Key ORCHESTRA CONCERT 2019

東京・六本木のサントリーホールで行われた、「Key ORCHESTRA CONCERT 2019」に行ってきた。

Key ORCHESTRA CONCERT 2019〜祝!20周年。最大の感謝と感動をあなたへ〜 | 株式会社アイムビレッジ

 

言いたいことはたったひとつ。

 

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息が止まった。
何が起きているか理解できなかった。

 

アンコールの1曲目が終わって、Liaさんがはけて、今度は熊木杏里さん(本編ですでに「君の文字」を歌唱していた)を伴って出てきた。

 

ああ、2人のレアなデュエットか、Keyを代表する曲で、今回やってないやつを何かやるんだろうくらいに思っていた。

 

なんだこのテンポは。
なんだこのエレキギターは。

 

Aメロが終わる頃やっと現実に頭が追いついた。

 

ああ、これは、「Bravely You」だ……

 

頭をかきむしった。呼吸が浅くなった。

 

その間にも曲はどんどん展開していく。
間奏のパートではリズムセクションが静かになり、2人のかけあいで例の歌詞が歌われていく。

 

なにをえらびとる なにをあきらめる
きめようとしてる ぼくはなにさまだ

 

まちがいはないか かみにといかける!
のところで、一気にフルオーケストラに。

 

ふとエレキギターとベースの人を見ると、これまで座っていたのに立って弾いていることに気づいて胸が熱くなり。
(というか、そもそもエレキギターの人はこのときのためだけに出てきたような)

 

そして重厚なコーラス。
アニメ『ジョジョ 黄金の風』のOPが途中でバージョン違いになった、あのクライマックスの感じといえばわかりやすいだろうか?
荘厳、としか言いようのない音の塊。

 

コンサート全編に感じたことだが、「良いアレンジ」とはその曲において潜在的に鳴っていた音を具現化させるものだ。
鼓膜のふるえとしてそれを聴き取ってはいなかったが、確かにそれを僕らはこれまでも聴いていたのだ……と錯覚させられるような。

 

楽曲の持つポテンシャル……
Keyの場合、それはその楽曲と密接な関係を持つ、物語のポテンシャルと同義だ。

 

Charlotte』は、シナリオを書いた当の麻枝さん自身が失敗作と断じてしまった。
実際ストーリー展開には難点もあったと思うし、僕自身もそんな議論に加担してきたことは否めない。

 

しかしその音楽は間違いなく素晴らしいものだったと思うし、個人的にも特に「Bravely You」には何度も救われてきた。

 

例え化け物になろうとも成し遂げる

 

それまでの過程がいびつでも、ぼろぼろで変わり果てた姿になっても、一度決めた約束のために必ず帰ってくるという決意。
心折れそうになったときに何度も聴いてきた。

 

物語というのは起承転結的な一直線の流れを持ち、「終わり」がある。
その先の世界は二次創作でもしないかぎり存続しない。
だから作り手がそれを否定したり、受け手が作品の存在を忘れてしまったらそこで終わりなのだけど、音楽というのは繰り返し再演されることで、そのたびに新たな表情を獲得する。
そもそも、記憶=物語ではない。一度体験した物語を思い出すとき、それは必ずしも直線上に配列されていなくてもよいのだ。

 

音楽は間欠的な記憶の想起をアシストする。メロディやリズム、ループ構造に、その時々の感情が刻印されている。
本来離れたところにあるシーンが、音楽が喚起する情動によって直結され、間をショートカットしたり、順番が入れ替わったりするということがある。

 

Charlotte』は、熊木さんの歌う「君の文字」で一度閉じてしまった。そしてその作品ごと、麻枝さんは失敗作と断じてしまった。
熊木さんと麻枝さんはのちにアルバム『Long Long Love Song』を共作しているが、実はこれは熊木さんサイドからのオファーがきっかけだったそうだ。

 

