28 (orbital period)

12月30日に28歳になってしまう。恐ろしいことだ。だってロックスターとして死ねなかったことを意味するのだから……しかしカート・コバーンにしてもジム・モリソンにしても、それまでに死後讃えられるだけの伝説と逸話を遺したからこそ歴史に刻印されているわけで、去年の今頃に「あと一年しかない!」などと思っていた時点で遅きに失していたというか。敗北は決定づけられていたのであり、あとは28歳よりも先の「余生」を「いかに上手く敗けていくか」の闘いになる……

 

なんて、そんなわけあるか!!!

 

いやいや勝負はこれからだ、とか人生はまだ長い、とかそんな綺麗事を言うつもりはないですよ。ただこれからは縁側に座った老人のような目で世界を見続けなければならないというのなら……それも違うだろう。知らない世界、知らない人、知らない作品があるというのは何歳になっても変わることがないだろうし、まだ見ぬそれらに出会えるということははっきりいって27歳でこの世を去ったミュージシャンたちよりもアドバンテージといえる。逆をいえば長生きしていいことなんてそれくらいしかないのだから、好奇心だけは忘れずにいたいものである。

 

それにしても新しい何かに出会う際にはこれまでに触れてきたものを参照するということは確かである。人は足場があって初めて物事を考えることができる……いい機会なのでその足場というのをいま一度点検してみよう、というのが今回の主旨である。

結論を先取りしていえばそれはノベルゲームということになる。少なくともこの10年に関してはそうであった。

 

それにしても2007年から10年とは驚きである。2007年というのは自分が大学に入学した年であった。京アニ版の『CLANNAD』が放送され、『リトルバスターズ!』が出て、『ゲーム的リアリズムの誕生』が上梓された。それまで僕を形作っていたのはBUMP OF CHICKENを筆頭とした日本語ロックと小学生の頃住んでいたヨーロッパ文化へのノスタルジーだった。それがなぜ2007年からいわゆる「オタク系」になったのかといえば……前述した作品の影響が大きい。シナリオと音楽を効果的に組み合わせて感動を生み出す麻枝准というクリエイターの存在がまず衝撃だったし、京アニの美麗な映像表現、『リトバス』については恋愛ゲームという媒体の制約を逆手にとって友情の大切さを謳い上げたシナリオに深く感じ入った。『ゲーム的リアリズムの誕生』によって、これらの作品を「真面目に(文学的/実存的に)」捉えてもいいのだ、と思えたことも大きい。この本の存在があったからこそ京アニ版『CLANNAD』を観て、アニメというよりもその背後にあるノベルゲームという媒体に興味を向けた面も間違いなくあると思う。

 

さて突然だが、自分は恋愛という価値観にずっと疑問を持っている。「自分」と「誰か」の境界線を(一時的にでも)なかったことにし、あるいはそのように振る舞うことで成立するのが恋愛という「状態」であると思うが、実際にはたったひとりの人と一体化したところですべてが解決するわけではない。また新たな「誰か」が現れて「自分とは違う」ということを突き付けてくるだろう……孤独が止むことは永遠にないのだ。

自分は転校が多かったこともあって、「自分」を「世界」にアジャストしようとしてできないということに深く悩まされてきた。ひょっとしたら今でもそうかもしれない。「自分」と対になる単位が「他人」ではなくどうしても「世界」、そう言うのが大げさなら「環境」になってしまう。「自分‐対‐世界」の物語には心躍るのだが、「自分‐対‐他人」の物語にはそれほど心が動かないのだ。

しかし同時に「幼馴染」的な人間関係には強い憧れもある。転校もなく、「自分」をとりまく「世界」が連続的であったなら他人との関係性を変化させていく中で自然と「恋」に目覚めることもあったかもしれない。その対象は当の「幼馴染」であるかもしれないし、あるいはそうではないかもしれないがーーとにもかくにも、「世界」と「誰か」がこれほどまでに乖離することはなかったのではないかと思う。

 

