているように見えるのだ。すると、『君の名は。』における身体の入れ替わりや時間のズレというアイデアも、こうしたメディア環境的な現状認識への対応として生み出されたものだと考えられる。「身体はそばにいても、心は離れている」ことは『言の葉の庭』でやった。では次は? というように。

 『天気の子』は、空間的・身体的に「離れる」ことを天上の空間だったり身体が透けるということで表現しているという点で、「触覚性の時代において、どうすれば二人の距離を離れさせることができるか?」のバリエーションのひとつだといえる。その意味では『君の名は。』と比較して新しさはない。前作との比較で、むしろ注目すべきはRADWIMPSの変化である。今回のボーカル曲は非常に「合唱曲っぽく」なっているのだ(「グランドエスケープ」のサビや、「愛にできることはまだあるかい」フルバージョンの歌い出しなど)。

 彼らは近年アリーナクラス以上の非常に大きな会場でのライブを敢行することが多くなっている。また「18祭」というNHKで放送された18歳限定ライブでオーディエンスとともに合唱した楽曲(「正解(18FES ver.)」)を、最新アルバム『ANTI ANTI GENERATION』のラストに配するなどしている。
 RADWIMPSというバンドが音楽によって「みんな」を引っ張っていく決意を固めたのは、野田がインタビューにてたびたび語る東日本大震災の影響もあるだろうが、ドラマー・山口智史が病気により無期限の休養に入ったという音楽的な要因も大きいと思われる。現在では欠けたドラマーをひとり補うのではなく、逆にサポートメンバーを二人入れてツインドラム体制として活動している。場合によってはストリングスを入れることも辞さず、もはやオリジナルメンバーのみで演奏することにこだわっていない(「愛にできることはまだあるかい」のミュージックビデオを参照のこと)。フィーチャリングゲスト(ONE OK ROCKのボーカルTaka、あいみょんなど)を招いた楽曲も最新アルバムには収録されている。

 野田曰く、RADWIMPSとillionはそれぞれ具象画と抽象画の対比をなす、表裏一体の関係にあるのだという*1。楽曲制作の主導権はあくまで野田個人にあることが明言されていることからも、名義を使い分けることの意味はもっぱら社会的な意味合いにおいてだと考えていい。つまり新海作品において「RADWIMPS」として参加しているのは、感情の「あわい」を表現するillion的方向性の楽曲ではなく、ライブにおける「みんな」を引き連れていくエネルギー、極端な振り幅を持ったボーカル曲こそを新海サイドが求めたためということになる。RADWIMPSの音楽は、野田洋次郎という個人から発するごく私的な感情を出発点としつつも、その意味内容を超えたエネルギーの放射によって「みんな」を巻き込んでいくのだ。

 新海作品においては、ビデオコンテ(動画ファイルのタイムライン上に絵コンテを再配置し、劇伴や台詞などの音声要素と並行的に編集を行う)という手法により、映像と音楽の有機的な関係性が生まれているというのは、現在ではよく知られている。
 『君の名は。』の公開後には、「感情グラフ」というものの存在が話題となった。観客の感情を時間の流れの中でいかにコントロールするか。とりわけ、その頂点となるポイントにいかにして誘導するかが意識されていることがわかる。

 僕が危惧しているのは、このようにして緻密な時間コントロールによって感情のピークに誘導するという新海の方法論が、RADWIMPSという強力な動員力を持つライブバンドの楽曲と出会うことで、「触覚性の時代」の負の側面……いいね戦争、ドナルド・トランプの時代における世論形成のあり方と、同様の熱狂を引き起こしてしまっているのではないかということだ(「感情グラフ」が選挙対策委員会の壁に貼られていたとしても、何もおかしくはないという連想)。
 もちろんこうした方法論を選択していること自体に政治性があるはずもなく、結果的に現在のメディア環境や、そこから生じる時代の気分といったものに適合してしまっているだけかもしれない。しかし新海が『天気の子』関連のインタビューで「ポリティカル・コレクトネス的な空気への違和感、いらだち」を原動力に今作を構想し始めたということを語っている*2のを目にすると、本作の「感情をハッキングする装置」としての強度を念頭に置かないのはまずいのではないか? と思えるのだ。それは作品の伝える人間観や現代社会の描写を批判する以前に検討されなければならない事項である。

 

4.

