「ray」は僕の歌だった――BUMP OF CHICKENの「紅白歌合戦」出演を経て、改めて思うこと

なんで考えもしなかったのだろう。BUMP OF CHICKENの「紅白歌合戦初出場」は、幕張で行われたロックフェス「COUNTDOWN JAPAN 15/16」会場からの中継だった。これが意味していたのは、紅白歌合戦に「初出場」したのは、実のところ「ロックフェス」というカルチャーそのものだったということだ。(このフェスが「ロキノン系」の語源ともなった雑誌「ロッキング・オン・ジャパン」を発行する株式会社ロッキング・オンによる開催であり、BUMP OF CHICKENが同誌の看板バンドであり続けていることも合わせ、「ロキノン系」という一種の精神的ストリームが、「お茶の間」に接続した事件だったと捉えても良いかもしれないが……それならそれでこの雑誌とともに10代を過ごした者の一人として、個人的には胸震わせる出来事である)

「ロックフェスのレジャー化は是か非か」という論争はここ数年の音楽ジャーナリズムにおけるメイントピックのひとつだったわけだが、それに決定的な終始符が打たれた感がある。論争の「非」の側面としてクローズアップされる「みんな」という最大公約数に向けた曲ばかりが作られる、という現象は確かにあるだろう。しかしそれは状況のせいにしても仕方なくて、そこに甘んじてしまった作り手の側の問題なのだ。そしてBUMPの音楽はやはり「ひとりひとり」に届けるものだったのである。テレビ画面を通して映る観客の表情、身振りがそれを物語っていた。一対一のダイレクトな関係において最も響く、それは本当に「強い」音楽だと思う。

テレビ、しかも紅白歌合戦という「みんな」が観るものという幻想(昔ほど強くないにしても、間違いなくあらゆる音楽コンテンツの中で最も)が働いているであろう番組に映し出されることで、ロックフェスで鳴らされている音楽――少なくともBUMP OF CHICKENの音楽――が、決して「みんな」という不特定多数に向けて鳴らされている音楽ではないということが証明されたのである。「紅白」で普段鳴らされる音楽とはまったく質が異なる音楽であることを(「紅白」サイドも)わかっているからこそ、観客の姿をふんだんに映し出したのだろうし、同じ「音楽」とはいえどその目指すところは全く違うということ、その違いを認め合い、互いにリスペクトを払うことができるようになったからこそ、今回の実現があったといえるのだ。「大衆(音楽)」というものに牙を立てることによってしか自らの純粋性を誇れない、「ロキノン系」という言葉に込められた揶揄的な意味での精神性が、ついに「敵」を想定せずとも、独立した強さを手に入れることができた瞬間でもあった。

その一方で、やはりBUMP OF CHICKENというバンドが「ロキノン系」という括りに還元することのできない特別なバンドであることを実感させてくれたステージでもあった。

「紅白」放送前に書いた記事にも書いた通り、今回演奏された「ray」という曲を僕自身BUMP OF CHICKEN「変節」のテーマ曲として受け止めていた。サウンドにしても、異業種クリエイターや初音ミクとコラボレートしたという楽曲の成り立ち方にしても……しかしこの楽曲が目指しているのは「一体感」ではなく、「ひとりひとりに届ける」という変わらない姿勢、その結果として「一体感が生まれている“ように見える”」のだ、ということに思いを致したとき、歌詞についても新たな相貌が覗いたのである。

君といた時は見えた 今は見えなくなった
透明な彗星をぼんやりと でもそれだけ探している
(「ray」)

このラインなど、初期の代表曲であり今なおライブのクライマックスで演奏される楽曲「天体観測」の、「見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ」「「イマ」というほうき星 君と二人追いかけていた」というラインを、直接的に継承しているように思えてくる。BUMP OF CHICKENは「見えないモノ」をまだ探し続けている途中で、その旅路に気づけば多くの人たちが付いてきていた、ということなのだ。もちろん僕もそのひとりである。これは「僕の歌」だ、今では素直にそう思える。「生きるのは最高だ」という言葉も、だから心の芯にすとんと落ちてくる。むしろずっとBUMPの音楽とともに歩んできた人にこそ響く楽曲だったのかもしれない。彼らを知らない人にはどう映ったのだろう。「紅白」という「みんな」という幻想に彩られた空間からほんの4,5分間のあいだ視聴者や観客を解き放ち、「ひとりひとり」に立ち戻らせるだけの説得力が、彼らの楽曲とパフォーマンスにはあったと思うのだけど。

