「批評」ってなんだ。

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このエントリから気づけば半年以上が経っていた。

ゲンロン批評再生塾第三期。いよいよそのフィナーレを迎えようとしている(まだ最終課題の提出が残っているが)。

 

結果的には全15回中、2回登壇(蓮沼執太回、宮台真司回)。うち1回は1位を獲得(蓮沼執太回)。

 

■蓮沼執太回「蓮沼執太についての評論を執筆せよ」
理想と破壊、そして相即――「肯定の音楽」としてのポップス考 – 新・批評家育成サイト

 

宮台真司回「蓮實重彥の功罪」
蓮實重彥は「ゴースト」である――再説・無名論的キャラクター論 – 新・批評家育成サイト

 

おまけで、批評再生塾初の「登壇してないのに特別点1点」をいただくという珍事もあった(東浩紀回)。 

 

東浩紀回「批評とはなにかを定義せよ。」
「セカイ系批評」再生宣言 – 新・批評家育成サイト

 

登壇するまでは、とにかくやさぐれていて、自分が書くものは誰にも理解してもらえないのか、能力のない者が何かを書きたいと思うのは罪なのか、ならばいっそ書くことを止めてしまえば……と、自意識が負のスパイラルを描くのを止められなかった。たぶん当時のTwitterのログを見たら、ものすごいことになっていると思う。 

蓮沼回で初登壇できたというのは皮肉な話で、現在も仕事で関わっているためにツイートすることすらなるべく避けてきた、ポップミュージックへの言及というのを解禁した途端だったからだ。「書く」ということはプライベートに属することで、仕事=社会で考えていることを持ち込みたくない、という意識がどこかにあった。

 

でも「批評」というのはそういうある程度の距離感を保った対象を扱わないと成り立たないものなのかもしれない、といまにして思う。

結局好きな対象について書くとそれがいかに素晴らしいものかということを伝えたくて、説明部分が長くなってしまう。最新回*1ではそれを「悪癖」と断罪されてしまったが、そういう「オタク語り」「エモ語り」は(少なくとも「批評」の読者にとっては)よそでやってくれ、ということなのだろう。

 

数ヶ月このプログラムに全力をかけてきて思ったのは、自分は「書く」ということをやめることはないだろうなということと、自分が本当にやりたいことは「批評」ではないのではないかということだ。

 

そもそも自分にとっての「書く」ことのモチベーションというのは、自分がある作品や出来事に心を動かされたということを、誰とも共有できないことの「寂しさ」から来ている。

小さい頃はよく泣く子供だった。いま思えばそれはすべて「なぜ自分の感情は誰にもわからないんだ」という根本的なことに対する悲しさや悔しさからだった。

「悲しさ」や「悔しさ」を堪えられるようになった代わりに、「寂しさ」を感じるようになった。

大切なことは誰とも共有できないというのは、見方を変えれば誰にも侵されない領域があるということで、救いでもあるのかもしれない。

でもそんな風に大人ぶって割り切ってみせたところで、この「寂しい」という感情は残り続ける。理屈じゃないのだ。

 

「本当に好きなもの」について語るのを避ければ、「批評」を続けることは可能だと思う。複数回登壇できたことで、その手応えはあった。

ただ僕は、「本当に好きなもの」について語りたい。それが「どのようにして」自分の心を震わせたのかという、感動そのものを伝えたいのだ。

たとえば、感動とは対象の中に性質として存在するものではなく、「私の」側にあるものなのだと考えれば、そのような効果を生むものを自らが「創る」ことで再現することはできるかもしれない。「批評」ではなく「創作」をということだが、これもひとつの道ではあると思う(プログラムが終わったら真剣に取り組もうとは考えている)。

しかし、「その」対象に覚えた自分の感動を共有できないという「寂しさ」は、この方法によってもやはり埋められそうにない。

 

個人的に受けた感動について「自分は「書く」ということをやめることはない」と言うことは、「誰とも異なる感情をもった、ひとつの実存として生き続ける」と言っているのと変わらない。決意するまでもなく当たり前のことだ。

批評再生塾のプログラムを通じて気づかされた最も大きなことは、人は社会の中に住んでいるということと、「書く」ということもまたその中にしかあり得ないという、やはり当たり前のことである。だが自分はそんな当たり前のことにも気づけていなかった。「書く」ということは、「社会=他人の解釈」を介さず感動を直接伝播する、「エーテル」のようなものだとどこかで信じ込んでいたのだ。