 触覚性=リアルタイム性が重視され、瞬間的な感情のピークを共有させることで動員する方法論が精緻化してきた現代。
 そんな時代にあって個人が自律的に生きるためには、冒頭に述べた「孤独」という概念をいかに取り戻すかが重要になってくるのではないか。

 アーティストの布施琳太郎はこれと同様の問題意識から、「iPhone(タッチスクリーン)の時代」という現状認識から現代における「孤独」の位置を探る「新しい孤独」という論考を執筆している*3。雑誌『美術手帖』が開催した「第16回芸術評論募集」にて佳作を受賞した同論考は、彼自身が現代美術に実作者として関わっていることもありその領域での事例が目を惹くものの、VTuberなどポピュラーカルチャーに属する事例もバランスよく取り上げ、領域横断性を確保しているところに説得力がある。作品を介した「孤独」の価値の称揚は、ひとつの領域に閉じこもることでは成されない。どこかで他ジャンルの作品や、その周囲に広がる鑑賞者コミュニティへの開かれを意識しなくてはならないのだ。

 「みんな」と「孤独」は両輪として考える必要がある。
 そのせめぎあいの中にある表現として、自分はやはり音楽、ポピュラーミュージックとしてのJ-ROCK(邦楽ロック)という観点から考えてみたい。

 まず前提として、感情の大波に「みんな」で乗っていこうという風潮に乗り切れない人たちはいつの時代にも、どんな国にも存在する。かつてはニルヴァーナカート・コバーンをアイコンとする「オルタナティブ・ロック」がその受け皿となっていた(詳しくは南田勝也『オルタナティブロックの社会学』などを参照)。現在はDTM環境を手軽に整えられるようになったことや個人で音楽配信するハードルが低くなったことから、より個人単位で完結するラッパー/トラックメイカーにその役割がシフトしている。元ニルヴァーナのドラマー、デイヴ・グロールも評価するビリー・アイリッシュはその最右翼といえるミュージシャンだろう*4

 日本で上記の立ち位置に近いソロミュージシャンに米津玄師がいる。ボカロPという個人制作の文化から出発したことや、2018年の「Lemon」で国民的と言っていいヒットを飛ばした後も自らを「オルタナティブ」な存在だと位置付ける認識*5など興味深い存在ではあるのだが、ここではRADWIMPSとの比較を明確にするためにロックバンドを取り上げてみたい。

 まずはBUMP OF CHICKENだ。世代的にはRADWIMPSのひとつ上にあたり(RADWIMPSのメンバーが1985年生、BUMP OF CHICKENのメンバーが1979年生)、メンバー同士の個人的な交流もある。やはりアリーナ/スタジアムクラスの観客を動員する、「紅白歌合戦」への出場経験もあるロックバンドである。
 彼らは宇宙や星といったモチーフを頻繁に用い、現在を歌った楽曲にも常に遠未来からの視線が感じられる。「孤独」をテーマにした楽曲も多く(「オンリー ロンリー グローリー」など)、ソングライティングを手がける藤原基央は、どんなにバンドの規模が大きくなっても「ひとりひとり」に歌を届ける姿勢を変えていないという。

「広い会場でライブをやって大勢の人が来てくれたという事実に本当に感謝しているのは間違いないんですけど、僕は、何万人がいても『一対大勢』とは思えないんです。目を閉じて歌えば『一対一』という感覚になる」

「自分は漫画にもアニメにもゲームにも一人で触れてたし、そこから得たものは自分一人の宝物だった。音楽もそうでした。ラジオやCDから聞こえてくる声と一対一の関係性で育ってきた。だから自分が曲を作って歌う時も、その感覚が強いんですね。レコーディングのブースで歌っていても、3万人がいるステージで歌っていても、歌う先には明確に“あの日の俺”みたいなヤツがいるんです」

