『ガッチャマン クラウズ インサイト』のフラット・デザイン――「現実」と「アニメ」の境界を融かすインターフェース

ガッチャマン クラウズ インサイト』のOP映像は「写実的」という言葉の意味を根本から解体する。いや、それはすでに起こっていた事実を白日の下にさらけ出しただけなのかもしれない。この映像がさらけ出しているのは、「実写」と「アニメーション」の間に質的な差異はない…少なくともデジタル画面の上においては、そこに接ぎ目などないということである。クリエイティブチーム「神風動画」によって制作されたこの映像だが、「現実の」(あえてこの語を使わせてもらおう)立川市街にカメラを設置して撮影された映像にアニメーションを重ねている…のみならず、アニメキャラクターのスタンドパネルを設置してストップモーション的な表現も試みている。特殊な機材を用いて「全天球」といえる撮影を行っており*1、その様子はYouTubeでも公開されている。

 

 

「アニメのキャラクターが『現実の』風景に降り立った!」と素朴に口にすることは容易いが、ここで起きている事態はもっと複雑なものである。「現実の」景観を写実的に描き出すことは、「聖地巡礼」という言葉に注目が集まり始めた2000年代後半からすっかり当たり前の光景となっているし、また実写映像にアニメーションを重ね合わせるという手法は、『メリー・ポピンズ』を引き合いに出すまでもなくアニメーションの歴史において幾度となく繰り返されてきた。そこにあったのは「現実」と「アニメーション」の間には越えられない断層があり、それらをあくまで別々のレイヤーにあるものとして重ね合わせ、「現実にはありえない」視覚体験を提供する…という発想である。対して『ガッチャマン クラウズ インサイト』のOP映像の革新とは決してパネルを現実世界に持ち込んだことでも「重ね合わせ」のレイヤー表現でもなく――いや、それらがあるからこそ以下に指摘する点が効いてくるのだが――第三のレイヤーである「スマートフォンのインターフェース」を持ち込んだことにある。

 

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アニメ的な線で描かれたキャラクターたちは、実写素材と思しき風景(公園、駅のプラットホーム、電車内…)でスマホの画面を見つめている。その手元も映し出され、作中で物語上の重要な焦点になっている「スマホによる政治参加」を表したインフォグラフィックスも登場する。これらはかなり忠実に我々が普段見慣れているウェブサイトやアプリケーションのトーン&マナーに則している(現在のインターフェースデザインのスタンダードであるフラット・デザイン*2だ)。

 

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これらのインターフェイスはアニメの「描かれた」空間にも自然に融け込んでいるし、同時に我々が普段から接しているものでもある。我々と彼らが見ているものは「同じ」デジタルの質感を持つ、スマホのインターフェースなのである。ここでスマホを操作する「肉体」の存在を忘れ、純粋に一個の視点になったつもりで考えてみよう。さて、二つの世界にどんな質的な違いがあるだろうか? そもそもなぜ彼らのことを「アニメ的な線で描かれた」などと言うのだろうか。そこには「これは描かれたものだ」という信仰がある。つまり、絵筆やインクを使って――それがデジタルであってもいい、多くのアプリケーションは「現実の」世界における馴染みの道具を模している――描かれた、現実という「一次世界」とは切り離された「二次的な」レイヤーにある世界なのだと。そして実写映像はなぜそれらとは区別される? それはビデオカメラという機器が人間の眼球が光学的に情報を脳に取り込むのと同様の構造を備えており、撮影された映像は眼球が捉えるのと同じ「一次世界」の正確な「写し」であるとする…これまた信仰があるからである。

しかし眼球や絵筆といったメタファーを取り外し、ありのままのデジタル画面を見つめてみたとき、そこに接ぎ目はないのではないだろうか。デジタルという思想は、畢竟すべてを0と1の集合から成る「情報」として処理するということである。情報的に処理される、ビットの点々の集まりだと考えれば「実写」も「アニメーション」も同じ素材から成り立っている。何より彼ら…いや、「僕ら」は同じ質感のテクスチャを持つスマホのインターフェースを通じて、同じように情報にアクセスしているではないか(そして、そのスマホの画面もまたデジタルである)。デジタルの、接ぎ目のない平面においては、すべてが「私たちの世界」の出来事なのだ。「写し」の「元」になった「現実」的なものなどない。その平面には、スマートフォンのインターフェースを通じて誰もが知らず知らずのうちに引き込まれている。あなたがアニメなんて縁遠い日常を生きていてもだ。

(だから、たとえば「人間」と「キャラクター」の区別をすることも止めにしていいのではないかと思う。デジタル画面を見つめている限りにおいて、少なくともその違いは「肉体」の有無やテクスチャの差異にあるのではない。どうしても違いを見出したければ、しぐさや口調表現など、もっと違ったところに求めるべきだろう。それすら曖昧になっているというのが私の見解だが…それはまた機会を改めて)

*1:神風動画 TVアニメ『ガッチャマン クラウズ インサイト』OP制作! より。

*2:フラットデザインのコンセプトについては、以下のリンクが詳しい。

gigazine.net