記憶の再構成と共感のプロセス――『カゲロウプロジェクト』試論(『反=アニメ批評 2014winter』所収の論文より一部加筆・修正)

以下はサークル「アニメルカ製作委員会」発行の同人誌『反=アニメ批評 2014winter』に寄稿した論文に、加筆・修正を施した上で転載したものとなります(掲載誌の初版が出て一年となりましたので、同誌編集長の高瀬司さんの許可を得て掲載するものです)


記憶の再構成と共感のプロセス――『カゲロウプロジェクト』試論

北出栞 

1. 導入――「ループ」について 

 2011年よりニコニコ動画にミュージックビデオの連作として投稿され、その後小説・コミック・アニメと様々なメディアに展開されていった『カゲロウプロジェクト』*1。すべてのメディア展開に原作者であるじんが深く関わっている今作は、音楽制作に使用されているボーカロイドが、ゲームブランド・Keyの歌姫であるLiaの音声をサンプリングした「IA」であるという点、『ひぐらしのなく頃に』や『STEINS;GATE』といった先行作品からの影響を受け*2、繰り返す8月15日、という「ループもの」の設定を組み込んでいる点などから、ノベルゲームとの関連性をもってしばしば語られる。
 そもそも、ノベルゲームにおける「ループ」とはどういったものだろうか。同メディアにおいては、プレイヤーの選択によってシナリオが複数に分岐するため、すべてのシナリオを読もうとすれば、周回プレイが前提となる。『Ever17』など多くの「ループもの」作品を手掛けた打越鋼太郎も「プレイヤーと登場人物の視点の乖離に気がついて、プレイヤー=登場人物にしようと、なんとかシンクロさせようとすればするほど、どうしてもループ物やタイムトラベル物になっていく」と語るように*3、周回プレイというプレイヤーの「ゲーム外の体験」と、時間のループという超自然現象に翻弄される主人公の「ゲーム内の体験」を同期させるのが、「ループ」という設定なのである。
 しかし『カゲロウプロジェクト』においては事情が異なる。というのも同作は楽曲ごとのミュージックビデオ、あるいは小説・コミック・アニメといった各メディアに断片化されたエピソードの集積という形をとっているため、ひとつのソフトにパッケージングされたノベルゲームとは違い、シナリオを読む順番に制約がない。私たちは動画群、メディアミックス群をパラレルに一望できる場所から、それらにランダムにアクセスできる。その体験は主人公とともに「ループ」に翻弄されるというよりは、散り散りになったパズルのピースを集め、より俯瞰的な立場から全体像を模索する営みに近い。
 しかしこうした構造の説明だけでは、同作品が10代を中心に熱狂的な支持を集めていることの説明にはならない。『カゲロウプロジェクト』にはパズルを解く楽しみもさることながら、若年層――であるか否かに関わらず響くところがある作品であると筆者は確信しているが――の感情移入を促すテーマ性が存在する。それを読み解くためには、一度「ループ」というものを単なる意匠として切り離し、その上で「ループ」とは異なる文法を導入することが必要になる。それこそがタイトルにも掲げた「記憶の再構成」だ。