――「歌う先に“あの日の俺”がいる」BUMP OF CHICKEN藤原基央の創作の原点(Yahoo!ニュース)より

 彼らはオーガニックな質感のアイリッシュ/カントリーサウンドエレキギター主体のバンドサウンドに混ぜ込むことを得意としている。最近ではシンセサウンドを導入することも辞さないが、ノスタルジーなルーツミュージック性とのコントラストがかえって強まり、時空の感覚を歪ませるような藤原の詞世界と相乗効果を上げているといえる。バンド自体が幼稚園からの幼馴染から成っており、ある種「秘密基地」的な聖域感を体現していることも楽曲の持つ世界観の強度を高めているといえるだろう。メンバーはアレンジについて「曲が望む形を探したら自然とそうなった」ということをよく言うが、BUMP OF CHICKENにおいて主体となるのはあくまで「曲」である。いわばひとりひとりがプレイ体験の中でそれぞれのストーリーを描けるRPGを用意してくれているようなもので(藤原はゲーム音楽、とりわけファンタジーRPGからの影響も公言している)、「自己表現」の匂いは限りなく希薄である。

 UNISON SQUARE GARDENも注目すべきバンドだ。結成15周年イヤーの今年7月には2万5000人を動員するライブを成功させたが、これは周年イヤーだからこそのイレギュラーにすぎず、「ロックバンドはライブハウスで体感して初めて完成する」という美学に基づき頑なにライブハウスを中心にツアーを回るということを続けている。ソングライターの田淵智也は、ロックバンドのライブにおける「一体感至上主義」への反感をたびたび明言している。

いつからかロックバンドのライブの空気に染み付いてしまったスタンディング至上主義であったり友達と一緒でなければ盛り上がれないであるとかステージの人が何か言わないと盛り上がれないみたいなものは、徹底的に壊していかなければならない。本来ロックバンド体験には必ずしも必要なものではないのだ。

――2015年10月のブログより

一体感至上主義みたいな音楽シーンの現象が僕は本当に嫌で、それをぶっ壊そうとずっと画策してきた。今もしている。

――2018年11月のブログより

 UNISON SQUARE GARDENの歌詞は「徹頭徹尾夜な夜なドライブ」「場違いハミングバード」「ガリレオのショーケース」といったタイトルに表れているように、ほとんどナンセンスに接近している。ソングライティングを手がけるのがベースの田淵であるという点も、フロントマンによる「自己表現」のイメージを与えがちなロックバンドというフォーマットに対するカウンターとして機能している。しかしギター&ボーカルの斎藤宏介も、ドラマーの鈴木貴雄もそれぞれ卓越したスキルと唯一無二の個性を持ったプレイヤーであり、アニメソング作家としても活躍する田淵の作る、複雑にメロディラインを変化させる楽曲を難なく演奏してみせる。その最小限の3ピースという編成が生みだすスリリングな駆け引き自体をエンターテインメントとして見せるストイックな姿勢は、先ほどの田淵の発言に説得力を与えている。

 彼ら2バンドに共通するのは、そのバンドとしての「あり方」がステージパフォーマンスのみならずサウンドにも表れているということだ。ステージとフロアの関係が「俺(たち)」vs「みんな」という形となるのではなく、音の震えを介して同様の「あり方」がステージとフロア、双方に立ち現れる。バンドでなくあくまで「曲」が主体となっていることで、こうした両者の関係性は可能になっているといえるだろう。カート・コバーンの悲劇(彼は27歳で自ら命を絶った)の原因は、彼個人が「オルタナティブ・ロック」の御神体として祀り上げられ、そのバンドサウンドを分析する批評に恵まれなかったことにもあるかもしれない。

 (ちなみに、OP曲をBUMP OF CHICKENが、ED曲をUNISON SQUARE GARDENが担当したテレビアニメ『血界戦線』でも、『君の名は。』『天気の子』を手がけた川村元気東宝社員としてプロデューサーを務めている。UNISON SQUARE GARDENはこのED曲「シュガーソングとビターステップ」が最大のヒット曲となった。監督の松本理恵が絵コンテを手がけるEDのアニメーションは田淵のポリシーとシンクロするように、キャラクターが思い思いに、非同期に体をくねらせる。またBUMP OF CHICKENのOP曲「Hello, world!」も、直接的な戦闘能力を持たないが、事故的にレアな特殊能力を持ってしまった語り部・レオが「主人公の資格」について思い悩む心情にシンクロするナンバーで、「ひとりひとり」に歌を届けることを信条とする彼らの姿勢と一致する。このことからも、川村はロックバンドすべてを「みんな」の感情をブーストするために起用しているわけでは決してなく、それぞれのバンドに最適なアニメ作品との掛け算を模索していることが窺える)

 

5.

