約束と呪い――「Key」と「久弥直樹」の差分として読み解く「麻枝准」
本テキストは、2015年に刊行した合同誌『Life is like a Melody―麻枝准トリビュート』に寄稿した文章を一部改稿したものです。同書が品切重版未定であることから、編集長・meta2氏の許可を得て転載します。
「麻枝准」の作家性について直接言及することは実は難しい。というのもこのクレジットが記載された作品というのはあくまで「Key」というブランドのもと送り出されてきたゲームやアニメ……集団制作の産物だからである。
逆にいえば、Keyというブランドの「らしさ」、すなわち作家性に相当するものを抽出することは相対的に容易である。「麻枝准」の作家性とはいかなるものかを浮かび上がらせるべく、本稿ではまず「Keyらしさ」とは何かということについて考察を進めていく。
「Keyらしさ」を規定する「久弥直樹的主題」
Keyというブランドの名のもと世に送り出された作品群に共通する特徴とは何か。それは「ここにいない」ものへの感受性である。何か/誰かが「ない」ということが、ストーリー中において異様な存在感を発揮しているといってもいい。
ブランドの第一作である『Kanon』(1999年)においては、メインヒロインである月宮あゆがまさしくこうした「不在」を担っている。あゆは、その「本体」は七年前の事故以来寝たきりであるという、いわば「生き霊」的な存在だ。その時よりあゆは主人公の幸せを祈っており、それが七年ぶりに舞台となる街に帰ってきた主人公の前に「生き霊」として姿を現す理由でもあるのだが、彼女自身のシナリオに進まないかぎりは、あゆは思わせぶりな台詞を残して消えゆくのみだ。
主人公の幸せを一途に願う彼女は、主人公が他のヒロインを選んだとしても、その道行きを祝福する。彼女自身が報われるためには、主人公にあゆを選ばせなければならない……マルチエンディングタイプの恋愛アドベンチャーゲームにおいて、原理的にすべてのヒロインが幸せになることはできない(少なくとも、皆がともに幸せになったという情景を見届けることができない)というこの難題は、俗に「Kanon問題」とも称された*1。
『Kanon』は久弥直樹によって企画された作品だが、彼自身の手によって上述の問題を乗り越えようとしたかのように見える作品が、久弥が全話の脚本を手がけたオリジナルアニメ『天体のメソッド』(2014年)である。北国が舞台、メインキャラクターのひとりが舞台となる街に「七年ぶり」に帰ってくる点など明らかに『Kanon』を反復したかのような設定が見られる本作は、原作としてのノベルゲームを持たないがゆえに、視点キャラクターとしての「主人公」を欠いている。
しかしあゆと同様に「不在」を担うキャラクターは存在しており、それがノエルというキャラクターである。ノエルはメインキャラクターである五人の少年少女が七年前に呼び寄せた「円盤」の現身であり、まさしくファンタジックな……「ここにいない」はずの存在であるのだが、非現実的な力をもって物語に介入することはない。ノエルが作中ですることといえば、せいぜいフォトアルバムなど幼い頃の思い出が詰まった品を、誰かから誰かのもとに運ぶ程度のことだ。しかしノエルを介するからこそ、互いにわだかまりを抱えていた五人は自分の素直な気持ちにいま一度向き合うことができ、元の仲良かった頃の関係性を取り戻していくのである。
Keyの第三作である『CLANNAD』(2004年)においても、ノエルと同様の役割を持ったキャラクターが登場する。そのキャラクター、伊吹風子は本編の始まる二年前に交通事故に遭い、実は病院のベッドに寝たきりという、月宮あゆと同様「生き霊」的な存在である。
まさしく「ここにいない」はずの彼女だが、姉の結婚式を大勢の人で賑わせたいという願いから実体化し、招待状代わりとして、木彫りのヒトデを配り歩いていく。「生き霊」としての彼女は最終的に消えてしまい、誰の記憶にも残らないわけだが、しかしその努力の痕跡は木彫りのヒトデという形で残り、姉の結婚式には名も知らぬ大勢の人々が集う。その情景は、まさに作品全体のテーマである「街は大きな家族」を体現するものだ。主人公・岡崎朋也が結婚し家族を作るという物語に先んじて、「大きな家族」としての「街」というビジョンが、(ノベルゲームの構造上は)傍流たる風子のエピソードを通じて描かれている。
ここでひとつの仮定が成り立つ。「ここにいない」ものの存在によって集団が形作られていく風子のエピソードというのは、麻枝にとっての「Keyらしさ」とは何か、という探求から生みだされたものではないだろうか。そしてその「Keyらしさ」とはとりも直さず、「久弥直樹らしさ」だったのではないか。