熊木さんは本編での「君の文字」演奏の際、あの単調ながら複雑なリズムパターンを持つ楽曲をほとんどオーケストラのほうを見ることなく、テンポをキープしながら歌い上げており、もはや指揮者のように全体をコントロールしていたのにはとんでもないスキルの持ち主だと感嘆させられたのだけど、
「こんな人が何かを見出したのなら、やはり麻枝さんの作る音楽は特別なものなのだろう」と、これまでにない確信がそのときに生まれていた。

 

物語を閉ざしたはずの楽曲が、その歌い手と大人数のオーケストラによって再演された……そのことだけでも報われた感があったのに、
図らずも物語の「終わり」を担ってしまった熊木さんが、その「始まり」の楽曲である「Bravely You」を(Liaさんとともに)歌ったということ。

 

Charlotte』という音楽=物語に、潜在的に鳴っていたものはこれだったのだ……と、二重の意味で打ちのめされてしまったのだった。

 

今回のセットリスト作成には、麻枝さん、折戸さんも関わっていたのだという。
麻枝さんがこの形で締め括ることを考えたのなら、そう考えられるようになったこと自体が喜ばしいことだし、あの会場にいて、ぜひその瞬間を聴いていてほしかったなと思う。
(キービジュアルには『Charlotte』のキャラだけがいなかったのだけど……これも伏線だったのかな)

 

本公演の模様はニコニコ生放送でも中継していたらしく、チケットを購入すれば9月26日までタイムシフトで録画が観られるそうです。
その他の楽曲も、原曲を知っている人には新たな楽曲の表情を発見する機会になるだろうし、特に「鳥の詩」のオーケストラバージョン(Liaさん歌唱!)はそれだけで金額分の元は取れるレベルでした。ぜひ。

 

 

レクイエム・フォー・イノセンス――『リトルバスターズ!』との10年

本稿は、サークル「Rhetorica」の発行する雑誌『Rhetorica#04』に寄稿したエッセイを編集部の許可を得て転載したものです。『Rethorica#04』の特設サイトはこちら


 

大学に入学した2007年、僕は決定的な一作に出会った。京都アニメーション制作によるアニメ作品『CLANNAD』である。原作はゲームブランド・Keyによる2004年発売のアドベンチャーゲーム。感動作という評判とともに、タイトル自体はアニメ版の視聴以前から耳にしていた。それでも頑なに避けてきたのは、ひとえに原作のジャンルが「恋愛アドベンチャー」というものだったからである。複数の「攻略ヒロイン」が存在し、そのすべてと恋愛関係になれるという形式に眉をひそめただけではない。そもそも「恋愛」というものに対して懐疑的な気持ちがあったのだ。

僕は小4の1学期まで親の仕事の都合でドイツに住んでいて、私立の日本人学校に通っていた。生徒たちはみな朗らかでいじめというものもなく、男女が共に仲良く下の名前に「くん」「ちゃん」付けで呼び合っていた。だからこそ転校先の日本の学校で、体格で勝る女子が男子を「支配」している光景に絶句してしまったのだ。「女子と男子の違い」というのは僕にとって「思春期」といった言葉で片づけられるようなものではなく、「支配者と被支配者」「日本とドイツ」といった他の二項対立と一体となって、突如として外部から到来したものだった。そんなことだから、中学に上がると話題として増える「恋愛」も、そうした二項対立の図式を強化するものにしか思えなかった。僕の理想であるドイツ時代の情景――誰かと誰かが特別な関係になることなく、「みんな」でひとつのボールを追いかけている情景――は、遠く届かないものになってしまったという実感があった。

僕は様々な二項対立を生む世界の構造、それ自体に対して抵抗したかった。支えを求めて様々な物語に触れてみるも、どうしてもしっくりくるものは見つからない。多くの物語は「大人」と「子供」という二項対立を立て、僕の理想とする情景を「乗り越えるべきもの」として切り捨てていたからだ。かと言って子供向けの作品でも駄目だった。性差や属性の違いによる差別のない「優しい世界」は一時の逃げ場所にはなれど、現実に立ち向かう強さを与えてはくれない。僕が求めていた物語は、理想の情景を捨てることなく、現実を生き抜く力に変えてくれるような物語だった。