 

ひとりひとりの人生(実存)と 、社会の中で生きるということは別物だ。
社会の中に僕も生きている。そのことをないがしろにするつもりはない。

だけどやっぱり、僕は人生(実存)のほうが「本物」だと思ってしまう。 

虚空に吠えるような言葉ではなく、誰かに「読んで」もらうためのものを「書く」ということは、どんなスタイルであれ「本物」の度合いを薄めなければならないだろう。そのようにして「書く」ことを続ける(生業にする)かというのは……まだちょっと答えが出そうにない。それは「寂しさ」により近いところで向き合い続けることだと思うからだ。

 

まずは2万字の最終課題を書いてみようと思う。もちろん適切な「距離」をとれる対象、テーマを相手取ってだ。

この先も「寂しさ」に耐えることができるか、それがひとつの試験紙になると思うから。

*1:Charlotte』を扱った國分功一郎回。ちなみに当初これを最終課題にしようと思っていたが、考えた末こちらに回した。 

「中動態的家族」の誕生 – 新・批評家育成サイト

アニメ版『リトルバスターズ!』の「児童文学性」――脚本家・島田満さんを悼んで

脚本家の島田満さんが亡くなられた*1島田満さんといえば、私にとっては何といってもアニメ『リトルバスターズ!』シリーズの構成・脚本を務められた方だ。私が『リトバス』に抱いている特別な思いについては以前にも書いたことがあるが、そこで書ききれなかったこともあった。それがまさしく島田さんという脚本家が携わったことにより改めて浮き彫りになった要素であり、おそらく私が『リトバス』という作品を特別に思えた最も深い理由なのだ。それは『リトバス』という作品のもつ「児童文学性」ということである。

リトバス』には小毬という、絵本作りが趣味の女の子が登場するのだが、彼女はある意味で作品世界を俯瞰的に見下ろすポジションにいるため、作中の構造を寓話的に説明するものとしてその創作絵本は随所に顔を覗かせる。それは「男の子と女の子と、8人の小びとさんのお話」というものだ。男の子と女の子は小びとさんたちの悩みをひとつひとつ解決して、悩みが晴れた小びとさんたちは順に消えていく、という「お話」なのだけど、これは男の子と女の子が主人公の理樹と鈴で、小びとさんたちというのがその他のリトルバスターズのメンバー。作中の世界というのはバス事故に遭った彼らが今際の際に見ている夢のようなもので、唯一生き残ることができる(とされている)理樹と鈴が強く生きていけるようにと、「リトルバスターズメンバーの悩みを解決させる」という形で(夢の世界における「神」的な存在が)成長を促しているというのが全体の構図である。 

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いつかは終わる夢の中で大切なものを得て外に出ていく、というのは児童文学というもののジャンル性に一致していると思う。自分が好きだった作品だと、『エルマーのぼうけん』『くまのプーさん』……などなど。主人公たちはしゃべる竜やぬいぐるみなどとの交流を通じて友愛の精神や優しさ、勇気を育んでいく。彼らはいわゆる「イマジナリー・フレンド」というものだ。主にひとりっ子に見られるという、頭の中だけに存在する架空の遊び相手。漫画研究者の泉信行さんによれば、島田さんが脚本を手がけた主に児童向け作品の多くにも、このモチーフが散見されるという。

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リトバス』の西園美魚ルートというのは、そのものずばりイマジナリー・フレンドを扱ったお話だ。美鳥というイマジナリー・フレンドを忘れてしまったことに自責の念を感じていた美魚は、心残りを叶える「夢の世界」で自らの人格を美鳥に明け渡してしまう。そういうことが起こりうるのが『リトバス』本編の世界なわけだけど、彼女たちの関係だけでなくリトバスメンバーそれぞれが、それぞれにとってのイマジナリー・フレンドであったともいえるのではないか。最終的に外の世界に出ていく(とされている)のは理樹と鈴だけだけれど、メンバーはそれぞれ現世での未練を抱えており、その解決にメンバーの助力を乞うことになる。恋愛アドベンチャーの形式を借りた原作では理樹がひとりその役割を果たすのだけど、アニメではすべてのエピソードについて、(その時点でメンバーになっている)すべてのリトバスメンバーが問題解決にかかわるようになっている。他人の手助けを通して成長を促されているのは、ただ二人、理樹と鈴だけではないのだ。キャラクターたちすべてに対するそうした「親」のような目線が、アニメ版『リトバス』には溢れていると思う。 

