「観客の再発明」を超えて――「ポスト観客」時代の映画と「物語」(改訂版)

※本稿は「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾」第3期の渡邉大輔さんゲスト回にて提出した評論文を改稿したものです。

 

邦画の興行収入歴代2位という記録を塗り替えた『君の名は。』を筆頭に、「アニメ映画の当たり年」と言われた2016年。それら「当たり年」の諸作品は、映画における「観客」という制度に忠実であったからこそ、多くの動員を記録したのではないか。

それらは一様に「名無し」の存在論についての物語だった。

「名無し」とは「観客」のメタファーである。映画館での映像鑑賞において、暗がりに身を潜め、能動性を奪われた存在に私たちは「なる」。眼前で展開する光景、そこにはいない存在、視点と同一化することを迫られる。そうした世界に対して無力な、何もできない存在を慰撫するような物語が展開されたのが昨年のアニメ映画群だった。

そこでは言わば「観客の再発明」が行われていたのである。

 

2016年「観客の再発明」

この世界の片隅に』は第二次世界大戦という史実に基づいた作品だが、現実の戦争というものは、誰か特定の英雄的=固有名的な人物の活躍によってハッピーエンドがもたらされるようなものではない。そもそもタイトルからして、「片隅の、忘れられた」人々の生を描き出そうとしていることは明白である。また『君の名は。』では、主要人物である高校生カップルが、クライマックス付近でお互いの名前を「忘れてしまう」。一度思い出してから、今度こそ忘れないようにと手のひらに書き残した文字が、結局名前ではなく「すきだ」の三文字だったという徹底ぶりは、名前というものに対して何か恨みでもあるのかとすら思わせる。

アニメーション研究者の土居伸彰は「『私 VS 世界』の終わり」「『私』から『私たち』へ」といった言葉で『君の名は。』と『この世界の片隅に』の間に線を引いた。その著書『21世紀のアニメーションがわかる本』では、『君の名は。』のような作品においては主人公の視点で世界は変容していく、そこには「私」が「世界」に対峙するという構造はなく、観客は特定の「私」ではなく「私たち」という匿名性に同一化するという議論がなされているのだが、筆者には『この世界の片隅に』も、(少なくとも「『私』から『私たち』へ」ということに関しては)『君の名は。』と同様であるように思われる。

土居の主張は「主人公」の機能性の変化とも言い換えられる。「主人公」という装置はそこに憑依することで、本来「名無し」であるはずの観客が仮初の居場所を画面の中に獲得するようなものとして一般に想定されている。
しかし「主人公」とは「観客」の憑依先、器としてそれほど自明なものなのだろうか。土居は「すず」の視点で徹頭徹尾描かれているから、『この世界の片隅に』は「私」の映画なのだと言うわけだが、「すず」に自分を憑依させられない人だっているはずだし、そもそも「すず」は「絵を描く」人物として世界をそれこそ変容させるような力を持っている。「すず」が描いた絵と現実の風景の境界が消失するようなシークエンスはたびたび登場するわけだが、この時点で『この世界の片隅に』における「私(すず)」と「世界」は対立するものではなく、むしろイコールな関係である。作品世界に生きる「すず」にとって彼女の生きる世界は、私たちがこの目で目撃した通り、絵筆によって世界を描き換えることのできる(できた)世界なのである。
しかし「すず」は絵筆をとる右手を失うことで、想像力によって世界を上書きすることを止め、唯一的な「この世界」の「片隅」で生きていくことを選択してしまう。無自覚であれ「世界」への介入性を発揮していた「すず」は、右手を失って「世界」に対する無力で匿名的な「観客=私たち」に成り下がる。それが『この世界の片隅に』というタイトルが指し示すものの正体である。