2. 「記憶の再構成」という文法

 「記憶の再構成」という文法を取り出すにあたって補助線として参照するのは、先述したゲームブランド・Keyの作品である。しかし本稿ではLiaが初参加した『AIR』(2000年)以降の作品ではなく、ブランドの第一作である『Kanon』(1999年)に着目する。先ほど引いた打越の言葉にもあるように、ノベルゲーム史において「ループ」という装置は「プレイヤーと登場人物の視点の乖離に気がつい」た作り手たちが、その乖離を埋めるべくひねり出したという側面がある。しかし『Kanon』の段階ではそのような問題意識は顕在化しておらず、「ループ」という設定も存在していない。『AIR』はKey作品の中で「ループ」の要素を初めて明示的に取り入れ、ノベルゲームというメディアとそこで表現しうる物語の「臨界点」を示したと言われるほどだが*4、それゆえにその前作である『Kanon』の参照は、「ループ」とは異なる文法をノベルゲームというメディアから取り出すのにうってつけだと言える。
 複数の「個別ルート」からなる『Kanon』のシナリオの基本的な形式とは、記憶を一部欠落させた主人公が、過去にとある人物(複数人いるヒロインの誰か)と交わした「約束」を果たすべく、当時の記憶をたぐり寄せていくというものだ。主人公は過去から現在に至る記憶の連続性を取り戻すことで、対象のヒロインとのエンディングを迎えるわけだが、その過程において断片的な回想シーンが何度も反復されることで、読者は主人公と「同じ記憶」を共有しているかのような錯覚を覚えていく。これは「ループもの」における「ループ」の設定が、主人公と読者の視点を同期させていくプロセスに近い。違いは多くのノベルゲームにおける「ループ」の設定が主人公の「ループからの脱出」と読者の「周回プレイ」という、現在進行形での経験を同期させるのに対して、『Kanon』のこの設定は「(過去に起きた出来事を)忘れている」主人公と「(過去に起きたという出来事を)そもそも知らない」プレイヤーという、初期条件を同期させているという点である。
 ここで再び「カゲロウプロジェクト」に目を移してみる。同作においては、「ループ」に巻き込まれている最中のキャラクターの心情についてはほとんど描かれない。ループ現象が直接的に扱われる楽曲「カゲロウデイズ」や「アウターサイエンス」においても、何の脈絡もない事故や黒幕の暴力によって、際限のない「デッドエンド」を迎える事実が淡々と語られていくのみだ。実は『カゲロウプロジェクト』においてはループに翻弄される人物の心情よりも、そもそもなぜ「ループ」などというものが生まれてしまったか、ということに焦点が当てられる。作中における「ループ」は「メデューサ」というファンタジー的な存在によって引き起こされているのだが、この「メデューサ」自身が手記を残しており、それを手掛かりにループ発生の謎に迫るというのがメインプロットなのである。またこれだけでなく、基本的に『カゲロウプロジェクト』は物語が「過去方向に掘り下げられる」構造を持っている。「空想フォレスト」や「アヤノの幸福理論」などにも表れているが、親しい人や自分自身の死という結末から遡行するようにして、「“実は”こんなことがあったんだよ」という形で物語が綴られていく。こうした構造は回想シーンの反復によって記憶の連続性を取り戻していく、『Kanon』の形式とも相通ずるものといえるだろう。
 となると、問題は再構成された記憶を最終的に引き受ける「主人公」の存在である。群像劇であり、楽曲ごとに異なる主要人物が配置されている『カゲロウプロジェクト』において、そうした「主人公」といえる人物は存在するのだろうか。結論から言うと、存在する。『Kanon』の「主人公に記憶がない」という設定は「(過去に起きた出来事を)忘れている」主人公と「(過去に起きたという出来事を)そもそも知らない」プレイヤーという、初期条件を同期させているということを先に述べたが、逆説的に言えば、「主人公」の条件とは「記憶を失っている=思い出すべき記憶を持っている」ことだということになる。そしてその条件が特殊能力という形で憑依しているのが、「シンタロー」という人物なのである。 

3. 「主人公」としてのシンタロー(あるいは、「ロスタイムメモリー」について) 