アニメ版『CLANNAD』はまさにその条件を満たしていた。「恋愛アドベンチャー」である原作を踏まえつつ、その構造を読み替えることが試みられていたのだ。選択肢によって分岐するアドベンチャーゲームとは違い必然的に一本道のシナリオになるアニメ化では、個々の「攻略ヒロイン」のエピソードを「恋愛」という落とし所をつけずにメインのストーリーに織り込む操作が必要になる。本作で僕が最も好きなのは一ノ瀬ことみ編にあたる第13話で、ことみの家の打ち捨てられた庭を主人公の岡崎朋也に加え、古河渚藤林杏・椋姉妹ら「攻略ヒロイン」も協力して修復に励む場面である。相手が恋愛関係にある人間でなくても、また隣にいるのが「恋敵」になるかもしれない人間であっても、ひとりの落ち込んでいる友達のために手を取り合うことができる。僕たち視聴者の目からすれば「恋愛アドベンチャーのヒロイン」だということがわかっているキャラクターたちが、「恋愛アドベンチャーのヒロインである」という自身の運命に打ち勝って手を取り合っている姿は、僕が失ってしまった理想の情景を蘇らせているようでもあり、いま一度現実に向かい合う勇気を与えてくれるものだった。

CLANNAD』の原作にはいわゆる「渚ルート」の後日談としての「AFTER STORY」がある。上記のように他ヒロインのシナリオを回収しつつも、アニメ版も原作を踏襲して古河渚を「正ヒロイン」として物語が進行していき、最終的には朋也と渚の娘・汐を含む岡崎家と古河家、血縁的な「家族」の物語に帰結する。それまでの伏線が回収されるシナリオ上のピークであり、東浩紀をはじめとした論者の読解が集中するのもこのクライマックス付近だが*1、僕からすれば前半部で提示されていた「二者関係の読み替え可能性」が「結婚」や「家族」といった現実の制度に敗北したに等しいものだ。「恋愛」に疑問を持つがゆえに、「結婚」も「家族」も自分事としてイメージできない……そんな人間を救ってくれる物語はやはり存在しないのか。すでに「恋愛アドベンチャー」という形式に逆説的な希望を見出していた僕は、『CLANNAD』が描き切れなかった可能性を求めて、Keyの次作である『リトルバスターズ!』に手を伸ばしたのだった。

*   *

リトルバスターズ!』(以下『リトバス』)という物語の中心となるのは男女混合の草野球チーム「リトルバスターズ」だ。元々はリーダーの棗恭介を中心とする五人の幼馴染を指す名称であり、そこに野球をするにあたって、五人の女子メンバーを加えた構成になっている。この五人の女子メンバーがいわゆる「攻略ヒロイン」に相当し、それぞれの「個別ルート」では各人の悩みやトラウマに「主人公」の直江理樹が寄り添っていくことになる。後に明かされるところによると、「個別ルート」の世界は女子メンバーそれぞれの内面の表象であり、その全体を恭介が作り出した「ループし続ける世界」が包含する構造になっている。なぜそのような世界が必要とされるのか。「リトルバスターズ」のメンバーは修学旅行中にバスの滑落事故に遭い、今際の際をさまよっている。理樹(と、恭介の妹である鈴)の二人は無事だったが、兄離れできていない鈴と、幼少期に両親を亡くした経験から「大切な人との別れ」を何より恐れている理樹にとって、自分たちだけが生き残った現実を受け入れることは困難だろうと恭介は考えた。恭介は彼岸と此岸の境目で、現世で果たせなかった想いを抱える五つの魂――五人の女子メンバー――を見つけ出す。彼女たちを迎え入れることで、先述した構造の世界を作り上げたのだ。理樹が「個別ルート」において問題の解決に当たらねばならないのは、それが恭介が理樹を精神的に強くするべく課した試練だからである。一見楽しげなサークルに見える「リトルバスターズ」だが、それは別れが前提づけられている束の間の関係性なのだ。