 最後に、こうしたステージパフォーマンスやサウンド面からの分析が、これまで批判的に取り上げてきたRADWIMPS、ひいては新海作品の新たなポテンシャルを引き出すことにもつながることを示したい。そのためには、新海誠とのコラボレーションが開始される以前のRADWIMPSの楽曲に目を向けてみる必要があるだろう。

 RADWIMPSが2013年にリリースしたアルバム『×と〇と罪と』は、野田がすでにillionを始動していたこともあって、打ち込みと有機的なバンドサウンドを融合させる挑戦がなされている作品だ。先述の「五月の蝿」「ラストバージン」が収められているのもこのアルバムなのだが、illion的な感情の「あわい」を一曲の中で表現する楽曲も収録されているのは見逃せない。アルバムに先駆けシングル曲としてリリースされた「ドリーマーズ・ハイ」である。

 ラジオ番組「SHOOL OF LOCK!」出演時の発言によれば、この時期に制作された楽曲では担当パート以外の楽器が鳴ることが増えたものの、あくまでバンドメンバーが演奏していることが強調されている*6
 バンドというのは「個」の集合体だ。野田によれば『絶体絶命』(2011年)あたりから曲作りに関しては完全に自分が責任を持つ、という方針に切り替えたとのことだが、アレンジやプレイには当然メンバーの癖も出る。完全にフロントマンがコントロールできない、ズレを抱え込んだ集合体だからこそ生まれる楽曲というものがあり、その意味での現時点での最高傑作が(現在では山口が離脱してしまっていることも含め)本楽曲といえるだろう。
 サビで盛り上がらず、逆にフラットになるメロディ。微細なズレを含みながら重ねられる、ギターとシンセのフレーズ。山口のドラムソロが強力なアクセントとなってなだれ込む、英語詞と日本語詞が異なるメロディをなぞりつつ絡み合っていくラストのサビからは、「合唱」的なものとは真逆の、意味の多重性を受け手に与える。感情のピークを一点に集中させず、音と意味をズラしつつ進行していく構成となっているのだ。

 「ドリーマーズ・ハイ」のミュージックビデオには、爆発倒壊する高層ビル、夢と現実のあわいを疾走する少女、拳銃、<やまないでよ 運命の雨よ>というラインなど、『天気の子』を彷彿とさせるモチーフが多々見受けられる(余談だが、主演の少女を演じているのは「東宝『シンデレラ』オーディション」で審査員特別賞を受賞してデビューした山崎紘菜である。TOHOシネマズで『天気の子』を鑑賞した人の中には、上映前の映像「シネマチャンネル」内でナビゲーターを務めているのを目にした方も多いだろう)。
 「感情グラフ」に基づく緻密なコントロールによって動かされてきたキャラクターも、映像には描かれていないところで、誰とも共有できない「孤独」を抱えている。それは『雲のむこう』で最終的に消し去られてしまった、「佐由理の夢」のような内的世界だ。『天気の子』のクライマックスにおいては、複数のキャラクターの「天に昇る陽菜を夢に見た」という断片的な証言から、個々人がそれぞれの「夢=孤独=世界」を持っているということが鑑賞者に示唆される。帆高・凪・須賀……「夢」を見た人々が何を思い、どう行動したかは決して一様ではない。そうした誰からも隔絶した「孤独」な思いが並存しているあり方を、タイトル通り「夢」をテーマにしたこの楽曲では意味のズレや多重性を含んだサウンドによって表現しているといえるのではないだろうか。

