映画『聲の形』感想

 

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映画『聲の形』を観た。鑑賞後初めに思ったのは、この映画は「差別」や「いじめ」についての映画ではなく、むしろそれらがなぜ起きてしまうのか、ということを問題にしている映画だということだ。結論からいえばそれは「聴こえる/聴こえない」「話せる/話せない」といった分断線を引くということで、それを引かずにあいまいな状態というのをいかに受け入れるか、ということがストーリーと映像表現、双方の水準で目指されている。

アニメーションというのは「あいだ」の芸術であると思う。「動いている/動いていない」の間を観ているのが、観客にとっての「アニメーションを観る」という体験だからだ。京都アニメーションはこの「あいだ」を表現することに一貫してこだわってきたスタジオである。その端緒は『涼宮ハルヒの憂鬱』における「閉鎖空間」や『CLANNAD』における「幻想世界」などに見出すことができるだろうが、夢と現、現在と過去の間を行き来するような映像表現というのはその後も幾度となく繰り返されてきた。それが「水」という、現実にも存在する物質を介して行われたのが『ハイ☆スピード!』であり、それは同スタジオのひとつの到達点だったと思うのだが(詳しくは過去に書いたこちらの記事を参照)、今作『聲の形』はまた違った角度からこの方向性に切り込んでいる。

 

アニメにおける「声」というのは必要不可欠ともいえるしまるで関係ないともいえる。アニメーション、というのは元々「絵を動かす」ということに掛かっている言葉だし、当然無声アニメーションというのも存在するからだ。そんな特異点ともいえる「声」を持たない、そのことを本人(西宮硝子)も周囲も問題にしているという状況から始まる物語というのを、「あいだ」を描くことを追求してきたアニメーション制作会社の生理が選んだということなのではないだろうか。聴覚障害者への「配慮」の有無が封切り後大きな話題になったが、むしろそういった「障害者である/障害者でない」という分断をいかにして回避し、あいまいな「あいだ」の状態を肯定できるかということが問題になっているのである。

「分断」を踏み越えたところにいるキャラクターというのは何人か登場し、たとえば硝子の「妹」ということになっている結弦の性別は最後まで決定的な証拠を示されずに終わるし、見るからに外国人風の外見でありながら何の説明もなく石田家に同居しているマリアも「日本人/外国人」「家族/非家族」といったボーダーを踏み越えたところにいる存在である。また主人公の石田将也は序盤何事につけ「理由」を求める人物として描写されているが、「原因」を特定し「以前/以後」のスラッシュを引くことで安心を得ようとする彼のそうした二分法的な態度は、「被害者/加害者」という構図を再生産し、硝子の自殺未遂という悲劇を招いてしまう(硝子は今度は自分が「加害者」だと思い込んでしまった)。そのことを鋭く指摘するのが植野というキャラクターで、彼女はそうした分断線というのを一貫してくだらない、ナンセンスだと切り捨てる存在という点で今作の最大のキーパーソンである。もちろん小学生時代の彼女の言動・行動は褒められたものではないが、しかし彼らが真に気づくべきだったのは、たとえば補聴器を奪って壊すといった行動が「いけないこと」なのは相手が「障害者だから」ではなく、単に「他人の持ち物を奪って壊す」という行為が許されざるものである、ということだったのではないか。 今作を観て「聴覚障害者への『配慮』が足りない」と嘯く人たちには、こうした点に注目して(とりわけ植野の所作ふるまいに注目して)今作を観直してほしいと願うばかりである。

 

音楽についても触れておこう。今作の劇伴を担当するのはソロユニット「agraph」名義で活動する電子音楽家・牛尾憲輔氏である。彼は音楽界きってのアニメオタクとして知られ、その知識量の一端は過去にナタリーで公開されたインタビューでも垣間見ることができるのだが、とにかく今作の劇伴の凄みは「つなぎ目を感じさせない」というところにある。シーンとシーンの間で、一端無音になって場面が切り替わるということが基本なく、それは「始まり/終わり」という分断線を引かないという意味で作品全体に共有されている意識と通底している。もちろんサウンドトラックの曲目リストを見れば数分間の楽曲の集合体であることはわかるのだが、「このシーンに合わせてこういう曲を」という発注の仕方をどうにもされていないように感じられるのだ。

