『猫狩り族の長』感想 麻枝准の意義ある「変わらなさ」
麻枝准の初となる小説作品『猫狩り族の長』を読んだ。
この作品を単体の小説作品として評価することは、自分にはできない。いいとか悪いとかではなく、これまでの麻枝准作品と合わせて読まれるべきものだと思う。
しかし今後この作品を通らずして「麻枝准」という表現者の作家性について語ることはできない、と言えるものになっているのは間違いない。
それはつまり、この作品を通過することで既存の麻枝准作品に通底する一本の軸が見えてくるということでもある。
近作である『神様になった日』については少なくない批判もあった(麻枝准本人も「麻枝准研究所」番組内などでコメントしている)。リアルタイムの感想を見て僕の目についたのは、終盤の展開における「ひな」の自由意志の所在と「陽太」の行動の拙速さといったものである。
過去に『ゲーム的リアリズムの誕生』という本で『AIR』を高く評価した東浩紀は同様の観点から『神様になった日』の問題点についてまとめており、それは「『AIR』では主人公は無力なカラスとなりヒロイン(観鈴)が弱っていくのを見つめているしかできなかった。これはヒロインを「所有」するという形式の「美少女ゲーム」に対する内側からの批判だったのであり、そこを自分はゲーム的リアリズムという言葉で評価した。しかし『神様になった日』では男性主人公が劣位に置かれたヒロインを「所有」することで生きがいを見出す、という話をベタにやってしまっており、「原点回帰」がそこに行きつくのであればまずいだろう」と、概ねこういったものだった*1。
しかし『猫狩り族の長』を読むとまた違った見方ができるようになるのではないか。主要な二人の登場人物がともに女性である本作を通過すると、『神様になった日』のあの結末が純然たるハッピーエンドとして描かれたらしいということが理解しやすくなる。それは(東もそのような姿勢自体は否定しないように)「誰かのために生きる、ということを生きがいとして見出す」ということなのであり、「男性と女性の非対称構造」について言及がないということは、それを超えたところにこそ伝えたかったものがあるということの表れかもしれないのだ。
『猫狩り族の長』の語り手はぼんやりと生きているお人良しの女子大生で、時椿という名の彼女がチャートをにぎわす「天才作曲家」十郎丸(こちらも女性)が自殺しようとしているのを止めに入るところから物語は始まる。偏屈な自説を全編にわたって披露する十郎丸の物言いはインタビューなどで垣間見える麻枝准の思考そのもので、帯に書いてある「本当のことを書きました」とはつまり彼女の口から語られる言葉のことなのだろう。
『神様になった日』との対比では、時椿が陽太に相当する。平々凡々な語り手が非凡な存在に出会い、そのために生きるということを決意する、という構図だ。
ちなみに、時椿には密かに「ちょっといいな」と思っている男性の同級生がいる。しかし彼女は最終的にすべてを投げ打ち、十郎丸との関係性の存続をこそ選ぼうとするのだ。そこには異性愛や同性愛といった枠組みを超えた、かけがえのない「個」との出会いが尊ばれている。
『猫狩り族の長』が興味深いのはラストの展開で、何の前触れもなくそれまで語り手だった時椿のほうが世界から消失し、十郎丸のほうが「いつか迎えにくる」という時椿の約束を胸に50年生き続け、転生(?)を果たした時椿と今際の際の会話を交わして物語は締め括られる点である。
つまり、『猫狩り族の長』では「本当のことを書いた(言わせられた)」、すなわち麻枝准の投影と見なせる十郎丸のほうが世界に取り残され、再会を待ちわびて長い時を生きるという立場を与えられているということになる。
この「約束」を胸に「待つ」という構図は『智代アフター』や『Charlotte』の智代や友利にも重なるものだが、彼女たちはあくまで男性主人公(朋也・有宇)に対する「ヒロイン」として配置されていた。実際、これらの作品の大半を占めるパートが彼ら主人公の一人称語りで成り立っているのだが、本来麻枝准が描きたかったものは「約束」を胸に「待つ」という姿、その気の遠くなるような時間の中で得られる「強さ」のことではなかったか。
『Angel Beats!』において語り手の音無と並ぶ、女性版の主人公と言って差し支えない“ゆり”の心情を歌った「Brave Song」の歌い出しを思い出す。
いつもひとりで歩いてた
振り返るとみんなは遠く
それでもあたしは歩いた
それが強さだった
とはいえ、ここで言いたいのは「麻枝准作品において、本当は女性キャラクターのほうに麻枝准の本心が投影されていたのだ」ということではない。
ある一人のキャラクターの視点から見た物語ではなく、ある二者関係とそれが迎える顛末が描き出す「人生観」「世界観」こそが、麻枝准にとって描き出したいものなのではないかということだ。
十郎丸は作中でよく「種の保存に連なることのできない私の存在は罪だ」といったことを口にする。
「とはいえ、人間は惰性であれ不毛であれ、種さえ残せばすべてが許されるのかもな。むしろ、そう思わない私の遺伝子が異常なのだろう」
「このプールで泳がされているイルカと同じだと言っているのだよ。我々の生きる世界はこのプールだ。種として正しく生きなさい。正しく、子を産み、育てなさい。存続させていきなさい。よーし、よく出来ました。ほら、ご褒美に『幸せ』という感情だよ。たーんと味わうがいい。特に意味はないものだけど、これがなければ不幸になる。不幸にはなりたくないだろう? 『幸せ』はいいだろう? だからちゃんと生きなさい。そうそう、いい子だねぇ……」
「結局のところ、私たちはDNAを運ぶ船でしかなく、個に意味はなく、種のために生きなければならないなんて、個としては実に馬鹿らしい。私は何も残したくないし、守りたくないし、跡形もなく消え去りたい」
芸術的な才能に恵まれ、語り手いわく容姿も整っているという十郎丸は、退屈を紛らわすために複数の男性と交際したこともあるという。
マッチングアプリで探すのは男性であるとの発言があることから、性的嗜好としては異性愛者ではあるようなのだが、それとは別の意味で「子をなし育てること」を幸せな像だと思えない。
その正体ははっきりと語られるわけではない。性的嗜好にも精神的な病名にも還元できない、名状しがたい絶望感なのだ。
そういった人間が特別な誰かとの出会いを経て、その先の世界に行くことができるか、ということが麻枝准作品を貫く主題なのである。運命的な二人が出会い、一緒になってめでたしめでたし、とは決してならない(あの印象的な『CLANNAD』のオーラスエンディングも、一周目の汐が犠牲になった感触の上に成立している)。
絶望した人間は誰かと出会って、まだ生きてもいいと少しばかり前向きになって、しかしすぐにまたひとりになる。しかしそのかけがえのない誰かとの「約束」を胸に、孤独でも「強く」生きていく。
『Angel Beats!』放映から10年が経って、とっくに麻枝准作品は男性ファンだけのものではない。
社会を取り巻く状況も変わり、ジェンダーや性的嗜好の多様性、「家族」の形も様々とされる時代。
そんな中、実質的なシナリオライターデビュー作『MOON.』(1997年)以来、実に二十数年ぶりに女性主人公の一人称で紡がれた自身初の小説で、麻枝准の一貫した「変わらなさ」が示されたことは、非常に意義あることのように思う。
いつの世も、どんなアイデンティティを持った者にも普遍的に襲い来る絶望と、それを超えていく「出会い」と「強さ」の意義について、一貫した世界観を描き続けているのが麻枝准という作家なのだ。
*1:下記の動画(有料)の3:00:00頃より言及あり。