 またこうしたサウンド的特徴を持った楽曲が「RADWIMPS」名義で発表されていることを念頭に置けば、「感情グラフ」の頂点ではない部分……ボーカル曲の流れるタイミングではない、映画の大部分を占める劇伴音楽(これらもまた「RADWIMPS」名義で手がけられている)への意識もまた変わってくるはずだ。たとえば、社会の片隅で生きていた陽菜と凪の姉弟が帆高とともに、「晴れ女」バイトを通じて自らの役割を見出していく場面。そこで流れる「初めての晴れ女バイト」というストリングスアレンジの効いたBGMは、「グランドエスケープ」のメロディをなぞっている。また、彼ら三人が逃げ込んだラブホテルの一室での束の間のひとときが映し出されるシーンで流れる「家族の時間」というピアノ主体のBGMでは、「愛にできることはまだあるかい」のメロディが。これらボーカル曲は「感情グラフ」において帆高と陽菜のラブストーリー的なクライマックスに流れるものだが、そのインストアレンジが凪を含む三人の「運命共同体」的な関係性(陽菜と帆高の「子供」として凪を見立てるという、「擬似家族」の構図ではないということには注意しておきたい)の中でリフレインしていることを知るとき、そこで歌われている「愛」や「恋」というものが、必ずしも「君と僕」の二者関係にのみ横たわるものではないという解釈にも開かれることだろう。
 (なお、いずれ稿を改めて論じてみたい論点ではあるが、このようにして「君と僕」という二項関係にズレを生じさせる存在という意味で、『天気の子』において最も重要なキャラクターが凪であるということを指摘しておきたい。鑑賞後には誰もが気づくことであろうが、本編での出番の多さに比して不自然なほど予告編から凪の出演シーンがカットされていることは、一考に値する)

 このタッチパネルと「いいね!」の時代においては、作品の「わからなさ」の前に立ち止まり、制作サイドが一意に与えようとする意味とのズレを積極的に見出していくような鑑賞の仕方は困難になってしまったようにも思える。
 しかしあまりにも精緻化した「装置」の強度によって覆い隠されているだけで、どんな作品にも「孤独」を見出す取っ掛かりはあるはずなのだ。なぜなら作品を鑑賞する経験とは本来、誰との共有も前提とすることなく「孤独」のうちになされるものであるはずだからである。

 「感情グラフ」からあえて降りることで、それまでは聴こえてこなかった音が聴こえる。見えなかったものが見える。
 そのための一歩に必要な手がかりを、本稿が提供することができていれば幸いだ。

*1:Rolling Stone Japanの記事(RADWIMPSインタビュー「野田、桑原、武田が語るバンドの歩みと現在地」))より。

*2:毎日新聞の記事(「天気の子」新海監督と川村プロデューサーインタビュー・上 「バッドエンドの作品を作ったつもりは一度もない」)より。以下引用:「SNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)が典型ですけれど、正しい言葉以外は、一斉にたたかれる。それも社会的な正しさ、国際的な正しさ、ポリティカル・コレクトネスという言葉もありますが、「正しさ」だけが流通してしまっている。でも僕は、個人の願いとか個人の欲望とかって、時にはポリティカル・コレクトネスとか、最大多数の幸福とかとぶつかってしまうことがあると思う。でもそういうことが今、言えなくなってきています。常に監視されているような中、ルールから外れたことを言ってしまうと一斉にたたかれるし、常にたたく対象を探す祭りが起きているような雰囲気。そういうところへの反発やいらだちが私の中でずっとあり、この閉塞(へいそく)感やどうしようもなさを吹き飛ばしてくれる少年少女がほしいという気持ちがありました。」

*3:本文は『美術手帖』ウェブ版にて公開されている。
第16回芸術評論募集 【佳作】布施琳太郎「新しい孤独」|MAGAZINE | 美術手帖

*4:ビリー・アイリッシュに関しては、柴那典による以下のコラムも参照。
ビリー・アイリッシュの音楽が、時代に深く突き刺さった背景 - コラム : CINRA.NET

*5:以下のインタビューを参照。
「Lemon」がミリオンDL突破米津玄師がオルタナティブを語る | HIGHSNOBIETY.JP(ハイスノバイエティ)

*6:2013年12月10日放送分。収録時の模様が番組の公式サイトに記録されている。
RADWIMPS先生来校!! | 未来の鍵を握る学校 SCHOOL OF LOCK! 生放送教室