『ゾンビランドサガ』VS『SSSS.GRIDMAN』 2018年「現実へ帰れ」は有効なのか?

2018年秋クール(10月~12月放送)のテレビアニメとして話題をさらっていった2つの作品、『ゾンビランドサガ』と『SSSS.GRIDMAN』。この両作品が先日、あまりにも対照的すぎる最終回を迎えた。比較することで際立つのは、両作品において「現実」と「アニメ(作品/キャラクター)」が取り結ぶ関係性の違いである。

 

ゾンビランドサガ

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ゾンビランドサガ』は佐賀県の「ご当地アイドル」としてゾンビとして蘇った(=故人の)キャラクターがアイドルとして活動する姿を描く。「すでに死んでいる」キャラクターが「生き生きと」描かれることで逆説的に「生きる」とはどういうことかが掘り下げられるのだ。

「アイドル」と「キャラクター」はしばしば似たものとして扱われる。重要な差異として、いわゆる「リアルアイドル」には当然現実世界における肉体があり、加齢もすれば怪我や病気でステージに立てなくなることもある。一方、「つくりもの」である二次元のキャラクターにはそれがない。そういう意味ではわざわざ「キャラクター」であり「アイドル」である彼女たちを「死んでいる=それ以上加齢することがない」ゾンビにする必要はない。

ではなぜゾンビなのか。それは先述したように、「生きる」とはどういうことか、という問いとつながっている。

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ここでひとつ挿話を。たまたま観たNHKのニュース番組で、現役復帰したフィギュアスケーター高橋大輔さんがなぜ復帰したのかという質問に対して「人は設定したハードルを超えていくことで生きている実感を得る。自分にとってはそれがスケートで、引退してからは生きながら死んでいるようだった。いまは練習で飛べた! ってだけでも嬉しい。生きてるって感じがする」といった答えを返していた。ここから、「生きる」とは自ら設定したハードルをひとつずつ超えていくことなのだと定義してみる。

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この話は『ゾンビランドサガ』のテーマ性とも通ずる。主人公格の源さくらは何をやってもダメダメな「持ってない(不運な)」自分を呪う自虐的な性格だったが、偶然テレビで観たあるアイドル(水野愛)の「失敗とか後悔だとかを、全然悪いことだと思ってない」「そういうのを全部踏み越えた先に、誰にも負けない私がいる」という言葉に感銘を受け、自らもそういう人間になりたいと思うようになる。その矢先に死んでしまい、10年の時を経てゾンビとして蘇るのだが……メタ視点で見れば、さくらは作り手(監督以下スタッフ)によってゾンビに「させられて」しまった存在である(不運な少女が生きたままアイドルを目指すストーリー、になってもよかったのだ)。しかし、「死」という究極のどん底に至ったからこそ全力で(それこそ、常人では不可能な肉体的無茶をおかしてまでも)夢を叶えようとすることができる。これは「生きながら死んでいる」ような人間に対する「死にながら生きている」ゾンビからの、痛烈なカウンターパンチなのである。

死んでも夢を叶えたい
いいえ、死んでも夢は叶えられる
それは絶望? それとも希望?
過酷な運命乗り越えて、脈が無くても突き進む
それが私たちの サガだから!
(『ゾンビランドサガ』オープニング、源さくらによる口上)

つまりここでは「生きる」とはどういうことか、という問いがまず先にあって、そのためのフックとして「ゾンビ」とは、「アイドル」とはどのような存在なのかということが検討されている。そこで佐賀という現存する土地の風物が描かれていることも効いてくる。「現実にゾンビは存在しない」と言うことは簡単だが、彼女たちは現実に存在する飲食店(ドライブイン鳥)やイベント(ガタリンピック)に訪れており、飲食店の店長は本人役で出演すらしているのである。「人間/キャラクター」「現実/アニメ」といった二項対立を超えて「生きる」とはどういうことか、12話を使って丁寧に答えを出しており、ゆえに視聴者にも「つくりもの」ではない元気と勇気を与えてくれる。

 