女子メンバーの抱える問題は、閉鎖的な旧家のしきたりに由来するアイデンティティの危機(三枝葉留佳)や、万能型の天才であるがゆえの孤独感(来ヶ谷唯湖)など多種多様である。問題の解決に寄り添うといっても、単純に共感を示したり励ましを与えたりというだけでは、理樹自身が精神的な強さを得ることにはつながらない。ヒントになるのは理樹と恭介の関係性だ。理樹は両親を失って塞ぎ込んでいた頃、恭介に外の世界に連れ出してもらったことで救われたという経験を持つ。「今度は自分が恭介のように、人知れず孤独を抱える誰かに手を伸ばしたい」という理樹の想いが、「個別ルート」の物語を駆動するのだ。『リトバス』における「恋愛」は、「誰かによく似た自分/自分によく似た誰か」を受け入れていくプロセスとして読み替えられている。

そしてそのような「恋愛=個別ルート」が複数存在するのは、個々人の抱える内的な世界=孤独にはそれぞれバリエーションがあるということの表現になっている。それまでのKey作品においては、『AIR』の「空」、『CLANNAD』の「幻想世界」のように、現実世界とは異なる超越的な次元が存在していた。「個別ルート」の世界はそこから枝分かれしたものにすぎず、最終的にはその次元における問題の解決をもってすべての「攻略ヒロイン」を救済するという構造になっていたのだ。一方、『リトバス』においては恭介によって作られた「ループし続ける世界」は存在するものの、「個別ルート」はあくまで各ヒロインの内面を反映したものであり、恭介の意思とは無関係に存在している。また、「ループし続ける世界」自体も現実に起きた一学期の出来事をモデルにしており、まったくのファンタジックな法則によって成り立っている世界というわけではない。『リトバス』における「世界」――現実世界、「ループし続ける世界」、「個別ルート」の世界――の間にヒエラルキーはなく、お互いに重なり合うようにして存在しているのだ。

かくして「ループし続ける世界」の中で精神的な強さを得た理樹は、鈴とともに現実世界に帰還する。恭介は二人以外が助からないと踏んで前述のような試練を課したわけだが、彼の想像を超えて、理樹と鈴は「リトルバスターズ」のメンバーを救い出すべく奮闘することになる。その努力は報われ、エピローグではメンバー全員の退院を待って修学旅行をやり直す、という大団円を迎える。しかしそれは仲良しグループがその後もだらだらと続いていくということを示唆するものではない。大切なのは形としての共同体の維持ではなく、メンバーひとりひとりが「自分に似た人がどこかにいる」と気づけたということだ。彼らが「ループし続ける世界」の中で経験したのは、何よりもそうした魂の交感だった。

ひとりが辛いから ふたつの手をつないだ
ふたりじゃ寂しいから 輪になって手をつないだ(1番)

きみもひとり 僕もひとり
みんなが孤独でいるんだ この輪の中でもう気づかないうちに(2番)

(Rita「Little Busters!」)

主題歌である「Little Busters!」の歌詞だが、「みんな」と「孤独」を肯定する二つのフレーズがひとつの曲の中に共存していることは重要だ。『リトバス』は「つるむ」話ではない。個々人が「孤独」なままで、いかに「ともに在る」ことができるかということを描いた物語なのだ。そこには完璧な理解なんてなくていい。だけど共感よりも確かな何かがほしい。彼らの「孤独」でありながら「みんな」であるという関係性を通じて、自分にもこの世界のどこかに似たような魂を持つ人がいる……まだ見ぬ「リトルバスターズ」のメンバーがいると思えるようになることが、この作品が持つ一番の効能なのである。

*   *

最後に音楽という観点から『リトバス』を語ってみたい。Key作品に出会う前、ゼロ年代前半の中高生時代に僕が心の拠り所としていたのは音楽だった。とりわけ傾倒していたのは、当時デビューしたばかりのBUMP OF CHICKENASIAN KUNG-FU GENERATIONといったロックバンドたちだ。彼らは鋭いギターサウンドに乗せ、叙情的で物語性の高い歌詞を歌っていた。Key作品に興味を持ったのも、メインシナリオライターである麻枝准が、自身の手がけた音楽でシナリオを演出しているということに衝撃を受けたのが最初のきっかけだ。麻枝が作るのは基本的に「打ち込み」の電子音楽ということもあり、当初は「シナリオライター兼作曲家」という創作スタイルへの興味が勝っていた。しかし『リトバス』に至ってその音楽性も、それまで好んで聴いてきたロックバンドたちのそれに通じていることに気づくのである。

