異形のアニメ『ハンドシェイカー』のここが凄い

今期ぶっちぎりで面白いアニメがある。

ハンドシェイカー』。

正直つい先週まで全く歯牙にもかけていないアニメであった。キービジュアルを見て「クセのあるキャラデザだなあ」と思っていたくらい。

 

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TVアニメ「ハンドシェイカー」公式サイト 

 

しかしふとしたきっかけ(後述)で観たら、これがどういうわけだか面白い。

完全にオリジナリティの塊というか、「ここでしか得られない体験」というのが存分に味わえる作品になっている。

 

怪作、と言ってもいいと思う。
この記事はそんな『ハンドシェイカー』のここが凄い!ということを解説するだけの記事である。

 

 

1. 映像が凄い

のっけから魚眼レンズというか、Googleストリートビュー風というか……独特の歪みのある映像で雑踏を描き出す。通行人のしゃべり声もやたら大きく、視聴者自身が街の一部になったような感覚を味わわされるのだ。色彩感覚やキャラデザの独特さも、この時点で不思議と気にならなくなる(こういうものなんだ、と自然に受け入れられるというか)。

 

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この作品では主に異空間でのバトルロイヤルが扱われるのだが、その異空間に入る際の表現も独特。ビルの壁面を金魚とかが泳ぐ。チームラボのメディアアートみたいな感じだ。

 

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立体感のあるバトルシーンも凄い。人気(ひとけ)のない大阪の街を舞台に3Dの特性をこれでもかと活かした縦横無尽なカメラワークで魅せる。アクションゲーム的な気持ちよさとジェットコースターのスリル感を合わせ持つ、ワクワクさせてくれる映像表現だ。

 

 

 

2. 音楽が凄い

このアニメの最も異質な点がこれだろう。とりわけBGMの話である。どんな曲がかかっているかは以下の動画をみてもらったほうが早いだろう。

 

 

手掛けるのはGOON TRAXというヒップホップレーベルである。ヒップホップと言っても彼らの音楽はJazzy Hip-Hopと呼ばれるジャンルで、『サムライチャンプルー』のOPでも有名なNujabaseなどが代表格(Nujabase自身はこのレーベルには不参加)。アンダーグラウンドなイメージの付きまとうヒップホップを「クール」で「メロウ」な、「大人の夜」に似合う音楽として再定義する戦略が功を奏し、コンピシリーズ「IN YA MELLOW TONE」はヴィレッジヴァンガードを中心に大ヒット。その辺りの歴史は代表のインタビューに詳しいが、要するに「アングラ」「サブカル」というアニメとは最も遠いところにいそうな音楽が使われているこのミスマッチ感……いやマッチ感。ずっと観て(聴いて)いると、「これしかない!」という気持ちになってくるのだ。本当に。

 

OPを手掛ける「OxT」はオーイシマサヨシ大石昌良)とTom-H@ckによるユニット。オーイシマサヨシといえば今期の話題を独占しているアニメ『けものフレンズ』のOPも作曲したソングライターだが(筆者的にはバンドSound Scheduleのボーカルとして馴染み深い)、『ハンドシェイカー』のOPでは自らがボーカルと見事なアコギ(スラップ奏法)の腕前を披露している。サビ前の変拍子とブレイクがめちゃめちゃかっこいい「One Hand Message」、この曲を映像付きで観たい!というのが今作を観始めた最初の動機だった。

 

 

そしてEDは新居昭乃である。『東京アンダーグラウンド』のED「覚醒都市」や『ゼーガペイン』のOP「キミヘ ムカウ ヒカリ」などアニメの歴史に残る印象的な名曲を送り出してきた重鎮だが、今回の「ユメミル雨」も繊細な煌めきに満ちた素晴らしい楽曲である。

 

3. キャラクターが凄い

まずヒロインの設定が凄い。「寝たきりの色白美少女で、主人公が手を握ると目を覚まし、以降手をつないだままでないと生きられない。ずっと寝ていたので感情に乏しく言葉も話せない」という、「いまは2017年だよな!?」と思わず言いたくなるような設定である。

 

