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『君の名は。』感想

11月某日、結局『君の名は。』を観た。以前「金輪際能動的に観ることはないだろう」などと書いたが、そうはならなかったことをお許しいただきたい。ただ「嘘をついた」という感覚もなくて、この記事を書いたときとは状況が変わったというのがある。それはRADWIMPSがオリジナルアルバムをリリースしたということに尽きるのだが、畢竟僕にとって『君の名は。』という作品(をめぐる言説)への違和感というのは「RADWIMPSというバンドの物語」がまったく語られていないことに拠っていたのであって、それはバンドの表現をあまり好きになれないということ以前の問題であった。「アンチということはそれだけ気にかけていることの裏返しだ」というのはこの件に関してはまさしくそうで、自分の土台になっているのは「ロキノン文化」だという自覚があるからこそバンドの固有名詞に最も反応するし、そのメインストリームを形作ってきたバンドとしては元から十分にその存在を認めていた(と言ったら偉そうかもしれないが)。

このリリースタイミングで単独の、バンドとしてのインタビューが出てきたことでようやく『君の名は。』という映像作品と「ロキノン文化」を切り離して見れるようになった気がする。「ロキノン文化」というのは表現主義、「二万字インタビュー」に象徴されるような「内面」の召喚……つまり現代において最も愚直に(褒めてはいない)近代「文学」を継承している批評のあり方なのだが、これはロッキング・オン・ジャパン誌の一方的なレッテル張りというよりも、評されるバンド(とその周囲のファン)の共犯関係によって成立するものである。「二万字インタビュー」で「半生」を語ることによって晒け出された「傷」にその「表現」の根拠を求めるというわけだ。ミュージシャンの側も積極的に「傷」を明かすことによってその渦の中に飲み込まれていく……私見だがRADWIMPS、というか野田洋次郎はこのような「ロキノン・スパイラル」にどっぷり浸かった最後の世代なのではないかと思われる(音楽的には彼らに多大な影響を受けているはずの米津玄師たちの世代を、「ロキノン」誌のインタビュアーは取り扱いかねている印象がある)。つまりこのような文化の中でどっぷり10代を過ごした者にとって「RADWIMPS」という名前が召喚された時点でそこに表現主義的な読みが起動してしまうのである。正直「新海誠」なんかより全然“強い”名前なのだ。「ロキノン文化」においては、そのバンドのフロントマンの自意識の吐露、開陳される「傷」に「共感」できるか否かが唯一の判断基準になる。僕が『君の名は。』を観るのを渋っていたのは結局それなのだ。自分はかつてRADWIMPS……というか野田洋次郎が「ロキノン」誌で開陳してきた「内面」や「傷」に拒否反応を示してしまったから。表現がいくら卓抜であろうと目に入らなくなってしまう(表現自体が稚拙だ、と感じた場合も「ああ、やっぱりああいう内面の人だから」と考えてしまうのだから結局同じである)。

今回のタイミングで開陳された「内面」とは「結成以来のドラマーが病気により叩けなくなり、脱退・解散の機器に直面したが周囲の支えもあって乗り切り、その過程で新海氏との出会いや楽曲提供などの機会に恵まれ結果的にバンドの風通しがよくなった。過去もっとも“開けた”モードで制作された気分がアルバムに結実している」という「物語」であった。まあこれは非常にわかりやすいというか、とても“健全”で“真っ当”な話だろう。つまりRADWIMPSは自身の「傷」というか「毒」を出すということを少なくとも『君の名は。』においてはほとんど行わなかった……それはネガティブな意味ではなく、むしろポジティブな意味合いとしてそうだったのだ。僕は彼らの表現を好かないと言い続けながらも、どこか新海氏に対して全力でぶつかっていない、「お仕事」でやっているだけなんじゃないか? という二重にねじれた不満というのを持っていたのだが、このような「物語」を経由することでそれも解消した。そんなわけで、きわめてフラットな気持ちで映画館に足を運んだということをまずは言っておく。

 

では、実際観た『君の名は。』はどうだったのか。それを語るにも、まずはRADWIMPSというバンドのことを語る必要がある(今度は「内面」とかの話ではなく、技術的な話なのでご安心を)。