前述したバンドたちも含まれることがある、オルタナティブロックというジャンルがある。日本においては70年代後半生まれの「ロストジェネレーション」世代によって、90年代の末にスタイルとして確立された。社会学者の南田勝也によれば、そのサウンド的な特徴は「渦」という一言に集約される。エフェクトをかけたノイジーなギターサウンドが重奏的に響き、「弾いた弦(や発した声)の音と同時に、倍音や半分ずれた音や、ときに意図すらしない音が共鳴し、それらがたたみかけて聴こえてくる」*2のである。そこではオーディエンスと演者の区別なく、ひとりひとりが音の「渦」の中で、自らの「孤独」に向き合っている。身体を激しくぶつけ合う「ダイブ」や「モッシュ」といった現象が起きるのも、自らの心の深奥に潜った状態で、身体が直接的に「渦」としてのサウンドに反応するがゆえのことだという。

音楽ジャーナリズムのいくつかの言説によれば、2010年代に向かう中でロックフェスがレジャー化し、そこに訪れる新しいオーディエンスに対応した「みんなで拳を突き上げて踊れる」四つ打ちの楽曲がロックシーンを席巻していったとされる*3。しかしそうした変化をよそに、「孤独」であることを肯定するオルタナティブロックの精神性は、アドベンチャーゲームである『リトバス』に息づいていた。直接的な符号もある。麻枝自身が後の脚本担当作品『Charlotte』のタイトルを同バンドの曲名(「シャーロット」)から取っていると公言していることからも*4、『リトバス』の主人公である「理樹」の名前はオルタナティブロックバンド、ART-SCHOOLのギターボーカル・木下理樹から取られていることは想像に難くない。また『リトルバスターズ!』というタイトルも、やはりオルタナティブロックバンドであるthe pillowsの曲名に同名のものがある(「LITTLE BUSTERS」)。これらが単なる名前の借用に留まらないことは、以下の木下理樹の発言からも明らかだろう。

木下:若い子たちって、感性が敏感だからね。傷ついてしまうんですよ。そういう子たちがART-SCHOOLの音楽を聴いて、少しでも楽になってくれればいいと思う。自分がそういう子供だったからこそ、そう思いますね。僕はグランジやUKロックに出会って、いくら学校で無視されようが、そんなことどうでもよくなったんですよ。だって、家に帰れば宝物のような音楽が待っているんだから。そうやって、僕らも若い子たちのシェルターになるような音楽がやりたい。*5

オルタナティブロックという音楽は、こうしてリスナーひとりひとりの「孤独」に寄り添う。麻枝は1975年生まれであり、オルタナティブロックのオリジネイターたち(ナンバーガール向井秀徳くるり岸田繁スーパーカー中村弘二など)と同世代だ。しかしその音楽的ルーツは海外のオルタナティブロックバンドを範とした彼らとは異なり、大衆的な人気を博した日本のバンド(TM NETWORK、B'z、BOOWYなど)や、トランスやエピックハウスなどのダンスミュージックにある。こうした音楽性は超越的な次元の存在が作品に大きく影を落としていた『CLANNAD』までの世界観にも影響を与えているが*6、前節でも見たように『リトバス』の世界観はそこから転回している。複数の「孤独」な世界が重なり合うように存在している『リトバス』の世界観の屋台骨を支えるのは、「PMMK」という外部から参加したクリエイターの音楽だ。タイトル画面で流れる「生まれ落ちる世界」を初めとする「PMMK」のトラックは、ミニマルミュージックの素養も感じさせる繊細な音像のエレクトロニカである*7。このジャンルに属する音楽の多くはいわゆる「宅録」で作られ、内省的で個人的な質感からオルタナティブロックとも近いリスナー層を持っている。ここから導き出されるのは、麻枝の中でまずシナリオライターとして送り出したい世界観の変化があり、それに応じて自身のルーツにはない音楽性を、他者を通じて作品の中に取り入れるようになったということだ。こうした創作スタイルの変化が、『リトバス』後にシナリオを手がけたアニメ『Angel Beats!』『Charlotte』における作中バンドのプロデュースワークにもつながっている。『Angel Beats!』の「Girls Dead Monster」では編曲を、『Charlotte』の「ZHIEND」では作曲を、それぞれギターロックに強いボーカロイドクリエイターである「光収容」が手がけているのだ(前者の作詞作曲、後者の作詞は麻枝本人が担当)。麻枝はシナリオライターや作曲家である以前にコンセプトメイカーであり、そのコンセプトの部分が『リトバス』以降の作品においてオルタナティブロックの精神性と同期しているのである。