タイトルにもなっている「ハンドシェイカー」とは二人一組で戦う異能者のことで、ペア対ペアの異空間戦闘を繰り返した先、勝利したペアが神にまみえる権利を得るという典型的なバトルロイヤルものである。しかしこの「ペアのあり方」というのにそれぞれ味があって、DV男と緊縛趣味の女、弟を異性として(?)愛する姉とまんざらでもない弟……と基本ヘテロのカップルになっているところも今のご時世かえって挑戦的なのだが、それはさておき言及したいのはこれから触れる「上司と部下」コンビである。

 

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このコンビが最高すぎて決定的にこのアニメが好きになってしまった。何がどうして最高なのかは言いすぎるとネタバレになってしまうのでもどかしいのだが……とりあえずこの二人はとある企業の営業マンで、仕事上でもコンビを組んでいる(ちなみにどう見ても子供にしか見えない女性のほうが上司である)。

 

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二人がハンドシェイカーになった、すなわち神にかけるべき願いを自覚したのも仕事上の理不尽に直面したことがきっかけである。それはある意味でささやかなものだが、彼女たちが自らの仕事に誇りをもっているからこそ切実なものでもある。

 

どこまでもまっすぐで、不正や偏見にも真正面からぶつかっていく上司と、そんな彼女を一心に慕う、常に低姿勢な(いざという時には頼りになる)部下。見た目の身長差や掛け合いのコミカルさも相まって、とても魅力的な二人なのだ。彼らがメインを張る3,4話までは、とりあえず観てほしい!

 

 

 

以上、ここが凄い! と感じたところをつらつらと書いてきたが、斬新さと同等に「どこかで見た」要素も目を引く、そのバランス感も魅力につながっているのだと思う。二人一組での願いをかけた異空間バトルという意味では中村健治監督の『C』を、そして手をつないだまま戦う(手を離すと死んでしまう)という要素はジャンプ漫画の『ダブルアーツ』を、それぞれ彷彿とさせる。ストーリーや設定には既視感があるからこそ、先に挙げたような強烈な要素があっても安心して観ることができるのである。

 

テレビでは現在第6話まで放送済。
興味を持たれた方はこの週末、AbemaTVで振り返り一挙放送があるらしいのでぜひご覧になってみてはいかがだろうか。

詳細はこちら: http://project-hs.net/onair/web/

 

3月10日にはニコニコ生放送での振り返り上映もあるとのこと。こちらをタイムシフト予約しておくのもおすすめだ。

 

 

ハンドシェイカーに乾杯!

 

 

28 (orbital period)

12月30日に28歳になってしまう。恐ろしいことだ。だってロックスターとして死ねなかったことを意味するのだから……しかしカート・コバーンにしてもジム・モリソンにしても、それまでに死後讃えられるだけの伝説と逸話を遺したからこそ歴史に刻印されているわけで、去年の今頃に「あと一年しかない!」などと思っていた時点で遅きに失していたというか。敗北は決定づけられていたのであり、あとは28歳よりも先の「余生」を「いかに上手く敗けていくか」の闘いになる……

 

なんて、そんなわけあるか!!!

 

いやいや勝負はこれからだ、とか人生はまだ長い、とかそんな綺麗事を言うつもりはないですよ。ただこれからは縁側に座った老人のような目で世界を見続けなければならないというのなら……それも違うだろう。知らない世界、知らない人、知らない作品があるというのは何歳になっても変わることがないだろうし、まだ見ぬそれらに出会えるということははっきりいって27歳でこの世を去ったミュージシャンたちよりもアドバンテージといえる。逆をいえば長生きしていいことなんてそれくらいしかないのだから、好奇心だけは忘れずにいたいものである。

 

それにしても新しい何かに出会う際にはこれまでに触れてきたものを参照するということは確かである。人は足場があって初めて物事を考えることができる……いい機会なのでその足場というのをいま一度点検してみよう、というのが今回の主旨である。

結論を先取りしていえばそれはノベルゲームということになる。少なくともこの10年に関してはそうであった。

 