RADWIMPSは表現の水準においても「共感か、否か」を推し進めたという意味で画期をなしたバンドであると思う。以前の記事では歌詞が「野田洋次郎の個人的な体験」に根差していることがRADWIMPSを「共感性の音楽」たらしめている根拠としたが、技術的に言えばその性質は歌詞のワード数や楽器隊のフレージングの「情報量の多さ」に下支えされているところがある。僕がRADWIMPSを知ったのは「有心論」というシングル曲からだが、ラップともポエトリーリーディングとも違う、とにかくまくしたてるように言葉を連射するその「歌」に当時は衝撃を受けたものだ。そのとき感じたのは「処理が追いつかない」ということだが、これがなぜ「共感性の音楽」を下支えするのか。認知限界という言葉があるが、あまりに巨大な情報のフローに当てられたとき、どこかのタイミングでただ流れてくる情報を浴びるだけになる。つまり言葉の持つ重要な分節機能というのが機能しなくなり、「解釈」という第三項を介さずに情報のフロー=“事実”を受け止めるようになるのである。RADWIMPSの、特にアッパーな曲の歌詞を初見ですべて書き起こすというのはまず不可能だ。せいぜいが印象的なワードやフレーズを拾うのみになる。そして野田洋次郎はおそらく(きちんと分析したことはないが)、大量の情報の中に引っかかりを残す一語を忍び込ませるということに長けている。それは洪水の中ですがる板切れのようなものなので、ぴたりと嵌まればワンワードで撃ち抜かれることにもなるだろうが、それが全くピンとこなかったときの落胆というのもまた凄まじいものである。

そして面白いことに『君の名は。』という映画自体にも僕はこれと同様の感想を持ったのである。新海誠監督作品と言われているが、ジブリアニメで活躍した凄腕アニメーターの安藤雅司、記号的にして現代的なキャラクターデザインで一斉を風靡する田中将賀、そしてロックバンドとしては10年のキャリアを誇るが、劇伴作家としてはいわば「素人」のRADWIMPS。加えて新海氏の「風景」や「人工物」に対する執念めいた描き込みというものも相当なもので、これらが有機的に結び付いているというよりはオードブル的にばらばらのままひとつの皿に出された、という印象を僕は持った。まず「どこから手をつけようかな」という判断を漫画や小説などの静的なメディアであれば挟むことができるが、映画という「スペクタクル」の芸術においてはその暇(いとま)はない。クライマックス付近の、主人公の男女が現世と幽世の狭間のような場所で思いを交わし合うシーンに辿り着く頃には、「ああ、ここが盛り上がるところなんだろうな」とは思いつつも何がどうしてそこに至ったかをまったく処理できておらず「どうして彼女の名前が思い出せないんだ!!!」と叫ぶ男性主人公の狼狽ぶりに思わず吹き出してしまった。

「情報量が多い」ということはそのままこの映画が「大ヒット」していることの要因であるような気もする。要するに初見で処理することができないからリピーターが多いのでは、ということだ。あとは言いたいことがシンプルだから、圧倒的な情報の奔流に呑まれた後に残るものに、虚脱感込みの満足感を得ている人が多いのだろうと推察する。言いたいこと、というのは「思い出したいのに思い出せないもどかしさ」というか、そういう想い人への想い? みたいなもので、俗に言う“恋心”というやつなのだろう、かつてそういった想いを抱いた人、現在進行形でそういう想いを抱いている人には特に受けているのだろうと思われる。自分にはピンとこなかったが……代わりに100mを全力疾走した後の疲れに似たものだけが残った(内容を評する以前に、内容を追おうとして最後まで追い付けなかった、という感覚)。

 