そして『君の名は。』においては「主人公」がそもそも存在しない。彗星落下による人命の喪失といった作中の出来事は、超常的な力を介してすべて「なかったこと」にされてしまう。土居の著書でも指摘されているように確かに「世界」は変容しているのだが、最終的に「主人公」どころか、記名性を帯びた人間自体が消滅していると言っていい。憑依すべき記名的人物が存在しないわけだから、我々は「観客」のままである。こう言い換えてもいいかもしれない。「主人公」のように偽装されていた立花瀧(あるいは宮水三葉)がお互いの名前を忘れ、作中で起きた数々の出来事も「なかったこと」になってしまうラストシーンにおいて、我々は自らが「観客」であったことを発見する。受け手の処理が追い付かないほどの高速カット割り、ロックバンドが作曲したBGMがかき立てるエモーショナルな展開も、あなたたちは世界(この『君の名は。』という映画)に対する無力な「観客」でしかないということを暗黙裡に突き付けるものだった。『君の名は。』というタイトルには読点が打たれ、その先を問うことはない。画面の中と外、双方にただただ「名無し」の存在者=観客だけが後に残されるという作品が『君の名は。』なのである。

 

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「すず」は右手を失って「観客」になる。

 

土居が提示した二つのテーゼのうち、映画館という制度と照らしたときより重要なのは「『私 VS 世界』の終わり」のほうである。スマートフォンやそこに搭載された種々のアプリケーションによって、画面に映る現実をカジュアルに改変できるという感覚が支配的な現在、「私」は「世界」に対してむしろ能動的な働きかけができるようになっていると思われるからだ。「『私 VS 世界』の終わり」とは、あくまで映画館という枠組みの中でこそ機能するテーゼなのではないだろうか。映画館という空間にまつわる諸々の制度――暗がり、「上映中はお静かに」というルール、電子機器の使用不可などなど――が、スクリーンの中という「もうひとつの世界」に没入させるための仕掛けだったことを考えれば、この対比を「AR(拡張現実)」と「VR(仮想現実)」のアナロジーで捉えることも可能だろう。目に映る「世界」を手のひらの上でいくらでも改変できる、という感覚に基づいた「観る」主体のことを、ここでは仮に「ポスト観客」と名付けたい。

「観客」から「ポスト観客」へ、というのは、それ自体が物語的でもある。しかしスマートデバイスはあまりに爆発的に日常に普及してしまったため、当の「ポスト観客」たちもそれが自らにもたらした変化=物語に気づいていない。とすれば、渡邉大輔が「映像圏」と呼ぶこのような状況を物語として織り込んだ映画をして、「ポスト観客」に発見されることを待っている映画だと言えるのではないだろうか。

「アニメ映画当たり年」の翌年である今年、2017年に公開されたある作品に、そのひとつの端緒を見てみたい。

 

2017年「名無し」の反逆――「ポスト観客」時代の映画と「物語」

劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-』(以下『劇場版SAO』)は、VR技術が現在よりも少し発達した近未来を舞台にしたTVアニメ『ソードアート・オンライン』シリーズ(2012年~)の映画化作品だ。TVシリーズで描かれたのはVRMMO(仮想現実大規模多人数オンライン)ゲーム世界における主人公の活躍であったが、劇場版では小型のデバイスが開発されたことでAR技術がより生活に溶け込む形で浸透してきており、ゲームの世界でもVRMMOゲームを脅かす勢いで「オーディナル・スケール」なる「AR」MMOゲームが台頭してきているという設定である。

しかしそうしたテクノロジーへの目配せ以上に重要なのは、「『名無し』の反逆」というテーマが集中的に描かれていることである。TVシリーズではマッドサイエンティスト的な開発者の手によって「ログアウト不可能・ゲーム中での死が現実世界の死にも直結する」という「デスゲーム」に変貌した「ソードアート・オンライン」(作中ゲームの名前でもある。以下「SAO」)が、主人公・キリトの英雄的な活躍によって攻略されるまでの顛末が描かれたわけだが、その過程では数千人単位での犠牲者が出たし、英雄的に扱われたのはキリト以下ごくわずかの人間だけだった。『劇場版SAO』で暗躍するのはそんな有象無象の「名無し」のプレイヤーのひとり、エイジである。エイジは「SAO事件」で命を落とした幼馴染の少女・ユナを人工知能として復活させるため、「オーディナル・スケール」の開発者でもあるユナの父親と結託して、「SAO事件」の生き残りたち――とりわけ「攻略組」と呼ばれる有名プレイヤーたち――を、「オーディナル・スケール」内で狩っていくのだ(「VR=キリト」対「AR=エイジ」という構図も、「観客」から「ポスト観客」へという構図と重なっており象徴的である)。