久弥直樹は『Kanon』を完成させた直後にKeyを離れた。その理由は私たちに知る由もないが、残された麻枝がKeyというブランドを死守するため、久弥のシナリオを徹底的に研究したことは本人へのインタビューからも確認できる事実だ*2。
このように考えると久弥の不在を埋めるべく、残された個々のメンバーがその才気を注ぎ込んでいったというKeyの歩みそのものを、「Key的=久弥直樹的」であったと表現することもできるだろう。
「麻枝准的主題」とは何か
さて、ここで「麻枝准」の作家性とは何か、という当初の問いに立ち返ってみる。これまで述べてきた「Keyらしさ=久弥直樹らしさ」からはこぼれ落ちてしまう部分……いわばKeyというブランドの無意識ともいえる部分に、「麻枝准」は姿を現すのではないか。
補助線となるのは、麻枝・久弥がともに最初期の企画作品において「約束」というモチーフを中心に据えているという事実である。比較するのは麻枝准企画作品である『ONE~輝く季節へ~』(1998年、以下『ONE』)と久弥直樹企画作品である『Kanon』だが、同じ「約束」というモチーフであっても、その扱われ方は両者の間で大きく異なっている。
『Kanon』は先に触れたようにKeyというブランド名を冠した初めてのタイトルである。企画者である久弥直樹は全五ヒロインのうち三人までのシナリオを自身で手がけており、もちろん月宮あゆのシナリオも彼の担当だ。
本作において、「約束」の内容それ自体が現在の出来事に関わることはほとんどない。舞台となる「雪の街」に七年ぶりに戻ってきた主人公・相沢祐一が、ヒロインである少女たちと過去に交流を持っていたと気づくためのささやかなきっかけとして、「約束」を交わしたそのシーンが回想されるにすぎない。
七年間の断絶が生んだ記憶の齟齬、誤解に基づくネガティブな感情を解きほぐすべく、過去の「約束」をきっかけにして、両者の対話が行われる。あくまで現在の物語を紡いでいくことに、ここでは力点が置かれている。
対する『ONE』はKeyの前身ともいえるブランド、Tacticsによって開発されたノベルゲームである。企画者は麻枝准。全六ヒロインのうち、半数にあたる三ヒロイン(長森瑞佳、七瀬留美、椎名繭)のシナリオを自身で手掛けているとされる。
主人公・折原浩平は妹の死、それに伴う家庭崩壊によって絶望の淵にいた幼いころ、「いつか終わりの来る日常」を否定し、悲しみのない「永遠の世界」を望むようになる。彼にはそんな「永遠」を肯定してくれた幼なじみの少女がいたのだが、その幻影は「永遠の世界」を象徴するイメージとして、現在も彼を縛っている。
浩平はやがてヒロインの一人と親密になるが、かつて幼なじみの少女と交わした「永遠の盟約」に従うようにして、「もうひとつの世界」へと姿を消してしまう。浩平が日常に帰還を果たすのは、かつて少女と交わした盟約を上書きする形で、「いま」隣にいるヒロインとの日々が肯定されたことによる。本作において「約束」とは、かように主人公を縛るものとして、言い換えれば「果たされなければならない」ものとして存在している。
『Kanon』と『ONE』の比較から見えてくる麻枝准に固有の作家性とは、久弥=Keyと同じように「ここにいない」ものに突き動かされつつも、失われてしまえば「二度と戻ることのない」という意識である。だからこそ麻枝の用いる「約束」という言葉には、常に「果たさなければならない」という強迫性が滲んでいるのだ。
麻枝作品において「約束」をした瞬間というのは単に数直線上の「過去」ではなく、どこか現在とは異なるレイヤーに保存されており、そこから現在の、日常への侵入を試みてくるものである。過去に「約束」をした自分とそれを乗り越えていく自分、二つを結びつけるものは「約束をした」というその事実だけであり、それぞれは別人のようになってしまっている。『ONE』において、「永遠の世界」にたたずむ少女「みずか」と、少女の成長した姿であり、ヒロインのひとりである「長森瑞佳」が分裂してしまっているように。
たとえそのことを当人は忘れていたとしても、「約束をした」という事実だけは保存されており、その存在が日常を脅かしていく。そのような意味で麻枝作品における「約束」とは「呪い」である。『AIR』における「翼人」の集合的意識、「星の記憶は、永遠に幸せでなければなりません」とどこからともなく響いてくる声も、こうした至上命令の存在……麻枝の「約束=呪い」観から派生したイメージだと言えるのではないか。
また、このように考えたときにどうしても想起してしまうのが、麻枝の担当したシナリオのクライマックスに頻出する「結婚」という言葉である。
結婚というのは「死が二人を分かつまで……」の定型句を引くまでもなく、まさに究極の「約束」とでも言うべきものである。それは未来におけるお互いの時間を先取りする。その先も共に歩む人生が想像できるからこそ、本来効力を持ち得るものだ。