そう思って牛尾氏の今作についてのインタビューがないか探してみたところ、まさにといった内容の記事が発見された。

 

 

正直黙って読んでくれとしか言いようのない内容なのだが、抜粋すると「音楽や映画だけでなく、絵画や彫刻、舞踊、写真、建築」まで含めた「自分たちがいいと思い、この作品にとってふさわしいと思うものが、映画『聲の形』の根幹をなすコンセプトとなって」いったと。「普通、音響監督や選曲の方から音楽メニューという、こういうシーンがあるのでこういう曲を作ってくださいという指示書をいただくんですね。ところが今回はそれが2、3曲だけだった。それはなぜかというと、コンセプトワークを最初に2人で徹底的に行ったからです。」「(山田尚子監督と)2人で週に一度レコーディングスタジオに入って、その時点でできている映像へ、実際にスケッチの曲を当ててみたり、合わせたものを観てアレンジを変えてみたり、もっと別の曲が必要だと思えばその場で作ったりといった作業をひたすら続けていったんです。」とのことだった。牛尾氏は山田監督とのそうした共同作業を「セッション」のようだったと表現しているが、 確かにそれは各楽器パートの役割を超え、一体となって純音楽的な探究に没頭する「セッション」そのものだろう。 映画監督と音楽家、発注をする側と受ける側、という分断線が融解し、ひとつの「作品」を作り上げるという一点にのみ神経が注がれているのである。聴覚障害という「無音の世界」を題材にしながらも、同時にきわめて本質的な意味で「音楽的」な映画でもある。アニメーションにおける「音」や「音楽」の存在について語る上で、避けて通ることはできないマスターピースが誕生したといえるだろう。

 

  

 

『君の名は。』感想

11月某日、結局『君の名は。』を観た。以前「金輪際能動的に観ることはないだろう」などと書いたが、そうはならなかったことをお許しいただきたい。ただ「嘘をついた」という感覚もなくて、この記事を書いたときとは状況が変わったというのがある。それはRADWIMPSがオリジナルアルバムをリリースしたということに尽きるのだが、畢竟僕にとって『君の名は。』という作品(をめぐる言説)への違和感というのは「RADWIMPSというバンドの物語」がまったく語られていないことに拠っていたのであって、それはバンドの表現をあまり好きになれないということ以前の問題であった。「アンチということはそれだけ気にかけていることの裏返しだ」というのはこの件に関してはまさしくそうで、自分の土台になっているのは「ロキノン文化」だという自覚があるからこそバンドの固有名詞に最も反応するし、そのメインストリームを形作ってきたバンドとしては元から十分にその存在を認めていた(と言ったら偉そうかもしれないが)。

このリリースタイミングで単独の、バンドとしてのインタビューが出てきたことでようやく『君の名は。』という映像作品と「ロキノン文化」を切り離して見れるようになった気がする。「ロキノン文化」というのは表現主義、「二万字インタビュー」に象徴されるような「内面」の召喚……つまり現代において最も愚直に(褒めてはいない)近代「文学」を継承している批評のあり方なのだが、これはロッキング・オン・ジャパン誌の一方的なレッテル張りというよりも、評されるバンド(とその周囲のファン)の共犯関係によって成立するものである。「二万字インタビュー」で「半生」を語ることによって晒け出された「傷」にその「表現」の根拠を求めるというわけだ。ミュージシャンの側も積極的に「傷」を明かすことによってその渦の中に飲み込まれていく……私見だがRADWIMPS、というか野田洋次郎はこのような「ロキノン・スパイラル」にどっぷり浸かった最後の世代なのではないかと思われる(音楽的には彼らに多大な影響を受けているはずの米津玄師たちの世代を、「ロキノン」誌のインタビュアーは取り扱いかねている印象がある)。つまりこのような文化の中でどっぷり10代を過ごした者にとって「RADWIMPS」という名前が召喚された時点でそこに表現主義的な読みが起動してしまうのである。正直「新海誠」なんかより全然“強い”名前なのだ。「ロキノン文化」においては、そのバンドのフロントマンの自意識の吐露、開陳される「傷」に「共感」できるか否かが唯一の判断基準になる。僕が『君の名は。』を観るのを渋っていたのは結局それなのだ。自分はかつてRADWIMPS……というか野田洋次郎が「ロキノン」誌で開陳してきた「内面」や「傷」に拒否反応を示してしまったから。表現がいくら卓抜であろうと目に入らなくなってしまう(表現自体が稚拙だ、と感じた場合も「ああ、やっぱりああいう内面の人だから」と考えてしまうのだから結局同じである)。