SSSS.GRIDMAN

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『SSSS.GRIDMAN』は「現実」と「アニメ」の間に明確な線を引いた。最終回では本編中で描かれた世界が「アニメ(つくりもの)」の世界であり、その「外」には「現実」の(実写の!)世界があるということを示唆して終わった。(つまり、新条アカネは本当にあの世界における「神様」だったらしい。あの作品は特撮作品『電光超人グリッドマン』の二次創作世界といったところだろうか)

主人公の響裕太に「ハイパーエージェント」たるグリッドマンが宿った理由は、結局「つくりもの」でしかなかった彼(裕太)が唯一「神様」である新条アカネの意図を超えて(やはり「つくりもの」である)宝多六花のことを好きになってしまった存在だったから、という理由のようだ。作り手の意図を超えキャラクターが自律し、それが現実世界(作り手)を救うこともあるというビジョンが打ち出されており、それ自体は真っ直ぐでロマンあふれる主張であると思う。しかし気になるのはそのような「自律的なキャラクター」のことをあくまで「つくりもの」の世界に生じた「バグ」のような存在として描いているという点である。本作において、「現実」と「アニメ」の間には明らかに階層化がなされている(それは「現実」にベースがある新条アカネが「神」と名指されていることからも明らかだ)。本編中にも過去の特撮作品やアニメ作品からのパロディやオマージュが満ち満ちていたことを思い返せば、本作はあくまで「作り手」の立場から「キャラクター」や「作品」との関係性を問うた作品であると言えるだろう。

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ゾンビランドサガ』と本作が対照的であるというのはまさにこの点である。すなわち、「視聴者」がどこにいるかという問題。結論から言えば、本作には視聴者のいるべき場所がない。放送中には、たとえば内海将を「オタク(視聴者)」の代名詞として作中に存在しているかのように読解することが可能だった。しかし、実際には「現実/虚構」という最大級の二項対立によってすべての構造が説明されてしまう。視聴者が本作の視聴体験において自分の居場所を見つけようとすれば、それはラストカットで描かれた実写の風景と同じ「現実」の住人であることを自覚することを通してでしかあり得ないのだ。(ポジティブ/ネガティブの差はあれ、これは庵野秀明が『THE END OF EVANGELION』で観客の姿をスクリーンに大映しにし「現実へ帰れ」とのメッセージを発したのと全く同じ構図である)

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しかし、アニメ視聴者は2018年になってなお「現実へ帰れ」などと言われなければいけない存在なのだろうか。「オタク」と言わず「アニメ視聴者」と書いたのは「アニメを観る」という行為が一部の好事家にとどまるものではなくなっているからである。『ゾンビランドサガ』もその文脈に乗るコンテンツツーリズム……アニメによる地域復興のような事例もその証拠のひとつだろう。アニメが「つくりもの」であることなど誰の目にも明らかである。しかし、その上でいかに「本物」を……身体の芯から湧き上がってくるような希望を視聴者に与えられるかが、キャラクターの存在が日常に浸透した現在においては重要なのではないだろうか。

 

最後に『ゾンビランドサガ』キャスト陣へのインタビューから発言を引用する。彼女たちは自分たちが演じ、よくある言い回しで言えば「魂を吹き込んだ」はずのキャラクターに対して、自分自身からは切り離された、「元気をくれる」存在として……いわば「アイドル」や「ヒロイン(ヒーロー)」としての認識を持っているようなのだ。作り手サイドと作品/キャラクターがこのような関係を取り結ぶこともできるという事実をもって、この記事を締め括りたい。

田野:〔…〕最初の頃、サキといると元気になれると話したと思うんですけど、今ではサキに背中を押してもらえるくらい成長していて、作品を通してイキイキと楽しくキャラが動いているなと感じられています。

河瀬:〔…〕死んでいる子たちがこんなに頑張っているんですよ。生きていればつらくなることもあるかもしれないけど、私自身もこの子たちがこんなに頑張って、いろいろな困難を乗り越える様子を見て、負けていられないなと思わせてくれました。

www.animatetimes.com

 

