「批評再生塾第3期」の修了と、この一年で僕自身に起きた変化について

批評再生塾というプログラムが終わってから振り返りのエントリを書いていなかったので(前回の投稿は最終課題の提出前)。

 

最終講評会がさる4月13日行われ、その模様はYouTubeで見ることができる。

 

いろいろな要因があったとは思うが、結果的に自分は最終の6名に滑り込むことができた。その論考はこちら

「オルタナティブ・ゼロ年代」の構想力――時空間認識の批評に向けて – 新・批評家育成サイト

詳しくは割愛するが、今後の思考/試行につながる数多くの示唆を壇上でも得ることができたと思う。

 

ポップカルチャー回講師のさやわかさん(@someru)から、審査員賞(さやわか賞)もいただくことができた。授賞コメント(の一部)がこちら

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つまり彼は、ゼロ年代批評やセカイ系に拘泥しているつもりなのでしょうが、そこを踏み越えて、彼自身が思っている以上に10年代のがわにいる人間なのです。そして今回、彼は無意識にか、そうした自身の状況を説明するための批評へと、踏み出しました。これはゼロ年代批評の延命ではなく、10年代の批評を試みています。

ゼロ年代」や「セカイ系」をめぐるテクストはツールとして有用だ、という信念のもとに10年代を論じる、ということにトライしてきたつもりなので、モチベーションの実態は若干違うのだけれど、「書く」という運動の中で混乱が生じていたのは事実だし、とても的確に僕という書き手が置かれている状況をとらえてくださっている選評だ。

このあと選評は、「そうした文脈を正しく評価できるのは、同じようにゼロ年代批評のことを理解しつつ、横断的に書いてきた現役の書き手だけです。つまり僕です。だから彼を評価できるのは自分だけだという自尊心をもって、彼を僕の個人賞としたいと思います」と続く。つまり論自体の完成度はまだまだでも、同じ方向を見ている「同志」がここにいる、という旨の授賞であり、そのことがよりいっそう今後も書き続けていこう、という気持ちを強くする。称号や名誉なんかとは全然違ううれしさが、そこにはある。

 

ここからは約一年間のプログラムを通して、僕自身に起こった変化を書く。便宜上そう名指してはいるところはあるものの、これをもって「批評」とはこういうものだ、と主張する意図はない。

 

自分にとって批評再生塾は、自分の「世界との向き合い方」こそが正しいと思っている人、「書く」ことでそれを証明したいと思っている人にこそ薦めたい場だ。他ならぬ僕がそういう人だったからなのだけど、しかしこれは逆説的な意味においてである。

実際には賞を獲ったり、優秀作に選ばれてプレゼンの機会を得ることは、僕の抱えているもやもやにとって本質的な解決にはならなかった。4期にむけた佐々木先生の檄文にもあるように、「批評」とは書き手の「世界に臨む姿勢」が示されたものではあるけれど、同時に「読み」に開かれていなければならない。完結した構築性が一方で求められる創作よりも、相対的により強く他者による「読み」によってこの「批評」というジャンルは成立している。自分の書いたものも、また「批評」にさらされるということが自ずと強く意識される。

批評再生塾には、そのことを実感させてくれるプログラムがあった。投稿文のウェブ上での公開、ニコ生でのプレゼン、下読み(チューター)制度、実作者自らが「批評対象」として出向いてくださるというのもそうだ(実作者ゲストは、ジャンルや自作に対して「批評的」な視点を持っていると、佐々木先生によって選定された方々だ)。

戦って勝つ、受賞して自分の「世界に臨む姿勢(セカイ)」を認めさせる、ということしか考えられなかった自分は、3期のプログラムを通じて他者(講師の方々、読者、そして同期の受講生…)に出会い、そのような「セカイ」に生きてしまっていることを言葉にし、対話の糸口とするための手続きを学んだ。それは他者に「理解してもらう」ということではない。あくまで一緒のテーブルについてもらうための方法論だ。

自分とは異なる「世界に臨む姿勢」がたくさんあり、それらの間に「正しさ」はなく、かといってそのことに立ちすくむこともない……そんな「構え」のようなものが、プログラムを通じてインストールされたと思っている。

 

ともにプログラムを駆け抜けた同期生に対しては、上記のような「構え」がインストールされた人間としての「信頼」がある。もともと異なる「世界に臨む姿勢」があったのだから、同質の「構え」がインストールされた現在でも(いや、プログラムを経てよりいっそう)関心をもつ対象や相手どる課題のばらばらさは際立っている。そういう意味でも、ここでいう「信頼」というのは単純な仲間意識とは違う。しかし、趣味や嗜好などといったレベルにとどまらず、「世界に臨む姿勢」そのものの違いを認め合いなお残る「信頼」とは、一生のうちでいくら得られるかという類のものだ。こうした他者との関係がありうると知れたこと自体、人生の大きな財産だと思っている。