BUMP OF CHICKENの「紅白歌合戦」出演に寄せる、ただの個人的な感慨

藤原基央は最初から人間だった。当たり前のことだ。そもそもBUMP OF CHICKENというバンドの一員なのだし、その他のスタッフの存在なくしてレコードは作れない。しかし彼の佇まいには、あくまで人間――「人」の「間」で生きるもの――であることを拒むような、他人を拒絶する身振りが秘められていたように思う。それは「手拍子とか合唱とかいらないですから」と言い放ったというライブハウス時代のMCにも表れているし、何よりも彼の作る楽曲にそうした「閉じているがゆえに汚れなく美しい」世界観が封じ込められていたように思う。彼の楽曲(と彼自身)にはそうした孤高さ、使い古された言い方を用いればカリスマ性が宿っていた。

 
BUMPのメンバーは「曲が求めたからこういうアレンジにした」という発言をよくする。彼らに言わせれば近年のシンセサイザーを大胆に導入したサウンドもボーカロイド初音ミクとコラボレーションしたのも、「曲が求めた」ということなのだろう。その点に関しては一貫している。また宇宙や星、光をモチーフにした歌詞世界の美しさもいまだ健在である。時制を縦横無尽に行き来するそのストーリーテリングについて言えば、以前よりもさらに深みを増しているほどだ。
 
しかし……何かが違う。それは彼らの音楽が、文字通り「みんな」のものになったということと無縁ではないだろう。メディアへの露出を増やし、デジタルアーティストや映画監督、漫画家など異分野のクリエイターとのコラボレーションを積極的に行う彼らの表情には、もはやかつてのような「他者を拒絶することでしか自分たちの音楽の純粋性は守れない」といったような切迫感は感じられない。聞けば近年の彼らのライブは楽曲に合わせて光るリストバンドが配られるなど、より「参加型」の様相を強めているようだ(もっともこうした「ライブのテーマパーク化」は、アリーナクラスの集客が可能なすべてのバンドに共通の傾向でもある)。それは彼らの音楽がより「開かれた」ものになったと取ることができるだろうが、一方で「拒絶されているからこそ踏み込んで手を差し伸べたくなる」あの繊細さ、各人の孤独に響きあう深い悲しみ……そうしたものが失われてしまったということでもある。
 
彼らは明日「紅白歌合戦」に出演する。より多くの、彼らの名前も音楽も知らない人たちが彼らの音楽に触れることになるだろう。きっと最新のテクノロジーを駆使した、まばゆいばかりのステージを繰り広げてくれることだろう(歌唱するのは現在の「開かれた」彼らを象徴する一曲、初音ミクとコラボしたあの「ray」だ)。しかし……それは僕が初めて彼らの音楽に触れたとき感じた、「すごく近いようでいてものすごく遠くにいる」感覚とは、かけ離れたものになっているんじゃないかと思う。ステージライトも彼ら自身の楽しげな表情も……彼らの音楽の核を表したものではない。そう思ってしまうだろうことがありありと想像できる。
 
「見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ」(「天体観測」)
 
変化すること自体はよくも悪くもない。ただ、これは中学に上がると同時にドロップされた「天体観測」に撃ち抜かれ、「見えないものを見ようと」し続けてきた27歳の……ただの個人的な感慨である。
 
僕はあのときの衝撃を胸に、「見えないもの」を見ようとし続けるだろう。
 

瞬間を閉じ込めた永遠――『ハイ☆スピード! -Free! Starting Days-』が京都アニメーションの最高傑作である理由

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『ハイ☆スピード! -Free! Starting Days-』(以下『ハイ☆スピード!』)は京都アニメーションの最高傑作である。いやアニメーションの歴史を塗り替える一作と言っても過言ではない。この稿を最後まで書き上げて、そのような確信に至っている。
 
まずは「京都アニメーション的」と言われるものが何であるかを明らかにしておく必要があるだろう。いろいろな切り口が考えられようが、私にとってそれは過去が「最も美しかった瞬間」として現前してくることである。これはKey作の「複数ヒロインを擁するマルチエンディングタイプのノベルゲーム(以下、ギャルゲー)」を原作とする『Kanon』(2006年)にその起源を見て取ることができる。
 
Kanon』というのは7年ぶりにかつて暮らした街に帰ってきた主人公が、置き去りにしてきたヒロインたちとの過去を想起しつつトラウマを解消していく物語だ。なかでも物語の根幹をなすヒロイン「月宮あゆ」と過ごした日々は毎回のアバンタイトルとして幻想的な夕暮れの情景とともに描写される。その「本当に起きたかもわからない、しかし圧倒的な存在感を持って立ち現れてくる」過去がやがて現在時制で展開する物語にリンクし、かつて交わした「約束」が清算される瞬間が作品のクライマックスだ。
 