 如月伸太郎、通称シンタローは高い知能指数を持つが、友人の自殺を期に学校にも通わなくなってしまったという、いわゆる引きこもりの少年である。そんな彼が「主人公」らしく描かれるのは、ミュージックビデオの投稿が続く最中に刊行が開始された小説/コミック版からである。アニメ『メカクシティアクターズ』も含め、シンタローがひょんなことから引きこもり生活を中断し、外出するというシーンから物語は始まる。「引きこもりが外に出る話」……小説/コミック/アニメという、線型的な「物語メディア」に置き換えられるにあたって、『カゲロウプロジェクト』には(まずは表面的には)そうしたプロットが与えられることになった。
 いずれのメディアにおいてもシンタローは外出した先で不思議な能力を持つ「メカクシ団」と出会い、その能力の根源である「メデューサ」の謎をめぐる物語に巻き込まれていくのだが、アニメ版『メカクシティアクターズ』で、彼もまた「メデューサ」由来の能力を持つことが明らかになる。「目に焼き付ける」というその能力は、時空を超えてあらゆる物事を記憶できる、というものだ。高い知能指数もこの能力によるものだったということなのだが、重要なのはその能力のおよぶ範囲がすべてのループ……つまりこれまでミュージックビデオ/小説/コミック/アニメと、様々なメディアで展開されてきた物語的な可能性のすべてにおよぶということである。このことが、それまでメディア横断的に『カゲロウプロジェクト』の世界に触れてきた読者の体験とシンクロするものであることは、言うまでもないだろう。シンタローは無自覚ではあったが、それまで読者が『カゲロウプロジェクト』の世界に触れてきたのと同じように、その能力によって物語の断片を記憶・蓄積していたのである。このように最終盤で「実は」同じ立場であったと明かされることにより、読者とシンタローの経験は、いわば遡及的に同期させられることになる。
 残る疑問は、なぜ彼がアニメ版においてのみその能力を発現することができたのか、という点である。シンタローは『メカクシティアクターズ』第8話「ロスタイムメモリー」でメカクシ団のアジトを訪れ、そこで引きこもりのきっかけとなった友人「アヤノ」の写った写真を見て驚愕する。実はアヤノと、メカクシ団のオリジナルメンバーである「キド」「カノ」「セト」とは、義理のきょうだいという関係だったのだ。アニメではこの事実を知ったことがきっかけで、シンタローが「能力」を取り戻したかのような描写が入る。ではなぜ、一枚の写真がトリガーとなるのか。
 シンタローがそれまで能力を発揮することができなかった理由、それは彼がアヤノのことを単に「自殺した」と思い込んでいたからではないかと考えられる。作中で描かれる彼の不安症的な性格からも、「明るく見えていたアヤノにも、実は隠していた悲壮な背景があったのかもしれない。友人である自分がその重荷を軽くしてやることもできたのではないか……」などと、ネガティブな考えをめぐらせていたのは想像に難くない。実際はこの世を儚んでの自殺などではなく、黒幕によって引き起こされた家族の悲劇を食い止めるための決死の行動、「アヤノの幸福理論」の歌詞を借りれば「ひとりぼっちの作戦」だったわけだが、その事実をシンタローが知ることはなかった*5。アヤノが幸せな家族に囲まれていたというその事実を、彼は一枚の写真によって初めて知ったのである*6。これにより「頼る家族もおらず、悲壮なものをひとり抱えて身を投げたのだ……」という思い込みの枷は外れ、「悲劇の物語」から自身を解放することができたのではないか。それは文字通り彼の「目」を見開かせ、様々な物語的可能性へのアクセスを可能にしたのである。

4. おわりに――なぜ『カゲロウプロジェクト』はファンを惹き付けたのか 

 ここまで「記憶の再構成」という観点から、「実は」読者と非常に近い役割を与えられていた主人公、シンタローの特異な立ち位置について見てきた。しかし、これはアニメ化までのメディアミックスが終了した現在だからこそ、「結果的に」言うことができることでもある。いくつかの雑誌でのインタビューにもある通り、じんは初めからアニメ化を見越して、全体の構造を組み立てていたわけではない*7。となるとアニメ化に至るまで人気を持続させた要因は、読者と主人公=シンタローの経験を同期させるプロセスとは別のところにあったと考える必要がある。ここでいま一度思い出すべきは、「実は」同じ立場であると明かされることにより、対象への共感性は一足飛びに高まるという事実だ。じんは『カゲロウプロジェクト』のキャラクターについて、「いろんなコンプレックスやハンデを抱えた少年少女が困難や理不尽に立ち向かう」というコンセプトをベースに「イヤでも人の注目を集めてしまう女の子やニートの男の子というように、〔…〕思想や意思の一部ずつを特化させて具現化した」ものであると語っているが*8、この「コンプレックスやハンデ」の詳細というのも、それまで単発で発表されていた楽曲がアルバムにまとめられた際に、初めて明かされたものである*9。「実は」という形で背景が明かされるのはすべてのキャラクターに共通しており、それらを束ねた最突端に位置する――つまり、一段階メタな次元での共感を担っている――のが、シンタローにまつわる物語だったといえるのである。
 こうした共感のプロセスは、キャラクター同士の関係性においても見受けられる。同じ「メデューサ」由来の能力を持つメカクシ団のメンバーは、出自も年齢もばらばらであり、出会ってから数日、数時間といったメンバーも少なくない。そんな彼らが仮にも「団」を名乗ることができるのは、お互いが「実は」同じような能力を持っていたために、周囲から浮いてしまったり、能力自体を持て余してしまうといった悩みや葛藤に、共感することができるためだといえる。
 先ほどのじんの発言をふまえれば、キャラクター同士が共感によって結びつく=メカクシ団が一同に会することで、キャラクターという単位に分割された「思想や意思」……つまり作品に込められたテーマ性も、その全体像を現すのだと言うことができる*10。しかしミュージックビデオ群において描かれるエピソードはどこまでも断片的で、メカクシ団のメンバーが一同に会する様子が明示的に描かれることはない*11。彼らがひとつの場所に集うことを可能にするのは、アルバムやアニメなどのパッケージングされた形態が世に出る以前は、ただ読者がキャラクターの「ありえたかもしれない」やりとりを思い描くことによってのみだったのである。読者はコンプレックスやハンデが明かされたキャラクターに共感を抱き、そのたわむれを想像することで、分割されたテーマ性の全体像を把握していく。「キャラクターへの共感」と「テーマ性の深化」……両者が複雑に絡まり合いながら展開していくこの構造こそが、『カゲロウプロジェクト』の人気を駆動したものだったといえるのではないだろうか。