今回のタイミングで開陳された「内面」とは「結成以来のドラマーが病気により叩けなくなり、脱退・解散の機器に直面したが周囲の支えもあって乗り切り、その過程で新海氏との出会いや楽曲提供などの機会に恵まれ結果的にバンドの風通しがよくなった。過去もっとも“開けた”モードで制作された気分がアルバムに結実している」という「物語」であった。まあこれは非常にわかりやすいというか、とても“健全”で“真っ当”な話だろう。つまりRADWIMPSは自身の「傷」というか「毒」を出すということを少なくとも『君の名は。』においてはほとんど行わなかった……それはネガティブな意味ではなく、むしろポジティブな意味合いとしてそうだったのだ。僕は彼らの表現を好かないと言い続けながらも、どこか新海氏に対して全力でぶつかっていない、「お仕事」でやっているだけなんじゃないか? という二重にねじれた不満というのを持っていたのだが、このような「物語」を経由することでそれも解消した。そんなわけで、きわめてフラットな気持ちで映画館に足を運んだということをまずは言っておく。

 

では、実際観た『君の名は。』はどうだったのか。それを語るにも、まずはRADWIMPSというバンドのことを語る必要がある(今度は「内面」とかの話ではなく、技術的な話なのでご安心を)。

RADWIMPSは表現の水準においても「共感か、否か」を推し進めたという意味で画期をなしたバンドであると思う。以前の記事では歌詞が「野田洋次郎の個人的な体験」に根差していることがRADWIMPSを「共感性の音楽」たらしめている根拠としたが、技術的に言えばその性質は歌詞のワード数や楽器隊のフレージングの「情報量の多さ」に下支えされているところがある。僕がRADWIMPSを知ったのは「有心論」というシングル曲からだが、ラップともポエトリーリーディングとも違う、とにかくまくしたてるように言葉を連射するその「歌」に当時は衝撃を受けたものだ。そのとき感じたのは「処理が追いつかない」ということだが、これがなぜ「共感性の音楽」を下支えするのか。認知限界という言葉があるが、あまりに巨大な情報のフローに当てられたとき、どこかのタイミングでただ流れてくる情報を浴びるだけになる。つまり言葉の持つ重要な分節機能というのが機能しなくなり、「解釈」という第三項を介さずに情報のフロー=“事実”を受け止めるようになるのである。RADWIMPSの、特にアッパーな曲の歌詞を初見ですべて書き起こすというのはまず不可能だ。せいぜいが印象的なワードやフレーズを拾うのみになる。そして野田洋次郎はおそらく(きちんと分析したことはないが)、大量の情報の中に引っかかりを残す一語を忍び込ませるということに長けている。それは洪水の中ですがる板切れのようなものなので、ぴたりと嵌まればワンワードで撃ち抜かれることにもなるだろうが、それが全くピンとこなかったときの落胆というのもまた凄まじいものである。