TVシリーズ『Free!』『Free! -Eternal Summer-』においてもキャラクターの配置はギャルゲー的であった。それを最も体現していたのは凛で、彼は「遙に敗北した」という過去のトラウマに縛られた亡霊のごとき存在である(月宮あゆも実は7年前に転落事故に遭い意識不明の状態になっている生霊のような存在だった)。ギャルゲーの主人公に相当する遙は「ヒロイン」たる彼のトラウマを解消してやらねばならない(ただしその遙自身も問題を抱えている。遙は天才肌ゆえに「何が問題かわからない」ことこそが問題なのであり(記憶喪失に類似した状態)、これは『CLANNAD』における幻想世界のロボット=岡崎朋也に対応する)
 
「最も美しかった過去」は現在時制とまったく変わらぬ解像度で何度もリフレインする。その「美しさ」は水中に射し込む光線、その屈折が創り出す幻想のようなゆらめきとしてしばしば描写されてきた。水は過去と現在をつなぐ触媒として機能しており、過去に縛られた亡霊たちはその中をもがき泳いでいく。その全身を用いた運動そのものが、弁証法的に過去と現在の二項対立を止揚していくのだ。『CLANNAD』において展開された現実世界と幻想世界の往復、それは『中二病でも恋がしたい!』における妄想世界の具現化という形で継承を見せたが、そのスイッチングというのは(コメディ文脈のまさしく「妄想」であるがゆえに)いささか唐突であった。本シリーズにおいては水を仲立ちにすることでそのスイッチングが非常にシームレスに行われており、アニメーションが「動き」の芸術であることも踏まえてこの点は核心的といえる。
 
加えて『ハイ☆スピード!』は本編の完結後に制作が決定した、「そもそも語られなかったはずの前日譚」である。全編が過去という名の夢なのかもしれない。そうした感触にいやでも満ち満ちている。
 
そして何より「京アニシステム」ともいえる、過去作品におけるモチーフのリフレインだ。今作の監督である武本康弘の監督作品『氷菓』の桜舞う光景に始まり(かの作品ではクライマックスに位置付けられていたあのシークエンスから物語は幕を開ける)、とりわけ『AIR』『Kanon』『CLANNAD』からなる「Key三部作」からのリフレインが目を惹く。回想シーンのプレゼンスの高さが『Kanon』の質感を思わせるのはもちろんのこと、ロケ地(鳥取)を同じくする『AIR』の海岸線、砂浜で遊ぶ子供たち、神社、そして飛び立つ鳥。体育の授業のシーンとして、ひょっとすれば『CLANNAD』以来となるかもしれないバスケットボールの試合も描かれる。「京アニ」を追ってきた人なら前のめりになるシーンが必ずあるはずだ。
 
横道にそれるがここで強調しておきたいポイントがもうひとつ。新キャラクターである「桐嶋郁弥」がKeyの最新作であるアニメ『Charlotte』(制作はP.A.WORKS)の主人公・乙坂有宇に酷似しているのだ。
 
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乙坂有宇(『Charlotte』公式サイトより)
 
声優も同じ内山昂輝であることに加え、単語帳を使って勉強するシーンがあれば、劇中キャラで唯一mp3プレイヤーで音楽を嗜むシーンもある(『Charlotte』を視聴した方ならこの重大さがわかるはずだ)。しかし何と言っても最大のポイントは「弟キャラ」である点だろう。『Charlotte』における有宇は兄・隼翼の遅い登場によってクローズアップされることが少なかったが、有宇も郁弥も兄あってのキャラである(郁弥の兄・夏也が水泳部部長)。ここからはネタバレになるが、郁弥の抱える問題とは兄に突き放された(と彼が感じている)ことによる確執である。しかしそれは「もっと広い世界を見ろ、仲間を作れ」という弟の成長を願う兄の思いからであり、実際郁弥も遙たち同学年の水泳部員とお互いを認め合い「仲間」を得、兄ともまた素直に向き合うことができるようになる。夏也と隼翼の大きな違いは弟を思いながらも突き放していることである。隼翼は超能力を持つ弟たちが安全に暮らせるよう秘密裏に専用の学園まで作るなど、過保護の極みのような行動を取る(その結果として有宇は物語開始時点のような、増長した性格になってしまったともいえる)。郁弥は隼翼とともに暮らしていた頃の有宇がそのまま成長したかのようなキャラクター造型をしており(意固地でセンシティブな少年だ)、「もし隼翼がずっと有宇のそばにいて、範となるような存在でい続けてくれたら」……ひいては、「兄は弟に対してどのように振る舞うべきなのか」ということを、反面教師的に考えさせてもくれる。
 