*1:本稿中では、これらメディアミックスの総体を『カゲロウプロジェクト』という作品名として呼称する。また原作者であるじんはしばしばボーカロイドを「音程のある活字」と表現し、自作を「読む」ものとして捉えていることから、『カゲロウプロジェクト』の受け手・ユーザーに関して「読者」という表現で統一する。

*2:じん(自然の敵P)1万4千字ロングインタビュー・音楽を使って物語を伝えたい(2) | ガジェット通信 より。

*3:イシイジロウ氏ら第一線で活躍するクリエイターがアドベンチャーゲームを語り尽くす!――「弟切草」「かまいたちの夜」から始まった僕らのアドベンチャーゲーム開発史(前編) - 4Gamer.net より。

*4:波状言論刊の同人誌『美少女ゲームの臨界点』収録の東浩紀による『AIR』論、「「萌えの手前、不能性に止まること──『AIR』について」(後に『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』に再録)を参照。

*5:一連の出来事の詳細は小説『カゲロウデイズV -the deceiving-』および『メカクシティアクターズ』第11話にて描かれている。簡単に説明しておけば、アヤノの自己犠牲によって最悪の事態は食い止められたものの、黒幕の目的は「人の悲劇を愉しむ」ことそれ自体であったため、周囲の認識を欺くカノの能力を利用し、アヤノの自殺死体を偽装したということになる。はたしてその目論見通り、シンタローは絶望し引きこもるようになってしまった。

*6:アヤノの義理の妹・弟にあたるキドたちとは、ひさびさの外出先で出会ったのが初対面だった。シンタローはアヤノとそれなりに親しかったが、お互いの家族について踏み込んだ話をするほどの仲ではなかったと推測できる。

*7:メカクシティアクターズ』原作・脚本じん特別インタビュー「9人の1人ぼっちが集まった物語」(『PASH!』2014年5月号)など。1stアルバム『メカクシティデイズ』を発売した時点でアニメ化への願望はあったが、販売実績が出るまでは難しい、と一旦は退けられたとのこと。

*8:じん(自然の敵P)「チルドレンレコード」インタビュー (5/6) - 音楽ナタリー Power Push より。

*9:2ndアルバム『メカクシティレコーズ』の特典冊子では、たとえば自身の容姿を周囲に誤認させることのできるカノの能力が「幼少時に受けていた虐待の傷を隠したいと願った」ことに関連づけられるなど、個々の持つ「能力」の背景として各キャラクターのコンプレックスやハンデが明かされている。

*10:じんは「テーマソング」としての「チルドレンレコード」について以下のように語っている。「〔…〕僕がどんな思想や意思を持ってこの連作を発信しているのかを定義した曲になっていて。サビの頭で『少年少女 前を向け』と歌ってるとおり、もし大人や社会に理不尽な目に遭わされたなら現状を受け入れてはいけない。納得できないなら立ち向かえ!っていうメッセージを込めたつもりなんです」(『音楽ナタリー』での前掲インタビューより)