大丈夫だ この痛みは 忘れたって消えやしない
(「ray」)

BUMPと僕たちの旅は、これからも続いていく。

BUMP OF CHICKENの「紅白歌合戦」出演に寄せる、ただの個人的な感慨

藤原基央は最初から人間だった。当たり前のことだ。そもそもBUMP OF CHICKENというバンドの一員なのだし、その他のスタッフの存在なくしてレコードは作れない。しかし彼の佇まいには、あくまで人間――「人」の「間」で生きるもの――であることを拒むような、他人を拒絶する身振りが秘められていたように思う。それは「手拍子とか合唱とかいらないですから」と言い放ったというライブハウス時代のMCにも表れているし、何よりも彼の作る楽曲にそうした「閉じているがゆえに汚れなく美しい」世界観が封じ込められていたように思う。彼の楽曲(と彼自身)にはそうした孤高さ、使い古された言い方を用いればカリスマ性が宿っていた。

 
BUMPのメンバーは「曲が求めたからこういうアレンジにした」という発言をよくする。彼らに言わせれば近年のシンセサイザーを大胆に導入したサウンドもボーカロイド初音ミクとコラボレーションしたのも、「曲が求めた」ということなのだろう。その点に関しては一貫している。また宇宙や星、光をモチーフにした歌詞世界の美しさもいまだ健在である。時制を縦横無尽に行き来するそのストーリーテリングについて言えば、以前よりもさらに深みを増しているほどだ。
 
しかし……何かが違う。それは彼らの音楽が、文字通り「みんな」のものになったということと無縁ではないだろう。メディアへの露出を増やし、デジタルアーティストや映画監督、漫画家など異分野のクリエイターとのコラボレーションを積極的に行う彼らの表情には、もはやかつてのような「他者を拒絶することでしか自分たちの音楽の純粋性は守れない」といったような切迫感は感じられない。聞けば近年の彼らのライブは楽曲に合わせて光るリストバンドが配られるなど、より「参加型」の様相を強めているようだ(もっともこうした「ライブのテーマパーク化」は、アリーナクラスの集客が可能なすべてのバンドに共通の傾向でもある)。それは彼らの音楽がより「開かれた」ものになったと取ることができるだろうが、一方で「拒絶されているからこそ踏み込んで手を差し伸べたくなる」あの繊細さ、各人の孤独に響きあう深い悲しみ……そうしたものが失われてしまったということでもある。
 
彼らは明日「紅白歌合戦」に出演する。より多くの、彼らの名前も音楽も知らない人たちが彼らの音楽に触れることになるだろう。きっと最新のテクノロジーを駆使した、まばゆいばかりのステージを繰り広げてくれることだろう(歌唱するのは現在の「開かれた」彼らを象徴する一曲、初音ミクとコラボしたあの「ray」だ)。しかし……それは僕が初めて彼らの音楽に触れたとき感じた、「すごく近いようでいてものすごく遠くにいる」感覚とは、かけ離れたものになっているんじゃないかと思う。ステージライトも彼ら自身の楽しげな表情も……彼らの音楽の核を表したものではない。そう思ってしまうだろうことがありありと想像できる。
 
「見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ」(「天体観測」)
 
変化すること自体はよくも悪くもない。ただ、これは中学に上がると同時にドロップされた「天体観測」に撃ち抜かれ、「見えないものを見ようと」し続けてきた27歳の……ただの個人的な感慨である。
 