『ハイ☆スピード!』は『Free!』の発端となった、遙が凛を打ち負かしてしまう「事件」までは描かずに終わる。新しい「最高」のチームになった四人の関係性は失われることが確定的であり、今回の新キャラである旭と郁弥、二人の気持ちになれば訳の分からぬ理由で水泳をやめてしまう(であろう)遙のことを殴り飛ばしたくもなる。しかし美しかった、ありえたかもしれない最高の瞬間を真空パックしてこの映画は終わるのだ。どんな前後の文脈もその美しさを損なうことはできない。アニメーションという「動き」の芸術が、無時間的であるがゆえの永遠なる美しさを現出させた、これは記念碑的作品である。
 
追記:「京都アニメーションの最高傑作」であることに関して付け加えておこう。TVシリーズ『Free!』『Free! -Eternal Summer-』は京アニ初の「女性向け」作品ということを強く打ち出した作品だった。写実的に描かれる男性の筋肉、「壁ドン」などのわかりやすく既存の女性向けコンテンツを意識した演出。特に前者においては監督の内海紘子の意向が強かったとのことだが*1武本康弘が監督を務める今作においてはそのような描写の印象はかぎりなく薄い。実際、観客の中には若い男性のグループもちらほら見受けられたのだが、彼らはおそらく「京都アニメーションの作品」を体系的に追っているようなファンなのだろう。「女性向け」というゾーニングがなされているにもかかわらず観にくるような男性客というのはいわば生えぬきの「京アニファン」とも言えるわけで、先に述べた過去作品からのモチーフが散見される作りになっているという点も、そういった人たちにしっかりと届けるものを作ろう、というスタッフの気持ちが込められているように感じられる。もちろん女性でかつ、ずっと「京都アニメーションの作品」を追い続けているファンの方もいるだろう。『ハイ☆スピード!』は「女性向け」でも「男性京アニファン」向けでもなく、本当の意味で「京アニファン」に向けられた作品なのだ。「京アニ最高傑作」と断言できるのは、このことにもよるのである。
 
 

*1:内海の監督としての「こだわり」については、以下の記事でも短くだが触れられている。

www.excite.co.jp

【既プレイ者向け】『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』雑感

http://www.makura-soft.com/sakuranouta/information/img/img_sakuranouta.png

 

※以下、『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』の重要なネタバレを含んでいるのでお気をつけください。

 

サクラノ詩』は都合『素晴らしき日々』のテーマ性を延長したその先にある作品と考えられる。それは語りえないもの=神秘を浮き彫りにしたその先……言語によって記述できない対象としての「美」を問うものである。「美」とは何か? 今作において、それは崇高美=幾何学的秩序にも等しい「強い神」と、人の中に生じるものとしての「弱い神」の対比として表される。

 

序章~第二章

壁画「櫻達の足跡」共同制作の話はとてもいい。足跡=痕跡が残り、それが新たに人々の出会いを導くというモチーフ。

作る、というそのプロセスと、それによって現出した作品そのものが大事で、「誰が」それを作ったかなどは重要ではないという明石の発破にも痺れた。

輝ける瞬間はそこにあったと、最終章に至るまでこの作中作とそれをめぐるエピソードは反復されることになる。

 

Olympia

原作者であるすかぢ氏自身をして「普通のエロゲ」と言わしめた*1、典型的なトラウマ解消の話。語るべきことはあまりない。

 

PicaPica

ゲストライター(浅生詠)が執筆していることもあり毛色の異なるシナリオ。陶器作家をヒロインに据え、唯一「用の美」が扱われている。

また「月」の主題も見所。手の届かない才能の象徴としての。
(届かないなりに届こうとする真琴と、その美しさを胸に抱いたまま飛び降りたざくろの対比が浮き彫りに。すかぢ作品への批評としても読めるのではないだろうか)

「黒ヤギさんと白ヤギさんの歌」には見えない第三の登場人物としての郵便配達人が存在する、といった挿話や天の川に橋を架けるカササギの比喩など、のちに「因果交流によって輝く櫻の芸術家」と評されることになる草薙直哉について、先取りするかのようなモチーフが散見されるのも興味深い。

サクラノ詩』という作品の、そしてすかぢ作品への批評ともとれるこのシナリオの位置付けは、ヒロインである鳥谷真琴が最終章において「美術雑誌の編集者」になっていることからも明証される。

 

ZYPRESSEN

白眉といえるシナリオ。里奈・優美・直哉、三人の視点が入れ替わりながら、過去の出来事が寓話として再構成される。

すかぢ氏自身の課題とされていた「恋愛」が唯一描けているルートではないだろうか?
(ただし、その輪から外れてしまう「敗者」の視点としてというところに宿痾めいたものを感じるが…)

さわやかな失恋の話、と一言で言えばそうなるだろう。

恋愛劇の中核をなしながらも、「意中の相手と結ばれる」という結末ではない形で人間的な成長を果たす川内野優美(しかも最終的な語り手の地位は、彼女によって獲得されている!)は、恋愛ゲーム史上に残るキャラクターだろう。

 

A Nice Derangement of Epitaphs

設定解説のルートで、個人的に印象が薄い。サブタイトルのデイヴィドソンからの引用も「文字通り」のもので特に深い掘り下げはなく残念。

 

What is mind? No matter. What is matter? Never mind.