個人的には最近読んだ二つの本を強く思い出させる映画であった。ひとつは柴那典『ヒットの崩壊』。「ヒットチャート」というものが機能しなくなった現在、「ヒット」とはどのようにして生まれるのか、そもそも「ヒット」とはなんであったか? というテーマを、筆者のメインフィールドであるポピュラー音楽(氏はもともと「ロッキング・オン・ジャパン」のライターである)を事例に読み解いていく本で、この本を読んで「ヒットって結局、計算だけでは生まれない」との考えに至ったことも『君の名は。』に足を運ぶに至った要因のひとつである。観終えたあとに思い出したのは海外受けする日本発の音楽は“過圧縮ポップ”ともいえる情報量の多さ、ごった煮感が特徴であるとのくだりで、実例として挙げられていたのがBABYMETAL、マキシマム ザ ホルモンなどの「ミクスチャー・ロック」、およびヴィジュアル系バンドであった。『君の名は。』の「情報量の多さ」も、今であれば「日本的」なものとして受け止められるのかもしれない。

もうひとつは大塚英志の『感情化する社会』だ。今上天皇の生前退位「お気持ち」表明についての話題を皮切りに、文学(小説)においても「気持ち」への「共感」ばかりが持て囃される状況に対して苦言を呈したもの……というと何やら固い本のように思えるが、近代文学というものが「内面」を発明/捏造してきた歴史を無化するようにして「共感」によってつながるSNSが勃興し、そもそも「内面」など持ちようもない人工知能botがそのSNS上においてはむしろ「内面」を持っているように見える……などの逆説をさまざまに描き出していて文芸/メディア批評として興味深い。「内面」と「共感」の相克ということについてはRADWIMPSを語る際にも言及したが、そこで起きていたのがいわば「内面」に「共感」するような事態であったのに対して、小説を事例とするこちらの本で提示されている見立ては少し異なる。それは「音楽」と「小説」というメディアの違いなのかもしれないし、翻って『君の名は。』という映画作品においてはどうか、ということに考えが至りもする。

二つの本を通して『君の名は。』について考えたとき、やはり思い出すのは「セカイ系」のことだ。「君と僕」の二者関係=恋愛にテーマを絞っているという意味では『ほしのこえ』と全く変わっておらず、何が起きたかということよりも事態に直面した主人公の「気持ち」が優先されるというのもまた同様である。ただその伝え方が『ほしのこえ』とは正反対のものになっていて、『ほしのこえ』が余計なものをそぎ落として最小限の要素で作られた「引き算」の作品だとしたら、『君の名は。』は要素を盛りに盛った「足し算」の発想で作られた作品である。これは新海氏を取り巻く制作環境が変わった(身も蓋もない言い方をすれば、今回は「お金」と「人」を使うことができた)ことと、デジタル技術が当時から飛躍的に進歩し、高解像度でより多くの情報量を画面に描き出せるようになったことの二つが大きいだろう。いかに要素を「使わない」かというところに「引き算」の発想、「わび・さび」の精神はあると思うのだが、もしかしたら新海氏は『ほしのこえ』の頃から「使わない」のではなく「(制作費その他の理由で)使えない」だけだったのかもしれない。『君の名は。』は、使えるものは全部使おう、という精神で要素が追加されていったように思えるのだ。

そうして生まれた作品は図らずも「日本的」な特徴を備えている。それが柴氏の著作でも言及された「過圧縮」ということで、おそらく現代において「JAPAN」を感じさせる大きな要因になっている。これが海外の人から見た「JAPAN」なのが重要で、大量の情報に直面した時頭が適当に不要な情報をシャットアウトするのは受け手の側に「引き算」の構えが生まれていることを意味する。「わび・さび」を精神論だとすれば文化的にその素養がない人(つまり海外の人)は理解できない、ということになってしまうが、情報の取り扱いという観点からすれば、過度の情報を与えることによって(どの国出身の人であろうと)受け手の側に「引き算=わび・さび」の構えを発生させることができるのだ。この意味で『君の名は。』のような作品は「“日本的”な作品」ではなく、「(観る側に)“日本的”な鑑賞態度を要請する作品」と言えるだろう。国産コンテンツの海外輸出という観点から見たとき、このような作り方はより一般化していくのかもしれない。自分としては削ぎ落とされた最小限の要素で構成されたものに惹かれるので、そうした作品も残っていってほしいものだが……少なくとも新海氏にそれを求めるのはもはや酷なのだろう。

