さようなら、メカクシ団――また、何処かで。
カゲロウプロジェクトの複雑に見える構造を解きほぐしていくと、後に残るのは家族の情や、似たような境遇にある者に対する共感だけだ。小説やアニメなど、「筋(プロット)」を持つはずのメディアに展開されたはずなのに、やはり「何が起こって、こうなったのか」という肝心なところは説明されない。誰かが誰かのことを好きだった、思いやるというエモーションが、切れ切れにこぼれてくるのみである。
カゲプロのキャラクターは、本質的に語りを行っていない。大体の背景は説明されているし、確実に物語を持ってはいるのだが、自ら語るということ(起きた出来事に、独自の解釈を加えること)はしない。状況に直面した際の心情を、そのつど吐露するのみだ。故にカゲロウプロジェクトという対象に私たちが見る「物語」は、必然的に各人各様のものにしかなり得ない。それは自らの心の影とでもいうべきもので、カゲプロのキャラクターに抱く共感とは、自分自身の人生で「いつか、どこかで」抱いた感情と同じであるはずだ(ある音楽を聴いたときに、必ず思い出される記憶のようなもので、やはりカゲプロはどれだけ多くのメディアで展開されようと、そのコアは音楽にあるのだとも言いたくなる)。じん氏が本質的にミュージシャン――「音楽ですべてを語りたい」人物――だからこそ、すべてをキャラクターに語らせることが周到に避けられているともいえるかもしれない。
カゲロウプロジェクトに接することで私たちが得られるのは、名前と最低限の設定、ビジュアルが与えられただけの曖昧な輪郭に対して、共感を行うことのできるという確信である。二次元的なキャラクターが「物語」の拘束を離れて、むき出しのまま晒されているということ。それがカゲロウプロジェクトの世界に起きている事態だからだ*1。
ここからは個人的な述懐になるが、自分はカゲプロに深くコミットするまで、「キャラクターに感情移入する」ということの内実が理解できていなかった。キャラクターの命運は「物語」の拘束を逃れがたく受けるものだと思っていたし、二次創作文化というものもその意味で理解できていたとは言い難かった。
しかしカゲプロは上述のようにキャラクターがむき出しの状態で晒されているのであり、そこにコミットしていくということは「キャラクターに感情移入する」作法を身につけていくということに等しかった(自分は「カゲロウデイズによるループ」の設定を足掛かりにその世界構造を解き明かすことから始めたわけだが、解き明かしていくほどに「母が娘を想う」「姉が妹・弟を想う」のような、シンプルなエモーションのみが残されるということに気づかされたのだ)。これによって得られたのは、他者に対するある種の寛容さであったように思う。二次創作の例ひとつとっても、「本編の展開を無視して、勝手に都合のよいエピソードを付け足すなど何事だ!」のように思っていたのが、「その人にとっては、そのようなエピソードを語らせるだけの何かが、原作のストーリーにあったのだろう」と、他者が原作に対して抱いたエモーションにまで遡って想像するゆとりが生まれたのである。
こうして身につけた「感情移入」の作法は、より一般に敷衍していくべきだと考えている。一連の思考を終えて、カゲロウプロジェクトとは「コンテンツ」であったという気がどうしてもしない。それは寛容さを涵養する一種の触媒、強いて言えば「キャラクターに感情移入する体験」そのものだったように思う。体験は次なるアクションに活かしてこそ意味をもつ。こうして得られた新たな視界とともに、このブログでも新たな題材を積極的に取り上げていこうと思う。
*1:まだ構想の段階ではあるが、「物語」とは「キャラクターと風景の間にあるはずの文脈」と言い換えられるかもしれないと考えている。カゲロウプロジェクトの世界には「風景」が抜け落ちている(せいぜいが「アジト」「学校」「都会」などといった曖昧な語彙で説明されるものにすぎない)。「物語の拘束を離れ、キャラクターがむき出しになっている」状態とは、「風景」が抜け落ちているが故に、そもそも「キャラクター」と「風景」の間に文脈を見出すことができない、という事態を指すのかもしれない。