なぜ人が『Fate/Grand Order』の話をしていると僕の心はざわつくのか

タイトル通り。ぱっと思いつくかぎりで理由を箇条書きにしてみる。

  1. なんかKeyが負けた感じがする
  2. ゼロ年代批評って無力だったのだなと突き付けられる
  3. やり始めた人が知らない言葉を話すようになるのが怖い
  4. 原作(stay night)が好きだからこその複雑な気持ち

順に詳しく見ていく。

 

1. なんかKeyが負けた感じがする
まあぶっちゃけ逆恨みである。ノベルゲームブランドの中ではTYPE-MOONが一人勝ちみたいな状況になってしまった。まあ何をもって勝ちとするかというのはあるが、とりあえずここでは売上である。経済効果。自分はそういうの重視しないって主義だけどノベルゲームの歴史とか知らない人までちやほやしだすのはやっぱり「金になる」からで。痛快っちゃ痛快なんだけどそこにはKeyがいてほしかったなんてことも思ってしまう。まあそうなったらもはやKeyじゃないのかもしれないけど…僕はやっぱり常にマイノリティの側に寄り添うKeyが好きです、なんて綺麗事で締めようにも、どうしても強がりに聞こえてしまうのが問題なんだよなあ。

 

2. ゼロ年代批評って無力だったのだなと突き付けられる
Fateが勝ったから結局決断主義じゃん! みたいなことではなくて、むしろ動ポモ→ゼロ想みたいな文脈とは無関係に流行ってるのが問題なわけで。結局ソシャゲのシステムと英霊召喚てシステムの相性がよかっただけでそこで展開されていたオリジナルstay nightの物語性ってのが覇権をとったって話でもない気がするんだよなあ。まあ同じ人が書いてるんだしそういうstay nightの流れを汲んだテーマ性が展開されてるのかもしれないけどさ。やっぱり批評がシステムに敗北したことの象徴として映っちゃうとこはある。実際プレイしてない僕の眼にはね。

補足(2017/06/02):「批評がシステムに敗北した」これ、反応見た感じ誤解も生じていそうだったので、意味合いを詳述したツイートを貼り付けておきます。

 

3. やり始めた人が知らない言葉を話すようになるのが怖い
これはソシャゲ一般の性質だと思うけど、さすがに「ソーシャル」ゲーム、SNSとの相性がよくて、やれガチャが当たっただの、やれイベントが発生しただの、メンテだの、生活のスキマに入ってくるから同じくスキマに投稿するものであるツイートの内容がどんどん侵食されていく。ちょっと前まで同じ言葉をしゃべってた友達が急に宇宙語話し始めたみたいな、そういう怖さがある。
ちなみにここまで読んで「そんなに言うならまずはやってみればいいじゃない!」という声がくるのももちろん予想済みで、やりました。でもなんか駄目でしたね…これまたソシャゲ一般の話だと思うんですけど、なんか画面に情報過多でわけわかんなくなる。『ヱクリヲ6』で横山宏介さんが論じてたような、新宿的なバッドデザインというのかな…あとスマホが古いので動きが遅い、すぐに電池食う(のでできない)というきわめて実際的な問題も。

 

4. 原作(stay night)が好きだからこその複雑な気持ち
ある意味本題。Fateですけど、オリジナルstay nightは好きなとこあるんです。どころかUnlimited Blade WorksにかぎっていえばひょっとしたらKeyと同じくらいに人生的な影響あるかもしれない。でもだからこそ愛憎なんですよねー…インタビューで奈須氏も明言してることですけど、stay nightを衛宮士郎の物語としたときにHeaven's Feelで「正義の味方」という理想を捨てて間桐桜という「ただひとりの味方」となる決断をしたときに初めて士郎は人間になれたのだ、みたいな言説があるじゃないですか。僕はほんとにそれってどーーーでもいいと思ってるんですよね。未来の自分(アーチャー)にお前の人生地獄だぞと言われても、それでも理想を貫くんだと剣を振り続けて、その美しさに見惚れたアーチャーが一瞬油断してやられてしまう、あれが最高に美しく人生とはかくあるべきだと思うのですよ。だからそういうアーチャー=英霊エミヤがただのカードみたいに扱われる『FGO』のシステムに納得いかないというか。話に聞くところによると過去のFateシリーズに出てきた英霊っていうのは『FGO』のメインストーリーには絡まないということですけど、だからこそただの「レアカード」として消費されるのにうーーーんとなる気持ちがある。こう書くと「原作やってから出直してこい!」的なロートルっぽくもあるんですけど、事はそう単純じゃないように思うのですよね。だってFateというのは「物語の物語」みたいなとこあるわけだから。史実や伝承を基にしたキャラだったらね、ウィキペディアでもいいかもしれないけど、やっぱりエミヤはさ。っていう。

 

以上、完全に勢いに任せた殴り書きでした。たまにはこういうのもいいでしょう。オチもないです。

 


 

追記(2017/06/01):なんだか話題になってしまった…Twitterでの反応見るかぎり「まだゼロ年代批評やらにこだわってる奴がいたのか!」という“珍獣発見”的な反応と、「FGOやってないのにFGOを語るのは最悪」という反応の二つが大きいみたいで、まあ前者については自覚もあるので黙って苦笑するより他ないんだけど、後者については思うところがあるのでこの追記を書いている。

(当の「ゼロ年代批評」が「当該の作品に触れずに知ったような顔で論じる」ものだという指摘もあった。これについてはそういうこともあったかもしれないと言うに留めておくけど、少なくとも本稿においては『FGO』というコンテンツの是非について語ったものではないということは改めて強調しておきたい。あくまでこの「新・国民的」ともいえる大ヒットコンテンツの盛り上がりに対して、その外側にいる者としての個人的な所感を述べたものなのです)

本文の「3」にも書いたけどソシャゲって生活のスキマ時間に入ってくるもので、自然SNS上でもその話題は多くなる。話題をシェアするという楽しさまで含めて「ゲーム」が設計されてるようなところはあるのではないかと思う。そういう意味では当該のアプリをダウンロードしていなくても、そのゲームのプレイヤーとSNS上で相互フォローだったりしたらある意味「ゲーム」に巻き込まれているということができると思うのです。アプリをダウンロードしていないので「何を話しているんだ?」としか思えなくても、そう思った時点で「ゲーム」の一部というか…前段で「外側にいる者としての所感」と書きましたけど、そういう意味では「外側」なんてものはないのかもしれない。少なくともソシャゲの「作品」としての境界線ってすごく曖昧なものだと思うのです。だから「アプリをやらずに語るなんておかしい」という件の指摘は、(ソシャゲの「作品」としての境界をあくまでアプリ内のシステムとするならば)その通りだともいえるし、(SNS上のコミュニケーションも「作品」に含むというのであれば)的外れであるともいえる。ソシャゲにおける「作品」の範囲はどこまでなのか…少なくない人の感情に今回の記事が触れてしまったことの原因として、そういう未解決の問題が含まれているような気がしたのですが、みなさんどう思いますでしょうか。