オタクじゃ新条アカネは救えない

なぜオタクは新条アカネに夢中なのか

『SSSS.GRIDMAN』が盛り上がっている。とりわけ本作のダブルヒロイン(とされている)のうちのひとり、新条アカネには少なくない視聴者からの熱視線が注がれている。下記の記事に典型的なように、「スクールカースト最上位に位置する女子が、実はハードなオタク趣味を持ち合わせている」という点にアニメの主な視聴者層である男性オタクがメロメロになってしまっている……という構図があるようだ。

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基本的に彼女は悪役サイドの人物で、「パンを潰されたから」とか「歩きスマホでぶつかってきたから」とか、本当にささいな理由で身の回りの人間を存在ごと「なかった」ことにしてしまう問題人物として描かれている。通常の倫理を逸脱した悪人にある種の憧れを抱いてしまうとか、日常のイライラを歪んだ形で解決してしまう悪人に共感を覚えてしまう、というのは自分にも理解できるのだけど、こと新条アカネに対して視聴者が向けている好意はそう単純なものでない気がする。

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なぜ視聴者は第9話で描かれたものを「新条アカネの心象風景」だと思ってしまうのか。「新条アカネは本当は救いを求めている孤独な人物である」という想像は、「それを主人公たちが救い、新条アカネも改心して〈なかったこと〉にされた人や物も元通りになるだろう」という予期に支えられている。しかしそんな保証はどこにもないのではないか。確かにそう誘導するフックは確かに随所に散りばめられている。最もわかりやすいのはOPとEDだろう。「君を退屈から救いに来たんだ」という歌詞とともに、新条アカネが文字通り退屈そうに見つめる窓の外に出現するグリッドマン、EDの何気ない放課後の風景……

しかし、それらはあくまで本編の〈外〉にある情報である。第9話が「新条アカネの心象風景」であるというのも、画面の〈外〉に立ってこの話数の全体像――響裕太・内海将・宝多六花の三人は新条アカネの作り出した怪獣によって眠らされており、それぞれ違った夢を見させられている――を見渡すことができる「視聴者」だからこそ可能な「解釈」だ。第9話の構造は『SSSS.GRIDMAN』という作品そのものに対して入れ子となっている。主人公の響裕太は第6話で「この街は新条アカネという神によって作られた箱庭である」とある人物(?)から説明されるのだ。しかしそれだって本当のことという証拠はどこにもない。新条アカネの傍らに常に控え、肝心なことは何も語らないアレクシス・ケリヴという宇宙人(?)もいかにも怪しい。

ここで響裕太が「記憶喪失」であるという設定を思い出そう。これは世界=物語の全体像を把握できない視聴者の姿と重ね合わせることができる(実際、上の段落に書いたように「?」な部分が第9話の時点で断然多いのである)。

もちろん作品はどの視点に立って観てもいいものだが、謎を謎のまま宙吊りにしたまま物語の推移に身を委ねる視聴方法の受け皿として響裕太が、物語〈外〉の情報を手がかりに今後の展開を予期するような視聴方法の受け皿として「神(とされている)」新条アカネが配置されているのが興味深い。こうして考えると新条アカネが「オタク」である必然性が理解できる。オタクというのは膨大な数の物語作品に触れることでいわゆる「お約束」をデータベース化している。断片的な情報をもとに「お約束」との差分を意識しながら物語を読み進めていく、という受容の仕方こそが「オタク」的なのだ

今作において「オタク」とはそういう物語の受容の仕方そのものであって、したがって新条アカネのようなカースト上位の人間が「オタク」であるということとは矛盾しない。「オタク」とは世界のすべてを「元ネタ」の集積として捉えてしまうような神の視点、メタ視点を持つ者のことだ。

 

僕たちはオタクではない

そもそもこの作品の監督である雨宮哲氏、ひいては制作会社であるTRIGGERがきわめて「オタク」的なパロディやオマージュに満ちた画面作りをする集団である。

雨宮 パッと見わからないと思うんですけど、僕がやるとパロディっぽくなっちゃうんですよ。それは僕のアニメーターとしての癖で、気を付けていてもそうなってしまうんですよね。だからオマージュとかパロディじゃない、ちゃんとしたものにしたくて、今回は作画チーフを牟田口裕基さんにお願いしています。

アニメ「SSSS.GRIDMAN」特集 監督・雨宮哲(TRIGGER)、脚本・長谷川圭一インタビュー (2/3) - コミックナタリー 特集・インタビュー

とはいうものの、やはり随所にパロディやオマージュが見受けられる。

そもそもこのアニメ自体が90年代の特撮番組『電光超人グリッドマン』のリメイク・リブート作品なのである。

作者=神とはよく言ったものだが、その制作サイドが「オタク」的なのだから、作中で神となぞらえられる新条アカネが「オタク」的なのはこれと綺麗に対応している。

つまり響裕太=視聴者 VS 新条アカネ=作り手という構図が描けるわけだが、ここで忘れてはいけないのは「オタク」的な視聴方法をとることで、視聴者も新条アカネ=作り手と同じサイドに立つことになる点である。先述の構図に加えて、作り手(雨宮監督・TRIGGER)‐新条アカネ‐「オタク」的観方をする視聴者の共犯関係が結ばれるわけである。

「オタク」が物語の「お約束」に縛られて、日常を作り物の取返しのきく世界だと思ってしまうことの比喩なのだとすれば、新条アカネという人物が悪役サイドに配置されているのは自身も「オタク」であることを自覚する作り手サイドのアイロニーであろう。

当然のことだが、 作り手(雨宮監督・TRIGGER)は主人公たち「グリッドマン同盟」サイドのドラマも描いているわけで、この二項対立をどのように交差させ、ひっくり返すかというところに本作の賭けがあるのだと思う。記憶喪失ゆえにそもそも元ネタなど知らない非‐オタクが、「この世は所詮元ネタのパッチワーク」とうそぶくオタク=神に、どのような引導を渡せるのかというドラマ

このアイロニーを自覚せずに、いち視聴者が「新条アカネは改心し、世界も元通りになる」と予期して今作を観進めるのは、「グリッドマン同盟」の活躍に頼った他力本願なのではないか。視聴者はやはり視聴者でしかなく、世界=物語を作る存在ではないのだ。新条アカネ=作り手とは文字通り「次元が違う」。少なくともこの『SSSS.GRIDMAN』という作品の固有の結末は、視聴者の誰ひとりとして知ることはできない。視聴者全員が本来的に、記憶喪失者=「グリッドマン同盟」サイドなのである。

新条アカネの「(彼女の視点から見た)作り物の世界」を肯定せんとする姿勢は、第四の壁を超えた視聴者への甘い誘惑だ。元ネタ探しで遊んでいるうちは「お約束」にしたがって都合のよい物語を描けるし、あなたと同じ「オタク」である私がどこまでも一緒に堕ちてあげるよ……と。

しかし本当に新条アカネが好きで、あまつさえ救われてほしいと願うなら、せめてこの作品を観ている間は「オタク」をやめる=元ネタ探しをやめなければ、主人公サイドに立つ=「君(新条アカネ)を退屈から救いに」行くことはできないのではないか。

「オタク」の象徴としての新条アカネという存在は、そのようにして視聴者を試しているのである。