【既プレイ者向け】『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』雑感
※以下、『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』の重要なネタバレを含んでいるのでお気をつけください。
『サクラノ詩』は都合『素晴らしき日々』のテーマ性を延長したその先にある作品と考えられる。それは語りえないもの=神秘を浮き彫りにしたその先……言語によって記述できない対象としての「美」を問うものである。「美」とは何か? 今作において、それは崇高美=幾何学的秩序にも等しい「強い神」と、人の中に生じるものとしての「弱い神」の対比として表される。
序章~第二章
壁画「櫻達の足跡」共同制作の話はとてもいい。足跡=痕跡が残り、それが新たに人々の出会いを導くというモチーフ。
作る、というそのプロセスと、それによって現出した作品そのものが大事で、「誰が」それを作ったかなどは重要ではないという明石の発破にも痺れた。
輝ける瞬間はそこにあったと、最終章に至るまでこの作中作とそれをめぐるエピソードは反復されることになる。
Olympia
原作者であるすかぢ氏自身をして「普通のエロゲ」と言わしめた*1、典型的なトラウマ解消の話。語るべきことはあまりない。
PicaPica
ゲストライター(浅生詠)が執筆していることもあり毛色の異なるシナリオ。陶器作家をヒロインに据え、唯一「用の美」が扱われている。
また「月」の主題も見所。手の届かない才能の象徴としての。
(届かないなりに届こうとする真琴と、その美しさを胸に抱いたまま飛び降りたざくろの対比が浮き彫りに。すかぢ作品への批評としても読めるのではないだろうか)
「黒ヤギさんと白ヤギさんの歌」には見えない第三の登場人物としての郵便配達人が存在する、といった挿話や天の川に橋を架けるカササギの比喩など、のちに「因果交流によって輝く櫻の芸術家」と評されることになる草薙直哉について、先取りするかのようなモチーフが散見されるのも興味深い。
『サクラノ詩』という作品の、そしてすかぢ作品への批評ともとれるこのシナリオの位置付けは、ヒロインである鳥谷真琴が最終章において「美術雑誌の編集者」になっていることからも明証される。
ZYPRESSEN
白眉といえるシナリオ。里奈・優美・直哉、三人の視点が入れ替わりながら、過去の出来事が寓話として再構成される。
すかぢ氏自身の課題とされていた「恋愛」が唯一描けているルートではないだろうか?
(ただし、その輪から外れてしまう「敗者」の視点としてというところに宿痾めいたものを感じるが…)
さわやかな失恋の話、と一言で言えばそうなるだろう。
恋愛劇の中核をなしながらも、「意中の相手と結ばれる」という結末ではない形で人間的な成長を果たす川内野優美(しかも最終的な語り手の地位は、彼女によって獲得されている!)は、恋愛ゲーム史上に残るキャラクターだろう。
A Nice Derangement of Epitaphs
設定解説のルートで、個人的に印象が薄い。サブタイトルのデイヴィドソンからの引用も「文字通り」のもので特に深い掘り下げはなく残念。
What is mind? No matter. What is matter? Never mind.
草薙健一郎視点の過去編。それ以上でも以下でもないのだが、教え子である若田に語っているという構図がいい(序章で飲んだくれている若田の描写が遡及的に効いてくる)。
ED主題歌は「Dear My Friend」。「Friend」とは健一郎にとっての若田のこと。おそらく一般に言うような「友達」といえるほど深い仲ではなかったはず(重い話を聞かされて若田も気が滅入ったことだろう)。しかし彼らの関係性を一言でいうなら、(いや、このような打ち明け話をしてしまった今となっては)それは「Friend」としか言いようのないものだった。
そしてシナリオのラストで健一郎が語る、「かつて幸福だった」と語ることのできる今こそが幸福なのだ、という逆説はウィトゲンシュタインの臨終の様を思わせるもの。ある意味でここが『サクラノ詩』が到達すべき最終地点である。
The Happy Prince and Other Tales.
とにかく圭が死んでしまってつらい。テーマを描くためにキャラが犠牲になるというのは何度見ても……。圭と直哉が切磋琢磨して本当に世界の頂点を目指すという、ベタで少年漫画的な展開も見たかった。
覚醒した稟と直哉の問答は全体のテーマをまんま解説している。ぶっちゃけここを丸写しすれば語るべきことは何もない(それが今日まで記事を書くのを躊躇っていた理由でもある)。
圭が死ぬ→雫による封印が解ける→稟覚醒→直哉との問答、ということをやるためだけに圭が死んだとも言えなくもなく、『素晴らしき日々』の先の幸福観について前章でケリがついているからこそ、それを問答という形で書き残すためだけにキャラが死んだ、とも取れるこの展開は蛇足のように思えてしまった。
また細かい点だが、ポール・ウェラー、ソニック・ユース、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどオルタナティブ・ロックの持つアート性についての言及があったのが個人的に「おっ」となったポイント(メインコンポーザーのピクセルビー、松本文紀氏のサウンドもオルタナ/ポストロック/シューゲイザー等々からの影響を感じさせるだけに)。
I'veやKeyを筆頭にノベルゲームのBGMといえば打ち込み。シナリオ上で音楽が重要な役割を果たす『WHITE ALBUM 2』や『SWAN SONG』においても題材となるのはクラシックであることが多く、ロック、とりわけオルタナティブ・ロックと分類されるサウンドが大々的にフィーチャーされることは少なかった。
『素晴らしき日々』にはトリビュートコンピというものも存在し*2、これもミニマルテクノ/シューゲイザー/ポストハードコア/マスロックといったアプローチからの楽曲が多く収められている(コンピ参加者のviewtorinoは『サクラノ詩』本編で2曲のアレンジ担当としてクレジットされている)。
この章に限った話ではないが、ノベルゲームを核とした新たな音楽シーンの胎動、ということまで予感させてくれて非常に心躍った。
最終章
「弱い神」の側についた直哉は思い出の交流した場所(夏目屋敷)を守り続ける。自らが因果の交流点(ジャンクション)となることによって…。
飛び立つツバメに喩えられた天才たちを見送り、大地に根を張る。理想を追い求めないという生き方。これもひとつの選択ではあるが…。
個人的には、キャチフレーズにもあった「反哲学的」とは「反形而上学的」ということだったのか? と首を傾げたくもなってしまった(筆者は『素晴らしき日々』における「ナグルファルの船上にて」エンド……死を持って完結する閉ざされた世界の彫刻的な美しさを、外側から飽くことなく眺めていたいと考える人間である)。
理想に殉ずることを否定したその先にどのような物語が紡がれるのか。すでに開発が決定しているという続編『サクラノ刻』に注目である。
(長山香奈は最後までいいキャラしてました。「天才と才人」。当初は悪役・当て馬として登場した彼女だが、作中でスポイルされていた多くのテーマを背負っている。もっとも読者が共感しやすいキャラなのではないだろうか?)
宮沢賢治/中原中也モチーフの読解などまだまだ見るべきところはたくさんあるだろう。濃厚な死の気配を湛えつつ美しい瞬間を切り取っていく手つきは、まさしく「文学」のそれであった。
間違いなく多くの人に触れられるべき傑作だと思います。