そこに「孤独」の位置はあるか?――新海誠とRADWIMPS、そして『天気の子』

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 新海誠の監督最新作『天気の子』は、「セカイ系」を2019年現在を舞台にポジティブに捉え直した作品だという評を多く見かける。
 「君と僕の(恋愛)物語の正否が社会という中間項を抜きにして『世界の危機』のような抽象的な問題と直結してしまう」
 これが「セカイ系」の標準的な定義といえるが、本作に肯定的な評者は(「セカイ系」という言葉を使っている/いないに関わらず)本作から抽出した上記のような図式をいわゆる「トロッコ問題」へと敷衍し、「個人を犠牲にする『社会』よりも個人を選ぶ」という結末に落とし込んでいる点、またそれ以上に、理屈抜きでただ一人の大切な「君」を求める「僕」の若いエネルギーを肯定的に描いている点を概ね評価しているようだ。

 『天気の子』を評価するには上記のような読みしか許されていないかと言えば、もちろんそうではない。しかし強力にそのような読解をアシストする作りになっていることも間違いないというのが、僕の考えだ。
 この記事ではその「作り」がどのように実現しているかを、新海誠のフィルモグラフィに一貫して見られる特徴、および『君の名は。』から引き続き劇中音楽を手がけるロックバンド・RADWIMPSの作品の特徴をクロスさせることで解き明かしていく。
 その上で、そうした「作り」が生み出すひとつの問題点と、その外側に立つための視点、そして「セカイ系」図式(の反転)を介することなく『天気の子』を肯定的に評価する道筋までを示したいと思う。

 

1.

 まず新海作品をたどっていく上で補助線としたいのが、「世界」とは一体どのような範囲を指すのかということである。
 初の劇場公開作品『ほしのこえ』の冒頭の台詞からして、「世界、っていう言葉がある。」だった。新海のフィルモグラフィは、この言葉の定義から始まっていると言っても過言ではないのだ。

 『ほしのこえ』の台詞は、「私は中学の頃まで、世界っていうのは、携帯の電波が届く場所なんだって、漠然と思っていた。」と続く。ここから「空間的距離」が重視されていることは明らかである。ミカコとノボルは宇宙と地上、空間的に離れてはいるが、お互いにお互いを想っていることに確信がある(有名な「ここにいるよ」の同期がその確信を表現している)。彼らはその意味で決して「孤独」ではない。寂しいと感じてはいるだろうが、それは想う相手が空間的・身体的に「そばにいない」ことによるものだろう。そして、そのことこそが彼らにとっては何より重要なのである。

 ところで、「世界」という言葉が必ずしも空間的な広がりと結び付くとは限らない。たとえばかつて哲学者ウィトゲンシュタインは、「私の言語の限界が、私の世界の限界である」と言った(『論理哲学論考』)。これは噛み砕いて言えば、「私が認識しうる範囲のことを『世界』と呼ぼう」ということで、「私=世界」という簡単な等式で表せることから「独我論」と呼ばれることもある。

 「セカイ」というカタカナの表記から僕が思い浮かべるのは、こうしたウィトゲンシュタイン的な、誰とも隔絶され空間的な位置を持たない「孤独」の問題が、思わず「世界」と名指したくなるような視覚的広がりに展開されるイメージである。
 ひとりぼっちでどこまでも澄んだ青空を見上げて涙が出る感じ……と言えば伝わるだろうか。
 他者との関係や「社会」の中に居場所を持てない「孤独」を、しかしそれらとは対立させることなく、「その孤独は、『世界』にも等しい価値がある」と、優しく肯定してくれるようなイメージだ。

 『ほしのこえ』における「そばにいなくて寂しい」という気持ちと、このような意味での「孤独」は、表面的には似ていても全く異なるものだ。
 僕の実感では、この意味での「孤独」に寄り添ってくれる唯一の新海作品として、『秒速5センチメートル』がある。
 それは新海誠のフィルモグラフィの中でこの作品だけが備えている、連作短編(三部構成)という形式によるものだ。