僕はあのときの衝撃を胸に、「見えないもの」を見ようとし続けるだろう。
 

瞬間を閉じ込めた永遠――『ハイ☆スピード! -Free! Starting Days-』が京都アニメーションの最高傑作である理由

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『ハイ☆スピード! -Free! Starting Days-』(以下『ハイ☆スピード!』)は京都アニメーションの最高傑作である。いやアニメーションの歴史を塗り替える一作と言っても過言ではない。この稿を最後まで書き上げて、そのような確信に至っている。
 
まずは「京都アニメーション的」と言われるものが何であるかを明らかにしておく必要があるだろう。いろいろな切り口が考えられようが、私にとってそれは過去が「最も美しかった瞬間」として現前してくることである。これはKey作の「複数ヒロインを擁するマルチエンディングタイプのノベルゲーム(以下、ギャルゲー)」を原作とする『Kanon』(2006年)にその起源を見て取ることができる。
 
Kanon』というのは7年ぶりにかつて暮らした街に帰ってきた主人公が、置き去りにしてきたヒロインたちとの過去を想起しつつトラウマを解消していく物語だ。なかでも物語の根幹をなすヒロイン「月宮あゆ」と過ごした日々は毎回のアバンタイトルとして幻想的な夕暮れの情景とともに描写される。その「本当に起きたかもわからない、しかし圧倒的な存在感を持って立ち現れてくる」過去がやがて現在時制で展開する物語にリンクし、かつて交わした「約束」が清算される瞬間が作品のクライマックスだ。
 
TVシリーズ『Free!』『Free! -Eternal Summer-』においてもキャラクターの配置はギャルゲー的であった。それを最も体現していたのは凛で、彼は「遙に敗北した」という過去のトラウマに縛られた亡霊のごとき存在である(月宮あゆも実は7年前に転落事故に遭い意識不明の状態になっている生霊のような存在だった)。ギャルゲーの主人公に相当する遙は「ヒロイン」たる彼のトラウマを解消してやらねばならない(ただしその遙自身も問題を抱えている。遙は天才肌ゆえに「何が問題かわからない」ことこそが問題なのであり(記憶喪失に類似した状態)、これは『CLANNAD』における幻想世界のロボット=岡崎朋也に対応する)
 
「最も美しかった過去」は現在時制とまったく変わらぬ解像度で何度もリフレインする。その「美しさ」は水中に射し込む光線、その屈折が創り出す幻想のようなゆらめきとしてしばしば描写されてきた。水は過去と現在をつなぐ触媒として機能しており、過去に縛られた亡霊たちはその中をもがき泳いでいく。その全身を用いた運動そのものが、弁証法的に過去と現在の二項対立を止揚していくのだ。『CLANNAD』において展開された現実世界と幻想世界の往復、それは『中二病でも恋がしたい!』における妄想世界の具現化という形で継承を見せたが、そのスイッチングというのは(コメディ文脈のまさしく「妄想」であるがゆえに)いささか唐突であった。本シリーズにおいては水を仲立ちにすることでそのスイッチングが非常にシームレスに行われており、アニメーションが「動き」の芸術であることも踏まえてこの点は核心的といえる。
 
加えて『ハイ☆スピード!』は本編の完結後に制作が決定した、「そもそも語られなかったはずの前日譚」である。全編が過去という名の夢なのかもしれない。そうした感触にいやでも満ち満ちている。
 
そして何より「京アニシステム」ともいえる、過去作品におけるモチーフのリフレインだ。今作の監督である武本康弘の監督作品『氷菓』の桜舞う光景に始まり(かの作品ではクライマックスに位置付けられていたあのシークエンスから物語は幕を開ける)、とりわけ『AIR』『Kanon』『CLANNAD』からなる「Key三部作」からのリフレインが目を惹く。回想シーンのプレゼンスの高さが『Kanon』の質感を思わせるのはもちろんのこと、ロケ地(鳥取)を同じくする『AIR』の海岸線、砂浜で遊ぶ子供たち、神社、そして飛び立つ鳥。体育の授業のシーンとして、ひょっとすれば『CLANNAD』以来となるかもしれないバスケットボールの試合も描かれる。「京アニ」を追ってきた人なら前のめりになるシーンが必ずあるはずだ。
 