オタクじゃ新条アカネは救えない

なぜオタクは新条アカネに夢中なのか

『SSSS.GRIDMAN』が盛り上がっている。とりわけ本作のダブルヒロイン(とされている)のうちのひとり、新条アカネには少なくない視聴者からの熱視線が注がれている。下記の記事に典型的なように、「スクールカースト最上位に位置する女子が、実はハードなオタク趣味を持ち合わせている」という点にアニメの主な視聴者層である男性オタクがメロメロになってしまっている……という構図があるようだ。

nyalra.hatenablog.com

基本的に彼女は悪役サイドの人物で、「パンを潰されたから」とか「歩きスマホでぶつかってきたから」とか、本当にささいな理由で身の回りの人間を存在ごと「なかった」ことにしてしまう問題人物として描かれている。通常の倫理を逸脱した悪人にある種の憧れを抱いてしまうとか、日常のイライラを歪んだ形で解決してしまう悪人に共感を覚えてしまう、というのは自分にも理解できるのだけど、こと新条アカネに対して視聴者が向けている好意はそう単純なものでない気がする。

sakasakaykhm.hatenablog.com

なぜ視聴者は第9話で描かれたものを「新条アカネの心象風景」だと思ってしまうのか。「新条アカネは本当は救いを求めている孤独な人物である」という想像は、「それを主人公たちが救い、新条アカネも改心して〈なかったこと〉にされた人や物も元通りになるだろう」という予期に支えられている。しかしそんな保証はどこにもないのではないか。確かにそう誘導するフックは確かに随所に散りばめられている。最もわかりやすいのはOPとEDだろう。「君を退屈から救いに来たんだ」という歌詞とともに、新条アカネが文字通り退屈そうに見つめる窓の外に出現するグリッドマン、EDの何気ない放課後の風景……

しかし、それらはあくまで本編の〈外〉にある情報である。第9話が「新条アカネの心象風景」であるというのも、画面の〈外〉に立ってこの話数の全体像――響裕太・内海将・宝多六花の三人は新条アカネの作り出した怪獣によって眠らされており、それぞれ違った夢を見させられている――を見渡すことができる「視聴者」だからこそ可能な「解釈」だ。第9話の構造は『SSSS.GRIDMAN』という作品そのものに対して入れ子となっている。主人公の響裕太は第6話で「この街は新条アカネという神によって作られた箱庭である」とある人物(?)から説明されるのだ。しかしそれだって本当のことという証拠はどこにもない。新条アカネの傍らに常に控え、肝心なことは何も語らないアレクシス・ケリヴという宇宙人(?)もいかにも怪しい。

ここで響裕太が「記憶喪失」であるという設定を思い出そう。これは世界=物語の全体像を把握できない視聴者の姿と重ね合わせることができる(実際、上の段落に書いたように「?」な部分が第9話の時点で断然多いのである)。

もちろん作品はどの視点に立って観てもいいものだが、謎を謎のまま宙吊りにしたまま物語の推移に身を委ねる視聴方法の受け皿として響裕太が、物語〈外〉の情報を手がかりに今後の展開を予期するような視聴方法の受け皿として「神(とされている)」新条アカネが配置されているのが興味深い。こうして考えると新条アカネが「オタク」である必然性が理解できる。オタクというのは膨大な数の物語作品に触れることでいわゆる「お約束」をデータベース化している。断片的な情報をもとに「お約束」との差分を意識しながら物語を読み進めていく、という受容の仕方こそが「オタク」的なのだ

今作において「オタク」とはそういう物語の受容の仕方そのものであって、したがって新条アカネのようなカースト上位の人間が「オタク」であるということとは矛盾しない。「オタク」とは世界のすべてを「元ネタ」の集積として捉えてしまうような神の視点、メタ視点を持つ者のことだ。

 

僕たちはオタクではない

そもそもこの作品の監督である雨宮哲氏、ひいては制作会社であるTRIGGERがきわめて「オタク」的なパロディやオマージュに満ちた画面作りをする集団である。

雨宮 パッと見わからないと思うんですけど、僕がやるとパロディっぽくなっちゃうんですよ。それは僕のアニメーターとしての癖で、気を付けていてもそうなってしまうんですよね。だからオマージュとかパロディじゃない、ちゃんとしたものにしたくて、今回は作画チーフを牟田口裕基さんにお願いしています。