 『秒速』においては、各部の間に時間の隔たりが存在する。加えて、第二部「コスモナウト」では「君と僕」に代わる第三者(澄田花苗)が語り部となる。
 このことによって、物語に語られていない空白が生まれることになる。物語の結末から逆算しても、そこは想像で埋めるより他ない。
 (『秒速』第三部の山崎まさよしOne more time, One more chance」パートにおけるフラッシュバックは一見その穴埋めをしているように見えるが、実のところそこに描かれていない出来事の存在を際立たせるものになっている)
 鑑賞者と、主人公の遠野貴樹をはじめとしたキャラクターとの隔絶が、そのことによってより強く意識される。また、「コスモナウト」の語り部である花苗は、遠野に対するそうした隔絶をはっきりと口にする。キャラクター同士も隔絶しているのだ。このことによって『秒速』は、必ずしも遠野という主人公の立ち位置をトレースせずとも、この「孤独」の構造に触れられる作りになっている。しかも、「孤独」が「世界」にも等しいということが、ビジュアルイメージによって展開されるのだ。
 (「コスモナウト」冒頭の「世界の果て」じみた光景において、「君」の表情はどこまでも見えない。それによってあの光景は特定の「君(篠原明里)」を想う遠野個人のものとしてでなく、「孤独」一般に敷衍できるものとして鑑賞者は受け取ることができる)

 以上を踏まえて改めて新海誠の作品群を振り返ると、やはり『秒速』だけがその中で異色だったのではないかという思いが強くなる。

 『ほしのこえ』に続く『雲のむこう、約束の場所』は、「世界の危機」と「少女の夢」が直結するという、「いわゆるセカイ系」の形式を忠実になぞった設定、プロットである。主人公がヒロインを救出するため「天に向かって伸びる白い塔」に向かうのがクライマックスになるなど、変わらず空間的距離は重要だ。
 夢に囚われた少女がひとり孤独に耐える情景カットが含まれることは注目すべきだが、その少女・佐由理はご丁寧にも最後に記憶を失ってしまう(なお、この失われた「佐由理の夢」を少し異なる形で作中に取り戻したのが、『天気の子』だと言うこともできる。このことは最後に述べる)。

 『星を追う子ども』は地底世界アガルタへの「縦の空間移動」を幹とする作品だ。妻と死別したモリサキという人物が登場するが、彼が求めるのも身体を伴った妻の再生である。また、そもそも冒険活劇、アクションの比重が高く、心理的なイメージとしての「孤独」が十分に映像化されているとは言えなかった。

 『言の葉の庭』で顕わになったのは、触覚性へのフェティシズムである。匂い立つような緑と雨滴の表現、靴という「身に着けるもの」を作る少年。キャラクターデザインもより肉感的で重量を増したものになり、直接的に肌を触れさせたりといったアクションも増えた。「身体はそばにいても、心は離れている」ことが、そこではドラマの要点となっていた。

 『君の名は。』『天気の子』においても田中将賀による肉感的なキャラクターデザイン(共通)やスタジオジブリ出身の安藤雅司による重力を意識したアニメート(『君の名は。』)、薄汚れ廃棄物の散乱した東京の街並みをシミュレートする(『天気の子』)など、触覚性への意識は地続きである。加えてキャラクターの性格付けがカラッとしていることもあり「心の距離」の問題にはフォーカスが当たらず、単に主人公格である少年少女が「(空間的に)そばにいない」ことをどう乗り越えるかという作劇が展開される。

 このように整理すると、新海誠作品において「孤独」というテーマは「世界」と直接対置させられる形で表現されたことはなかった。特徴的なモノローグによって近い感触があったとしても、そこには必ず他者(の身体)のような、接地面が存在していたのだ。

 以上を踏まえた上で、次の話題に移りたい。
 新海誠作品とロックバンド・RADWIMPSの関係である。

 

2.

 新海誠の、その初期から持っていた空間的な距離や身体的な接触を重視するという志向性と、RADWIMPSというロックバンドの音楽性が合致したことが、『君の名は。』の爆発力を生んだと考えられる。

 RADWIMPSはライブ――オーディエンスとの「いま、ここ」における接触的経験――に重きを置いたバンドであるということはもちろん、楽曲単位でも触覚性を強く喚起させるバンドである。それはとりわけ歌詞表現に顕著だ。ソングライティングを手がける野田洋次郎の紡ぐ言葉は言葉遊びに満ち溢れており、ラップ調の歌唱で膨大な言葉が矢継ぎ早に掃射される。またラブソング(恋人同士だけでなく、母子の関係も含む)において「遺伝子」という単語を多用し、(恋)愛と生殖を直結させることに象徴的だが、その言葉の感触は非常に「即物的」である(言い換えれば、迂遠なほのめかしによる「エロさ」はほぼないと言っていい)。