麻枝は遅れてきたオルタナティブロック世代であり、その音楽的嗜好の変遷はシーンにおけるオルタナティブロックの存在感が退潮していったのと、ちょうど逆向きに重なっている。それは音楽ジャーナリズムがシーンの表面的な変化に惑わされている間に断ち切られてしまった、ロックミュージックがリスナーの「孤独」に寄り添ってきた歴史である。昨今ではアニメを観たりアドベンチャーゲームをプレイするという行為も、「孤独」に作品と向き合うのではなく、SNSで実況・感想をシェアして「共感」を得ることがベースになってしまった。『Angel Beats!』や『Charlotte』の放送時には、麻枝自身そうした視聴者の反応を気にかけていたことをインタビューなどで匂わせているが、しかし無理をしてまで時流に合わせる必要はないと僕は言いたい。『リトバス』は、あるいはその音楽に込められた精神性は、音楽や物語を通じて世界との摩擦を実感し、「孤独」を掘り下げることで救われる道もあると教えてくれた。少なくとも僕はそのようにして救われたし、自分と同じようにして救われた人たちといつかどこかで出会えると信じたいのだ。そう信じ続けることが、僕が理想像として抱き続けているドイツ時代の情景に報いることでもあるだろう。そこでひとつのボールを追いかけている「みんな」こそ、僕(たち)にとっての「リトルバスターズ」なのだ。

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*1:汐は救われているのか - 東浩紀の渦状言論 はてな避難版(http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090317/1237217360)など参照。

*2:南田勝也『オルタナティブロックの社会学』(南雲堂、2014年)より。

*3: 「4つ打ち」の次にくる邦楽バンドシーンのトレンドとは? - レビュー : CINRA.NET(https://www.cinra.net/review/20141006-satori)など参照。

*4:月刊ニュータイプ』2015年11月号に掲載のインタビューより。

*5:「子供たちのシェルターになる音楽を」腹を括った木下理樹の覚悟 - インタビュー : CINRA.NET(https://www.cinra.net/interview/201605-artschool)より。

*6:アメリカのテクノミュージシャン・BTのアルバム『ESCM』、とりわけ収録曲の「Flaming June」に麻枝が影響を受けたことはファンの間では有名である。BTのアルバム『These Hopeful Machines』の日本盤にも、以下のような推薦文を麻枝は寄せている。「1997年発表「ESCM」が自分の創作人生に与えた影響は多大なものだった。そこから「永遠の世界(ONE)」「大気の中で待つ少女(AIR)」「幻想世界(CLANNAD)」は生まれた。今作ではその回帰が、ヴォーカル・アルバムとして果たされている。」(https://www.amazon.co.jp/dp/B003DRVGXM

*7:PMMKのサークルとしての名義「POSTMÄRCHEN」の公式サイトより。「エレクトロニカのムーブメントをPCゲームの音楽向けに再解釈し、女の子たちが活躍する可愛らしい音楽に取り込んだほか、PCゲームの音楽としては珍しい実験的な表現も、いろいろと行っています。」(http://postmarchen.org

「セカイ系」と「批評」についての覚え書き

1.