『SAO』は2010年代をティーンエイジャーとして過ごした世代にとって象徴的なコンテンツのひとつである。作者の川原礫が自前のサイトで連載していたものが元になっているという今作は「小説家になろう」などのプラットフォームに端を発するWeb小説ブームの先駆けとも言われ、また現実では非力な主人公がVR世界で他を圧倒する強さで活躍するという設定から、同プラットフォームにおける定番ジャンル「異世界転生」*1「俺TUEEE」*2の雛形と目されることも多い。なぜこうした作品が2010年代のティーンエイジャーに求められたかという社会学的な分析はここでは控えるが、単純に「ここではない、どこか」でなら「現実で上手くいかない自分」でも「大活躍(無双)できる」という読者の爽快感をインスタントに叶えることができるということは言えるだろう。

私は当初AR空間が劇場規模のアニメ映画でどのように描かれるのかという興味から今作に足を運んだのだが、そこで思いがけずエイジという『SAO』本編には登場しなかった(というよりは、「名無し」のプレイヤーであったために描かれなかった)人物がキリトら主要人物を圧倒していく様に驚くことになったのである。しかもエイジの行動原理というのは、彼やその思慕するユナら「名無し」のプレイヤーたちも確かに存在していたんだという悲痛な叫びなのだ。これは完全に『SAO』ブームに乗れなかった、脇で見ているしかなかった私たちの写し絵である。
映画館という不特定多数の人間が集まる場所であるがゆえに、2010年代をティーンエイジャーとして過ごしたであろう『SAO』世代の生の声に触れることができたのも大きかった。上映前の喧騒に耳を澄ますと、彼らは素朴に主人公・キリトの活躍を楽しみにしているようなのである。キリトが作中で「強すぎる」のはもはや一種の「お約束」で、それをSNS上でツッコミつつ楽しむ、というのが定番となっている。しかしそのような「お約束」に従っている限り、 いくらスマートフォンに精通していたとしても、「観客」から「ポスト観客」へと脱皮することはできないのだ。Instagramをはじめ、写真を加工するアプリケーションも多くの場合「シェア」する機能と一体になっている。改変された「世界」が共有され「みんな」のものになっていく。これはまさしく土居が指摘した「『私』から『私たち』へ」のテーゼに対応するものだ。
しかしエイジの存在は「名無し」のSNSユーザーとして『SAO』という物語にメタな立ち位置から突っ込みを入れることを許さない。我々は名前のある存在、世界と一対一で向かい合う「個」なのであると、彼は叫ぶ。最終的にはエイジは倒されてしまうので、期待通り「キリトさんTUEEE」な充足感を得て帰っていくことができたファンも多いだろう。しかし上映中はテレビアニメのように「実況」することはできないわけだから、誰もが強制的にエイジの物語に付き合わされることになる。それは安全な「観客」として今作を観に来ていた従来のファンに、少なくない揺さぶりをもたらしたはずである。このような物語が受け手の質を選ばない劇場という空間で上映されたことは、「観客」と「ポスト観客」との境界を揺さぶる極めて批評的な営為であったといえるだろう。

 

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エイジは無名の「観客」から名乗りを上げ、「世界」に反逆する。

 

むろん、すべてのアニメ映画がテレビシリーズを前提とすべきであるとか、SNS上での評価を先取りして組み込むことが「ポスト観客」時代の優れた映画の条件であるということが本稿の主旨ではない。ここで主張したいのは、映画館の中で身動きの自由を奪われた「観客」になるということは、「ポスト観客」にとってプラスの体験ではなくマイナスの体験だということである。4DXなど視覚以外の感覚をプラスすることでマイナスをゼロにしようとする動きもあるが、それはもはや映画ではなく別のアトラクションであろう。視覚芸術としての映画という枠組みを拡張せずに「ポスト観客」の視線に耐えうる作品を生み出すためには、「観る」という体験が根本的に変容したことを自覚した上で、それに相応しい「物語」や「キャラクター」を再発明することが必要なのである。それは「世界」に対峙する「私」の復権という形で、上掲の図でいえば、左向きのベクトルで表されるだろう。『劇場版SAO』は紛れもなくそのひとつの達成であったのである。