しかし『Kanon』沢渡真琴シナリオのクライマックス然り、『智代アフター』(2005年)然り、『Angel Beats!』(2011年)におけるユイのエピソード然り、麻枝の書くシナリオにおける「結婚」の宣言とは、あらかじめ失われるとわかっている関係性の、そのまさに失われる瞬間において行われる。逆説的ではあるが、まるで「結婚」をしたことが原因でヒロインが失われてしまうかのようにも感じられるのだ。
麻枝は「約束」をしたその瞬間を「永遠」の向こう側に閉じ込めつつも、日常の延長として「永遠」が続いていくということについては、ことごとく否定するのである。
『Charlotte』の「約束」は「呪い」を打ち破る
麻枝准がメインシナリオを手がけた作品に共通する主題として、「永遠に続く日常」の否定と「約束とは呪いである」という二つのポイントがあることを見てきた。ここで現時点の最新作である『Charlotte』(2015年)に目を移してみたい。結論から言えば、本作においてはそれまでの麻枝作品とは違った形で「約束」が取り交わされることになる。麻枝作品の陥っていたある種の隘路を自ら打ち破る麻枝作品として、本作を位置づけることが可能なのである。
本作では第九話で主人公・乙坂有宇に、ある研究施設で実験体としての日々を送る「ここにない世界」での記憶が甦る。それが本当に自身の体験であるか否かは、会ったばかりの「兄」を名乗る人物の証言のみが頼りである。その兄・隼翼はタイムリープ(時空移動)の特殊能力を持っており、弟と同様に研究施設に幽閉されていた時点から何度も過去へと遡り、現在の有宇たちが平和裏に学園生活を送れる状況を作り上げたのだという。
隼翼にとっては、ともに施設での日々を送っていたのも、何もかもを忘れ、カンニング犯として学園に連行されてきたのも同じ「有宇」である。しかし現在ここに立っている有宇にとっては、学園で友利奈緒や高城丈士朗と出会い、妹の死とその後の自暴自棄な日々、そこからの更生を経ることによって「変わることができた」と感じる現在の「乙坂有宇」こそが、何より肯定すべき「自分」である。ここで第一話冒頭の台詞がリフレインしてくる。
ずっと小さい頃から疑問に思っていた
なぜ自分は自分でしかなく 他人ではないのだろうと
「我思う故に我在り」とは 昔の哲学者の言葉だそうだが
僕は我ではなく 他人を思ってみた
「他人に乗り移る」能力を得たことで他人をいいように利用してきた有宇だったが、「乗り移る」ということは他人そのものに成り代わることでは決してない。他人はどこまで行っても他人であり、ただ「思う」ことしかできないのだということに、第九話時点での有宇は気づいている。自分本位であった主人公が他人の存在を受け入れる、それは麻枝が『Charlotte』の見どころとして掲げていた「主人公の成長」そのものであろう*3。
それでも有宇は、そうして辿り着いた日常を捨て去らなければならない。何度タイムリープしても変わらない、妹・歩未への思いによって。彼の背中を押すのは兄・隼翼の台詞である。「まだやり残したことがある。それは絶対に達成しなくちゃならない、俺たちの約束だったはずだろう」……「現在の」乙坂有宇の与り知らぬところでいつの間にか交わされていたという、(歩未を救うという)「約束」の存在。それはまさしく麻枝の「約束」観――どこか「いま、ここ」とは異なるレイヤーに保存されており、日常をおびやかす「永遠の世界」なるもの――だろう。有宇は過去の麻枝作品の主人公が直面してきたのと同様、その「約束」を「果たさなければならない」。
こうして麻枝作品の定型ともいえるパターンをなぞってきた『Charlotte』だが、最終三話をもって大きくそこから逸脱していくことになる。
歩未の命は有宇が隼翼から引き継いだタイムリープ能力を駆使することによって救われるのだが、その「約束を果たす」という物語が収束した直後、それまでその存在を匂わせてもいなかった「海外のテロ集団」が唐突に現れ、隼翼をリーダーとする組織を壊滅状態に追いやってしまうのである。そこで話は同様の事態を繰り返さないよう、特殊能力自体をこの世から根絶しなければならないという方向に展開する。一見して脈絡を欠いたこの展開は、しかし『Charlotte』がこれまでの麻枝作品のパターンを構造的に超えているということも同時に示している。本稿で述べようとしている新たな「約束」の形というのも、この先に見出されるのだ。
有宇はテロ集団によって引き起こされた事件の後、ある「約束」を友利と交わして国外へと旅立つ。その「約束」とは世界中すべての特殊能力を自身の真の能力「略奪」によって奪って帰ってくるというものだ。