約一年前、「批評再生塾」なるプログラムに参加していた自分はその課題として「『セカイ系批評』再生宣言」なるものを書いた。そこでは「セカイ系」と「批評」との相同性を指摘することで「セカイ系」という語に込められたイメージを刷新し、その「公共的」な性格を問う議論が展開されていた。

https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kitade/2628/

蓮實重彦曰く、「作品」というものは到底ひとりの人間(鑑賞者)にはすべてを汲み尽くすことはできず、常に/既に「接近不可能」なものとしてある。そうした体験のことを蓮實は「批評体験」と呼ぶが、それは「セカイ系」という物語類型における「世界」への近付けなさ……せいぜい「君と僕」の二項関係に矮小化させなければ「世界」を物語として語りえない、という図式にも一致する。そこで「批評体験」および「セカイ系」における「接近不可能性」の只中で紡ぎ出される言葉の群れこそを「批評(文)」と呼んでみよう……というのが、この論考における立論であった。

同じ「作品」であっても、鑑賞者が異なれば紡ぎ出される言葉(批評文)も異なる。その総和が「作品」の全体を照らし出すかといえば、無論そうではない。ありきたりな言い方になってしまうが、ある「作品」に対する解釈というものは人の営みが続く限り無数にありうるからだ。「批評」は何のために存在するかといえば、「作品」の全体像を明らかにするためでなく、むしろ異なる解釈を許容することで「刺激的で実りある不一致」を生み出すことにある……すなわち、対話を継続していくことにこそあると、リチャード・ローティの論を参照しつつ文章は締め括られていた。

2.

「『セカイ系批評』再生宣言」のアップデート版として書かれたのが、「オルタナティブゼロ年代の構想力」という論考である。これは来るべき2020年代を構想するにあたって、PCディスプレイを介した「視覚」モデルに依拠していた2000年代から、スマートフォン、位置情報、AR……新しい「時空間認識」のモデルが生じた2010年代、という変化を描き出そうとしたものだった。タイトルにある「オルタナティブゼロ年代」という名称は、コンテンツの流行が20年周期で繰り返すという説から、2020年代=「2周目のゼロ年代」ということを意図したものだ。「ゼロ年代」に勃興した「セカイ系」概念に対して「オルタナティブゼロ年代」における「セカイ=接近不可能性」とは、「視覚」モデルに由来する「距離」から、不断にズレ続けていく「時空間認識」(Twitterのタイムラインなどに見られる非‐同期性が参照されている)になっているのだということが、そこでは言われていたのだった。

https://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kitade/2847/

しかし、よくよく考えてみると絶対的な「時間」や「空間」などといったものはなく、運動する物体の属する系によって異なる=不断にズレ続けていると捉えたほうが良いというのは相対性理論の発見以来、むしろ常識的なことである。加えて、「時空間のズレ」を「接近不可能なもの」として捉えるというのは、これもよくよく考えてみれば同義反復というか、そりゃズレ続けていくのだから到達点などないだろう、と言える。そもそも「不断にズレ続ける」ということ自体、鑑賞者=パースペクティブの違いによってある対象に対する無数の「批評」があり得るという「『セカイ系批評』再生宣言」の中で既に達成されていた。「時間」や「空間」といった単位を持ち出さなければそれを語ることができないという形になっていたことで、論考「オルタナティブゼロ年代の構想力」は「セカイ系」概念の持つポテンシャルを、むしろ低めてしまっていたといえる。

3.