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しかしお互いがお互いのイマジナリー・フレンドであるということは、最終的にはみんながひとりになってしまうということで(「みんなが孤独でいるんだ/この輪の中で/もう気づかないうちに」)、単純に「仲間と力を合わせて問題解決!」というのとは違う、ある種の厳しさも含まれていると思う。島田さんが1995年に手がけた『ロミオの青い空』は、「夢の世界」という装置なしに別れの痛みを伴う成長を描いた傑作だ。「世界名作劇場」シリーズの一作として放送され、原作にドイツの児童文学『黒い兄弟』を持つ本作は、様々な事情から児童労働(煙突掃除)に身をやつすことになった少年たちが、自助組織として「黒い兄弟」(すすに汚れた、という意味。ブラックなことをするという意味ではない)を結成して様々な困難を乗り越えていくというお話である。相手取っているのがより現実的な「大人」や「社会」であるという違いはあれど、子供たち自らがチームを結成し、それに名前をつけて大切な居場所としていくというところは共通している。何より主人公ロミオとカリスマ的魅力を持つリーダー・アルフレドの関係が、『リトバス』における理樹と恭介の関係とそっくりなのだ(ちなみに『ロミオ』にはアルフレドの妹として、ビアンカというキャラクターも登場する)。『ロミオ』の最終回付近の展開は、少なくない『リトバス』ファンが「ここで終わっておけばより名作だったのに」と言う展開をなぞるようであり、その点からも必見である(『ロミオ』の重大なネタバレになっている気がしなくもないけれど)。

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理樹−恭介ラインともうひとつ、『リトバス』には鈴−小毬ラインというのがあるのだけど(主人公とメンターの関係。原作は恋愛アドベンチャーの形式を借りていたため理樹の一人称単数視点で物語が進んだが、実質的には理樹と鈴のダブル主人公と考えてよいと思われる)、原作ではラスト付近で駆け足で回収された感の強かった後者について、アニメでは一話を割いてとても丁寧に描いている。その話数、1期24話「鈴ちゃんが幸せなら私も幸せだから」は、原作の鈴周りのエピソード(子供たちのために人形劇を演じる)を拾いつつ、小毬とのある「約束」を交わす場面に収束させるという、島田さんの脚本家としての技が光る実質的なオリジナル回だ。

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「約束」というのはKeyの前史、Tacticsの『ONE〜輝く季節へ〜』から見られるKey/麻枝准のメインモチーフのひとつなのだが(このことについては『麻枝准トリビュート』の拙論でも書いてます)、恋愛アドベンチャーという形式上、それは基本的に主人公とヒロインとの間で交わされるに限られていた。だからこそそうではない(女の子同士である)鈴と小毬の「約束」は、原作ではあくまでサブエピソード的に処理された感が強かったのだけど、アニメでは1期の最終回直前という位置に持ってくることによって、「約束」モチーフの本来もつ意味性が回復されている。約束というのはいわば「時間の先物買い」であり、「約束をした」という事実が忘れた頃に遅延的に効いてくる……ということこそがその本質である。このエピソードの後に2期である『Refrain』が続くということの意味は、単純だが大きい。Key/麻枝准といえば「家族」の主題を扱っているというのが通説で、「友情」を描くことにシフトしたとして『リトバス』以前と以後、という風に切断線が引かれることが多かったわけだけど、鈴−小毬関係をもうひとつの主軸に据えることで「約束」モチーフによるKey/麻枝准史の再編成がなされ、同時にそれが女の子同士の関係であことで、連続した主題を持ちつつも発展している、という構図も見出せるようになっているのだ。

アニメ版『リトバス』は、麻枝准の作家性ともいえる「過酷な生」に向き合う弱き者たち、という側面よりも、「自分とどこか似た人たち」を思いあう優しさのほうが前に出ている印象を受け、これは間違いなく島田さんの構成によるところが大きいように思う。主に児童向けの(朝や夕方の時間帯に放送される)アニメの脚本を担当されることの多かった島田さんだが、近年ではトリガー制作の深夜アニメ『リトルウィッチアカデミア』の構成を担当するなど、大人向けの、あるいは大人の視聴にも耐えうる作品におけるやさしさ、なつかしさの要素をすくい上げるお仕事にも貴重なものがあった。まだまだそうしたアニメを観たいと思っていたし、このたび亡くなられたことはもちろん残念でならないのだけど、それにも増して沸き起こってくるのは感謝の気持ちだ。自分の原風景を形成している絵本や児童文学と、10代の終わり、カウンターカルチャーとして好きになったノベルゲーム。島田さんの手がけたアニメ版『リトバス』によって、切断されていた両者が一本の線によってつながり、人生が丸ごと肯定されたと言っても過言ではない。