 このことは野田も自覚しているようで、並行して走らせているillionというソロプロジェクトでの2ndアルバム『P.Y.L』リリース時に行われたインタビュー(2016年秋)にて言及がある。曰く、RADWIMPSはある感情のピークを楽曲ごとに表現する形だったが、最近ではその「あわい」にも色々な感情があるようになったと考えるようになった、それをillion名義の作品では表現していると。

RADWIMPSでの僕は、何かしらの感情のピークを歌にしてきたと思うんです。なぜなら、何も起きず、誰も泣かなくて笑わないような映画は存在しないから。音楽もそうだと思っていたんですよ。喜び、怒り、悲しみ、叫び出したくなるような幸せ……そういう感情のピークを、僕はずっと曲にしてきた。でも、その感情と感情の間にも、目を凝らしてみれば小さな振動があるんですよね。今は、その振動の滲み方にすごく興味があるんです。

――野田洋次郎が語る、RADWIMPSと両輪をなすillionの再始動(CINRA.NET)より

 記事中でインタビュアーからも指摘されているが、野田洋次郎の表現の極端さというのは、「五月の蝿」という(元?)恋人への愛憎を猟奇的(とあえて言う、詳しくは各自で検索されたし)な言葉で綴った楽曲を「ラブソング」と言い切る感覚に表れているだろう。かと思えば<『生まれてはじめて』と『最初で最後』の『一世一代』が君でした>と歌う「ラストバージン」のような、直球の愛情表現を用いたりもする。一曲の中に揺れ動く感情を同居させるということが、基本的にないのだ。

 野田の書く楽曲は基本的に一人称的で、私小説的な色合いの強いものとなっている。その「内容」への共感性のみでファン心理が駆動されているのであれば、もっと小規模なファンベースに留まっていてもおかしくない。しかし実際には、スタジアム級のライブ会場を満員にしている。その理由とはもちろん、歌詞の内容(だけ)ではなくそれ以外の音楽的要素(メロディ、演奏、サウンド、パフォーマンスetc)が観客を惹きつけているということに他ならないのだが、このように考えることもできる。野田にとって歌詞とは、それを自ら発声することで音楽的パフォーマンスを最大限に発揮するための、いわばブースターなのだ。野田の歌詞というものについての考えを、著書『ラリルレ論』から引用する。

 でもね、アンケートにも書いたけど歌詞についての質問はやっぱあんま答える気にならないよ。その日によって違うもん、俺。答えなんてさ、その時の気持ちと今の気持ちも違うし。違っていいの。
 歌は今に向けた手紙であり、宿題であり、投げかけなの。これどういう意味だ? って俺もツアーで歌いながら考えるの。そして今の俺なりの答えを考える。その繰り返し。それでいいと思ってるし、それがいいと思う。
 僕はミュージシャンでシンガーでアーティスト。作詞家じゃない。でも自分の歌を歌ってるから歌詞を書く。

――野田洋次郎『ラリルレ論』(文藝春秋)より

 個人的には、『君の名は。』挿入歌の歌詞に「キス」とか、作中でキャラクターが行っていない行為を示す言葉が入っていることに対して「果たしてどうなんだ?」と思ったものだ。しかし、野田のこうした考えを補助線にすればその狙いを想像することはできる。つまり野田が「キス」と歌うことによってブーストされる感情が映像に必要なものであれば、(キャラクターがその行為を実際に行っていなかったとしても)その楽曲が流れることが必然だという判断が、新海の中でなされたのだろうということだ。

 

3.