マルクス・ガブリエルの提唱する「世界は存在しない」というテーゼがある。彼はあらゆる対象は「意味の場」において立ち現われ、すべての「意味の場」を包括する「意味の場」=「世界」は存在しない、という一種の多元論を主張する。一方で彼は「世界」という語自体の存在を認めていないわけではない(何せ書名に用いているのだから)。彼がもし日本語話者なのであれば、「意味の場」という術語を「セカイ」という表記で表現していたのではないか。すなわち、「セカイ」は存在するが、「世界」は存在しない、と(「セカイ」と「世界」は、言語(発音)のレベルにおいて重なり合いつつも、その存在論的なレベルにおいては重なり合わない)。

ガブリエルの提唱する「新しい実在論」における「世界は存在しない」というテーゼは、「時間」や「空間」といった従来の(自然科学的)世界像の基本形式として見なされてきた語彙を無効化する。「セカイ」は他のどんな要素にも還元されるものではないのだ。これをグレアム・ハーマンの提唱するオブジェクト指向存在論における「対象」の概念と照らし合わせてみてもいいだろう。ハーマン曰く、「対象」は他のどんな要素にも還元することができず、「退隠」している。ガブリエルにおける「意味の場(セカイ)」とハーマンにおける「対象」は、それぞれの立論におけるポジションが相同している。「セカイ」は他の「セカイ」から「退隠」して(引きこもって)いるというわけだ。

4.

ガブリエルやハーマンの論において、「セカイ(系)」というのはむしろ人間の生にとっての基礎的な条件である。「セカイ(系)」の公共性ということを「『セカイ系批評』再生宣言」では論じようとした。しかしその必要性はそもそもなかったのだ。批評とは、対象への距離を言語によって埋め尽くすことなどできないというこの事実――人間の生とは「セカイ系」的であるということ――を、端的に体現する実践である。それが「何の役に立つか」ということを、考える必要などない。

また「セカイ(系)」について考える際に、「時間」や「空間」など、物事を思考可能にする(とされる)何らかの形式を持ち出す必要もない。もちろん、ガブリエルが「世界は存在しない」と言いつつ、哲学史上で使われてきた「世界」という語の用法には敬意を払っているように、そうした語を使用すること自体に制限はない。たとえば「君と僕」や「ポピュラーとオルタナティブ」という二項関係を記述する語のペアについても同様だ。ただ、それらを「セカイ(系)」を外側から規定する絶対的な形式として想定することは退けられなければならないのである。言葉の公共性についての議論は、むしろこうした「言葉というものが『ある対象の外縁を定義する形式』になることはありえない」という認識の下に成立するものだろう。

5.

以上から導かれる帰結はこうだ。

  • 批評は確かに言葉により営まれるものであるが、それが示すところは「セカイ(系)」という(語らずとも自明な)人間の生にとって基礎的な条件である。
  • 言葉は、「批評」などという実践を経ずともその機能(コミュニケーション、公共性の土台)を十全に果たしうる。

セカイ系」とは「再生」を「宣言」などされずとも常に/既に私たちの生を規定している基礎条件のようなものである。つまり私たちが自らの生について語ろうとすれば、それは「接近不可能性の只中で紡ぎだされる言葉」すなわち「批評」とならざるを得ないのである(人生の全体について語ることはできない……「死については語りえない」というありふれたフレーズを思い出してもいいだろう)。言い換えれば、「世界」や「作品」についてその〈全体〉を語ることはできないということをきちんと踏まえていれば、それらに対する思考は同じく〈全体〉については語りえない「人生」と同等のものだと見なすことができる。「世界>人生>作品」のような包摂関係は存在しない。「作品」を通じて「人生」を理解する、などといったことはあってはならないのだ。重要なのは「接近不可能性」に正面から向き合うことであり、その只中で紡ぎ出される言葉は(対象が何であるかを問わず)「批評」と呼ばれて然るべきだろう。

そして「批評」はコミュニケーションの道具となってはならない。「公共性」ということについても、それは言語そのものに備わった性質であり、「批評」がいかにあるべきかを規定する条件ではない(「批評」は「言語」よりも「接近不可能性」にかかわる概念だ、と言ってもいい。このことは「批評」が言語以外の表現手段によっても実践されうることを示唆するだろう)。もちろん適切な語彙の選択によって、「コミュニカティブな」批評(文)というものが生み出される可能性はありうる。しかしそうした文章が「良い」批評(文)であるかといえばそうではない。「より批評的」という尺度があるとすれば、それは「接近不可能性」への向き合い方の真摯さ……ある対象について「わかる」と簡単には思わない態度の徹底において測られるべきだろう。