島田満さん、あらためて、本当にすばらしい作品をありがとうございました。手がけられた未見の作品についても、時間をかけて観ていきたいと思います。

「観客の再発明」を超えて――「ポスト観客」時代の映画と「物語」(改訂版)

※本稿は「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾」第3期の渡邉大輔さんゲスト回にて提出した評論文を改稿したものです。

 

邦画の興行収入歴代2位という記録を塗り替えた『君の名は。』を筆頭に、「アニメ映画の当たり年」と言われた2016年。それら「当たり年」の諸作品は、映画における「観客」という制度に忠実であったからこそ、多くの動員を記録したのではないか。

それらは一様に「名無し」の存在論についての物語だった。

「名無し」とは「観客」のメタファーである。映画館での映像鑑賞において、暗がりに身を潜め、能動性を奪われた存在に私たちは「なる」。眼前で展開する光景、そこにはいない存在、視点と同一化することを迫られる。そうした世界に対して無力な、何もできない存在を慰撫するような物語が展開されたのが昨年のアニメ映画群だった。

そこでは言わば「観客の再発明」が行われていたのである。

 

2016年「観客の再発明」

この世界の片隅に』は第二次世界大戦という史実に基づいた作品だが、現実の戦争というものは、誰か特定の英雄的=固有名的な人物の活躍によってハッピーエンドがもたらされるようなものではない。そもそもタイトルからして、「片隅の、忘れられた」人々の生を描き出そうとしていることは明白である。また『君の名は。』では、主要人物である高校生カップルが、クライマックス付近でお互いの名前を「忘れてしまう」。一度思い出してから、今度こそ忘れないようにと手のひらに書き残した文字が、結局名前ではなく「すきだ」の三文字だったという徹底ぶりは、名前というものに対して何か恨みでもあるのかとすら思わせる。

アニメーション研究者の土居伸彰は「『私 VS 世界』の終わり」「『私』から『私たち』へ」といった言葉で『君の名は。』と『この世界の片隅に』の間に線を引いた。その著書『21世紀のアニメーションがわかる本』では、『君の名は。』のような作品においては主人公の視点で世界は変容していく、そこには「私」が「世界」に対峙するという構造はなく、観客は特定の「私」ではなく「私たち」という匿名性に同一化するという議論がなされているのだが、筆者には『この世界の片隅に』も、(少なくとも「『私』から『私たち』へ」ということに関しては)『君の名は。』と同様であるように思われる。

土居の主張は「主人公」の機能性の変化とも言い換えられる。「主人公」という装置はそこに憑依することで、本来「名無し」であるはずの観客が仮初の居場所を画面の中に獲得するようなものとして一般に想定されている。
しかし「主人公」とは「観客」の憑依先、器としてそれほど自明なものなのだろうか。土居は「すず」の視点で徹頭徹尾描かれているから、『この世界の片隅に』は「私」の映画なのだと言うわけだが、「すず」に自分を憑依させられない人だっているはずだし、そもそも「すず」は「絵を描く」人物として世界をそれこそ変容させるような力を持っている。「すず」が描いた絵と現実の風景の境界が消失するようなシークエンスはたびたび登場するわけだが、この時点で『この世界の片隅に』における「私(すず)」と「世界」は対立するものではなく、むしろイコールな関係である。作品世界に生きる「すず」にとって彼女の生きる世界は、私たちがこの目で目撃した通り、絵筆によって世界を描き換えることのできる(できた)世界なのである。
しかし「すず」は絵筆をとる右手を失うことで、想像力によって世界を上書きすることを止め、唯一的な「この世界」の「片隅」で生きていくことを選択してしまう。無自覚であれ「世界」への介入性を発揮していた「すず」は、右手を失って「世界」に対する無力で匿名的な「観客=私たち」に成り下がる。それが『この世界の片隅に』というタイトルが指し示すものの正体である。