 

MUSICA(ムジカ) 2016年 12 月号 [雑誌]

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ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

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感情化する社会

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『planetarian〜星の人〜』鑑賞記録――「Key」とは何か

 

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映画『planetarian〜星の人〜』を観てきた。Keyとは何か、ということについて、とても示唆深いものを与えてくれる映画だった。

planetarian』の原作には麻枝准樋上いたる折戸伸治、どの名もメインスタッフとしてクレジットされていない。でもKeyの作品である。それは一体どういうことなのか。

他ならぬ、「星の人」のエピソードがそれを証立てている。

 

 

「意志」を託す話

 

planetarian』本編(アニメでいえば、配信版のラスト)で「屑屋」は「星屋」になることを決意する。古きものの残骸からかろうじて生きる糧を見出す仕事から、形はないけれど人が生きる上で最も大切なものを生み出す仕事に鞍替えするのだ。

小さな投影機を携え滅びゆく世界をめぐり、星の話を語り聞かせる。老人になり肺を病んだ彼が最期に辿り着いた集落で出会った三人の子供たち。彼らに星の美しさを教え、ゆめみのメモリを託して逝く。

メモリーカードを受け取った少年少女たちは永遠にその使い方や中身を知ることは無いが、プラネタリウムを見て星の話を聞いた事は、彼らの中に一生残る。

— 星の人 (@yuji_isogai) 2016年9月3日

どんなに過酷な世界であっても、決して希望を失わないという「意志」を託す話なのだ。

 

Keyという名は(あらゆる屋号というものがそうなのかもしれないが)意志が受け継がれているということの符牒としてある。具体的にそれと名指せる対象はないのだけど、受け手たる我々の心の中には確かに「ある」と信じられるもの。

星というのもそのようなものであると思う。そもそも星の光は遅れて届くのだ。我々は星を手にすることはできない。だけど心の中には確かにある。

 

「Key」とは「星」のことなのである。

  

planetarian』で「屑屋」あらため「星の人」を演じた小野大輔は、Key作品において『AIR』(国崎往人)、『Charlotte』(乙坂隼翼)と「大切な人を見送り、その思いを受け取って前に進んでいく」役を演じている(『planetarian』の舞台挨拶や『Charlotte』最終巻付属のラジオCDで自ら言及している)。

「受け継がれる意志」の話として見れば――つまり小野が演じた隼翼を主人公として見れば――『Charlotte』もまたKeyの系譜に連なる作品だということが言えるだろう。

Keyというよりは「麻枝准」の作品であることが強く打ち出されてきた『Charlotte』。確かに乙坂有宇を主人公として見たとき、タイムリープできない(しない)ということや記憶喪失などのモチーフから、『AIR』や『智代アフター』などと同じく「麻枝准」の作家性とされる「不能性に止まること(東浩紀)」を見出すのは容易い。

しかし隼翼という人物を配置し小野大輔を起用しているという事実が、何より強くこの作品が「Key」の作品であることを主張しているといえるのではないだろうか。

 

 

Charlotte』と『君の名は。』、ふたつの彗星

 

Charlotte』にも彗星が登場するが、新海誠の『君の名は。』においても彗星が重要なファクターとして登場している。この作品における彗星は震災のメタファー――美しいものであると同時に、厄災をもたらす崇高なもの――として用いられていて、そのことは複数の論者によって指摘されてもいる。しかし星というのは美しいだけの、あるいは厄災をもたらすだけのものであっただろうか。

自然現象としてでなく、あくまでそれを見つめる人間の側に立てば、「星」が象徴するテーマとは届きそうで届かないものに「手を伸ばす」ということであると自分は思う。美しさに対する憧れと、そこに届こうとする人の意志の象徴なのだ。あるいは彗星であれば周回軌道を描くことから、「繰り返し」「次代へつなぐ」ことの象徴としても捉えられるかもしれない。 

麻枝准が震災という事件を全く意識することがなかったといえば、そんなことは決してないだろう。しかし、麻枝准は彗星を地球に落とさなかった。あくまでその影響を受け特殊能力を発現させた、思春期の少年少女の人生のゆくえにのみフォーカスした。