それにしても2007年から10年とは驚きである。2007年というのは自分が大学に入学した年であった。京アニ版の『CLANNAD』が放送され、『リトルバスターズ!』が出て、『ゲーム的リアリズムの誕生』が上梓された。それまで僕を形作っていたのはBUMP OF CHICKENを筆頭とした日本語ロックと小学生の頃住んでいたヨーロッパ文化へのノスタルジーだった。それがなぜ2007年からいわゆる「オタク系」になったのかといえば……前述した作品の影響が大きい。シナリオと音楽を効果的に組み合わせて感動を生み出す麻枝准というクリエイターの存在がまず衝撃だったし、京アニの美麗な映像表現、『リトバス』については恋愛ゲームという媒体の制約を逆手にとって友情の大切さを謳い上げたシナリオに深く感じ入った。『ゲーム的リアリズムの誕生』によって、これらの作品を「真面目に(文学的/実存的に)」捉えてもいいのだ、と思えたことも大きい。この本の存在があったからこそ京アニ版『CLANNAD』を観て、アニメというよりもその背後にあるノベルゲームという媒体に興味を向けた面も間違いなくあると思う。

 

さて突然だが、自分は恋愛という価値観にずっと疑問を持っている。「自分」と「誰か」の境界線を(一時的にでも)なかったことにし、あるいはそのように振る舞うことで成立するのが恋愛という「状態」であると思うが、実際にはたったひとりの人と一体化したところですべてが解決するわけではない。また新たな「誰か」が現れて「自分とは違う」ということを突き付けてくるだろう……孤独が止むことは永遠にないのだ。

自分は転校が多かったこともあって、「自分」を「世界」にアジャストしようとしてできないということに深く悩まされてきた。ひょっとしたら今でもそうかもしれない。「自分」と対になる単位が「他人」ではなくどうしても「世界」、そう言うのが大げさなら「環境」になってしまう。「自分‐対‐世界」の物語には心躍るのだが、「自分‐対‐他人」の物語にはそれほど心が動かないのだ。

しかし同時に「幼馴染」的な人間関係には強い憧れもある。転校もなく、「自分」をとりまく「世界」が連続的であったなら他人との関係性を変化させていく中で自然と「恋」に目覚めることもあったかもしれない。その対象は当の「幼馴染」であるかもしれないし、あるいはそうではないかもしれないがーーとにもかくにも、「世界」と「誰か」がこれほどまでに乖離することはなかったのではないかと思う。

 

リトルバスターズ!』……というより、この作品が逆手にとったマルチエンディングタイプの恋愛ゲームという形式は、「世界」と「誰か」が完璧に一対一の対応を見せている。ヒロインの抱える問題を解消することがそのまま物語的な決着……ひとつの「世界」の終わりを意味しているのだ。これだけ取り出せば僕の否認した「恋愛」そのものであろうが、重要なのはやはり「マルチエンディング」という要素がそこに加わることである。「誰か(ヒロイン)」の複数性というのが、そのまま「世界」の複数性に対応している。現実に置き換えてみればこれは「誰もが自分の世界を生きている」ということで、そのことは僕をひどく安らがせた。誰かと一体化する……恋愛という事柄にリアリティを覚えられずとも、生きていけるような世界のあり方。それが表現されている媒体があることがうれしかったのだ。

リトバス』において「『世界』が複数ある」ということはまさしく「世界の秘密」という言葉で表されている(周回プレイ時に出現するあの印象的な問いかけを思い出してみるとよい)。括弧の付いていない、大文字の世界というのは、括弧の付いた複数の「世界」を予め包含したものとしてある。『リトバス』のテーマは友情とよく言われるけれど、本当は「異なる『世界』に生きる僕らが、一方が一方を取り込んだり、境界線を消し去ったりすることなく、互いにばらばらのまま、それでも共に生きるということはどういうことか」ということなのだと思う。もちろんそれが最終シナリオRefrainで明示的に表現されているのが素晴らしい。多くのマルチエンディングタイプのノベルゲームでは、各ヒロインのシナリオと最終的に出現するグランドルートとの関係が特に設定されていないか、あるいは設定されていたとしてもSF的な説明付けがなされるだけのことがほとんどである。しかし『リトバス』においてはすべての「世界」の終わりを見届けた唯一の人物として、主人公の理樹(便宜的にそう呼ぶが、彼の特異性とは単に「すべての物語の見届け人であった」ということでしかない)にそれまでの物語体験のすべてがフィードバックされる。「生まれなければ別れを経験することもない。だけど僕はまたみんなと出会いたい」という彼の独白はきわめて本質的だ。チーム「リトルバスターズ」の面々は卒業しそれぞれの進路を歩んだら、劇中のように頻繁には集まらないだろうなということがなんとなく透けて見える。だけどそれがいいのである。「死が二人を分かつまで」――「恋愛」の果てにあるとされる「結婚」の誓いの言葉は、お互いを縛る「呪い」として機能する。しかし『リトバス』においてあるのはただ「リトルバスターズ」というある時、ある瞬間に存在したチームの名前だけである。その名前には何の拘束力もないが、いつでもその名の下に再会することができる。