そして面白いことに『君の名は。』という映画自体にも僕はこれと同様の感想を持ったのである。新海誠監督作品と言われているが、ジブリアニメで活躍した凄腕アニメーターの安藤雅司、記号的にして現代的なキャラクターデザインで一斉を風靡する田中将賀、そしてロックバンドとしては10年のキャリアを誇るが、劇伴作家としてはいわば「素人」のRADWIMPS。加えて新海氏の「風景」や「人工物」に対する執念めいた描き込みというものも相当なもので、これらが有機的に結び付いているというよりはオードブル的にばらばらのままひとつの皿に出された、という印象を僕は持った。まず「どこから手をつけようかな」という判断を漫画や小説などの静的なメディアであれば挟むことができるが、映画という「スペクタクル」の芸術においてはその暇(いとま)はない。クライマックス付近の、主人公の男女が現世と幽世の狭間のような場所で思いを交わし合うシーンに辿り着く頃には、「ああ、ここが盛り上がるところなんだろうな」とは思いつつも何がどうしてそこに至ったかをまったく処理できておらず「どうして彼女の名前が思い出せないんだ!!!」と叫ぶ男性主人公の狼狽ぶりに思わず吹き出してしまった。

「情報量が多い」ということはそのままこの映画が「大ヒット」していることの要因であるような気もする。要するに初見で処理することができないからリピーターが多いのでは、ということだ。あとは言いたいことがシンプルだから、圧倒的な情報の奔流に呑まれた後に残るものに、虚脱感込みの満足感を得ている人が多いのだろうと推察する。言いたいこと、というのは「思い出したいのに思い出せないもどかしさ」というか、そういう想い人への想い? みたいなもので、俗に言う“恋心”というやつなのだろう、かつてそういった想いを抱いた人、現在進行形でそういう想いを抱いている人には特に受けているのだろうと思われる。自分にはピンとこなかったが……代わりに100mを全力疾走した後の疲れに似たものだけが残った(内容を評する以前に、内容を追おうとして最後まで追い付けなかった、という感覚)。

 

個人的には最近読んだ二つの本を強く思い出させる映画であった。ひとつは柴那典『ヒットの崩壊』。「ヒットチャート」というものが機能しなくなった現在、「ヒット」とはどのようにして生まれるのか、そもそも「ヒット」とはなんであったか? というテーマを、筆者のメインフィールドであるポピュラー音楽(氏はもともと「ロッキング・オン・ジャパン」のライターである)を事例に読み解いていく本で、この本を読んで「ヒットって結局、計算だけでは生まれない」との考えに至ったことも『君の名は。』に足を運ぶに至った要因のひとつである。観終えたあとに思い出したのは海外受けする日本発の音楽は“過圧縮ポップ”ともいえる情報量の多さ、ごった煮感が特徴であるとのくだりで、実例として挙げられていたのがBABYMETAL、マキシマム ザ ホルモンなどの「ミクスチャー・ロック」、およびヴィジュアル系バンドであった。『君の名は。』の「情報量の多さ」も、今であれば「日本的」なものとして受け止められるのかもしれない。

もうひとつは大塚英志の『感情化する社会』だ。今上天皇の生前退位「お気持ち」表明についての話題を皮切りに、文学(小説)においても「気持ち」への「共感」ばかりが持て囃される状況に対して苦言を呈したもの……というと何やら固い本のように思えるが、近代文学というものが「内面」を発明/捏造してきた歴史を無化するようにして「共感」によってつながるSNSが勃興し、そもそも「内面」など持ちようもない人工知能botがそのSNS上においてはむしろ「内面」を持っているように見える……などの逆説をさまざまに描き出していて文芸/メディア批評として興味深い。「内面」と「共感」の相克ということについてはRADWIMPSを語る際にも言及したが、そこで起きていたのがいわば「内面」に「共感」するような事態であったのに対して、小説を事例とするこちらの本で提示されている見立ては少し異なる。それは「音楽」と「小説」というメディアの違いなのかもしれないし、翻って『君の名は。』という映画作品においてはどうか、ということに考えが至りもする。