ことさら震災というものを暗示するまでもなく、人ひとりの背に負うには大きすぎる「過酷」との向き合い方を、一貫して描いてきたのが麻枝准という作家だった。
Charlotte』において彗星の存在があくまで背景情報として処理され、内容的には「約束」や「家族の再生」といったKeyおなじみといえる主題をめぐることに終始したのは、それらの主題に時代性を超えた普遍的な強度があるということに他ならない。

 

それぞれ『AIR』『ほしのこえ』で、2000年代を象徴する作家として名前を挙げられることも多かった麻枝准新海誠。その共通する資質は先にも言った「不能性」……「つながらない」ということの感覚であったわけだが、麻枝准は『Charlotte』において有宇と隼翼の兄弟に「不能性」と「受け継がれる意志」をそれぞれ託し、新海誠は『君の名は。』においてそれまでの作品では結ばれずに終わった男女を再会させるという「真っ当なハッピーエンド」に着地した。

麻枝准はひとりのクリエイターであると同時に「Key」を担う一員でもあり、新海は自らの名前を背負って作家的に活動する道を選んだ。その違いが同じく彗星を主要なモチーフとして採用した最新作に表れているのだと思う。 

 

 

「鍵っ子」から「星の人」へ

 

「鍵っ子」という言葉がある。熱心なKey作品のファンを指して言う言葉だが、Keyの作品から何か大切なものを受け取り、自らの人生において伝えていくというのであれば、それはもう「星の人」と呼ばれるべきなのではないだろうか。

麻枝准も、樋上いたるも、折戸伸治も、その他の加わっては離れていったスタッフも――みな等しく「星の人」である。逆説的だけれど、「Key」としか言いようのない何かがあるからこそ「Key」は存在するのだ。それを続かせていくのは、その存在を信じる私たち一人ひとりの意志でもある。

 

「星の人」に、なろう。

 

 

 

『君の名は。』と新海誠とRADWIMPS――あるいは作品における「テーマ」と「手段」の関係性

 

君の名は。』評に対する違和感

新海誠監督作品『君の名は。』が話題になっている。学生時代『秒速5センチメートル』の映像表現に衝撃を受け、(同時期に鑑賞した京都アニメーション版『CLANNAD』と合わせて)アニメ表現というものの大いなる可能性に打たれたのは今も記憶に新しい。今回の映画も当然のごとく、鑑賞必須の作品になるはずだった。

……が、結論からいえば僕はこの作品を観ることはできない。金輪際能動的に観ることはないだろう。理由は明確で、主題歌・劇伴をロックバンド「RADWIMPS」が手がけているということに尽きる。僕はこのバンドの楽曲、より正確にいえば歌詞表現というのがどうしても昔から好きになれないのだ。

彼らのレパートリーに「五月の蝿」という楽曲がある。僕が説明するより以下のリンク先を見るが易しなのだが、僕はこのような“作品”を世に売り物として出すということ自体、どんな事情があったとしても品がないことだと思うし、一度そんなことをしたバンドの音楽を2時間も聴き続けていることなんてできない、というのが本音だ。

五月の蝿 - RADWIMPS - 歌詞 : 歌ネット

RADWIMPSのファン層とも重なる中高生や、古参の「新海誠ファン」にも概ね好意的に受け止められている『君の名は。』だが、RADWIMPSというバンドの来歴や音楽性について顧みた感想は少ない。しかし新海氏が事あるごとに今回のコラボレーションを必然的なものとして強調するにつれ、やはり彼らのことについて触れないわけにはいかないと思うようになった。

 