リトルバスターズ!』……というより、この作品が逆手にとったマルチエンディングタイプの恋愛ゲームという形式は、「世界」と「誰か」が完璧に一対一の対応を見せている。ヒロインの抱える問題を解消することがそのまま物語的な決着……ひとつの「世界」の終わりを意味しているのだ。これだけ取り出せば僕の否認した「恋愛」そのものであろうが、重要なのはやはり「マルチエンディング」という要素がそこに加わることである。「誰か(ヒロイン)」の複数性というのが、そのまま「世界」の複数性に対応している。現実に置き換えてみればこれは「誰もが自分の世界を生きている」ということで、そのことは僕をひどく安らがせた。誰かと一体化する……恋愛という事柄にリアリティを覚えられずとも、生きていけるような世界のあり方。それが表現されている媒体があることがうれしかったのだ。

リトバス』において「『世界』が複数ある」ということはまさしく「世界の秘密」という言葉で表されている(周回プレイ時に出現するあの印象的な問いかけを思い出してみるとよい)。括弧の付いていない、大文字の世界というのは、括弧の付いた複数の「世界」を予め包含したものとしてある。『リトバス』のテーマは友情とよく言われるけれど、本当は「異なる『世界』に生きる僕らが、一方が一方を取り込んだり、境界線を消し去ったりすることなく、互いにばらばらのまま、それでも共に生きるということはどういうことか」ということなのだと思う。もちろんそれが最終シナリオRefrainで明示的に表現されているのが素晴らしい。多くのマルチエンディングタイプのノベルゲームでは、各ヒロインのシナリオと最終的に出現するグランドルートとの関係が特に設定されていないか、あるいは設定されていたとしてもSF的な説明付けがなされるだけのことがほとんどである。しかし『リトバス』においてはすべての「世界」の終わりを見届けた唯一の人物として、主人公の理樹(便宜的にそう呼ぶが、彼の特異性とは単に「すべての物語の見届け人であった」ということでしかない)にそれまでの物語体験のすべてがフィードバックされる。「生まれなければ別れを経験することもない。だけど僕はまたみんなと出会いたい」という彼の独白はきわめて本質的だ。チーム「リトルバスターズ」の面々は卒業しそれぞれの進路を歩んだら、劇中のように頻繁には集まらないだろうなということがなんとなく透けて見える。だけどそれがいいのである。「死が二人を分かつまで」――「恋愛」の果てにあるとされる「結婚」の誓いの言葉は、お互いを縛る「呪い」として機能する。しかし『リトバス』においてあるのはただ「リトルバスターズ」というある時、ある瞬間に存在したチームの名前だけである。その名前には何の拘束力もないが、いつでもその名の下に再会することができる。

「私の世界」は「あなたの世界」と絶対的に隔てられている。そうした断念の感覚を透明に描き出した作品というのは他にもいくつか考えられる。『素晴らしき日々〜不連続存在〜』や『CROSS†CHANNEL』はその筆頭で、これらも大好きな作品である。ただ、「ばらばらな世界が、ばらばらなまま隣り合って、ひとつの名の下に束の間集うことができる」というビジョンを示してくれたのは、結局のところ『リトバス』しかない。30本弱ほどのノベルゲームを読んできたが……おそらくこの先もそうなのだろう。この本数をこなしたからこそ見えてきたということもあると思うし、そういう意味ではまったく無駄だとは思っていない。だが、繰り返すように作品と出会って10年、年齢的にも節目の歳を迎えるということで、そろそろ実践的に『リトバス』の教えてくれた世界を生きてみたいと思うのである。

 

27歳は多くのロックスターが亡くなった歳だが、28歳という年齢も大きな意味を持つ。そう、BUMP OF CHICKENのアルバムにも冠された「orbital period」だ。「公転周期」を意味するこのタイトルは、同作品のリリース時にメンバー全員が28歳――一年のうち同じ日に同じ曜日が来る年月の間隔は、6年・5年・6年・11年というサイクルで1セットとなり、それらを合計して28年周期になっているという*1――を迎えることから名付けられた。「27歳」のあとに「28歳」が来ることの意味。文字通り新たな周期が始まるのだ。「終わりはまた始まりでもある」ということを体現するに、これほどふさわしい歳はない――これまでの周回があったからこそ現在の自分があるのだということをあらためて胸に留めつつ、大きな希望をもってたくさんのチャレンジをしていきたい。

 

補足: そういえば、と思い調べてみたら、なんと『orbital period』がリリースされたのも2007年であった!! こんなにも巡り合わせのよいことがあるだろうか。2017年という年がますます楽しみになってきた。

 

リトルバスターズ! パーフェクトエディション TVアニメ化記念版

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orbital period

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