アニメ「SSSS.GRIDMAN」特集 監督・雨宮哲(TRIGGER)、脚本・長谷川圭一インタビュー (2/3) - コミックナタリー 特集・インタビュー

とはいうものの、やはり随所にパロディやオマージュが見受けられる。

そもそもこのアニメ自体が90年代の特撮番組『電光超人グリッドマン』のリメイク・リブート作品なのである。

作者=神とはよく言ったものだが、その制作サイドが「オタク」的なのだから、作中で神となぞらえられる新条アカネが「オタク」的なのはこれと綺麗に対応している。

つまり響裕太=視聴者 VS 新条アカネ=作り手という構図が描けるわけだが、ここで忘れてはいけないのは「オタク」的な視聴方法をとることで、視聴者も新条アカネ=作り手と同じサイドに立つことになる点である。先述の構図に加えて、作り手(雨宮監督・TRIGGER)‐新条アカネ‐「オタク」的観方をする視聴者の共犯関係が結ばれるわけである。

「オタク」が物語の「お約束」に縛られて、日常を作り物の取返しのきく世界だと思ってしまうことの比喩なのだとすれば、新条アカネという人物が悪役サイドに配置されているのは自身も「オタク」であることを自覚する作り手サイドのアイロニーであろう。

当然のことだが、 作り手(雨宮監督・TRIGGER)は主人公たち「グリッドマン同盟」サイドのドラマも描いているわけで、この二項対立をどのように交差させ、ひっくり返すかというところに本作の賭けがあるのだと思う。記憶喪失ゆえにそもそも元ネタなど知らない非‐オタクが、「この世は所詮元ネタのパッチワーク」とうそぶくオタク=神に、どのような引導を渡せるのかというドラマ

このアイロニーを自覚せずに、いち視聴者が「新条アカネは改心し、世界も元通りになる」と予期して今作を観進めるのは、「グリッドマン同盟」の活躍に頼った他力本願なのではないか。視聴者はやはり視聴者でしかなく、世界=物語を作る存在ではないのだ。新条アカネ=作り手とは文字通り「次元が違う」。少なくともこの『SSSS.GRIDMAN』という作品の固有の結末は、視聴者の誰ひとりとして知ることはできない。視聴者全員が本来的に、記憶喪失者=「グリッドマン同盟」サイドなのである。

新条アカネの「(彼女の視点から見た)作り物の世界」を肯定せんとする姿勢は、第四の壁を超えた視聴者への甘い誘惑だ。元ネタ探しで遊んでいるうちは「お約束」にしたがって都合のよい物語を描けるし、あなたと同じ「オタク」である私がどこまでも一緒に堕ちてあげるよ……と。

しかし本当に新条アカネが好きで、あまつさえ救われてほしいと願うなら、せめてこの作品を観ている間は「オタク」をやめる=元ネタ探しをやめなければ、主人公サイドに立つ=「君(新条アカネ)を退屈から救いに」行くことはできないのではないか。

「オタク」の象徴としての新条アカネという存在は、そのようにして視聴者を試しているのである。

 

アニメ『色づく世界の明日から』オープニングテーマを担当する、ハルカトミユキの「オルタナティブ」な魅力

P.A.WORKSの新作アニメーション作品『色づく世界の明日から』の放送がスタートした。同スタジオらしい透明感のある映像表現、「色のない世界に生きる少女が、祖母が自分と同年代だった時代にタイムスリップする」という筋書きからどのような繊細なドラマが紡がれるのか、楽しみでならない。

Charlotte』のEDや評価の高い第7話の絵コンテを手がけた篠原俊哉氏の監督作ということでも個人的に楽しみなのだが、それ以上に僕のアンテナを反応させたのがOP主題歌に「ハルカトミユキ」を起用したということだ。「オルタナティブ・フォークユニット」を謳う彼女たちにはデビュー当時から注目していて、すべての作品に耳を通している。