*1:小説家になろう」には「異世界転生」の外延を定めたガイドラインが存在する。
https://syosetu.com/site/isekaikeyword/

*2:「日本語表現辞典 Weblio辞書」の当該項目など参照のこと。
https://www.weblio.jp/content/%e4%bf%batueee/

「Long Long Love Song」

熊木杏里さんのライブ「An’s meeting ~Long Long Love Song~」に行ってきた。7月に麻枝准×熊木杏里の名義で発売されたアルバム『Long Long Love Song』の再現ライブ。セットリストはアルバムの曲順通り。当たり前のように素晴らしく、ライブで音源の印象から大きく変わった曲も多かった(「Rain Dance」〜「約束の唄」の畳み掛け感!)。BPMの速い曲はドラムの手数もさることながらベースが動きまくっていて、「だーまえ曲はミュージシャン殺しだなあ」などという感想も改めて。

『Long Long Love Song』はビジュアルとの相乗効果を狙ったアルバムなので(MVがある曲は実際に映し出されてもいた)、基本的には歌詞のストーリーを思い浮かべながら聴いていたのだが、その法則が崩れたのが「汐のための子守唄」。当然『CLANNAD ~AFTER STORY~』の場面を思い出そうとするのだが……そういや『CLANNAD』観たのって10年前か、まだ10年って感じもする、そもそも『CLANNAD』で麻枝准って名前を知ったんだった、その前に18年生きてたってことなんだよな(そっちのほうが長いじゃん!)、なんで人生の3分の1しか一緒にいない作品や作者のことをこんな大事なもんだと思ってるんだっけ、それまでの18年の間に何もなかったってことはないだろう、あんなことやこんなこと……そんな風に時間を遡っていたら歌が終わっていた。そうしたら「ここ(麻枝准の曲を演奏するライブ)に立っている」という事実だけが残っていた。

その後の2曲、「Supernova」と「Love Songの作り方」で『Long Long Love Song』というひとつの物語が大団円を迎え、そこにはちゃんと気持ちをシンクロできたのだが、一方で先ほど28年分の人生を一気に旅した中で生じた、解の出ないもどかしさのようなものは残っていた。そしてアンコールが始まる。結局この曲を聴きにきたのだと言っても過言ではないこの曲が――。

 

「君の文字」

 

いわずと知れた『Charlotte』の最終ED曲であり麻枝准×熊木杏里コラボの始まりの曲。僕はこの『Charlotte』という作品にとても固執している。それは僕もコアメンバーとして制作に携わった同人誌『Life is like a Melody―麻枝准トリビュート』がこの作品の放送をきっかけとして編まれた本であるということもあるが、その物語的な内容というのが個人的にどうしても引っかかっていたのだ。

 

結論からいうと、今日「君の文字」をライブで聴いたことでなぜ自分が『Charlotte』という作品に固執していたのか、完全に理解した。

 

Charlotte』という作品について考えるとき、やはり12話〜13話(最終話)の流れが思い返される。根拠の薄い「約束」によってかろうじて繋ぎ止められる関係、過酷を生きた者たちはすべての業を精算し手を取り合ったかのように見えるが、失われたものは決して戻らず、その「連帯」の風景にもどこか後ろ暗さが漂っている――それでも宣言される「楽しいことだらけの人生にしていきましょう」、その言葉の曇りのなさ。