RADWIMPSというバンド

畳み掛けるような言葉の奔流、言葉遊びを駆使した作詞法、前半で謎を与え後半で種明かしをするストーリーじみた構成など、手数の多い楽器隊のフレージングも相まって2010年代前半を席巻した「高速ボカロック」*1への影響関係を見てとることは容易いだろう(その一人であるボカロPのハチ=米津玄師は、昨年RADWIMPSの対バンツアーで共演した)。異なる点があるとすれば、ボカロPというのはやはりボーカロイドに「歌わせる」という視点が入るため第三者的な目線での歌詞が目立つのに対して、RADWIMPSは徹頭徹尾「野田洋次郎」という個人の経験に根ざした内容になっているということだろうか(これにはソースがある。Wikipediaからの孫引きで恐縮だが、かつて「ROCKIN'ON JAPAN」のインタビューで「自分の経験したことでないと納得できない。(当時発表した「遠恋」という楽曲は)初のフィクションである」という主旨の発言をしたことがあるのだという*2)。

RADWIMPSはいわゆる「ロキノン系」(「ROCKIN'ON JAPAN」が主に取り上げるバンドのこと)の系譜の中で、BUMP OF CHICKENとの連続性/あるいは切断をもって語られることがある。僕自身の解釈でいえば、それは「(架空の)物語」から「(現実にいる個人の)打ち明け話」への変化を示すものだ。個人の体験に根ざした歌詞を「赤裸々に、明けすけに」表現し、リスナーはそれに「共感」する。「共感」のメディアと言われるSNSが本格的に普及する少し前から(RADWIMPSのメジャーデビューが2005年、Twitterの日本でのサービス開始が2008年)、そうした転換点を体現していたのがRADWIMPSというバンドだった。

(先に少し述べたボーカロイドとの関連でいえば、フィクション性の強い「物語」的な歌詞表現を得意としてきたBUMP OF CHICKEN初音ミクとのコラボレーションを果たしたことは興味深い。BUMP OF CHICKENはこのコラボを行った時期と前後して(具体的にはアルバム『RAY』を発表した時期から)鼓笛隊のようなステージ衣装を纏って演奏することが多くなっているが、それは彼ら自身が「BUMP OF CHICKEN」という集団を客観的に捉え、自ら作り出す「物語」の中に「登場人物」として取り込むという戦略をとったということに他ならない)

 

セカイ系」再考

さて、ここでようやく『君の名は。』の話に戻るのだが、新海氏がRADWIMPSをコラボレーション相手に指名したのも、この強い「共感性」によるものだと考えられる。何しろ「自分の経験したことしか歌っていない」と本人が公言しているのだから、(言い回しのテクニックなど、異分野のクリエイターに対する憧憬やリスペクトはあるにせよ)言ってしまえば野田洋次郎の恋愛観に新海誠は共感した、とまとめてしまうことが可能である。これについては柴那典氏のコラムを参照するのがわかりやすいだろう。

RADWIMPSが『君の名は。』で発揮した、映画と音楽の領域を越えた作家性|Real Sound|リアルサウンド

「君と僕」の一対一の関係性。ここで即座に思い浮かぶのは、新海氏が世に出るきっかけとなった短編アニメーション作品『ほしのこえ』――ひいては、同作をその代表例として名指すことの多い文芸ジャンル(?)「セカイ系」のことである。バズワードに近いこの語には、一応教科書的に「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群」という定義がなされているのだが*3、柴氏も前掲のコラムで述べる通り新海氏は一貫して「一対一の関係」……具体的には男女間の恋愛を描いてきたのであり、それが遠宇宙であったり、時空間のねじれであったりといった道具立てを用いて表現されていただけなのである。新海氏にとっては描きたいテーマ(恋愛)を伝えるための「手段」でしかなかった「抽象的な大問題」が、あたかも作品のコアであるかのように語られてしまったのが「セカイ系」をめぐる言説だったのだ。