彼女たちは前述のキャッチフレーズもそうだし、ドラムにはsyrup16g中畑大樹氏を起用していたりなど、日本のオルタナティブロックの系譜に位置づけられる存在だ。深くリヴァーブのかかったギター、切迫感のあるリズム、そして自己と世界との摩擦をそのまま言葉にしたような歌詞。どちらかというと「暗い」というイメージを持たれることも多いユニットだと思う。しかしその奥には光を希求する心や未来へ向かう意思というものが、これ以上ないほどに透けて見えるのだ。『色づく世界の明日から』というタイトルの作品の主題歌を担当するのに、これ以上ない人選だと思う。この記事ではそんな「ハルカトミユキ」の魅力を知ってもらうべく、音源とともに印象的なフレーズを紹介していく。

 

絶望ごっこ

何一つも欠けてないのに泣いてる君は
可哀想だね。
愛想尽かして見放す僕も
結局ここに戻ってくる。

ハルカトミユキ 絶望ごっこ 歌詞 - 歌ネット


1st EP(デビュー盤)に収録された楽曲である。それでいきなりこのタイトルなのだから、彼女たちがファッションとしての「暗さ」を売りにしているようなユニットではないことは推して知るべしだろう。これは商業主義的な「暗さ」への皮肉であると同時に、しかしやはり自分自身へ向けられた言葉でもあるのだと思う。確かに「絶望ごっこ」している間は気持ちいいのだ。そのことを認めた上でないと辿り着けない景色がある。

 

ドライアイス

ただ生きていて
こんな世界に今更期待などしない
閉じ込められた果てに僕らは
みんな壊して笑ってやるよ

ハルカトミユキ ドライアイス 歌詞 - 歌ネット

2nd EPのリードトラック。引用した歌詞は終局部におけるサビのリフレインにて歌われるが、そこで一瞬の転調が効いているのだ。かき鳴らされるテレキャスターと、寄り添うようなピアノの音色。突き放したような歌詞とは裏腹な優しさと哀しさをメロディは湛えていて、こうしたアンビバレントな要素の同居は彼女たちのベーシックとなっていると思う。真っ白い空間と青みがかった砂浜を舞台にしたミュージックビデオも、ことさらに美しい。

 

その日がきたら

ねえ、君は知ってる?
世界はもうすぐに終わるってこと。
でも、僕は知ってる。
世界なんてとっくに終わってるんだ。

ハルカトミユキ その日がきたら 歌詞 - 歌ネット


3rd EPのリードトラック。引用したのは歌い出しである。こんな歌い出しで始まるポップソングを聴いたことがあるだろうか? この楽曲に関しては全編歌詞を引用したいくらいなのだが、最終的に「その日が来たら君と幸せになろう。」というラインによって結ばれることは言っておきたい。終盤近くでノイズギターをバックに不穏なポエトリーリーディングが入るパートがあることも特筆しておく。ほぼ全曲のソングライティングを手がけるハルカ氏(歌っている方)は歌人穂村弘氏を尊敬する人に挙げていたりもして、言語表現に意識的に取り組んでいる人なのだ。

 

Pain

あの日にこぼした赤いジュースのように
洗っても消えない染みが胸に残った
ずるいよ ずるいよ ねえ君ならもう
真っ白いでしょう
跡形もないでしょう? 

ハルカトミユキ Pain 歌詞 - 歌ネット


2016年に発売された2ndフルアルバム『LOVELESS/ARTLESS』からの1曲。音源のバンド色の強いアレンジも良いのだが、シンプルなアコースティックアレンジになることによって、言葉のひとつひとつがまるで私たち自身の内側から湧き上がってくるように響いてくる。彼女たちの言葉はどれも良い意味で非人称的に聴こえる。共感を誘うのでもプロテストを促すのでもなく、リスナー個々に自分と世界との摩擦の存在に気づかせる。そうして「私たち」の歌ではなく「私」の歌になっていくところに、彼女たちも標榜する「オルタナティブ」の神髄があるといえるだろう。

 

いかがだっただろうか。今回はYouTubeに音源のあるものを中心に取り上げたが、他にも良い曲がたくさんある。特に好きなものを挙げると「Vanilla」「シアノタイプ」「mosaic」「バッドエンドの続きを」「COPY」「Stand Up, Baby」……などなど。気になった方はSpotifyやダウンロード配信もされているので、ぜひ聴いてみてほしい。