 新海作品において、潜在化していた触覚性への意識が、『言の葉の庭』以降顕わになったように見えるのはなぜか。

 彼はその時々のメディア環境の変化と、それに伴って生じる新しい生理感覚に鋭敏な作家だと思う。先述したように基本的には「空間的距離・身体的接触」を重視する人なのだが、『ほしのこえ』当時は空間的距離が離れていても手軽に交信できる携帯電話・電子メールというものが登場したことで、あのような作劇になったのではないか(つまり、「電子メールで済ませりゃいい」という考えとは真逆だからこそ、電子メールが印象的に使われたということだ)。

 新海が触覚性へのフェティシズムを前面に押し出し始めた時期(2010年代前半)というのは、スマートフォンが十分に普及した時期と重なる。タッチパネルによる情報の送受信、「触覚性の時代」に対応させるようにしてキャラクター描写にも自然描写にも触覚性を充溢させていき、それを前提とした上で新たな作劇を模索しているように見えるのだ。すると、『君の名は。』における身体の入れ替わりや時間のズレというアイデアも、こうしたメディア環境的な現状認識への対応として生み出されたものだと考えられる。「身体はそばにいても、心は離れている」ことは『言の葉の庭』でやった。では次は? というように。

 『天気の子』は、空間的・身体的に「離れる」ことを天上の空間だったり身体が透けるということで表現しているという点で、「触覚性の時代において、どうすれば二人の距離を離れさせることができるか?」のバリエーションのひとつだといえる。その意味では『君の名は。』と比較して新しさはない。前作との比較で、むしろ注目すべきはRADWIMPSの変化である。今回のボーカル曲は非常に「合唱曲っぽく」なっているのだ(「グランドエスケープ」のサビや、「愛にできることはまだあるかい」フルバージョンの歌い出しなど)。

 彼らは近年アリーナクラス以上の非常に大きな会場でのライブを敢行することが多くなっている。また「18祭」というNHKで放送された18歳限定ライブでオーディエンスとともに合唱した楽曲(「正解(18FES ver.)」)を、最新アルバム『ANTI ANTI GENERATION』のラストに配するなどしている。
 RADWIMPSというバンドが音楽によって「みんな」を引っ張っていく決意を固めたのは、野田がインタビューにてたびたび語る東日本大震災の影響もあるだろうが、ドラマー・山口智史が病気により無期限の休養に入ったという音楽的な要因も大きいと思われる。現在では欠けたドラマーをひとり補うのではなく、逆にサポートメンバーを二人入れてツインドラム体制として活動している。場合によってはストリングスを入れることも辞さず、もはやオリジナルメンバーのみで演奏することにこだわっていない(「愛にできることはまだあるかい」のミュージックビデオを参照のこと)。フィーチャリングゲスト(ONE OK ROCKのボーカルTaka、あいみょんなど)を招いた楽曲も最新アルバムには収録されている。

 野田曰く、RADWIMPSとillionはそれぞれ具象画と抽象画の対比をなす、表裏一体の関係にあるのだという*1。楽曲制作の主導権はあくまで野田個人にあることが明言されていることからも、名義を使い分けることの意味はもっぱら社会的な意味合いにおいてだと考えていい。つまり新海作品において「RADWIMPS」として参加しているのは、感情の「あわい」を表現するillion的方向性の楽曲ではなく、ライブにおける「みんな」を引き連れていくエネルギー、極端な振り幅を持ったボーカル曲こそを新海サイドが求めたためということになる。RADWIMPSの音楽は、野田洋次郎という個人から発するごく私的な感情を出発点としつつも、その意味内容を超えたエネルギーの放射によって「みんな」を巻き込んでいくのだ。

 新海作品においては、ビデオコンテ(動画ファイルのタイムライン上に絵コンテを再配置し、劇伴や台詞などの音声要素と並行的に編集を行う)という手法により、映像と音楽の有機的な関係性が生まれているというのは、現在ではよく知られている。
 『君の名は。』の公開後には、「感情グラフ」というものの存在が話題となった。観客の感情を時間の流れの中でいかにコントロールするか。とりわけ、その頂点となるポイントにいかにして誘導するかが意識されていることがわかる。

 僕が危惧しているのは、このようにして緻密な時間コントロールによって感情のピークに誘導するという新海の方法論が、RADWIMPSという強力な動員力を持つライブバンドの楽曲と出会うことで、「触覚性の時代」の負の側面……いいね戦争、ドナルド・トランプの時代における世論形成のあり方と、同様の熱狂を引き起こしてしまっているのではないかということだ(「感情グラフ」が選挙対策委員会の壁に貼られていたとしても、何もおかしくはないという連想)。
 もちろんこうした方法論を選択していること自体に政治性があるはずもなく、結果的に現在のメディア環境や、そこから生じる時代の気分といったものに適合してしまっているだけかもしれない。しかし新海が『天気の子』関連のインタビューで「ポリティカル・コレクトネス的な空気への違和感、いらだち」を原動力に今作を構想し始めたということを語っている*2のを目にすると、本作の「感情をハッキングする装置」としての強度を念頭に置かないのはまずいのではないか? と思えるのだ。それは作品の伝える人間観や現代社会の描写を批判する以前に検討されなければならない事項である。

 

4.