他人と他人は理解しえない、みんなが孤独でいるんだ――というのは、僕にとって最も思い入れの深い(初めてまっさらな状態で原作をプレイしたゲームでもある)『リトルバスターズ!』でも扱われていたテーマであったが、『リトバス』が「みんな」という幻想の裏側としてそのテーマを走らせていたのに対し、『Charlotte』は恋人という絶対的二者関係を着地点としている点で感触が異なる。「みんな」が幻想であることも、「誰もが究極的には孤独なのだ」ということも、言ってしまえば当たり前の話であるために表裏一体の関係を築くことができるのだが、恋人関係というのはそもそもが「他人同士は理解し合える」という嘘を前提に始まるものだから、(少なくともその関係が始まる時点では)「誰もが究極的には孤独だよね」ということは言いづらい。『Charlotte』でいう「約束」というのは、「誰もが孤独」ということが当たり前に登場人物たちに共有されている世界で無理やりに恋人関係というものをでっち上げるための方弁であり、「約束」の主体である乙坂と友利は、運命とか絶対的な理解者としての他者というのをまったく信じていなさそうなのだ。いわば彼らの意思よりも上位に「約束」という概念があり、それをさせようとしている大いなる力(物語の都合や作者の意思などとは、あえて言わない)が存在しているのではないかと。

だけどそれを『Charlotte』という作品の不備だとはどうしても考えられなかった。その理由は他ならぬ、僕と麻枝准――正確には、「麻枝准」という名前――の関係がそういう「でっち上げの運命=約束」によって結ばれていた二者関係だったからだ。

 

確かにアニメ版『CLANNAD』に受けた衝撃は相当なものだ。しかしいま考えればそれはアニメを制作した京都アニメーションのすごさでもあっただろうし、原作BGMをアレンジ版まで含めて効果的に運用した音響スタッフの技によるところも大きかったように思う。それでも「曲とストーリー、双方に作者として関わっている人物」として「麻枝准」という名前は運命的なものとして僕の胸に刻まれた。その名前自体が神格化されてしまったのである。インタビューを読んだり肉声を聴いたりしようという気も、どうしてかまったく起こらなかった。

僕は『麻枝准トリビュート』制作の過程で初めて麻枝准の人となりというのに向き合うことになった。「殺伐RADIO」の存在も、正直その時点で初めて知ったのである。他のメンバーにとっては麻枝さんのパーソナリティも作家性も自明とした上で、『Charlotte』という作品をどう評価するかというスタンスであったように思うのだが、僕にとっては『Charlotte』という作品を追いかけるのと麻枝准というひとりの人間を知る過程というのが、完全にイコールだったのである。

……で、結局「麻枝准というひとりの人間」は、他の多くの他人と同じように、理解することはできなかった。むしろ理解できなかったことによって、彼もひとりの人間だと気付かされたというべきか。

神というのは「自分だけがすべてを理解している」と思える存在であり、だからこそ(対象としては)この世に存在しない。

「まちがいはないか かみにといかける」
(「Bravely You」)

この「かみ」は「紙」なのだと麻枝准は明かすが、なるほど「不在の対象」である神に「問いかける」ことなどできようはずがないのである。

 

Charlotte』というのは上述の「Bravely You」の歌詞にも表れている通り、神=運命を否定し紙=他者に至る物語である。しかし「紙」そのものと「紙に書かれた文字」は分けて考える必要がある。たとえすべての記憶が失われ、「約束」が失われようとも、そのように「約束」したという痕跡……文字だけは残る。それは記憶を失ったその人にとって、神にも等しい導き手となるだろう。「文字を書いた人(君)」は他者であって神ではないが、「君の文字」は確かに神たりうるのである。僕は『麻枝准トリビュート』の制作を通じて麻枝准という「神」を殺した。結局そんな神はいなかった、いたのはひとりのクリエイター、人間だったのだ。しかし「麻枝准」という名前=文字に出会った、そこから歩んだ10年間という痕跡は嘘じゃない。僕にとって「麻枝准」という名前=文字が大切なことは、この先ずっと変わらない――「君の文字」というのはそういうことを歌っていたのだ。