「私の世界」は「あなたの世界」と絶対的に隔てられている。そうした断念の感覚を透明に描き出した作品というのは他にもいくつか考えられる。『素晴らしき日々〜不連続存在〜』や『CROSS†CHANNEL』はその筆頭で、これらも大好きな作品である。ただ、「ばらばらな世界が、ばらばらなまま隣り合って、ひとつの名の下に束の間集うことができる」というビジョンを示してくれたのは、結局のところ『リトバス』しかない。30本弱ほどのノベルゲームを読んできたが……おそらくこの先もそうなのだろう。この本数をこなしたからこそ見えてきたということもあると思うし、そういう意味ではまったく無駄だとは思っていない。だが、繰り返すように作品と出会って10年、年齢的にも節目の歳を迎えるということで、そろそろ実践的に『リトバス』の教えてくれた世界を生きてみたいと思うのである。

 

27歳は多くのロックスターが亡くなった歳だが、28歳という年齢も大きな意味を持つ。そう、BUMP OF CHICKENのアルバムにも冠された「orbital period」だ。「公転周期」を意味するこのタイトルは、同作品のリリース時にメンバー全員が28歳――一年のうち同じ日に同じ曜日が来る年月の間隔は、6年・5年・6年・11年というサイクルで1セットとなり、それらを合計して28年周期になっているという*1――を迎えることから名付けられた。「27歳」のあとに「28歳」が来ることの意味。文字通り新たな周期が始まるのだ。「終わりはまた始まりでもある」ということを体現するに、これほどふさわしい歳はない――これまでの周回があったからこそ現在の自分があるのだということをあらためて胸に留めつつ、大きな希望をもってたくさんのチャレンジをしていきたい。

 

補足: そういえば、と思い調べてみたら、なんと『orbital period』がリリースされたのも2007年であった!! こんなにも巡り合わせのよいことがあるだろうか。2017年という年がますます楽しみになってきた。

 

リトルバスターズ! パーフェクトエディション TVアニメ化記念版

リトルバスターズ! パーフェクトエディション TVアニメ化記念版

 
orbital period

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映画『聲の形』感想

 

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映画『聲の形』を観た。鑑賞後初めに思ったのは、この映画は「差別」や「いじめ」についての映画ではなく、むしろそれらがなぜ起きてしまうのか、ということを問題にしている映画だということだ。結論からいえばそれは「聴こえる/聴こえない」「話せる/話せない」といった分断線を引くということで、それを引かずにあいまいな状態というのをいかに受け入れるか、ということがストーリーと映像表現、双方の水準で目指されている。

アニメーションというのは「あいだ」の芸術であると思う。「動いている/動いていない」の間を観ているのが、観客にとっての「アニメーションを観る」という体験だからだ。京都アニメーションはこの「あいだ」を表現することに一貫してこだわってきたスタジオである。その端緒は『涼宮ハルヒの憂鬱』における「閉鎖空間」や『CLANNAD』における「幻想世界」などに見出すことができるだろうが、夢と現、現在と過去の間を行き来するような映像表現というのはその後も幾度となく繰り返されてきた。それが「水」という、現実にも存在する物質を介して行われたのが『ハイ☆スピード!』であり、それは同スタジオのひとつの到達点だったと思うのだが(詳しくは過去に書いたこちらの記事を参照)、今作『聲の形』はまた違った角度からこの方向性に切り込んでいる。

 

アニメにおける「声」というのは必要不可欠ともいえるしまるで関係ないともいえる。アニメーション、というのは元々「絵を動かす」ということに掛かっている言葉だし、当然無声アニメーションというのも存在するからだ。そんな特異点ともいえる「声」を持たない、そのことを本人(西宮硝子)も周囲も問題にしているという状況から始まる物語というのを、「あいだ」を描くことを追求してきたアニメーション制作会社の生理が選んだということなのではないだろうか。聴覚障害者への「配慮」の有無が封切り後大きな話題になったが、むしろそういった「障害者である/障害者でない」という分断をいかにして回避し、あいまいな「あいだ」の状態を肯定できるかということが問題になっているのである。