 触覚性=リアルタイム性が重視され、瞬間的な感情のピークを共有させることで動員する方法論が精緻化してきた現代。
 そんな時代にあって個人が自律的に生きるためには、冒頭に述べた「孤独」という概念をいかに取り戻すかが重要になってくるのではないか。

 アーティストの布施琳太郎はこれと同様の問題意識から、「iPhone(タッチスクリーン)の時代」という現状認識から現代における「孤独」の位置を探る「新しい孤独」という論考を執筆している*3。雑誌『美術手帖』が開催した「第16回芸術評論募集」にて佳作を受賞した同論考は、彼自身が現代美術に実作者として関わっていることもありその領域での事例が目を惹くものの、VTuberなどポピュラーカルチャーに属する事例もバランスよく取り上げ、領域横断性を確保しているところに説得力がある。作品を介した「孤独」の価値の称揚は、ひとつの領域に閉じこもることでは成されない。どこかで他ジャンルの作品や、その周囲に広がる鑑賞者コミュニティへの開かれを意識しなくてはならないのだ。

 「みんな」と「孤独」は両輪として考える必要がある。
 そのせめぎあいの中にある表現として、自分はやはり音楽、ポピュラーミュージックとしてのJ-ROCK(邦楽ロック)という観点から考えてみたい。

 まず前提として、感情の大波に「みんな」で乗っていこうという風潮に乗り切れない人たちはいつの時代にも、どんな国にも存在する。かつてはニルヴァーナカート・コバーンをアイコンとする「オルタナティブ・ロック」がその受け皿となっていた(詳しくは南田勝也『オルタナティブロックの社会学』などを参照)。現在はDTM環境を手軽に整えられるようになったことや個人で音楽配信するハードルが低くなったことから、より個人単位で完結するラッパー/トラックメイカーにその役割がシフトしている。元ニルヴァーナのドラマー、デイヴ・グロールも評価するビリー・アイリッシュはその最右翼といえるミュージシャンだろう*4

 日本で上記の立ち位置に近いソロミュージシャンに米津玄師がいる。ボカロPという個人制作の文化から出発したことや、2018年の「Lemon」で国民的と言っていいヒットを飛ばした後も自らを「オルタナティブ」な存在だと位置付ける認識*5など興味深い存在ではあるのだが、ここではRADWIMPSとの比較を明確にするためにロックバンドを取り上げてみたい。

 まずはBUMP OF CHICKENだ。世代的にはRADWIMPSのひとつ上にあたり(RADWIMPSのメンバーが1985年生、BUMP OF CHICKENのメンバーが1979年生)、メンバー同士の個人的な交流もある。やはりアリーナ/スタジアムクラスの観客を動員する、「紅白歌合戦」への出場経験もあるロックバンドである。
 彼らは宇宙や星といったモチーフを頻繁に用い、現在を歌った楽曲にも常に遠未来からの視線が感じられる。「孤独」をテーマにした楽曲も多く(「オンリー ロンリー グローリー」など)、ソングライティングを手がける藤原基央は、どんなにバンドの規模が大きくなっても「ひとりひとり」に歌を届ける姿勢を変えていないという。

「広い会場でライブをやって大勢の人が来てくれたという事実に本当に感謝しているのは間違いないんですけど、僕は、何万人がいても『一対大勢』とは思えないんです。目を閉じて歌えば『一対一』という感覚になる」

「自分は漫画にもアニメにもゲームにも一人で触れてたし、そこから得たものは自分一人の宝物だった。音楽もそうでした。ラジオやCDから聞こえてくる声と一対一の関係性で育ってきた。だから自分が曲を作って歌う時も、その感覚が強いんですね。レコーディングのブースで歌っていても、3万人がいるステージで歌っていても、歌う先には明確に“あの日の俺”みたいなヤツがいるんです」