草薙健一郎視点の過去編。それ以上でも以下でもないのだが、教え子である若田に語っているという構図がいい(序章で飲んだくれている若田の描写が遡及的に効いてくる)。

ED主題歌は「Dear My Friend」。「Friend」とは健一郎にとっての若田のこと。おそらく一般に言うような「友達」といえるほど深い仲ではなかったはず(重い話を聞かされて若田も気が滅入ったことだろう)。しかし彼らの関係性を一言でいうなら、(いや、このような打ち明け話をしてしまった今となっては)それは「Friend」としか言いようのないものだった。

そしてシナリオのラストで健一郎が語る、「かつて幸福だった」と語ることのできる今こそが幸福なのだ、という逆説はウィトゲンシュタインの臨終の様を思わせるもの。ある意味でここが『サクラノ詩』が到達すべき最終地点である。

 

The Happy Prince and Other Tales.

とにかく圭が死んでしまってつらい。テーマを描くためにキャラが犠牲になるというのは何度見ても……。圭と直哉が切磋琢磨して本当に世界の頂点を目指すという、ベタで少年漫画的な展開も見たかった。

覚醒した稟と直哉の問答は全体のテーマをまんま解説している。ぶっちゃけここを丸写しすれば語るべきことは何もない(それが今日まで記事を書くのを躊躇っていた理由でもある)。

圭が死ぬ→雫による封印が解ける→稟覚醒→直哉との問答、ということをやるためだけに圭が死んだとも言えなくもなく、『素晴らしき日々』の先の幸福観について前章でケリがついているからこそ、それを問答という形で書き残すためだけにキャラが死んだ、とも取れるこの展開は蛇足のように思えてしまった。

また細かい点だが、ポール・ウェラーソニック・ユースヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどオルタナティブ・ロックの持つアート性についての言及があったのが個人的に「おっ」となったポイント(メインコンポーザーのピクセルビー、松本文紀氏のサウンドもオルタナ/ポストロック/シューゲイザー等々からの影響を感じさせるだけに)。

I'veやKeyを筆頭にノベルゲームのBGMといえば打ち込み。シナリオ上で音楽が重要な役割を果たす『WHITE ALBUM 2』や『SWAN SONG』においても題材となるのはクラシックであることが多く、ロック、とりわけオルタナティブ・ロックと分類されるサウンドが大々的にフィーチャーされることは少なかった。

素晴らしき日々』にはトリビュートコンピというものも存在し*2、これもミニマルテクノシューゲイザー/ポストハードコア/マスロックといったアプローチからの楽曲が多く収められている(コンピ参加者のviewtorinoは『サクラノ詩』本編で2曲のアレンジ担当としてクレジットされている)。

この章に限った話ではないが、ノベルゲームを核とした新たな音楽シーンの胎動、ということまで予感させてくれて非常に心躍った。

 

最終章

「弱い神」の側についた直哉は思い出の交流した場所(夏目屋敷)を守り続ける。自らが因果の交流点(ジャンクション)となることによって…。

飛び立つツバメに喩えられた天才たちを見送り、大地に根を張る。理想を追い求めないという生き方。これもひとつの選択ではあるが…。

個人的には、キャチフレーズにもあった「反哲学的」とは「反形而上学的」ということだったのか? と首を傾げたくもなってしまった(筆者は『素晴らしき日々』における「ナグルファルの船上にて」エンド……死を持って完結する閉ざされた世界の彫刻的な美しさを、外側から飽くことなく眺めていたいと考える人間である)。

理想に殉ずることを否定したその先にどのような物語が紡がれるのか。すでに開発が決定しているという続編『サクラノ刻』に注目である。

(長山香奈は最後までいいキャラしてました。「天才と才人」。当初は悪役・当て馬として登場した彼女だが、作中でスポイルされていた多くのテーマを背負っている。もっとも読者が共感しやすいキャラなのではないだろうか?)

 

宮沢賢治中原中也モチーフの読解などまだまだ見るべきところはたくさんあるだろう。濃厚な死の気配を湛えつつ美しい瞬間を切り取っていく手つきは、まさしく「文学」のそれであった。

間違いなく多くの人に触れられるべき傑作だと思います。