二つの本を通して『君の名は。』について考えたとき、やはり思い出すのは「セカイ系」のことだ。「君と僕」の二者関係=恋愛にテーマを絞っているという意味では『ほしのこえ』と全く変わっておらず、何が起きたかということよりも事態に直面した主人公の「気持ち」が優先されるというのもまた同様である。ただその伝え方が『ほしのこえ』とは正反対のものになっていて、『ほしのこえ』が余計なものをそぎ落として最小限の要素で作られた「引き算」の作品だとしたら、『君の名は。』は要素を盛りに盛った「足し算」の発想で作られた作品である。これは新海氏を取り巻く制作環境が変わった(身も蓋もない言い方をすれば、今回は「お金」と「人」を使うことができた)ことと、デジタル技術が当時から飛躍的に進歩し、高解像度でより多くの情報量を画面に描き出せるようになったことの二つが大きいだろう。いかに要素を「使わない」かというところに「引き算」の発想、「わび・さび」の精神はあると思うのだが、もしかしたら新海氏は『ほしのこえ』の頃から「使わない」のではなく「(制作費その他の理由で)使えない」だけだったのかもしれない。『君の名は。』は、使えるものは全部使おう、という精神で要素が追加されていったように思えるのだ。

そうして生まれた作品は図らずも「日本的」な特徴を備えている。それが柴氏の著作でも言及された「過圧縮」ということで、おそらく現代において「JAPAN」を感じさせる大きな要因になっている。これが海外の人から見た「JAPAN」なのが重要で、大量の情報に直面した時頭が適当に不要な情報をシャットアウトするのは受け手の側に「引き算」の構えが生まれていることを意味する。「わび・さび」を精神論だとすれば文化的にその素養がない人(つまり海外の人)は理解できない、ということになってしまうが、情報の取り扱いという観点からすれば、過度の情報を与えることによって(どの国出身の人であろうと)受け手の側に「引き算=わび・さび」の構えを発生させることができるのだ。この意味で『君の名は。』のような作品は「“日本的”な作品」ではなく、「(観る側に)“日本的”な鑑賞態度を要請する作品」と言えるだろう。国産コンテンツの海外輸出という観点から見たとき、このような作り方はより一般化していくのかもしれない。自分としては削ぎ落とされた最小限の要素で構成されたものに惹かれるので、そうした作品も残っていってほしいものだが……少なくとも新海氏にそれを求めるのはもはや酷なのだろう。

 

MUSICA(ムジカ) 2016年 12 月号 [雑誌]

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ヒットの崩壊 (講談社現代新書)

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感情化する社会

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『planetarian〜星の人〜』鑑賞記録――「Key」とは何か

 

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映画『planetarian〜星の人〜』を観てきた。Keyとは何か、ということについて、とても示唆深いものを与えてくれる映画だった。

planetarian』の原作には麻枝准樋上いたる折戸伸治、どの名もメインスタッフとしてクレジットされていない。でもKeyの作品である。それは一体どういうことなのか。

他ならぬ、「星の人」のエピソードがそれを証立てている。

 

 

「意志」を託す話

 

planetarian』本編(アニメでいえば、配信版のラスト)で「屑屋」は「星屋」になることを決意する。古きものの残骸からかろうじて生きる糧を見出す仕事から、形はないけれど人が生きる上で最も大切なものを生み出す仕事に鞍替えするのだ。

小さな投影機を携え滅びゆく世界をめぐり、星の話を語り聞かせる。老人になり肺を病んだ彼が最期に辿り着いた集落で出会った三人の子供たち。彼らに星の美しさを教え、ゆめみのメモリを託して逝く。

メモリーカードを受け取った少年少女たちは永遠にその使い方や中身を知ることは無いが、プラネタリウムを見て星の話を聞いた事は、彼らの中に一生残る。

— 星の人 (@yuji_isogai) 2016年9月3日

どんなに過酷な世界であっても、決して希望を失わないという「意志」を託す話なのだ。

 

Keyという名は(あらゆる屋号というものがそうなのかもしれないが)意志が受け継がれているということの符牒としてある。具体的にそれと名指せる対象はないのだけど、受け手たる我々の心の中には確かに「ある」と信じられるもの。

星というのもそのようなものであると思う。そもそも星の光は遅れて届くのだ。我々は星を手にすることはできない。だけど心の中には確かにある。

 

