『Charlotte』のヒロインがハンディカムを携えているのはなぜか/あるいは「映像」とは何か

「ゲンロン批評再生塾」の第3回ゲスト講師が渡邉大輔さん、テーマが「映像」ということで触発され、アニメ『Charlotte』を題材に文章を書いてみました。「今日、映像=映画とは何か」を改めて問い直すという今回の課題に、『Charlotte』のとあるモチーフについて着目することはまさしく有意義であるように思えたんですね。

 

『ポスト映画の世紀』に、『映画(批評)』は再起動できるか | ゲンロン 佐々木敦 新・批評家育成サイト

 

渡邉さんの求めるところとはずれている可能性があることに加え、そもそもこの企画に殴り込みをかけようなどというつもりは毛頭ないのですが、渡邉さんの「映像」をめぐる関心の持ち方には以前から共感を寄せていたこともあり、ご本人へのアンサーを送れる良い機会かと思い、このような文章を書くに至りました。

 

以下本文です。

 


 

 これから行われることはある種の反則行為である。というのは未だ完結していない、どころかその一端すら垣間見せていない「作品」について論じるからだ。作品のタイトルは『Charlotte』。ノベルゲームのシナリオライターを出自とする麻枝准による5年ぶりのオリジナルアニメーション作品である(5年前に放送されたのが『Angel Beats!』)。しかしこの作品の断片的に公開されている細部に着目することは、今日「映画的である」とはどういうことかの重要なヒントを指し示すように思う。というのもメインヒロインとされるキャラクター(友利奈緒、という)は常にハンディカムを携えた姿で宣伝用ビジュアルに登場するからだ。

 

http://charlotte-anime.jp/news/SYS/CONTENTS/2015033015191491964779/w423

最右の女子生徒が「友利 奈緒」。 

 

 今日「映画とは何か」と問うことは、まず「映像とは何か」という問題設定に立ち戻らざるをえない。というのも現代はLINEのスタンプや「クソコラ」など、画像によるコミュニケーションが全盛の時代だからだ。ドイツ語圏で活動したメディア哲学者、ヴィレム・フルッサーは写真機の発明によって人間文明は「装置」の時代に突入したと宣言した。いわく写真家というのは光量の調整や視角の決定など、写真機の性能を最大限引き出すべく活動するのであり、そこでは人間が主である「道具」を用いた生産のモデルとも、人間が従(もしくは疎外される)である「機械」による生産のモデルとも異なった、特殊な共犯関係が成立しているというのである。そうして出力される写真とは、人間の「意図」によって実現したものともまったく自動的に出力されたとも言い難い。「意図」からは自由なゆえに置かれる文脈によってその解釈は多様であり、しかし完全に自動的な産物ではないがゆえにその解釈には幅がある。テクストは歴史を語るが、写真は歴史の中に位置づけられることで新たにコンテクストを発生させるのである。

 

 写真それ自体は歴史=時間性をもたない、「瞬間」を切り取るメディアである。同じく「装置」である(ビデオ)カメラにより出力されたものでありながら、写真と映像とが決定的に異なるのはこの点である。今さら説明するまでもないが、映像には時間性がある。ビデオカメラとは運動を捉える「装置」であるから、撮影者は視角を決定することはできても、その中に不意に「映り込んでしまう」ものについては制御できない(撮影者の意図は、ビデオカメラの機能が許すかぎりにおいてのみ自由である)。写真=画像によるコミュニケーションに可処分時間の多くが割かれる時代においては、こうした「映り込んでしまうもの」の存在は見えにくくなっている(それはともすると、人々から「偶発性・偶然性」に対する耐久力を奪うことにもつながっているかもしれない)。

 

 さて『Charlotte』であるが、この時代にあえてビデオカメラをモチーフとして導入すること自体が、上述したこの装置の特性を、物語上の主題に昇華するためとは考えられないだろうか。麻枝准は1975年生まれ、スマートフォンに乗り換えたのも最近だというが、シナリオの中に登場させることは仄めかされており(Webラジオにて「スマホ」「スマフォ」どちらの表記にするか悩んだ旨が述べられていた)、その上でキャラクターにハンディカムを持たせたことには必ず意味がある。映像はスマートフォンでも撮影できるが、スマートフォンが本質的にコミュニケーションツール(忘れがちだがこの機器はphone=電話の延長上にある)だということもあり、この機器を通して映像が用いられるのは、専らvineのようなごく短い尺の投稿に特化したWebサービスにおいてだ。通信機能を持たず、映像「しか」出力できないビデオカメラに託されるのは、自ずと長回しの映像というわけである。

 

 ノベルゲームで挿入される「イベントCG」は、「イベント」というからして写真のように「瞬間」を切り取るものである。ゲームの過程で収集したイベントCGが「回想モード」なるアルバムを模した機能によって閲覧可能なように、「写真文化」ともいえるノベルゲームのフィールドを出自とする麻枝が、あらためて「映像とは一体何か」という問いに向き合おうとしているように見えるのは興味深い。アニメーション進出第1作目である『Angel Beats!』では、まだノベルゲームの文法――過去の出来事(回想)をイベント的に挿入し、現在の出来事との距離感・相互作用によって物語を駆動させる――が用いられていた(何せ舞台が「死後の世界」であった)。麻枝は『Charlotte』のインタビューで「前作(『Angel Beats!』)の反省を活かして……」ということをよく言うのだが、それはキャラクターの数が多すぎたからだとか、テレビシリーズ1クールという「尺」の意識に欠けていたからだとか、ファンからは様々に指摘がなされる。しかし、彼自身はそもそも「アニメ(=映像)というメディアの特性とは何か」という、きわめて素朴かつ原理的な問いに立ち返っているのではないだろうか。それは麻枝が得意とする「写真的なもの」――「瞬間」を切り取り、その一点からの距離によって現在地におけるノスタルジーを喚起させる――に加えて、不断の運動により定義づけられる「映像」なるものへの視線が入り込むことを意味する。そのことが「画像の時代」において排除されてしまう「映り込んでしまうもの」とどう向き合うか、という主題に直結するならば、私たちは麻枝の語る物語を通して、「映像=映画とは何か」その答えの一端を掴むことになるだろう。「写真の文法」を極めた者による「映像の文法」の実践。その最新鋭の試みとして、7月度より始まるこの作品を注視していきたい。

 

参考文献:『写真の哲学のために―テクノロジーとヴィジュアルカルチャー』ヴィレム・フルッサー著、深川雅文訳