そして『君の名は。』においては「主人公」がそもそも存在しない。彗星落下による人命の喪失といった作中の出来事は、超常的な力を介してすべて「なかったこと」にされてしまう。土居の著書でも指摘されているように確かに「世界」は変容しているのだが、最終的に「主人公」どころか、記名性を帯びた人間自体が消滅していると言っていい。憑依すべき記名的人物が存在しないわけだから、我々は「観客」のままである。こう言い換えてもいいかもしれない。「主人公」のように偽装されていた立花瀧(あるいは宮水三葉)がお互いの名前を忘れ、作中で起きた数々の出来事も「なかったこと」になってしまうラストシーンにおいて、我々は自らが「観客」であったことを発見する。受け手の処理が追い付かないほどの高速カット割り、ロックバンドが作曲したBGMがかき立てるエモーショナルな展開も、あなたたちは世界(この『君の名は。』という映画)に対する無力な「観客」でしかないということを暗黙裡に突き付けるものだった。『君の名は。』というタイトルには読点が打たれ、その先を問うことはない。画面の中と外、双方にただただ「名無し」の存在者=観客だけが後に残されるという作品が『君の名は。』なのである。

 

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「すず」は右手を失って「観客」になる。

 

土居が提示した二つのテーゼのうち、映画館という制度と照らしたときより重要なのは「『私 VS 世界』の終わり」のほうである。スマートフォンやそこに搭載された種々のアプリケーションによって、画面に映る現実をカジュアルに改変できるという感覚が支配的な現在、「私」は「世界」に対してむしろ能動的な働きかけができるようになっていると思われるからだ。「『私 VS 世界』の終わり」とは、あくまで映画館という枠組みの中でこそ機能するテーゼなのではないだろうか。映画館という空間にまつわる諸々の制度――暗がり、「上映中はお静かに」というルール、電子機器の使用不可などなど――が、スクリーンの中という「もうひとつの世界」に没入させるための仕掛けだったことを考えれば、この対比を「AR(拡張現実)」と「VR(仮想現実)」のアナロジーで捉えることも可能だろう。目に映る「世界」を手のひらの上でいくらでも改変できる、という感覚に基づいた「観る」主体のことを、ここでは仮に「ポスト観客」と名付けたい。

「観客」から「ポスト観客」へ、というのは、それ自体が物語的でもある。しかしスマートデバイスはあまりに爆発的に日常に普及してしまったため、当の「ポスト観客」たちもそれが自らにもたらした変化=物語に気づいていない。とすれば、渡邉大輔が「映像圏」と呼ぶこのような状況を物語として織り込んだ映画をして、「ポスト観客」に発見されることを待っている映画だと言えるのではないだろうか。

「アニメ映画当たり年」の翌年である今年、2017年に公開されたある作品に、そのひとつの端緒を見てみたい。

 

2017年「名無し」の反逆――「ポスト観客」時代の映画と「物語」

劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-』(以下『劇場版SAO』)は、VR技術が現在よりも少し発達した近未来を舞台にしたTVアニメ『ソードアート・オンライン』シリーズ(2012年~)の映画化作品だ。TVシリーズで描かれたのはVRMMO(仮想現実大規模多人数オンライン)ゲーム世界における主人公の活躍であったが、劇場版では小型のデバイスが開発されたことでAR技術がより生活に溶け込む形で浸透してきており、ゲームの世界でもVRMMOゲームを脅かす勢いで「オーディナル・スケール」なる「AR」MMOゲームが台頭してきているという設定である。

しかしそうしたテクノロジーへの目配せ以上に重要なのは、「『名無し』の反逆」というテーマが集中的に描かれていることである。TVシリーズではマッドサイエンティスト的な開発者の手によって「ログアウト不可能・ゲーム中での死が現実世界の死にも直結する」という「デスゲーム」に変貌した「ソードアート・オンライン」(作中ゲームの名前でもある。以下「SAO」)が、主人公・キリトの英雄的な活躍によって攻略されるまでの顛末が描かれたわけだが、その過程では数千人単位での犠牲者が出たし、英雄的に扱われたのはキリト以下ごくわずかの人間だけだった。『劇場版SAO』で暗躍するのはそんな有象無象の「名無し」のプレイヤーのひとり、エイジである。エイジは「SAO事件」で命を落とした幼馴染の少女・ユナを人工知能として復活させるため、「オーディナル・スケール」の開発者でもあるユナの父親と結託して、「SAO事件」の生き残りたち――とりわけ「攻略組」と呼ばれる有名プレイヤーたち――を、「オーディナル・スケール」内で狩っていくのだ(「VR=キリト」対「AR=エイジ」という構図も、「観客」から「ポスト観客」へという構図と重なっており象徴的である)。