――「歌う先に“あの日の俺”がいる」BUMP OF CHICKEN藤原基央の創作の原点(Yahoo!ニュース)より

 彼らはオーガニックな質感のアイリッシュ/カントリーサウンドエレキギター主体のバンドサウンドに混ぜ込むことを得意としている。最近ではシンセサウンドを導入することも辞さないが、ノスタルジーなルーツミュージック性とのコントラストがかえって強まり、時空の感覚を歪ませるような藤原の詞世界と相乗効果を上げているといえる。バンド自体が幼稚園からの幼馴染から成っており、ある種「秘密基地」的な聖域感を体現していることも楽曲の持つ世界観の強度を高めているといえるだろう。メンバーはアレンジについて「曲が望む形を探したら自然とそうなった」ということをよく言うが、BUMP OF CHICKENにおいて主体となるのはあくまで「曲」である。いわばひとりひとりがプレイ体験の中でそれぞれのストーリーを描けるRPGを用意してくれているようなもので(藤原はゲーム音楽、とりわけファンタジーRPGからの影響も公言している)、「自己表現」の匂いは限りなく希薄である。

 UNISON SQUARE GARDENも注目すべきバンドだ。結成15周年イヤーの今年7月には2万5000人を動員するライブを成功させたが、これは周年イヤーだからこそのイレギュラーにすぎず、「ロックバンドはライブハウスで体感して初めて完成する」という美学に基づき頑なにライブハウスを中心にツアーを回るということを続けている。ソングライターの田淵智也は、ロックバンドのライブにおける「一体感至上主義」への反感をたびたび明言している。

いつからかロックバンドのライブの空気に染み付いてしまったスタンディング至上主義であったり友達と一緒でなければ盛り上がれないであるとかステージの人が何か言わないと盛り上がれないみたいなものは、徹底的に壊していかなければならない。本来ロックバンド体験には必ずしも必要なものではないのだ。

――2015年10月のブログより

一体感至上主義みたいな音楽シーンの現象が僕は本当に嫌で、それをぶっ壊そうとずっと画策してきた。今もしている。

――2018年11月のブログより

 UNISON SQUARE GARDENの歌詞は「徹頭徹尾夜な夜なドライブ」「場違いハミングバード」「ガリレオのショーケース」といったタイトルに表れているように、ほとんどナンセンスに接近している。ソングライティングを手がけるのがベースの田淵であるという点も、フロントマンによる「自己表現」のイメージを与えがちなロックバンドというフォーマットに対するカウンターとして機能している。しかしギター&ボーカルの斎藤宏介も、ドラマーの鈴木貴雄もそれぞれ卓越したスキルと唯一無二の個性を持ったプレイヤーであり、アニメソング作家としても活躍する田淵の作る、複雑にメロディラインを変化させる楽曲を難なく演奏してみせる。その最小限の3ピースという編成が生みだすスリリングな駆け引き自体をエンターテインメントとして見せるストイックな姿勢は、先ほどの田淵の発言に説得力を与えている。

 彼ら2バンドに共通するのは、そのバンドとしての「あり方」がステージパフォーマンスのみならずサウンドにも表れているということだ。ステージとフロアの関係が「俺(たち)」vs「みんな」という形となるのではなく、音の震えを介して同様の「あり方」がステージとフロア、双方に立ち現れる。バンドでなくあくまで「曲」が主体となっていることで、こうした両者の関係性は可能になっているといえるだろう。カート・コバーンの悲劇(彼は27歳で自ら命を絶った)の原因は、彼個人が「オルタナティブ・ロック」の御神体として祀り上げられ、そのバンドサウンドを分析する批評に恵まれなかったことにもあるかもしれない。

 (ちなみに、OP曲をBUMP OF CHICKENが、ED曲をUNISON SQUARE GARDENが担当したテレビアニメ『血界戦線』でも、『君の名は。』『天気の子』を手がけた川村元気東宝社員としてプロデューサーを務めている。UNISON SQUARE GARDENはこのED曲「シュガーソングとビターステップ」が最大のヒット曲となった。監督の松本理恵が絵コンテを手がけるEDのアニメーションは田淵のポリシーとシンクロするように、キャラクターが思い思いに、非同期に体をくねらせる。またBUMP OF CHICKENのOP曲「Hello, world!」も、直接的な戦闘能力を持たないが、事故的にレアな特殊能力を持ってしまった語り部・レオが「主人公の資格」について思い悩む心情にシンクロするナンバーで、「ひとりひとり」に歌を届けることを信条とする彼らの姿勢と一致する。このことからも、川村はロックバンドすべてを「みんな」の感情をブーストするために起用しているわけでは決してなく、それぞれのバンドに最適なアニメ作品との掛け算を模索していることが窺える)

 

5.