これは今夜「君の文字」が歌われる前に、「汐のための子守唄」――アニメ版『CLANNAD』の放送を観て感銘を受けた麻枝准自身が、急遽BGMをボーカル化したという――が歌われなければ、絶対に気付けなかったことだ。「汐のための子守唄」は当初10年以上前の作品がモチーフの曲ということで、アルバムに収録される予定ではなかったのだが、熊木杏里さんの歌声が想像以上に映えたため、収録されることになったのだという。そう考えると『Charlotte』にて熊木杏里さんとのコラボが実現したことに始まり、『Long Long Love Song』というアルバムが完成した(ご承知の通り、本作は麻枝さんの過酷な闘病生活の果てに生まれたアルバムである)こと、それがライブで曲順通りに披露され、「君の文字」で締め括られたということ……あの場所ですべてが必然性をもってつながったような気がする。この円環を作り出したのが熊木杏里さんの唯一無二の「声」だったということは、改めて特筆すべきだろう。物語上では運命=神を否定しても、声や音楽には神秘があると信じたい……信じざるをえないからこそ、麻枝さんも何よりも音楽というものを核として、創作活動を続けているのかもしれない。

 

ひとつ確実に言えることがある。
それは熊木杏里さんはとても素晴らしいシンガーであり、今夜はとても素晴らしいライブだったということだ。
熊木さんがその場にはいない麻枝さんへの手紙を読み上げるという一幕(「君の文字」を歌う直前!)には、とても心を動かされるものがあったということも最後に記しておきたいと思う。

 

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アニメ『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』感想

『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』(以下『終末~』)というアニメは大層エモーショナルだったのだけど、じゃあなんでこの作品が僕の心にビシバシ刺さったのかを考えるにつけ、「原作ものの良いアニメ化とはどういうものか?」ということに思いが至る。この作品の原作小説は全5巻ですでに完結しており(タイトルを改め、主要キャラクターが世代交代した第二部が現在も刊行中)、今回のアニメ化はその3巻までの内容をアニメ化した形になる。これは原作がまったく完結していない状況でその「販促」的になされることの多いライトノベルのアニメ化においては比較的珍しいケースであり、完結しているにも関わらずその途中までしかアニメ化しないという決断をしたとなると、その数はさらに少なくなるだろう。

 

 

『終末~』のアニメには原作者の枯野瑛がシリーズ構成としてクレジットされている(第1話と最終2話の脚本を実際に執筆してもいる)。つまり「原作3巻までの内容をアニメ化する」という形をとったのは原作者の意向でもあるのだ。なぜそのようなことが可能になったか。それにはこの小説がそもそも「いつでも終われるように」書かれていたという事情が関係している。ライトノベルというのは初動の売り上げが芳しくなければ容赦なく打ち切りが決まると言われる厳しい世界だ。原作本のあとがきを見るかぎり2巻までは当初から刊行のめどが立っていたようなのだが、その先の刊行は厳しいものとされていたようだ*1。しかし紙の書籍から遅れること数ヶ月して電子書籍の配信が始まり、口コミを中心に火がつきランキングを席巻、続刊の計画が復活したというのである(これは出版界、ライトノベル界においても極めて珍しい事態だったとのことで、自分もその文脈で一度このタイトルを目にした記憶がある)。つまり3巻以降の物語というのは「本来なかったはずのエピローグ」なのであり、しかし元々枯野はそのようにしてこの物語を書き継いでいくつもりだったことも明かしている。そもそも『終末〜』はその名の通り「終末」を迎えた世界の話なのだ。なぜその世界は終末を迎えてしまったのか、そこに至るまでにどんなドラマがあったのか、といったことはすでに「終わってしまった」物語として、その物語の登場人物であったはずの主人公の肩に背負わされている。読者は断片的に差し挟まれる過去パートと、どこか達観した雰囲気を漂わせる主人公の言動や行動から、何が起きたのかを推し量ることしかできない。 

 

