アニメ『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』感想
『終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』(以下『終末~』)というアニメは大層エモーショナルだったのだけど、じゃあなんでこの作品が僕の心にビシバシ刺さったのかを考えるにつけ、「原作ものの良いアニメ化とはどういうものか?」ということに思いが至る。この作品の原作小説は全5巻ですでに完結しており(タイトルを改め、主要キャラクターが世代交代した第二部が現在も刊行中)、今回のアニメ化はその3巻までの内容をアニメ化した形になる。これは原作がまったく完結していない状況でその「販促」的になされることの多いライトノベルのアニメ化においては比較的珍しいケースであり、完結しているにも関わらずその途中までしかアニメ化しないという決断をしたとなると、その数はさらに少なくなるだろう。
『終末~』のアニメには原作者の枯野瑛がシリーズ構成としてクレジットされている(第1話と最終2話の脚本を実際に執筆してもいる)。つまり「原作3巻までの内容をアニメ化する」という形をとったのは原作者の意向でもあるのだ。なぜそのようなことが可能になったか。それにはこの小説がそもそも「いつでも終われるように」書かれていたという事情が関係している。ライトノベルというのは初動の売り上げが芳しくなければ容赦なく打ち切りが決まると言われる厳しい世界だ。原作本のあとがきを見るかぎり2巻までは当初から刊行のめどが立っていたようなのだが、その先の刊行は厳しいものとされていたようだ*1。しかし紙の書籍から遅れること数ヶ月して電子書籍の配信が始まり、口コミを中心に火がつきランキングを席巻、続刊の計画が復活したというのである(これは出版界、ライトノベル界においても極めて珍しい事態だったとのことで、自分もその文脈で一度このタイトルを目にした記憶がある)。つまり3巻以降の物語というのは「本来なかったはずのエピローグ」なのであり、しかし元々枯野はそのようにしてこの物語を書き継いでいくつもりだったことも明かしている。そもそも『終末〜』はその名の通り「終末」を迎えた世界の話なのだ。なぜその世界は終末を迎えてしまったのか、そこに至るまでにどんなドラマがあったのか、といったことはすでに「終わってしまった」物語として、その物語の登場人物であったはずの主人公の肩に背負わされている。読者は断片的に差し挟まれる過去パートと、どこか達観した雰囲気を漂わせる主人公の言動や行動から、何が起きたのかを推し量ることしかできない。
物語に自分の居場所がない感覚、というのはある種とても心地よい。僕たち読者は(当たり前だが)物語の登場人物ではないのだから、無理に感情移入などという所作を行わずともよい「読者」という俯瞰的な立ち位置を作品の側が用意していてくれるのであれば、そのほうが気楽に物語に向き合うことができるに決まっている。何か過去にあったらしいが、その詳細はわからない。わからないからこそ、いま現在進行中の物語に入り込むことができる。『終末〜』の主人公ヴィレムも、そのような「読者」的な立ち位置の存在として当初登場する。かつて、彼は世界を救う勇者ご一行のパーティメンバーだった。最終決戦で石化の呪いを受け、500年ののち蘇生したときには仲間はおろか人間という種自体が滅びていた。目覚めたあとの世界は獣人やゴブリンといったファンタジーそのものの存在が独自の社会を形成しており、人間というのは伝承の中にしか存在しない、幻の種族とされている。ヴィレムはそんな「現在」の世界の住人を見て、まるでファンタジーの世界のようだと内心でつぶやいたりもするのである(このあたりのメタな仕掛けはアニメ化においては省略されている部分だ)。そんな彼が「いま」を賭けるに足る存在、かつて人間の勇者のみが振るうことを許された伝説の武器、聖剣を振るって未知の外敵と戦う人造生命、妖精兵の少女たちと出会うところから物語は動き出す。妖精兵の少女たちは初めから「兵器」として生み出された存在。あらかじめ終わりを宿命づけられ、その命を散らしていくことに恐れを覚えこそすれ、そういうものであると受け入れてもいる。終わってしまった物語の生き残り、老人の余生のような生き方をしていた青年は、終わってしまうからこそ「いま」を輝く少女たちに、自分にも与えられるものがあるはずだと息を吹き返すのだ。世界は終わろうとしている。物語は終わってしまった。そして目の前の少女たちは、遠からずその生命を終わらせようとしている……「終わりがあるからこそ、いまが輝く」というこの逆説、いや真理が、先述したような事情――常に打ち切りの可能性があったことで、作者と読者の間に「いつ来るか知れないが、確実にやってくる物語の終わり」が共有されていたということ――にも重なってくるのはなんとも心憎い。
と、ここまで書いてなぜ原作3巻までをひと区切りとしてアニメ化されたかの話をしていなかったことに気づいた。そこには1クール12話という尺に適していたということ以上に、3巻までの内容が「妖精兵クトリの物語」として完結したものであったからという理由があるだろう。主人公ヴィレムがかつて戦っていた世界の敵、その戦いの顛末、なぜ世界は終末を迎えたのか――といった舞台設定の謎が解き明かされる展開は、原作4,5巻に待っている。3巻で迎える結末は、主人公ヴィレムの頭上に少女=クトリが落下してくるという、いわゆるテンプレのパロディから始まった二人の物語の行き着く先であり、表面だけ見ればクトリが思い出も未来もすべて投げ捨てて最後の戦いに身を投じるという、凄絶な悲恋の結末として目に映る。しかし本当にそれは悲しいだけの結末であっただろうか? クトリは最後の局面でこのように語る。「……だから私は、誰が何と言おうと、世界一幸せな女の子だ」。これは(最終話と同じく)原作者が脚本を執筆した第1話のアバンタイトルにつながる演出になっており、「クトリは幸せな女の子であった」、ひいては「幸せとは何なのか」ということがこの全12話のアニメを通じて問いかけたかったテーマだったということがわかる。物語を外部から観測している僕たち視聴者(小説の場合は読者)は、その他多くの物語を通じてハッピーエンドかくあるべしという「型」を刷り込まれており、その通りにいかなかった場合は不幸な結末であったと簡単に考えがちである。しかし誰かが幸せであったかどうかというのは、その当人にしかわからないのだ。その「誰か」が架空のキャラクターであっても同様である。アニメというのは小説よりも強く僕たちは客観視点に置かれるし、実際目の前で起こっている場面と必ずしも一致しない内心の声(モノローグ)が、オーバーラップして聴こえるということがある。事実、先のクトリの言葉というのも、「前世の侵食」なる現象を受けて記憶も失われ、剣を振るって凄絶な戦いを演じているにもかかわらず、紛れもなく「クトリ」の声で、淡々と、しかしどこか満足げなトーンで響いてくるのだ。僕たちはクトリではない。だからこそ、自分たちには理解できない「幸せ」の形を、彼女の言葉を通して考えることができる。これは間違いなくアニメというメディアだからこそ可能になった「クトリの物語」の新たな姿だった。物語に描かれたテーマもさることながら、これが「アニメ」で描かれなければならなかったという、その必然性を示してくれたことにも同じくらいの感動を覚えたのである。