 最後に、こうしたステージパフォーマンスやサウンド面からの分析が、これまで批判的に取り上げてきたRADWIMPS、ひいては新海作品の新たなポテンシャルを引き出すことにもつながることを示したい。そのためには、新海誠とのコラボレーションが開始される以前のRADWIMPSの楽曲に目を向けてみる必要があるだろう。

 RADWIMPSが2013年にリリースしたアルバム『×と〇と罪と』は、野田がすでにillionを始動していたこともあって、打ち込みと有機的なバンドサウンドを融合させる挑戦がなされている作品だ。先述の「五月の蝿」「ラストバージン」が収められているのもこのアルバムなのだが、illion的な感情の「あわい」を一曲の中で表現する楽曲も収録されているのは見逃せない。アルバムに先駆けシングル曲としてリリースされた「ドリーマーズ・ハイ」である。

 ラジオ番組「SHOOL OF LOCK!」出演時の発言によれば、この時期に制作された楽曲では担当パート以外の楽器が鳴ることが増えたものの、あくまでバンドメンバーが演奏していることが強調されている*6
 バンドというのは「個」の集合体だ。野田によれば『絶体絶命』(2011年)あたりから曲作りに関しては完全に自分が責任を持つ、という方針に切り替えたとのことだが、アレンジやプレイには当然メンバーの癖も出る。完全にフロントマンがコントロールできない、ズレを抱え込んだ集合体だからこそ生まれる楽曲というものがあり、その意味での現時点での最高傑作が(現在では山口が離脱してしまっていることも含め)本楽曲といえるだろう。
 サビで盛り上がらず、逆にフラットになるメロディ。微細なズレを含みながら重ねられる、ギターとシンセのフレーズ。山口のドラムソロが強力なアクセントとなってなだれ込む、英語詞と日本語詞が異なるメロディをなぞりつつ絡み合っていくラストのサビからは、「合唱」的なものとは真逆の、意味の多重性を受け手に与える。感情のピークを一点に集中させず、音と意味をズラしつつ進行していく構成となっているのだ。

 「ドリーマーズ・ハイ」のミュージックビデオには、爆発倒壊する高層ビル、夢と現実のあわいを疾走する少女、拳銃、<やまないでよ 運命の雨よ>というラインなど、『天気の子』を彷彿とさせるモチーフが多々見受けられる(余談だが、主演の少女を演じているのは「東宝『シンデレラ』オーディション」で審査員特別賞を受賞してデビューした山崎紘菜である。TOHOシネマズで『天気の子』を鑑賞した人の中には、上映前の映像「シネマチャンネル」内でナビゲーターを務めているのを目にした方も多いだろう)。
 「感情グラフ」に基づく緻密なコントロールによって動かされてきたキャラクターも、映像には描かれていないところで、誰とも共有できない「孤独」を抱えている。それは『雲のむこう』で最終的に消し去られてしまった、「佐由理の夢」のような内的世界だ。『天気の子』のクライマックスにおいては、複数のキャラクターの「天に昇る陽菜を夢に見た」という断片的な証言から、個々人がそれぞれの「夢=孤独=世界」を持っているということが鑑賞者に示唆される。帆高・凪・須賀……「夢」を見た人々が何を思い、どう行動したかは決して一様ではない。そうした誰からも隔絶した「孤独」な思いが並存しているあり方を、タイトル通り「夢」をテーマにしたこの楽曲では意味のズレや多重性を含んだサウンドによって表現しているといえるのではないだろうか。

