『アインシュタインより愛を込めて』感想

PCゲームブランド・GLOVETYの第一作。脚本:新島夕・キャラクター原画:きみしま青・アートディレクション:志水マサトシの3人がメインスタッフとなって制作されている。
ちなみにこのトリオが組んで制作された過去作品に『恋×シンアイ彼女』(2015年、Us:track)があるが、この作品の企画者がアートディレクターの志水であったのに対し、『アインシュタイン』の企画者はシナリオライターの新島である。

さて、この『アインシュタインより愛を込めて』、コンセプトは「ひと夏のサイエンスラブストーリー」となっている。
実際、科学者・医療者がメインキャラクターとして登場し、本作でのみ成立する科学理論や、荒唐無稽なロボットなども登場する。
新島の過去作も追ってきた人間として、ファンタジックな氏の作風と「サイエンス」が結びつくのか不安な面も正直あったのだが、結論から言えば、これらのSF要素がいい具合にポエムでごまかされていて(褒めてます)「それは現実の科学と照らし合わせて違うだろう」といった感想を抱くことはなかった。
かと言ってSFの皮をかぶったファンタジーというわけでもなく。
SF(サイエンス・フィクション)の最低条件は、作中に登場する理論が(現実の理論を参照しているか否かに関わらず)矛盾なく体系化されていることにあると思うが、少なくとも表に出ている情報に矛盾はなかったし、読者が「どういうこと?」と思う寸前でポエムを挿入し、キャラクターのドラマへと意識を逸らさせる手腕が上手いと感じたのだ。

体験版のラスト部分を参照しよう。

魂というものの存在が科学的に証明された。
(脳は魂から送られてくる情報をキャッチする受信機のようなものである)

主人公は脳障害を抱えているが、この理論によればむしろ治療(強化)しなければならないのは魂のほうである。

魂を強化するためには、他人との交流が必要だ。

「街に灯りをともすんだよ」(ポエム)

みたいな按配である。

それ自体が目的化したハードSFでもない限り、SFにおけるサイエンス要素というのはキャラクターがどう行動するかの動機付け、あくまでドラマに関わるものとして存在しなければならない。
逆に言えばキャラクターの行動原理に関わらないサイエンス要素は不要と言えるのだが、この観点において一切の無駄がなかったということをまずは評価したい。

さて、ここでひとつ別作品の名前を引き合いに出して本作の評価を述べねばならない。

アインシュタインより愛を込めて』は、「俺(新島夕)の考えた最強の『Charlotte』」だったのではないか?

ということである。

Charlotte』とは2015年に放送された、麻枝准原作・脚本のテレビアニメのことである。
アインシュタイン』の「数年前に落ちてきた彗星が少年少女の脳に影響を及ぼし、一部には超能力を発現させた者がいる」「主人公もそのひとりであり、中でも特別に強力な能力を持っている」という設定は、まるきり『Charlotte』と重複するものだ。
アインシュタイン』は2016年あたりから企画の萌芽があったという(事実、主題歌である「新世界のα」は2016年にすでに発表されている)。
そして本作の発売までの間に、新島夕は麻枝准原案のKey『Summer Pockets』にメインライターとして参加している。
これでKey/麻枝准をまるで意識していないというほうがおかしいというものだろう。
そもそも、新島はもともとKeyと同じビジュアルアーツ傘下のブランドSAGA PLANETSでライターとしてのキャリアをスタートさせている。
彼の手がけた作品は「四季シリーズ」と呼ばれ、これも『Kanon』~『CLANNAD』に至る季節の流れを意識したKey作品への目配せを感じさせるものだった。
Summer Pockets』の作業をしながら並行して『アインシュタイン』の企画も動かしていく中で、ふと『Charlotte』のことが気にかかり「自分だったら、あの作品の魅力的な設定をより上手に物語に落とし込めるぞ?」という思いが生まれたのではないだろうか。
……いや、憶測はやめておこう。しかし少なくとも、ぼんやりと私自身が『Charlotte』という作品に対して抱いていたそんな思いを、新島が見事に作品として結実させてくれた(ように見えた)のは確かである。

Charlotte』の魅力的だった設定……「彗星(の正体)」や「“病”としての特殊能力」は、物語の根幹に深く関わることがなかった(それっぽい雰囲気を出したかった、アニメ的に映える要素として取り入れたといった旨のことは、麻枝もたびたびインタビュー等で述べている)。
アインシュタイン』は「サイエンス(ラブ)ストーリー」として、まさにこれらの設定を「科学的」に肉付け(体系化)している。
さらに主人公が「宇宙の真理を知りたい」と願う科学者(志望)の少年と設定されているため、その体系が明かされていくプロセスを通じて、読者が主人公の心情(なぜ「宇宙の真理を知りたい」などと願うようになったのか?)をスムーズに理解できるようになっており、最終的に突きつけられる「宇宙の真理を知ることと引き換えに、世界を滅ぼすことができるか」という二者択一にも、自然と切実さを感じることができるようになっている。

ちなみに、いくつかの特殊能力が登場する本作だが、「ループもの」としての要素は存在しない。サブヒロインとのストーリーはいわゆる「夢オチ」であることが示唆され、主人公がそのような「リアルな夢」を見ることの裏付けとして、彗星に関する設定が用いられているという構造になっている。
「ループもの」と相性が良いはずのノベルゲームで、あえてそれをしない。「アニメ映えする」ことにこだわりながら、結局(原作者の出自であるところのノベルゲーム的な)「ループもの」の要素を取り入れていた『Charlotte』との、これも対照的な点である。