*11:「チルドレンレコード」や「サマータイムレコード」のミュージックビデオにはそのような様子が描かれているように見えるが、これらの楽曲はそれぞれプロジェクト全体の「オープニングテーマ」「エンディングテーマ」と位置づけられているため、イメージ映像としてキャラクターが総登場しているにすぎない。

「ray」は僕の歌だった――BUMP OF CHICKENの「紅白歌合戦」出演を経て、改めて思うこと

なんで考えもしなかったのだろう。BUMP OF CHICKENの「紅白歌合戦初出場」は、幕張で行われたロックフェス「COUNTDOWN JAPAN 15/16」会場からの中継だった。これが意味していたのは、紅白歌合戦に「初出場」したのは、実のところ「ロックフェス」というカルチャーそのものだったということだ。(このフェスが「ロキノン系」の語源ともなった雑誌「ロッキング・オン・ジャパン」を発行する株式会社ロッキング・オンによる開催であり、BUMP OF CHICKENが同誌の看板バンドであり続けていることも合わせ、「ロキノン系」という一種の精神的ストリームが、「お茶の間」に接続した事件だったと捉えても良いかもしれないが……それならそれでこの雑誌とともに10代を過ごした者の一人として、個人的には胸震わせる出来事である)

「ロックフェスのレジャー化は是か非か」という論争はここ数年の音楽ジャーナリズムにおけるメイントピックのひとつだったわけだが、それに決定的な終始符が打たれた感がある。論争の「非」の側面としてクローズアップされる「みんな」という最大公約数に向けた曲ばかりが作られる、という現象は確かにあるだろう。しかしそれは状況のせいにしても仕方なくて、そこに甘んじてしまった作り手の側の問題なのだ。そしてBUMPの音楽はやはり「ひとりひとり」に届けるものだったのである。テレビ画面を通して映る観客の表情、身振りがそれを物語っていた。一対一のダイレクトな関係において最も響く、それは本当に「強い」音楽だと思う。

テレビ、しかも紅白歌合戦という「みんな」が観るものという幻想(昔ほど強くないにしても、間違いなくあらゆる音楽コンテンツの中で最も)が働いているであろう番組に映し出されることで、ロックフェスで鳴らされている音楽――少なくともBUMP OF CHICKENの音楽――が、決して「みんな」という不特定多数に向けて鳴らされている音楽ではないということが証明されたのである。「紅白」で普段鳴らされる音楽とはまったく質が異なる音楽であることを(「紅白」サイドも)わかっているからこそ、観客の姿をふんだんに映し出したのだろうし、同じ「音楽」とはいえどその目指すところは全く違うということ、その違いを認め合い、互いにリスペクトを払うことができるようになったからこそ、今回の実現があったといえるのだ。「大衆(音楽)」というものに牙を立てることによってしか自らの純粋性を誇れない、「ロキノン系」という言葉に込められた揶揄的な意味での精神性が、ついに「敵」を想定せずとも、独立した強さを手に入れることができた瞬間でもあった。

その一方で、やはりBUMP OF CHICKENというバンドが「ロキノン系」という括りに還元することのできない特別なバンドであることを実感させてくれたステージでもあった。

「紅白」放送前に書いた記事にも書いた通り、今回演奏された「ray」という曲を僕自身BUMP OF CHICKEN「変節」のテーマ曲として受け止めていた。サウンドにしても、異業種クリエイターや初音ミクとコラボレートしたという楽曲の成り立ち方にしても……しかしこの楽曲が目指しているのは「一体感」ではなく、「ひとりひとりに届ける」という変わらない姿勢、その結果として「一体感が生まれている“ように見える”」のだ、ということに思いを致したとき、歌詞についても新たな相貌が覗いたのである。

君といた時は見えた 今は見えなくなった
透明な彗星をぼんやりと でもそれだけ探している
(「ray」)