 またこうしたサウンド的特徴を持った楽曲が「RADWIMPS」名義で発表されていることを念頭に置けば、「感情グラフ」の頂点ではない部分……ボーカル曲の流れるタイミングではない、映画の大部分を占める劇伴音楽(これらもまた「RADWIMPS」名義で手がけられている)への意識もまた変わってくるはずだ。たとえば、社会の片隅で生きていた陽菜と凪の姉弟が帆高とともに、「晴れ女」バイトを通じて自らの役割を見出していく場面。そこで流れる「初めての晴れ女バイト」というストリングスアレンジの効いたBGMは、「グランドエスケープ」のメロディをなぞっている。また、彼ら三人が逃げ込んだラブホテルの一室での束の間のひとときが映し出されるシーンで流れる「家族の時間」というピアノ主体のBGMでは、「愛にできることはまだあるかい」のメロディが。これらボーカル曲は「感情グラフ」において帆高と陽菜のラブストーリー的なクライマックスに流れるものだが、そのインストアレンジが凪を含む三人の「運命共同体」的な関係性(陽菜と帆高の「子供」として凪を見立てるという、「擬似家族」の構図ではないということには注意しておきたい)の中でリフレインしていることを知るとき、そこで歌われている「愛」や「恋」というものが、必ずしも「君と僕」の二者関係にのみ横たわるものではないという解釈にも開かれることだろう。
 (なお、いずれ稿を改めて論じてみたい論点ではあるが、このようにして「君と僕」という二項関係にズレを生じさせる存在という意味で、『天気の子』において最も重要なキャラクターが凪であるということを指摘しておきたい。鑑賞後には誰もが気づくことであろうが、本編での出番の多さに比して不自然なほど予告編から凪の出演シーンがカットされていることは、一考に値する)

 このタッチパネルと「いいね!」の時代においては、作品の「わからなさ」の前に立ち止まり、制作サイドが一意に与えようとする意味とのズレを積極的に見出していくような鑑賞の仕方は困難になってしまったようにも思える。
 しかしあまりにも精緻化した「装置」の強度によって覆い隠されているだけで、どんな作品にも「孤独」を見出す取っ掛かりはあるはずなのだ。なぜなら作品を鑑賞する経験とは本来、誰との共有も前提とすることなく「孤独」のうちになされるものであるはずだからである。

 「感情グラフ」からあえて降りることで、それまでは聴こえてこなかった音が聴こえる。見えなかったものが見える。
 そのための一歩に必要な手がかりを、本稿が提供することができていれば幸いだ。

*1:Rolling Stone Japanの記事(RADWIMPSインタビュー「野田、桑原、武田が語るバンドの歩みと現在地」))より。

*2:毎日新聞の記事(「天気の子」新海監督と川村プロデューサーインタビュー・上 「バッドエンドの作品を作ったつもりは一度もない」)より。以下引用:「SNSソーシャル・ネットワーキング・サービス)が典型ですけれど、正しい言葉以外は、一斉にたたかれる。それも社会的な正しさ、国際的な正しさ、ポリティカル・コレクトネスという言葉もありますが、「正しさ」だけが流通してしまっている。でも僕は、個人の願いとか個人の欲望とかって、時にはポリティカル・コレクトネスとか、最大多数の幸福とかとぶつかってしまうことがあると思う。でもそういうことが今、言えなくなってきています。常に監視されているような中、ルールから外れたことを言ってしまうと一斉にたたかれるし、常にたたく対象を探す祭りが起きているような雰囲気。そういうところへの反発やいらだちが私の中でずっとあり、この閉塞(へいそく)感やどうしようもなさを吹き飛ばしてくれる少年少女がほしいという気持ちがありました。」

*3:本文は『美術手帖』ウェブ版にて公開されている。
第16回芸術評論募集 【佳作】布施琳太郎「新しい孤独」|MAGAZINE | 美術手帖

*4:ビリー・アイリッシュに関しては、柴那典による以下のコラムも参照。
ビリー・アイリッシュの音楽が、時代に深く突き刺さった背景 - コラム : CINRA.NET

*5:以下のインタビューを参照。
「Lemon」がミリオンDL突破米津玄師がオルタナティブを語る | HIGHSNOBIETY.JP(ハイスノバイエティ)

*6:2013年12月10日放送分。収録時の模様が番組の公式サイトに記録されている。
RADWIMPS先生来校!! | 未来の鍵を握る学校 SCHOOL OF LOCK! 生放送教室