「分断」を踏み越えたところにいるキャラクターというのは何人か登場し、たとえば硝子の「妹」ということになっている結弦の性別は最後まで決定的な証拠を示されずに終わるし、見るからに外国人風の外見でありながら何の説明もなく石田家に同居しているマリアも「日本人/外国人」「家族/非家族」といったボーダーを踏み越えたところにいる存在である。また主人公の石田将也は序盤何事につけ「理由」を求める人物として描写されているが、「原因」を特定し「以前/以後」のスラッシュを引くことで安心を得ようとする彼のそうした二分法的な態度は、「被害者/加害者」という構図を再生産し、硝子の自殺未遂という悲劇を招いてしまう(硝子は今度は自分が「加害者」だと思い込んでしまった)。そのことを鋭く指摘するのが植野というキャラクターで、彼女はそうした分断線というのを一貫してくだらない、ナンセンスだと切り捨てる存在という点で今作の最大のキーパーソンである。もちろん小学生時代の彼女の言動・行動は褒められたものではないが、しかし彼らが真に気づくべきだったのは、たとえば補聴器を奪って壊すといった行動が「いけないこと」なのは相手が「障害者だから」ではなく、単に「他人の持ち物を奪って壊す」という行為が許されざるものである、ということだったのではないか。 今作を観て「聴覚障害者への『配慮』が足りない」と嘯く人たちには、こうした点に注目して(とりわけ植野の所作ふるまいに注目して)今作を観直してほしいと願うばかりである。

 

音楽についても触れておこう。今作の劇伴を担当するのはソロユニット「agraph」名義で活動する電子音楽家・牛尾憲輔氏である。彼は音楽界きってのアニメオタクとして知られ、その知識量の一端は過去にナタリーで公開されたインタビューでも垣間見ることができるのだが、とにかく今作の劇伴の凄みは「つなぎ目を感じさせない」というところにある。シーンとシーンの間で、一端無音になって場面が切り替わるということが基本なく、それは「始まり/終わり」という分断線を引かないという意味で作品全体に共有されている意識と通底している。もちろんサウンドトラックの曲目リストを見れば数分間の楽曲の集合体であることはわかるのだが、「このシーンに合わせてこういう曲を」という発注の仕方をどうにもされていないように感じられるのだ。

そう思って牛尾氏の今作についてのインタビューがないか探してみたところ、まさにといった内容の記事が発見された。

 

 

正直黙って読んでくれとしか言いようのない内容なのだが、抜粋すると「音楽や映画だけでなく、絵画や彫刻、舞踊、写真、建築」まで含めた「自分たちがいいと思い、この作品にとってふさわしいと思うものが、映画『聲の形』の根幹をなすコンセプトとなって」いったと。「普通、音響監督や選曲の方から音楽メニューという、こういうシーンがあるのでこういう曲を作ってくださいという指示書をいただくんですね。ところが今回はそれが2、3曲だけだった。それはなぜかというと、コンセプトワークを最初に2人で徹底的に行ったからです。」「(山田尚子監督と)2人で週に一度レコーディングスタジオに入って、その時点でできている映像へ、実際にスケッチの曲を当ててみたり、合わせたものを観てアレンジを変えてみたり、もっと別の曲が必要だと思えばその場で作ったりといった作業をひたすら続けていったんです。」とのことだった。牛尾氏は山田監督とのそうした共同作業を「セッション」のようだったと表現しているが、 確かにそれは各楽器パートの役割を超え、一体となって純音楽的な探究に没頭する「セッション」そのものだろう。 映画監督と音楽家、発注をする側と受ける側、という分断線が融解し、ひとつの「作品」を作り上げるという一点にのみ神経が注がれているのである。聴覚障害という「無音の世界」を題材にしながらも、同時にきわめて本質的な意味で「音楽的」な映画でもある。アニメーションにおける「音」や「音楽」の存在について語る上で、避けて通ることはできないマスターピースが誕生したといえるだろう。