このラインなど、初期の代表曲であり今なおライブのクライマックスで演奏される楽曲「天体観測」の、「見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ」「「イマ」というほうき星 君と二人追いかけていた」というラインを、直接的に継承しているように思えてくる。BUMP OF CHICKENは「見えないモノ」をまだ探し続けている途中で、その旅路に気づけば多くの人たちが付いてきていた、ということなのだ。もちろん僕もそのひとりである。これは「僕の歌」だ、今では素直にそう思える。「生きるのは最高だ」という言葉も、だから心の芯にすとんと落ちてくる。むしろずっとBUMPの音楽とともに歩んできた人にこそ響く楽曲だったのかもしれない。彼らを知らない人にはどう映ったのだろう。「紅白」という「みんな」という幻想に彩られた空間からほんの4,5分間のあいだ視聴者や観客を解き放ち、「ひとりひとり」に立ち戻らせるだけの説得力が、彼らの楽曲とパフォーマンスにはあったと思うのだけど。

大丈夫だ この痛みは 忘れたって消えやしない
(「ray」)

BUMPと僕たちの旅は、これからも続いていく。

BUMP OF CHICKENの「紅白歌合戦」出演に寄せる、ただの個人的な感慨

藤原基央は最初から人間だった。当たり前のことだ。そもそもBUMP OF CHICKENというバンドの一員なのだし、その他のスタッフの存在なくしてレコードは作れない。しかし彼の佇まいには、あくまで人間――「人」の「間」で生きるもの――であることを拒むような、他人を拒絶する身振りが秘められていたように思う。それは「手拍子とか合唱とかいらないですから」と言い放ったというライブハウス時代のMCにも表れているし、何よりも彼の作る楽曲にそうした「閉じているがゆえに汚れなく美しい」世界観が封じ込められていたように思う。彼の楽曲(と彼自身)にはそうした孤高さ、使い古された言い方を用いればカリスマ性が宿っていた。

 
BUMPのメンバーは「曲が求めたからこういうアレンジにした」という発言をよくする。彼らに言わせれば近年のシンセサイザーを大胆に導入したサウンドもボーカロイド初音ミクとコラボレーションしたのも、「曲が求めた」ということなのだろう。その点に関しては一貫している。また宇宙や星、光をモチーフにした歌詞世界の美しさもいまだ健在である。時制を縦横無尽に行き来するそのストーリーテリングについて言えば、以前よりもさらに深みを増しているほどだ。
 
しかし……何かが違う。それは彼らの音楽が、文字通り「みんな」のものになったということと無縁ではないだろう。メディアへの露出を増やし、デジタルアーティストや映画監督、漫画家など異分野のクリエイターとのコラボレーションを積極的に行う彼らの表情には、もはやかつてのような「他者を拒絶することでしか自分たちの音楽の純粋性は守れない」といったような切迫感は感じられない。聞けば近年の彼らのライブは楽曲に合わせて光るリストバンドが配られるなど、より「参加型」の様相を強めているようだ(もっともこうした「ライブのテーマパーク化」は、アリーナクラスの集客が可能なすべてのバンドに共通の傾向でもある)。それは彼らの音楽がより「開かれた」ものになったと取ることができるだろうが、一方で「拒絶されているからこそ踏み込んで手を差し伸べたくなる」あの繊細さ、各人の孤独に響きあう深い悲しみ……そうしたものが失われてしまったということでもある。
 
彼らは明日「紅白歌合戦」に出演する。より多くの、彼らの名前も音楽も知らない人たちが彼らの音楽に触れることになるだろう。きっと最新のテクノロジーを駆使した、まばゆいばかりのステージを繰り広げてくれることだろう(歌唱するのは現在の「開かれた」彼らを象徴する一曲、初音ミクとコラボしたあの「ray」だ)。しかし……それは僕が初めて彼らの音楽に触れたとき感じた、「すごく近いようでいてものすごく遠くにいる」感覚とは、かけ離れたものになっているんじゃないかと思う。ステージライトも彼ら自身の楽しげな表情も……彼らの音楽の核を表したものではない。そう思ってしまうだろうことがありありと想像できる。
 
「見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ」(「天体観測」)
 
変化すること自体はよくも悪くもない。ただ、これは中学に上がると同時にドロップされた「天体観測」に撃ち抜かれ、「見えないものを見ようと」し続けてきた27歳の……ただの個人的な感慨である。
 
僕はあのときの衝撃を胸に、「見えないもの」を見ようとし続けるだろう。