 

ハルカトミユキは現在ソニーミュージックに所属していて、『色づく世界の明日から』はソニーミュージック系列のアニプレックス制作ではないことから、監督や脚本サイドが彼女たちの楽曲にほれ込んで一本釣りしたのではないかと、個人的には予想している。詳しい経緯については今後インタビューなどで語られると思うが……大事なのは深夜アニメ作品に彼女たちのようなオルタナティブな音楽性の、アニメとはこれまで縁のなかったユニットが起用されたことの意義だ。

P.A.WORKSオルタナティブロックといえば、思い出されるのはやはり2010年の『Angel Beats!』である。同作中には「Girls Dead Monster(ガルデモ)」というガールズバンドが登場した。ギタリスト「ひさ子」の名前は日本のオルタナティブロックの代表的存在・ナンバーガールのギタリスト、田渕ひさ子から取られていると思われるし、ギターボーカルの岩沢が影響を受けたバンドは「Sad Machine」……これはやはりオルタナティブ・ロックバンドである、ART-SCHOOLの楽曲「サッドマシーン」が元ネタと言われている。

当時はいまほどSNSスマートフォンが普及していなかった時代だ。深夜にアニメを観ることも、ヘッドフォンでロックを聴くことも、シェアするためのハードルは様々な意味で高く、自身の内側に深く潜っていく体験として共通の意味合いを持っていた。P.A.WORKSというより(『Angel Beats!』の脚本を担当した)麻枝准の作風と言うべきかもしれないが、オルタナティブロックに特有の焦燥感や無力感、それを音に変換することで理不尽さに立ち向かっていく様をアニメで表現したのは、少なくない視聴者に強いシンパシーを引き起こしたはずだ。そのままでは内側で淀んでいくだけの孤独感も、音楽になることで世界を震わす大きなうねりになるかもしれない。そんな希望を与えてくれる存在として、「ガルデモ」というバンドはアニメの中に存在していた。

 

『色づく世界の明日から』は音楽がキーになる作品ではない。舞台は「写真美術部」ということで、むしろ視覚芸術がキーになる作品である。主人公の少女にしても、ひとりだけ「色が見えない」ということが彼女が抱える孤独感と深くつながっている。そんな彼女はタイムスリップした先で、唯一色を与えてくれる少年と出会うのだという。しかし二人の間には時間という埋めがたい溝がある。その事実は少女が色を取り戻した後にこそ、二人が決して「同じ」世界を生きていないことを彼女に突きつけるだろう。

物語の全編を薄く覆う別離の予感。それを包み込むように鳴らされるのが、ハルカトミユキの歌う主題歌「17才」である。きらびやかなシンセサイザーの音色や神聖さを湛えたコーラスワークも手伝って、一聴してわかりやすく希望を歌った曲のように聴こえるかもしれない。しかし歌詞を注意深く追っていけば、これまで紹介してきた彼女たちの楽曲と共通する、自己と世界との摩擦を強く感じさせる表現に気づくことができる。

たとえば今日までの僕が壊された夜
誰にも愛されていないと感じた夜
ただまっすぐに透き通る明日を
信じることができたならば

眩しくて眩しすぎて瞳凝らしていた
君の心の色さえわからないから

新しい季節と誰かのサイン
見逃さないように僕らは走る
遠くても遠くても それは祈りのように
輝きを探してる
雨上がり 虹が架かるよ

耳コピなので間違っている可能性はあり

自分以外の誰かの「心の色」は、いくら瞳を凝らしてもわからない。相手がどんな色を見ているのかは、かすかに感じ取れる「サイン」を手がかりにして推し量るしかないのだ。人と人との間にある、絶対的な断絶。サビの最後で歌われるように、そこにはただ「祈り」がある。楽曲から感じ取れる光のイメージは、そのようにして束の間差し込むものにすぎないのだ。オルタナティブロックは自己と世界の摩擦を鳴らす音楽であり、他者に100%の自分を預けたりはしない……そんな系譜を汲むミュージシャンガ主題歌を担当する今作は、ありきたりのラブストーリーにはならないはずだ。最後まで物語の行く末を見届けたい。