Charlotte』との関連では、音楽面にも触れておきたい。『アインシュタイン』にはボーカル曲が4曲(うち2曲は同じ曲のボーカリスト違い)流れるが、そのいずれをも作曲しているのが竹下智博、『Charlotte』で「How-Low-Hello」楽曲のアレンジを担当した人物である。『Angel Beats!-1st Beat-』のED曲「すべての終わりの始まり」の作曲も手がけており(作詞は麻枝准)、シナリオ面で麻枝准の影響下にあるのが新島夕なら、音楽面ではこの人と個人的にも注目してきた人物だ。
2019年にビジュアルアーツを退職し、フリーになって初めての作品がこの『アインシュタイン』での仕事だったようで、相当に気合いが入っていたことは想像に難くない。
「新世界のα」と並んで2nd OP曲となっている「Answer」もギターのがっつり入った勢いのある楽曲で、ノベルゲームの主題歌としては新鮮さを感じさせる。ロック系のアレンジを得意とする作曲家はノベルゲーム業界内には常に不足しているように感じるので(本来青春ものとの相性は良いはずなのだが)この方向性はぜひ伸ばしていってもらいたい。
ちなみに、グランドED曲は「新世界のα」の男性ボーカルバージョンで、この歌唱を担当しているのが麻枝准とともにユニット「Satsubatsu Kids」を組んでいる「ひょん」であることも付け加えておく。

他作品との比較はこれくらいにして、本作固有の魅力についても言及していこう。

本作で筆者が最も惹かれたのは日常パートの部分だった。友人キャラの「片桐」を筆頭として、ほっこり笑える、とぼけたキャラクターたちのかけ合いが非常に良い味を出している。伏線の管理やテーマの展開といった面にも良い作用をもたらす単独ライター制だが、日常パートのクオリティが落ちないという意味でも重要だなと改めて感じさせられた。読者も自然と愛おしく思える日常があったからこそ、最終的に「世界を滅ぼさない」主人公の選択にも説得力が感じられるのである。

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↑友人キャラの片桐 猛(もう)。何度も笑わせてもらいました

そして作品のタイトルについて。「アインシュタイン」とは単に科学者であった主人公の父親が遺した形見のロボットの名前であり、そこには(「シャーロット」が単に彗星の名前であった)『Charlotte』と似たものを感じなくもないのだが、「~より愛を込めて」がついていることはやはりポイントである。
要するに本作のタイトルが示しているのは「父から息子に愛を込めて」ということなのだ。グランドED曲がOP曲の男性ボーカルバージョンであるということも示唆的で、息子にとっての父親という存在を肯定的に描いている。これはノベルゲーム(恋愛ADVゲーム)においては非常に珍しいことと言えるのではないだろうか。「(主人公が)父になろうとして失敗するジャンル」と東浩紀がこのジャンルを定義したのはもはや古典に属する話だが、本作においてはある種子育てに失敗してしまった父親が、最後の最後で主人公をずっと見守っていたんだよ、という形で回帰してくる。そして父子をつなぐのは「宇宙の真理を知りたい」というロマン主義的な探究心なのである。
メインヒロインにして、裏主人公といった性格も強い有村ロミは逆に、実母との確執を抱えたキャラクターとして設定されている。主人公は最終的に彼女の助言を受け入れる形で日常を選択するのだが、それはロマン主義的な探究心を完全に捨て去るということを意味しない。ロミにとっては、日常の中であがき続けながらも、ロマン主義的な探究心を捨てきれない主人公の姿こそが救いになっていたからだ。
本作の素晴らしいところは、「宇宙の真理を知ることと引き換えに、世界を滅ぼすことができるか」という物語展開において日常を選択する結末を描きながらも、そこに父子関係を再挿入することでロマン主義的な価値観自体は否定しなかったところである。また、主人公の日常への帰還を後押しするロミは(主人公より優秀な)科学者であり、この種のゲームにつきもののジェンダー的非対称性への言及に、あらかじめ応答する構造になっている点も特筆すべきだろう。エピローグ、主人公の住む街を離れたロミから、「いくら考えても解けない問題にしがみつきつづけて/それでも進むことを諦めない君のありかたが、私は好きです」という手紙が届いて物語は終わる。

某レビュー投稿サイトを見ると、本作のユーザーからの評価はすこぶる高いとは言えないようだ(発売一週間時点)。それはサブヒロインのストーリーがグランドルートへの伏線を散りばめる役割に終始している(尺も短い)ことに起因するのかもしれないし、グランドルートにしても描写を最小限に抑えて突然スパっと終わるようにエンドロールが流れる、演出面への不満なのかもしれない。しかし自分としてはそうしたネガティブ(かもしれない)ポイントも本筋のテーマ性をダイレクトに伝えるための必要なシンプルさであったように思うし、それが実現したのはやはり新島夕というひとりのライターがすべてのシナリオを書き上げたがゆえのことだったと思うのだ。キャラクターデザインや背景美術にしても同様で、各セクションにつき最少人数しか関わっていないからこその統一感というのが、プロダクトとしての本作を特別なものにしている。4年の歳月をかけ、各分野のプロのクリエイターがある種同人的に作り出したという意味でも本作は賞賛されるべきだと思うし、繰り返しになるが、何よりその内容が素晴らしいものであったと私は思う。今後も折に触れて推していきたいタイトルとなった。