横道にそれるがここで強調しておきたいポイントがもうひとつ。新キャラクターである「桐嶋郁弥」がKeyの最新作であるアニメ『Charlotte』(制作はP.A.WORKS)の主人公・乙坂有宇に酷似しているのだ。
 
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乙坂有宇(『Charlotte』公式サイトより)
 
声優も同じ内山昂輝であることに加え、単語帳を使って勉強するシーンがあれば、劇中キャラで唯一mp3プレイヤーで音楽を嗜むシーンもある(『Charlotte』を視聴した方ならこの重大さがわかるはずだ)。しかし何と言っても最大のポイントは「弟キャラ」である点だろう。『Charlotte』における有宇は兄・隼翼の遅い登場によってクローズアップされることが少なかったが、有宇も郁弥も兄あってのキャラである(郁弥の兄・夏也が水泳部部長)。ここからはネタバレになるが、郁弥の抱える問題とは兄に突き放された(と彼が感じている)ことによる確執である。しかしそれは「もっと広い世界を見ろ、仲間を作れ」という弟の成長を願う兄の思いからであり、実際郁弥も遙たち同学年の水泳部員とお互いを認め合い「仲間」を得、兄ともまた素直に向き合うことができるようになる。夏也と隼翼の大きな違いは弟を思いながらも突き放していることである。隼翼は超能力を持つ弟たちが安全に暮らせるよう秘密裏に専用の学園まで作るなど、過保護の極みのような行動を取る(その結果として有宇は物語開始時点のような、増長した性格になってしまったともいえる)。郁弥は隼翼とともに暮らしていた頃の有宇がそのまま成長したかのようなキャラクター造型をしており(意固地でセンシティブな少年だ)、「もし隼翼がずっと有宇のそばにいて、範となるような存在でい続けてくれたら」……ひいては、「兄は弟に対してどのように振る舞うべきなのか」ということを、反面教師的に考えさせてもくれる。
 
『ハイ☆スピード!』は『Free!』の発端となった、遙が凛を打ち負かしてしまう「事件」までは描かずに終わる。新しい「最高」のチームになった四人の関係性は失われることが確定的であり、今回の新キャラである旭と郁弥、二人の気持ちになれば訳の分からぬ理由で水泳をやめてしまう(であろう)遙のことを殴り飛ばしたくもなる。しかし美しかった、ありえたかもしれない最高の瞬間を真空パックしてこの映画は終わるのだ。どんな前後の文脈もその美しさを損なうことはできない。アニメーションという「動き」の芸術が、無時間的であるがゆえの永遠なる美しさを現出させた、これは記念碑的作品である。
 
追記:「京都アニメーションの最高傑作」であることに関して付け加えておこう。TVシリーズ『Free!』『Free! -Eternal Summer-』は京アニ初の「女性向け」作品ということを強く打ち出した作品だった。写実的に描かれる男性の筋肉、「壁ドン」などのわかりやすく既存の女性向けコンテンツを意識した演出。特に前者においては監督の内海紘子の意向が強かったとのことだが*1武本康弘が監督を務める今作においてはそのような描写の印象はかぎりなく薄い。実際、観客の中には若い男性のグループもちらほら見受けられたのだが、彼らはおそらく「京都アニメーションの作品」を体系的に追っているようなファンなのだろう。「女性向け」というゾーニングがなされているにもかかわらず観にくるような男性客というのはいわば生えぬきの「京アニファン」とも言えるわけで、先に述べた過去作品からのモチーフが散見される作りになっているという点も、そういった人たちにしっかりと届けるものを作ろう、というスタッフの気持ちが込められているように感じられる。もちろん女性でかつ、ずっと「京都アニメーションの作品」を追い続けているファンの方もいるだろう。『ハイ☆スピード!』は「女性向け」でも「男性京アニファン」向けでもなく、本当の意味で「京アニファン」に向けられた作品なのだ。「京アニ最高傑作」と断言できるのは、このことにもよるのである。
 
 

*1:内海の監督としての「こだわり」については、以下の記事でも短くだが触れられている。

www.excite.co.jp