「Key」とは「星」のことなのである。

  

planetarian』で「屑屋」あらため「星の人」を演じた小野大輔は、Key作品において『AIR』(国崎往人)、『Charlotte』(乙坂隼翼)と「大切な人を見送り、その思いを受け取って前に進んでいく」役を演じている(『planetarian』の舞台挨拶や『Charlotte』最終巻付属のラジオCDで自ら言及している)。

「受け継がれる意志」の話として見れば――つまり小野が演じた隼翼を主人公として見れば――『Charlotte』もまたKeyの系譜に連なる作品だということが言えるだろう。

Keyというよりは「麻枝准」の作品であることが強く打ち出されてきた『Charlotte』。確かに乙坂有宇を主人公として見たとき、タイムリープできない(しない)ということや記憶喪失などのモチーフから、『AIR』や『智代アフター』などと同じく「麻枝准」の作家性とされる「不能性に止まること(東浩紀)」を見出すのは容易い。

しかし隼翼という人物を配置し小野大輔を起用しているという事実が、何より強くこの作品が「Key」の作品であることを主張しているといえるのではないだろうか。

 

 

Charlotte』と『君の名は。』、ふたつの彗星

 

Charlotte』にも彗星が登場するが、新海誠の『君の名は。』においても彗星が重要なファクターとして登場している。この作品における彗星は震災のメタファー――美しいものであると同時に、厄災をもたらす崇高なもの――として用いられていて、そのことは複数の論者によって指摘されてもいる。しかし星というのは美しいだけの、あるいは厄災をもたらすだけのものであっただろうか。

自然現象としてでなく、あくまでそれを見つめる人間の側に立てば、「星」が象徴するテーマとは届きそうで届かないものに「手を伸ばす」ということであると自分は思う。美しさに対する憧れと、そこに届こうとする人の意志の象徴なのだ。あるいは彗星であれば周回軌道を描くことから、「繰り返し」「次代へつなぐ」ことの象徴としても捉えられるかもしれない。 

麻枝准が震災という事件を全く意識することがなかったといえば、そんなことは決してないだろう。しかし、麻枝准は彗星を地球に落とさなかった。あくまでその影響を受け特殊能力を発現させた、思春期の少年少女の人生のゆくえにのみフォーカスした。

ことさら震災というものを暗示するまでもなく、人ひとりの背に負うには大きすぎる「過酷」との向き合い方を、一貫して描いてきたのが麻枝准という作家だった。
Charlotte』において彗星の存在があくまで背景情報として処理され、内容的には「約束」や「家族の再生」といったKeyおなじみといえる主題をめぐることに終始したのは、それらの主題に時代性を超えた普遍的な強度があるということに他ならない。

 

それぞれ『AIR』『ほしのこえ』で、2000年代を象徴する作家として名前を挙げられることも多かった麻枝准新海誠。その共通する資質は先にも言った「不能性」……「つながらない」ということの感覚であったわけだが、麻枝准は『Charlotte』において有宇と隼翼の兄弟に「不能性」と「受け継がれる意志」をそれぞれ託し、新海誠は『君の名は。』においてそれまでの作品では結ばれずに終わった男女を再会させるという「真っ当なハッピーエンド」に着地した。

麻枝准はひとりのクリエイターであると同時に「Key」を担う一員でもあり、新海は自らの名前を背負って作家的に活動する道を選んだ。その違いが同じく彗星を主要なモチーフとして採用した最新作に表れているのだと思う。 

 

 

「鍵っ子」から「星の人」へ

 

「鍵っ子」という言葉がある。熱心なKey作品のファンを指して言う言葉だが、Keyの作品から何か大切なものを受け取り、自らの人生において伝えていくというのであれば、それはもう「星の人」と呼ばれるべきなのではないだろうか。

麻枝准も、樋上いたるも、折戸伸治も、その他の加わっては離れていったスタッフも――みな等しく「星の人」である。逆説的だけれど、「Key」としか言いようのない何かがあるからこそ「Key」は存在するのだ。それを続かせていくのは、その存在を信じる私たち一人ひとりの意志でもある。

 

「星の人」に、なろう。