「単なる恋愛劇」が、「セカイ系」などという新語を用いてまで大上段に語られなければならなかったのはなぜなのだろうか。ひとつには単純に新海氏の生み出す鮮烈なビジュアルイメージに対して、適切に語る言葉を受け手の側が持たなかったということが言える。そしていまひとつには、現在の新海作品にも脈々と受け継がれている作劇上の特性……モノローグ主体のシナリオ構成というのが挙げられるだろう。「セカイ系」の代表例として『ほしのこえ』と共に挙げられる『イリヤの空、UFOの夏』『最終兵器彼女』はそれぞれ小説、漫画であり、これらの媒体はテキストという「黙読」に適した情報を含むがゆえに、モノローグとの親和性が高い。『ほしのこえ』はアニメーション作品でありながらモノローグ主体のシナリオ構成であったところに画期性があった(同じく「セカイ系」作品と捉えられることもある『新世紀エヴァンゲリオン』は、その「内省的」な内容もさることながらタイポグラフィを全面に用いた「テキスト的」な映像作品であったことも重要である)。実はこの記事を書くにあたって小説版の『君の名は。』を読んだのだが、「ああ、“新海誠”らしいな」と個人的に感じたのもまさにこの部分だった。

遠宇宙や時空のねじれといった「壮大な」道具立てを用いながらも、シナリオ面では登場人物のモノローグに終始する。それは従来の「アニメーション」の常識からすればきわめて贅沢な作劇法だったのであり、衝撃をもって受け入れられたわけだが(ゆえに新語をも必要とした)、実際には個人制作という条件下では、そのような手段をとるより他なかったという事情が大きかったことが推察される(物議を醸した『エヴァ』テレビ放映版の最終2話に関しても同じことは言えるだろう)。作り手の特異な「作家性」が発揮されたのではなく、当時の特殊な制作環境に強いられたがゆえの特異点的な表現であったというのが、「セカイ系」作品の内実であったというのが筆者の見解である。

 

「恋愛」は価値観の一つでしかない

新海氏は『君の名は。』の公開直前に自身のTwitterアカウントで以下のようにツイートしている。

また、RADWIMPS野田洋次郎映画の公式サイトに以下のようなコメントを寄せている。

ど真ん中を真っすぐに突き進む—この映画から強く受けた印象です。主題歌4曲全てがラブソング。いつもは、つい逃げがちな性格で、ここまでストレートに表現してしまうと恥ずかしさが出てしまい、別の方向性や受け止められ方を求めてしまうんです。だから「恋」をこんなに真っ正面に表現したこと自体、本当に珍しいこと。今回も最初はどこか無意識な逃げがあって、新海監督はその部分を見逃さなかった。「とにかくこの物語が貫こうとしているど真ん中を全力で歌って欲しい」と。だからこそ、踏み込めた。まだ恋愛をしたことがない人でも、『君の名は。』はいつしか自分がたどるんじゃないかという未来を感じさせてくれる物語だと思います。間違いなく僕も瀧と三葉に引き込まれました。

両者のコメントから読み取れるのは、この映画が紛れもなく「デートムービー」であり、恋愛というものが人生の主軸にあると感じられる人に向けて作られているということである。そんなの当たり前のことじゃないかと、この記事をお読みの方も思われるかもしれない。事実として、公開3日間で興収10億円という驚異的な数字を叩き出している*4

が、こと僕に関していえば「恋愛」というものをどうしても人生の主軸に据えることができないのだ。より抽象的に「特定の他者に絶対性を見出す」ような経験と言ってもいいかもしれないが、記憶しているかぎり物心つく前から、そのような経験をしたことがない。そういう回路が生まれつき欠落しているのだと、すっかり最近は開き直れるようになったが、逆にごく最近まで開き直れなかったのは、まさしく『秒速5センチメートル』に心打たれてしまった自分がいたからである。しかし、いま考えてみると自分が敬服したのは新海氏の圧倒的なビジュアルセンスに対してなのであって、物語内容やテーマに対してではなかった(同じことがアニメ『CLANNAD』にもいえる)。そのことがRADWIMPSという、新海氏と同じテーマを僕にとっては苦手とする「手段」で伝える作家と並列させたことによって、初めてクリアに見えてきたのである。

作品において「テーマ」とそれを伝える「手段」とは程度の差はあれ分かちがたく結び付いていて、中でもその境目を完璧に意識させないような作品が「傑作」と呼び称されるのだろう。その意味で僕にとって『君の名は。』は鑑賞前から傑作とは言えない作品になってしまった(し、今後鑑賞するすべての新海誠作品が傑作とは感じられないだろう)。

みなさんにとっては、どうだろうか。