『SAO』は2010年代をティーンエイジャーとして過ごした世代にとって象徴的なコンテンツのひとつである。作者の川原礫が自前のサイトで連載していたものが元になっているという今作は「小説家になろう」などのプラットフォームに端を発するWeb小説ブームの先駆けとも言われ、また現実では非力な主人公がVR世界で他を圧倒する強さで活躍するという設定から、同プラットフォームにおける定番ジャンル「異世界転生」*1「俺TUEEE」*2の雛形と目されることも多い。なぜこうした作品が2010年代のティーンエイジャーに求められたかという社会学的な分析はここでは控えるが、単純に「ここではない、どこか」でなら「現実で上手くいかない自分」でも「大活躍(無双)できる」という読者の爽快感をインスタントに叶えることができるということは言えるだろう。

私は当初AR空間が劇場規模のアニメ映画でどのように描かれるのかという興味から今作に足を運んだのだが、そこで思いがけずエイジという『SAO』本編には登場しなかった(というよりは、「名無し」のプレイヤーであったために描かれなかった)人物がキリトら主要人物を圧倒していく様に驚くことになったのである。しかもエイジの行動原理というのは、彼やその思慕するユナら「名無し」のプレイヤーたちも確かに存在していたんだという悲痛な叫びなのだ。これは完全に『SAO』ブームに乗れなかった、脇で見ているしかなかった私たちの写し絵である。
映画館という不特定多数の人間が集まる場所であるがゆえに、2010年代をティーンエイジャーとして過ごしたであろう『SAO』世代の生の声に触れることができたのも大きかった。上映前の喧騒に耳を澄ますと、彼らは素朴に主人公・キリトの活躍を楽しみにしているようなのである。キリトが作中で「強すぎる」のはもはや一種の「お約束」で、それをSNS上でツッコミつつ楽しむ、というのが定番となっている。しかしそのような「お約束」に従っている限り、 いくらスマートフォンに精通していたとしても、「観客」から「ポスト観客」へと脱皮することはできないのだ。Instagramをはじめ、写真を加工するアプリケーションも多くの場合「シェア」する機能と一体になっている。改変された「世界」が共有され「みんな」のものになっていく。これはまさしく土居が指摘した「『私』から『私たち』へ」のテーゼに対応するものだ。
しかしエイジの存在は「名無し」のSNSユーザーとして『SAO』という物語にメタな立ち位置から突っ込みを入れることを許さない。我々は名前のある存在、世界と一対一で向かい合う「個」なのであると、彼は叫ぶ。最終的にはエイジは倒されてしまうので、期待通り「キリトさんTUEEE」な充足感を得て帰っていくことができたファンも多いだろう。しかし上映中はテレビアニメのように「実況」することはできないわけだから、誰もが強制的にエイジの物語に付き合わされることになる。それは安全な「観客」として今作を観に来ていた従来のファンに、少なくない揺さぶりをもたらしたはずである。このような物語が受け手の質を選ばない劇場という空間で上映されたことは、「観客」と「ポスト観客」との境界を揺さぶる極めて批評的な営為であったといえるだろう。

 

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エイジは無名の「観客」から名乗りを上げ、「世界」に反逆する。

 

むろん、すべてのアニメ映画がテレビシリーズを前提とすべきであるとか、SNS上での評価を先取りして組み込むことが「ポスト観客」時代の優れた映画の条件であるということが本稿の主旨ではない。ここで主張したいのは、映画館の中で身動きの自由を奪われた「観客」になるということは、「ポスト観客」にとってプラスの体験ではなくマイナスの体験だということである。4DXなど視覚以外の感覚をプラスすることでマイナスをゼロにしようとする動きもあるが、それはもはや映画ではなく別のアトラクションであろう。視覚芸術としての映画という枠組みを拡張せずに「ポスト観客」の視線に耐えうる作品を生み出すためには、「観る」という体験が根本的に変容したことを自覚した上で、それに相応しい「物語」や「キャラクター」を再発明することが必要なのである。それは「世界」に対峙する「私」の復権という形で、上掲の図でいえば、左向きのベクトルで表されるだろう。『劇場版SAO』は紛れもなくそのひとつの達成であったのである。

*1:小説家になろう」には「異世界転生」の外延を定めたガイドラインが存在する。
https://syosetu.com/site/isekaikeyword/

*2:「日本語表現辞典 Weblio辞書」の当該項目など参照のこと。
https://www.weblio.jp/content/%e4%bf%batueee/