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物語に自分の居場所がない感覚、というのはある種とても心地よい。僕たち読者は(当たり前だが)物語の登場人物ではないのだから、無理に感情移入などという所作を行わずともよい「読者」という俯瞰的な立ち位置を作品の側が用意していてくれるのであれば、そのほうが気楽に物語に向き合うことができるに決まっている。何か過去にあったらしいが、その詳細はわからない。わからないからこそ、いま現在進行中の物語に入り込むことができる。『終末〜』の主人公ヴィレムも、そのような「読者」的な立ち位置の存在として当初登場する。かつて、彼は世界を救う勇者ご一行のパーティメンバーだった。最終決戦で石化の呪いを受け、500年ののち蘇生したときには仲間はおろか人間という種自体が滅びていた。目覚めたあとの世界は獣人やゴブリンといったファンタジーそのものの存在が独自の社会を形成しており、人間というのは伝承の中にしか存在しない、幻の種族とされている。ヴィレムはそんな「現在」の世界の住人を見て、まるでファンタジーの世界のようだと内心でつぶやいたりもするのである(このあたりのメタな仕掛けはアニメ化においては省略されている部分だ)。そんな彼が「いま」を賭けるに足る存在、かつて人間の勇者のみが振るうことを許された伝説の武器、聖剣を振るって未知の外敵と戦う人造生命、妖精兵の少女たちと出会うところから物語は動き出す。妖精兵の少女たちは初めから「兵器」として生み出された存在。あらかじめ終わりを宿命づけられ、その命を散らしていくことに恐れを覚えこそすれ、そういうものであると受け入れてもいる。終わってしまった物語の生き残り、老人の余生のような生き方をしていた青年は、終わってしまうからこそ「いま」を輝く少女たちに、自分にも与えられるものがあるはずだと息を吹き返すのだ。世界は終わろうとしている。物語は終わってしまった。そして目の前の少女たちは、遠からずその生命を終わらせようとしている……「終わりがあるからこそ、いまが輝く」というこの逆説、いや真理が、先述したような事情――常に打ち切りの可能性があったことで、作者と読者の間に「いつ来るか知れないが、確実にやってくる物語の終わり」が共有されていたということ――にも重なってくるのはなんとも心憎い。

 

と、ここまで書いてなぜ原作3巻までをひと区切りとしてアニメ化されたかの話をしていなかったことに気づいた。そこには1クール12話という尺に適していたということ以上に、3巻までの内容が「妖精兵クトリの物語」として完結したものであったからという理由があるだろう。主人公ヴィレムがかつて戦っていた世界の敵、その戦いの顛末、なぜ世界は終末を迎えたのか――といった舞台設定の謎が解き明かされる展開は、原作4,5巻に待っている。3巻で迎える結末は、主人公ヴィレムの頭上に少女=クトリが落下してくるという、いわゆるテンプレのパロディから始まった二人の物語の行き着く先であり、表面だけ見ればクトリが思い出も未来もすべて投げ捨てて最後の戦いに身を投じるという、凄絶な悲恋の結末として目に映る。しかし本当にそれは悲しいだけの結末であっただろうか? クトリは最後の局面でこのように語る。「……だから私は、誰が何と言おうと、世界一幸せな女の子だ」。これは(最終話と同じく)原作者が脚本を執筆した第1話のアバンタイトルにつながる演出になっており、「クトリは幸せな女の子であった」、ひいては「幸せとは何なのか」ということがこの全12話のアニメを通じて問いかけたかったテーマだったということがわかる。物語を外部から観測している僕たち視聴者(小説の場合は読者)は、その他多くの物語を通じてハッピーエンドかくあるべしという「型」を刷り込まれており、その通りにいかなかった場合は不幸な結末であったと簡単に考えがちである。しかし誰かが幸せであったかどうかというのは、その当人にしかわからないのだ。その「誰か」が架空のキャラクターであっても同様である。アニメというのは小説よりも強く僕たちは客観視点に置かれるし、実際目の前で起こっている場面と必ずしも一致しない内心の声(モノローグ)が、オーバーラップして聴こえるということがある。事実、先のクトリの言葉というのも、「前世の侵食」なる現象を受けて記憶も失われ、剣を振るって凄絶な戦いを演じているにもかかわらず、紛れもなく「クトリ」の声で、淡々と、しかしどこか満足げなトーンで響いてくるのだ。僕たちはクトリではない。だからこそ、自分たちには理解できない「幸せ」の形を、彼女の言葉を通して考えることができる。これは間違いなくアニメというメディアだからこそ可能になった「クトリの物語」の新たな姿だった。物語に描かれたテーマもさることながら、これが「アニメ」で描かれなければならなかったという、その必然性を示してくれたことにも同じくらいの感動を覚えたのである。

 

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*1:このあたりの事情は原作者がゲスト出演したネットラジオでも聴くことができる。アーカイブは以下のリンクから。