有宇は歩未が死に、自暴自棄の日々を送っていた過去(タイムリープが行われたため、その事実は彼の記憶の中にしかない)において更生の手助けをしてくれた友利に恩を感じており、その感情を有宇は「恋」であると言う。「恩」から「恋」に発展することについて、その不可解さを指摘されても「恋に理屈なんて必要あるか!」と声を荒げるばかりで、そこに明確なロジックは見当たらない。そもそも当の友利との対話の中で、初めてその言葉は口に出されたのである。
意地を張る有宇に仕方なし、といった体で提示した友利の回答、「(全ての能力を奪って帰ってきた暁には)私たちは恋人同士になりましょう」という「約束」は、「絶対に帰ってくる」ということを約束しているだけであり、「恋人になる」ということを約束しているわけではない。本来恋人という関係性の基盤となるはずの恋愛感情の存在についても、「(本当にやり遂げたら)無条件で私は乙坂有宇という存在を愛おしく思うでしょう」と仮定が何重にも重ねられている。
「恋」という言葉でできた器だけの、感情という「中身」が伴っていない空虚な「約束」――このような「約束」をわざわざ交わすことの意味とはなんだろうか。
彼らの「約束」は、これまでの麻枝作品において交わされてきたそれとは根本的に異なっている。心を通じ合わせた二人が「結婚」を宣言して間もなく死に別れてしまうように、『Charlotte』以前の作品においては「死をもってしても引き裂けない(とその瞬間においては信じられている)」感情を、「永遠」の向こう側に閉じ込めるべく行われてきた。風化していく記憶と裏腹に、取り残された一方はその「約束」に縛られ続けるわけで、ゆえに「呪い」なわけだが、有宇と友利に関してはそもそも恋人という関係性が生じていないため、「約束」が達成されなかったとしても友利が「取り残された」という感情を持つ可能性は少ないだろう(残念だな、とは思うかもしれないが)。
つまりこの「約束」の意味とは友利自身も言うように、有宇がこれからしようとしていることへの動機付け、「モチベーションを高める」ということでしかない。しかし逆にいえば、有宇の背中を押し海外へと旅立たせる、その役割は十二分に果たしているわけだ。
『Charlotte』の根幹をなすのは、先に述べたように「主人公である乙坂有宇の成長」である。最終話にも「これからの記録」というサブタイトルが冠されているように、物語全体が「これから=未来」への指向性を持っている。だからこそ、「歩未を救う」という、過去に交わされた(隼翼との)「約束」を果たすというだけでは不十分だったのである。
麻枝の中に「約束とは呪いである」という考えが根を張っていたとして、それが完全に払拭されたのかどうかは私たちにはわからない。しかし少なくとも乙坂有宇というキャラクターが友利との「約束」をきっかけになしえた行動は、既存の麻枝作品が陥っていた「呪い」を解くことに成功している。そのことを証明するように、日本に帰還した有宇は「それまで」の記憶を失っていながらも、友利や歩未、その他の仲間たちとともに穏やかな笑顔を見せているのである。
友利奈緒という「他者」について
最後に、友利奈緒というキャラクターに関しても記しておこう。本来「約束」というのはその内容に関して、両者が平等にリスクを負うことで成立するものである。しかし先に述べたように友利が有宇と交わした「約束」とは、単に有宇の行動を動機付けるものでしかない。友利は文字通り「待っている」だけでよく、その達成の条件に関与しないのだ。
では有宇はたったひとりで、自らに「帰ってくる」と誓うだけで十分だっただろうか? そうでない、ということは本作を実際に観た方ならおわかりだろう。友利との対話の中で「約束」が形を成したことそれ自体が、友利という人物の存在が必要であったことを証明しているのだ。
こちらの呼びかけに対して応えてくれる存在、そんな存在が目の前にいることで、どれだけ未来の輪郭が鮮明になることか。「約束」の内容にでなく、約束を「誰か」と交わすことができるということ、それ自体に価値があるという視座への転換。それはまさしく他者という存在を、人生において価値あるものとして認めるということである。
友利奈緒というヒロインは「永遠の世界」へと共に旅立つ相手ではないかもしれないが、「永遠」を誓い合う前の段階に留まっているからこそ、自律的な「他者」として乙坂有宇という主人公の、いや私たちの前に立ち現われてくるのかもしれない。
*1:「Kanon問題」について詳細は、以下のリンク集 https://bit.ly/2sPTVL0 を参照。
*2:『オールアバウト ビジュアルアーツ~VA20年のキセキ~』(ホビージャパン、2013年)所収のインタビューより。
*3:「電撃オンライン」掲載の麻枝准インタビューより。 http://dengekionline.com/elem/000/001/103/1103671/